MultiMedia

MULTI-MEDIA-ON-MULTI-PLATFORM


〈要約〉


 マルチメディアという言葉そのものは、人間の多くの種類の感覚に訴えかける何ものかを意味するにすぎない。しかし、現在よくいわれるマルチメディアはコンピューターによってサポートされるものを意味することが多い。つまり、従来はそれぞれに専用の媒体を必要とした文字、音、映像を単一のデジタル信号に変換することにより、コンピューターで統一的に扱えるようになったために生じた多元性を持ったメディアを意味している

 デジタル化によって生じたメリットは大きく三つに分けられる。加工性の高さ、経済性、相互変換性から生じる双方向性である。
 加工性の高さとは、従来困難とされていた編集作業も、デジタル信号を直接操作すれば、簡単に行えるという性質である。
 経済性とは、作品の作成加工が、従来に比べて低コストで済ませられるという性質である。これもまた汎用性の高いパーソナルコンピューターを使えば、熟練者が専用の機械に頼らずとも、ある程度の訓練を積んだ人であれば行うことができるために生み出されたものだ。
 双方向性は、表現形式の異なる作品、さらには情報選択のための制御信号までも単一のチャンネルで送ることができるため、受け手の選択によって情報の種類を変更することができるという性質である。また、受け手が情報をセンターに(あるいはネットワークに)送信、登録することもできる。

 上記3つの性質により、コンピューターに蓄積される情報量は格段に増え、人間活動の結果のより広い範囲がカバーされるようになるであろう。
 これは日常の業務活動の分野で、より多くの情報をコンピューターに入力して業務への適用範囲を広げたり、経営情報の制度を上げたりしてゆこうという傾向を、全ての人間活動の分野にまで拡大したものであるといえよう。さらにこれは、コンピューターを思考拡大の道具として発展させてきた先人たちの目指したことでもある。とりわけテッド=ネルソンが、世界的規模での電子図書館として考えたXanaduのコンセプトへとつながるものである。

 マルチメディアの規格をどうするか、OSを何にするかという問題があるが、文化を保存し、作品への制限を回避するためには、統一する必要はないと思われる。その代わりに作品がそれぞれ選択したOSを,ネットワークや固体メディアにて作品と共に配信するという方法が望ましいのではなかろうか。ハードウェアへの要求は厳しくなるが、将来的にはメリットが大きいと考えられる。

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目次

1.はじめに
2.マルチメディアをどう解釈するか
3.マルチメディアのメリット
4.MULTI-MEDIA-ON-MULTI-PLATFORM
5.おわりに

参考文献
参考音源


.はじめに


 コンピューターがこれほどまでに普及し、ビット列の操作でそれが動いていることが、毎日コンピューターに向かっている人にもわからないほどになってくると、本来ソフトやハードのアーキテクチャーから導かれたはずの概念も、その本来の意味を知られぬままにに人々の口に上るようになる。さらには、ゲーテがメフィストフェーレスの口を借りて言ったように概念のないところに言葉が生ずるまでになる。
 そういった用語のうちで、今最も輝いているものを一つ挙げるとするならば「マルチメディア」ということになるだろうか。もちろん、これをまじめに研究している人も多いし、いろいろと噂されるその特徴を聞く限りでは、思考を拡大しようとコンピューターを生み出し、改良を加えてきた先人たちの夢が実現するのではとも期待させてくれる。
 そこで本論では、コンピューターの側から、それがメディアに接近してゆく様子を記述してゆくこととした。換言すれば、マルチメディアによってもたらされるであろう新しいサービスが、コンピューターによって実現されているメディアの生産技術から生まれてくる必然性を導き出してみようとするわけである。

.マルチメディアをどう解釈するか


 コンピューターがその内部で操作するビット列の動きを、キーをたたく人間より隠すようになって以来、コンピューターの用語はその仕組みからではなく結果から定義されるのが常となった。例えば別のアイコンを同じところにドラッグ&ドロップするとアイコンに応じた動作をするならば、それはプログラムが多態性を利用して書かれたものであろうとなかろうと『オブジェクト指向』によるものとして解釈されているわけである。
 同様にマルチメディアもまたその内容ではなく、ユーザーに感じられる現象より何とはなしに認められているものになっている。ただジョージ=コーツの60年代に遡る功績には配慮するとしても、ここではコンピューターの介在によりもたらされるものとしてマルチメディアを先験的に解釈しておこう。
 つまり、アラン=ケイによる次の解釈を支持するということだ。
《「マルチメディア」の鍵は、メディアの部分ではなく、「マルチ」の部分がいったい何を意味しているかという点にある。私は、マルチは多くのメディアを意味しているのではないと思う。多くの次元を意味していると思う。我々が討議すべき内容は、コンピューターが提供してくれる他のいかなる物質的存在も提供しえない新しい次元の話である。》(参考文献(1)pp.213)

 マルチメディアを複数の感覚に同時に、あるいは別々に働きかけるものとして単純に定義解釈する人もいるが、それではテレビも演劇もマルチメディアということになってしまいこれからの社会の担い手と期待されるものを意味するとは限らなくなってしまう。しかしながら、こういった単純な定義も一面ではマルチメディアに期待される結果を示唆するものであるからその意図するところを簡単に推測しておこう。
 ちょうどビデオディスクの登場によって、それまでコンサートやオペラの音だけで満足せざるを得なかった状況が改善されたように、テクノロジーの発達によって新たな感覚が刺激できるようになったという事実がある。これによって確かに新たな市場が誕生した。そして、これは舞台の制限より解放されるという副作用によって新たな創造の可能性を開いたとまで言えそうだ。
 また、映像と音によって理解を助けるという働きも考えられている。例えば、ブラノンが述べているように、これによって生産を向上させることも可能であろう。《第三の応用は、生産性向上である。これは、工場運営に利用している用語を労働者の半分以上が理解できない場合、工場現場に導入するシステムである。用語を理解しない従業員に、彼らの理解できる言葉で動画ビデオ、静止画、音声を組み合わせて、できるだけ速やかに技術的変更内容を伝えられるということは、マルチメディアの利用を増大させるものであろう。》(参考文献(1)pp.196)

 しかしながら、この程度のことであれば今までの技術でも十分に可能だったはずだ。歴史的コンサートのワンカットをテレビで見たことのある人は少なくなかろうし、大企業であれば社長による念頭の挨拶が空間を越えて日本中(あるいは世界中)の社員に映像付きで届けられていたからである。
 ただ、これまでの場合は、そういった音と映像の複合メディアが一部の人間にしか利用できなかったというだけのことである。各家庭にビデオデッキやビデオディスクが入ってきたのはせいぜいここ10年くらいの話であるし、ビデオカメラによって誰でも社長の訓話を映像付で残せるようになった歴史はさらに短い。そして誰もがメッセージを放送することができる時代はいまだ訪れてはいない。音と映像の含まれたメディアを作成し配信する技術は今後の各メーカーの努力によってますますコストダウンが進み、それに伴って一般家庭により広く、深く普及していくと思われるが、その速度を圧倒的に加速し、従来のAV家電の枠を超えるようにする手段こそが、コンピューターを動かすディジタルのテクノロジーと思われている訳だ。アラン=ケイが《コンピューターが提供してくれる他のいかなる物質的存在も提供しえない新しい次元の話》と言ったのは、そのような意味ではないかと思われる。


.マルチメディアのメリット


 では、コンピューターを使用することによって何が可能になるのであろうか。
 このことによって生じたメリットは3つあり、これが我々が今関心を持っているマルチメディアをコンピューターが関わる以前のものと区別している。その一つは加工の容易さであり、もう一つはコストの低さである。最後の一つは双方向性へとつながることになる相互変換性である。

3.1 加工性と経済性

 ここでは、音と映像の分野でこのようなメリットが実現してゆくさまを見てゆくこととする。

 音楽はもっともデータのディジタル化の進んだ分野であるといっても過言ではなかろう。ディジタルオーディオディスクがあっという間にアナログディスクにとって替わって以来、数多くの録音がディジタルにコンバートされ、新規に録音される演奏は初めからディジタル信号によって記録されてきている。それゆえにここにはディジタル化によってもたらされるメリットが他の分野にはないほどにはっきりと見てとれる。
 コンパクトディスクそのものは生産に高度な技術と大がかりな設備が必要とされるため、提供できるのは大資本に限られマイナーなレコード会社は淘汰されると以前は思われていた。しかし実際にはコンパクトディスクへの移行はマイナーレーベルを活性化させるという結果をもたらした。
 CDの円盤を生産するのはたしかに資本の集約が不可欠な工程であるが、マスターテープの編集はパーソナルコンピューターで十分可能な作業である。原録音があればテープの切り貼りに当たる作業やプレイヤー制御用のサブコートを打ち込むことはさほど熟練を要することではないし、やり直しも効く。そして原録音テープを作るPCM録音機やDATも安価に手に入る。正にディジタルによってもたらされた安いコストと加工性の良さが現れた好例といえよう。
 さらにこの加工性の良さが聞き手の行動にも影響を与えている。
 音楽をディジタル信号のままで加工すれば音質劣化を免れて周波数特性、音場情報を変化させることができるのである。UNIXによる本格的なものばかりではなく、カーオーディオに応用され車内という音響的に問題の多い空間での音質改善手段として普及している。
 将来的には、音楽そのものを聞き手が加工する時代も来るかもしれない。コンサートを拒否しレコーディングに専念したピアニストであるグレン=グールドが提案したような、キット概念が現実化する可能性すらある。彼の言うキット概念とはこういうことだ《聴き手は、ある特定の作品のさまざまな録音演奏を集めたキットを買うことができる。聴き手は家庭用編集セットで、このうちから自分の好みに合わせて解釈を合成するため、何本ものテープを継ぎはぎできる。新しい聴き手はアーチストとして、テクノロジーが手段を提供さえすれば、もっともっと演奏家と作曲家を合体させるだろう。》(参考文献(2)pp.62)実際グールド自身、バッハのレコーディングのうちの1曲で2本の単調な演奏のテープから完成品を紡ぎだしたことがある。

 シンセサイザーもディジタル化されることにより安価になり普及が促進された。シーケンサーと組み合わせれば超絶技巧を身につけた演奏家を雇わずとも目的の音を出すことがほぼ可能である。どうしても噪音を出したければ実際の音をディジタル録音して再生すればよい。かつてアナログ録音で実音をサンプリングしたメロトロンという楽器が存在したが、この時はメンテナンスの困難さと一音を7秒程度しか伸ばせないという機構的限界により普及しなかった。しかし、この発想による楽器はディジタル化によって一挙に普通のものになった。これで経済的理由からオーケストラと別れてツアーを続行せざるを得ないといった問題は初めから考える必要がなくなった。

 映像の世界においてはここまで進んでいるわけではない。しかしコンピューターグラフィックスが大がかりなセットを代替することによって、増える一方の制作コストを削減するといった使われ方はされるようになってきている。
 本格的な映画を個人が作成できるようになるのはまだ先と考えられるが、アニメーションであればイラストレーター個人の力によって制作できるようになってきた。五分間の番組に《毎回約1000枚の絵を使うが、通常アニメの1/5〜1/6の制作費で済むという。》(参考文献(3)pp.87)
 動画ではないが、パソコンの導入によってカットの生産性と表現力を倍加させている例も実在する。漫画家の須賀原洋行氏はカラー原稿の色入れをカラートーンの切り貼りという古典的な方法で行っていたが、パソコンによる着色を導入して以来、生産性の向上を実現したばかりか、木材や大理石の風合いを表現する事すら可能にしている。(参考文献(4)pp.82)
 動画についていえば既存のものをデジタル形式のままで編集することは画像圧縮の規格であるMPEGの形式からすれば問題があるようだ。すなわち《(MPEGは)単位時間ごとに記録させる完全な画像フレームと、その間の画像の変化を記録したフレームから成っている。このためMPEGファイルを任意のフレームでカットし編集することは、現在のところ難しい。》(参考文献(5)pp.45)

3.2 相互変換性

 コンピューターを使用することによって生じたメリットはこれだけではない。それは様々な種類の情報を一つのチャンネルで送ることができるという特性である。
 コンピューターは周知の通りデータを1と0の列に還元することによって一元的に取り扱うことのできる機械である。ただ未だテレビ放送の域には達しないとはいえ家庭に普及する程度の装置によって音と映像を同時に取り扱うことができるようになったがゆえにマルチメディアの担い手としての意味が生じてきたのである。つまり《映像、音声、言語は、プラトンがかつて切望していた数学的相互変換性(mathematical interchangeability)を持つまでになってきている。》(参考文献(1)pp.86)わけだ。

 ここに音声と映像を別々に送らざるを得ないTVに対してデジタル信号の方が通信との親和性が優位にあるという性質が現れてくる。これがマルチメディアが語られる際必ずといっていいほど引き合いに出される双方向性という特質へとつながるのである。
 双方向性という言葉には3つの意味で使われている。
 ア.すでにあるもの、与えられたものを自分で加工する。(グールドの「キット概念」)
 イ.自分の欲する情報を与えられたチャンネルより選択する。(CD−ROMやゲーム機 器がマルチメディアと称される理由もここにある)
 ウ.自分から情報を発信する。
 話題性を優先すれば、ウ.の誰もが情報発信者となるという部分にどうしても重点が置かれがちになるが、本命はイ.によりもたらされる情報選択の幅が広がることであろう。

3.2.1 情報の選択

 無線放送を使う限りにおいては周波数帯域と設備投資が制限要項となって、少数のチャンネルから常時同一プログラムが送り出されているという状態にならざるを得ない。ところが、媒体を通る信号がデジタル化されるとなれば、信頼性の観点よりケーブルを使用して番組を配信することが支配的になってゆくと思われる。
 有線ネットワークは、チャンネルを切り替えれば全く別の放送を送ることができる。この当たり前の事実が、有線放送、ケーブルテレビの多チャンネル化を実現してきたわけであるが、これまではチャンネルの切り替えや番組の呼び出しに専用の端末が必要とされていた。それらを仮想機械であるコンピューターに置き換えることができ、さらにはコンピューターが端末となっていることが前提とされているならば、一回のチャンネルの切り替えが、常に一つの番組を選択することに対応する必要はない。番組の提供が始まった後で、途中の展開が受け手に選択できるようにすることができる。ただし現状では、選択自由なネットワーク上で動画を送るという実例はインターネットのWWWサーバー上の話としてしか聞いたことはないが。

 ただし、一つの番組の展開を受信中にコントロールできるという考えは、オフライン上においては大成功をおさめている。テレビゲームのうち、とりわけRPGなどは、音と映像を伴ったハイパーメディアだ。多くの人が積極的に、あるいはしぶしぶテレビゲームをマルチメディアと認めているのはこの特性に注目してのことであろう。コントローラーとカートリッジが線で結ばれることによって、受け手の指示に基づき、カートリッジ内のプログラムの動作が選択されて画面と音という媒体をコントロールするという構造を確かにテレビゲームは持っている。これは一部屋の中に完結してはいるが、双方向性マルチメディアの型を実現していることになるとは言えないであろうか。

3.2.2 情報の発信

 次に誰もが情報を発信するという、マルチメディアに期待される特質について述べてみよう。実はこのことの必然性については以前より疑問を感じていた。企業として動いているマスコミが情報を収集し、発信するという営業活動をしており、それらはテレビ、ラジオ、新聞、雑誌などを通じて毎日消化できないほどの量が我々に届けられるものとなる。にもかかわらず、それ以上の量の情報を我々は必要とするであろうか。それ以前に個人が、組織の情報力を越えた情報を入手し、発信することが可能なのだろうか。
 ネットワークを通じたデジタルメディアは制作、加工が容易であるだけでなく、貯蔵、配信も安価に行うことができる、そのことだけを見て「個人が情報を発信する時代に」と評価することは簡単だ。ただしこれだけでは、個人の情報発信を時代が求めているという必然性が見えてこない。

 答えは、社会は人間の活動の集積で成り立っているという当たり前の事実にある。情報は、例えば彗星が木星に衝突するといった自然現象であってもそれが人類の経験に組み入れられるのは、望遠鏡を覗きデータを分析するといった人間活動の結果である。そしてこれも当たり前のことだが、人間活動が行われたところには必ず人間がおり、適当な端末があれば彼はそれについての情報を発信することができる。このようにして、木星の衝突後の映像はネットワーク上にアップロードされた。これはしょせんは天文現象について素人のマスコミ人にはまねのできない技である。
 それどころか、マスコミ人が得意としている分野のはずである、合衆国大統領の情報ハイウェイ構想に関する記者会見の内容すら、マスコミ人が入手するよりパソコン通信網に乗ることが早い場合さえある。(参考文献(6)、第一章)移動体通信が普及すればこのようなことが普通になるだろう。個人があらゆる情報を、コンピューターネットワークにアップロードしてゆくという傾向が進めば、それは世界中のあらゆる人間活動の結果がネットワークを通じてコンピューターの中に蓄積されてゆくことになる。これはテッド=ネルソンの夢想した、Xanaduの基礎を作り出すことにはなるまいか。

 実は今までも殆どのコンピューターユーザーは、このXanaduの実現に向けて、人間活動のできるだけ多くの部分をコンピューターに入力することに注力してきたはずである。例えば現実の商品の流れ、つまり在庫や売り上げをその抽象的属性まで含めて、限りなく現実に近い形でコンピューターで管理しようとしてきた。そして現実の物流を、もっとも正確に、分析のしやすい形でコンピューター上に写したシステムが、例えば「SISの成功例」と呼ばれてきたのである。
 現実に存在する具体的なものは抽象的なものに憧れる。今までもそうであったし、これからもそうなるだろう。


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 Xanaduのためのデータはどんどんビット列にコンバートされ、蓄積されていったとしても、検索が可能かどうかは別である。相互に関連を持たぬまま入力されていったデータから必要なものを取り揃えてくれる《自動的に思い通り動いてくれる図書館の司書》(参考文献(7)、pp.432)が必要である。
 Xanaduまではゆかなくとも、データの整理、検索のためには規格化が必要であり、マルチメディアの標準を自社規格にしようとする動きはいつものように激しい。
 しかしデジタルデータの規格は融通がきかないだけに作成者にとっての足枷となりやすい。また政治的な道具にもなりうる。再びメディアのデジタル化のもっとも進んだ分野である音楽に目を向けてみよう。

 音楽ソースのディジタル化が検討されていたときにはあるアーティストが自らの優位を確立するためにソフトの規格を決定する可能性があった。そして、実際にこういったことは起こりかけたのだ。CDの規格を決める際に「ベートーベンの第九を一枚に納めることが絶対に必要である」と主張し、ディスクの半径を1センチ増やした有力指揮者は、最長記録時間を史上最高の名演といわれているフルトヴェングラー/バイロイト版の演奏時間より1秒短くしてしまったのである。幸い、規格がマージンを持っていたのでこの演奏は一枚におさめられたが、そうでなければ長めに演奏された第九は絶滅していたかもしれない。
 そうでなくても、ソフトウェア業界は、製品ができてもいない段階で次世代ソフトの方向性のみを発表して、他社のプラットフォームを牽制し、不公正な契約内容を押しつけて市場の独占を図るといった手口が横行してきたのだ。マルチメディアが巨大な市場を期待されているものである以上、OSを独占的に供給することがかなえば利益は莫大なものとなる。プラットフォームが統一されるとなれば消費者も便宜を受けそうである。しかし、ハード/ソフトのプラットフォームが変わってしまうと、それまでに作られた数多くの作品が死滅してゆくのも事実であり、とりわけマルチメディア作品ではその傾向が強かろう。

 ビデオのβとVHSは家庭用ビデオの市場において並立した規格であったために、同一のソースが双方に供給されたことにより、マスターが家庭用βであった例外を除き、消えてしまった作品というものはでていない。
 ところが音楽の世界ではアナログディスクをデジタルディスクが代替したという形になったため、デジタル化されずに消えてしまったアナログ音源が数多くある。CDも再販価格制度が適用されると業界が主張するのであれば、アナログディスクを生産中止する以上は、すべてをCDにて再発する義務があるはずなのだがそれすら守られていない。
 アナログ音源をデジタルにコンバートするという半ば自動的な作業ですらこうなのだ。コンピューター上のプログラム移植作業の困難さを知っている人ならば、殆どのソフト資産が捨て去られてしまうことは当然と判断するであろう。
 さらにマルチメディアは、音と映像を同時に扱うため本来タスク管理という考えが必要になってくるはずである。しかし現在のところCD−I本体を別としてPC上で支配的なファイル管理システムはタスク管理をサポートしていない。仕方なくマルチメディア作品というアプリケーション内部で大なり小なりマルチタスクのルーチンを組み込むことになる。将来的にマルチタスクを標準でサポートするマルチメディアOSが登場したとしても、現在の作品の移植は、むしろ作りなおした方が簡単かもしれないほどになりはすまいか。

 とすれば、何も今、不完全なユーザーインターフェースを使ってまで苦労して作品を作ることはない。先駆者という名誉を作品の永続性よりも重視する場合は別としても。CGを作る人は多いが、それも資本と組織のバックアップがあってのことで、デジタルのもたらす低コスト、加工性という特性を活かすものは少なそうだ。
 そうなれば技術的にマルチメディアが実用段階に入ったとしても、配信されるものはフランスのミニテル止まりということになりかねない。当然期待された市場も立ち上がらない。《存在しないニーズに向けて、夢のようなニューメディアを構築しようとする幻想的な試みの果てにあるのは、「キャプテン」を始祖とする先進技術の墓標である。》(参考文献(8)pp.167)ということばがまた聞かれるかもしれない。

 もちろん、マルチメディアにはその他のサービスもあると主張されている。Video On Demand、 便利かもしれない。が、高い料金を払うよりレンタルビデオ屋でどれを見ようかとうろうろする楽しみを選択する人が多いのではないか。Online Shopping、 規格化された実用品やそれだけでは実用性のないチケットの予約を除いて支配的になることはなさそうだ。ましてや画像ばかりかエンジン音まで送ってくれる中古車の競売(参考文献(9)pp.991)、全くのナンセンスだ。エンジンの調子を判断できる再生装置が各参加者の手元にあると主催者は仮定しているのだろうか。(参考音源(1)TRACK19)

 あらゆるメディアを単一のチャンネルで扱うためには、単一のOSを使う必要があるわけではない。チャンネルで配信するものにOSまでも含めることも考えられる。各端末はカーネルのみを自前で持ち、ユーザー/タスク/ファイル管理部分は回線や固体メディアからロードすればよいわけだ。これはさほど突飛なアイデアではない。かつてPCは各アプリケーションの入ったフロッピーにブート情報も入れることによって、アプリケーションを切り替える場合には、フロッピーを差し替えてリセットしていたではないか。
 またアプリケーションでバックグラウンド動作を行っていたソフトは自分の内部でタスク管理を行っていたと言えるが、このタスク管理部分をOSに含めて配信するのだと考えてもよい。さらに流行の言い回しを用いて説明すれば、マルチメディア作品がOSにあたる部分をメソッドとして持ったオブジェクトとして配信されているのだと表現することもできよう。
 この方法はまた汎用的なOSを、全てのアプリケーションが採用する必要がないため、その作品の使用しないルーチンによるオーバーヘッドを避けることができる。すなわちハードウェアの性能を比較的必要としない。このことによるハード面でのコスト削減効果は、マルチOSに対応するハードのコスト増をそれなりに保証してくれることであろう。柔軟性のあるハードウェアの必要性は、今までにもちゃんと訴えられてきたことである。《(現状のパソコンをマルチメディアマシーンに変身させることについて) これを技術的にどうするかについては、二つの基本的選択肢がある。一つは物理的に行う方法で、今一つはプログラムによるものである。現在なされている方法のほとんどが物理的に行うものである。われわれの経験からするとこれは誤りである。たとえシリコンやボードのために二五%ぐらい料金がかさんでも、できる限りプログラムできるようにしておく方が望ましい。プログラムできるということは、変化する市場の要求に応じて修正できるということだ。新しい技術やアルゴリズムを取り入れることができる。》(参考文献(1)pp.195)

 マルチメディアが生まれたのは、コンピューターによって、今まで存在した多くの制限から情報が解き放たれたゆえである。マルチメディア自身もOSやハードの制限から解き放たれてこそ、その本来の性質を発揮できるものだと、私には思われる。


.おわりに


 マルチメディアに関する資料を集めていて気がついたのは、この分野では日本が意外に健闘しているということだ。一般には、合衆国では政策の目玉として情報ハイウエイが提唱され、国家的プロジェクトとしてマルチメディアが推進されている、それに比べて日本は、といった論調が目立つ。しかし、民間レベルではちゃんと独自の萌芽を持っているようだ。
 合衆国の Video On Demandの実験設備では、要求に応じビデオデッキにテープをセットするという機械的作業をおこなっているが、日本の通信カラオケという Music On Demandでは電子的作業が実用化されている。
 また、マルチメディアはコンピュータの家電化とも言われることがあるが、家電にコンピューターを内蔵するといったことは日本の先行する分野である。もし、家電用のOSが通信との親和性がよいとするならば、日本の潜在力は普通に思われているよりもずっと強いのではなかろうか。


参考文献
(1)アラン=ケイ他『マルチメディア』,岩波書店,1993
(2)ジェフリー=ペイザント『グレン=グールド』,音楽之友社,昭和53年
(3)『日経パソコン』,日本経済新聞社,94年8月15日号
(4)須賀原洋行『よしえサン』,講談社,1993
(5)『PCWAVE』,電波実験社,94年11月号
(6)高田正純『海図のない旅、情報ひとり旅』,日本工業新聞社,1994
(7)ラインゴールド『思考のための道具』,パーソナルメディア,1987
(8)『PCWAVE』,電波実験社,1994年4月号
(9)松下温「グループウェア実現のために」,『情報処理』,1993

参考音源
(1)メルセデス200ディーゼル『STACCATO』,CD番号CD101003

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