• 97 06 15

  1コロンブスの落差について

 「……コロンブスが自分の乗組員の反乱を鎮め、再び提督に返り咲くのは、踊る娼婦を真似る(偽の)提督の真似をすることによってでしかない。」(『アンチ・オイディプス』ドゥルーズ=ガタリ P111 河出書房新社)とても微妙なことが書かれている。日常よく目にすることに置き換えてみると、次ようになるのかもしれない。――NGを集めた番組がある。私たちがそこで消費するのは、OKシーンとNGとの落差である。NG場面に役者の素顔・普段の表情が出ることを期待して、その落差をこそ注視するのであるが、俳優もその番組を意識してからは、素顔を演じる偽の役者がそこにいるだけである。偽の役者、即ちバラエティーもこなす顔。しかし、それはコロンブスに近づいたことになるのではないか?。――つまりこういうことだろう。初めから役者の素顔など無かったのだ。素顔こそが幻想だったのである。コロンブスはそのことを明らかにしたと言えよう。真の提督ではなく偽の提督として返り咲いたのである。提督自体が何かの引用であるに過ぎない。地位とはおおむね真似ごと・擬態であろう。ものまねの本質もその辺にあるのかもしれない。

 重要なのは、ふたつの顔の隔たり、落差であろう。我々の日常に於いても、人格は二重以上だと考えた方が良い。アイデンティティー、自己同一性神話は既に崩れてしまっている。一人称の文芸だけが例外として赦されるはずもない。隔たり、距離、落差にこそ私たちの真実はあり、身元は保証されている。段差にこそその人の真理が現れているのだ。


  2落差のつづき

 NGとは役者が表現者から労働者に変容する過程であると定義できる。生放送で画面をよぎるスタッフがいるがその違和感が表現と労働の差である。タレントは表現し、スタッフは労働者として同じスタジオ内にいる分けである。NGは俳優を一労働者に変える。虚構から現実社会にリンクしたことになる。NGの変身の力能とはそういうものだ。

 似ているということは似ていないということを既に含んでいる。類似とは差異の別名でもある。二世タレントを例にとるなら、視聴者は似ているということ以上に似ていない部分を探している。詳細に見比べている。ここでもその落差を消費していることが分かる。落差即ち<差異>----高倉健の落差は任侠という役柄と彼のインテリジェンスとの間の隔たりだろう。富士通は彼の魅力を旨く掬い取っている。インテリ・知性派が掛け離れた強靭な肉体そのものを示す魅力はA・シュワルツェネッガーを想い浮かべれば理解できる(彼の学歴は相当なものである)。反転させれば学者・知識人・文化人は野生的なほど輝く!?のかもしれない。芸人と知性の取り合わせはビートたけしに最も良く現れている。最近は天然ボケが流行だが彼・彼女らもアイドルとの落差に魅力がある(つぶやくと云う芸は天然ボケをテクニックとして横領したものではないのか……)。チャイドル----アイドルとチャイルドも異質な距離を超えてこそ意味がある。差異のある結合。ラジカセもマルチメディアも異質なものどうしの出会いから始まっている。

 美川憲一を真似るコロッケの真似をする物真似芸人。美川憲一を直接真似るのではなく、美川を真似るコロッケを真似るという現象は<オリジナルというもの>を消滅させている。原形にいかに近づくかということより、むしろモデルとの差や飛躍が問題になっている。フェイク・デフォルメ……。

 何かの間にあるものとしての<差異>・距離・隔たりの《横断的結合》。登録の《離接的綜合》。消費の《連接》→(『アンチ・オイディプス』)。既に久しいターム(述語)だが出発点は依然としてここにあると思う。貼り付け・コピー・移動・検索・ジャンプ・リンク・ネットワーク・インタラクティブ・送受信などパソコンの根幹もそこにあるからだ。


   3落差の続きのつづき

 かつてのクレイジーキャッツやドリフターズの流れ、コミックバンドの系統というものがあった。ではサザンオールスターズや爆風スランプ、聖飢魔Uやシャ乱Q、ウルフルズなどはどうなのであろうか。ア―ティストとコミカル-----小劇団にも言えることかもしれないが、その落差と段差。さだまさしや泉谷しげるにも兆しとしてあったが、もっともその<差異>を如実に現わしていたのは中島みゆきで、彼女の生きる術そのものであった----安全弁としてコミカルが必要だったということが。ブルーハーツにあって、尾崎豊に無かったものが安全弁だったのではないか。イメージの同一性がいかに作られたもので絶え間ぬ努力を必要とするものか、尾崎が反証として証明してしまった。真実一路とかそれ一筋は日本人の好みに合っており、尾崎は上の世代にも十分通用したと考えられる。ファンにとって尾崎は自己との<差異><飛躍>として、ヒーローとして存在するが、尾崎にとってイメージを保ち続けることは苦痛をともなっていたことだろう。ドラッグは地味な演歌歌手(小林幸子)のド派手な衣装と同じ役割を果たす筈だったのかもしれないが、その発覚とて彼を彼のアイデンティティーから解放してはくれなかった。

 出版界ではタレント本が売れている。おそらく読者はその落差を読み取っているのだろう。タレント活動の特出した部分とそれ以外の素顔……素顔!作られた顔、読者に親近感を与え、安らぎを呉れる計算し尽くされた顔。ドジな人間を描いて安堵を与え、時に才あるところを見せ流石と思わせる。読者の地点と、そこから離れた鋭利な刃が開示される特別な世界がタレントの書くエッセイのおおよその骨格だろう。編集者の狙いもそこにあると思う。タレントと自分との<違い>は落差の振幅の差だと納得するのである。<差異>は管理・操作に晒され、多くの手によって利用されている。

忘年会・社員旅行での上司のカラオケや隠し芸の果たす役割はコロンブスの落差と原理的には同じであろう。ウルフルズを真似る偽の課長(非日常)を演じる課長がそこにいて、課長の役職に再び返り咲くのである。大袈裟に言うならば……。反乱の芽を摘んでいるのである。


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