キリスト教の三位一体というものがよくわからない。
重ね合わせの原理的な面白さは感じるものの、それを踏まえてもわからない。
まず、聖霊というものがよくわからない。
用例からすると、父と子が一体ずつであるのに対し、
聖霊というものは父の吐く息のようなもので、
日月に対する星の如く、無数に存在しているようにも思える。
ならば天使の類とどう違うのか。
或いは、神に対する単なる別名のようにも思える。
父や子と対等のように言われる割には、聖霊はいささか影が薄すぎないか。
父と子が一体というのもよくわからない。
明らかに別の人格を持つ別の存在として登場しているのに。
もしそうなら、自分自身を人間に殺させる事で、自らが人類に課している
人類の罪を許したという、非常に謎な話になってしまう。
尤も、自らの子を殺させる事で罪を許すという時点で謎だが…。
穿った見方をするまでも無く、矛盾(或いは、例えを額面通りに取った上での
矛盾に見えるもの)を誤魔化すために無理やり考えられたものだったのではないか…。
しかし、ならば聖書の解釈の方を変えれば済みそうなものを、
なぜ無理の有る考えの方が主流となり得たのか。
思うに、キリスト自身を信仰対象とする人が多く、その流れが抑えられなかったために、
偶像崇拝となるのを避けるべく、キリストと神を同一とせざるを得なかった、
という事は無いだろうか?
そこに、各宗教で見られる3つで1組を神聖視する傾向が併さって、
聖霊がねじ込まれたのではないか?
2021.3.29
個人的には、「葬儀はあくまで生者のためのもの」的な思想は、
機械論・唯物論的な思想に基いてると思うので賛同できない。
死者とどう向き合うかはデリケートな問題。
そういう思想を押し付けるのも、信仰の押し付けに他ならない事は周知されて欲しく思う。
2018.7.22
ミノタウロスの皿がよく話題になるが、確かに主人公のしようとした事は余計なお世話な部分もあるとは思うが、
そう断じて終わる前に考えて欲しい事もある。
もし、人間を「奴隷として尽くす事に喜びを見出す」よう改造する技術、あるいはそういう人間を作り出す技術が生まれたとして、
「本人が喜んでるんだからそれでいいじゃないか」という事になるかどうか、
例え自身がそのような改造をされる事になったとしてもそう思えるかどうか。
自分にはそうは割り切れそうに無い。
尤も、苦しみながら奴隷させられるよりはマシだとは思うけど。
2018.7.21
「自然破壊は嘘だった」と言う話をよく聞くが、それ自体も嘘である可能性を見落としてはまずいと思う。
「人類が自然を破壊した事など無い」という意見があるが、そういう楽観的な発想が、
公害病を引き起こしたり、各種生物を絶滅に追いやったのではないだろうか。
2018.1.26
「人間が一番怖い」とよく言われるが、
一番怖いのは自分自身の痛覚とか苦痛の感覚なのではないかという気がする。
痛い思いをすると、苦痛が存在する事というのは、
最も身近にありながら最大の理不尽でありホラーであると思えて来る。
宇宙と比べたら塵にも満たない、この矮小な存在の中に地獄がある。
我々は常に地獄と隣り合わせの所に生きている。
2015.7.24-11.16
混同されがちだが、動物愛護と、自然保護&絶滅危惧とではまるでベクトルが違う。
前者は個人主義、後者は全体主義に通じる。
2015.7.5
魂が消滅したり、死してなお理不尽な仕打ちを受ける系のネタは好きじゃない。
死人に鞭を打つというか、理想にまで現実を持って来るというか…。
死後については極力扱わない方針。
2014.6.23
もし知能の低い生物の感じる苦痛が、我々に比べて小さいとしたら、
我々が更に高度な知性を持つ生物に進化した際には、苦痛も更に膨大になって来るのだろうか。
2014.6.10
「昆虫やアメーバにも魂は有るのか?」という問題は、
「昆虫も我々と同じようなレベルで苦痛というものを感じているのか?」
という問題と同質だと思う。
2011.8.27
過去に読んだ論理の本に、「神秘的な話は人心を惑わすから有害、ゆえに間違い」という感じの話があった。
その理屈で行けば、進化論の自然淘汰も間違いという事になる。
2011.8.24-2019.5.2
よく動物虐待などへの批判に対し、「植物や菌も命があるから可哀想だ、動物だけが可哀想なんておかしい」
という反論がなされるが、それには「植物にも意識や痛覚が有る」という、少々無茶な前提がある。
植物にも意識や痛覚があるという説をあえて否定はしないし、本気で植物に対して
感情移入できる人が言うなら未だわかるのだが、言ってる人が大抵、
日頃はオカルトを徹底批判する立場のガチガチのリアリストな点に注意して欲しい。
現代科学に基けば、脳も神経も無い生物にそういうものが存在するというのは
ファンタジー染みた話であって、オカルトである事に違いはない。
彼らの言い分は多くの場合、逆に「動物を機械だと割り切る事」が前提となっている。
彼らによれば、ペットが年間何万匹殺されようが、産まれたばかりで親から離されようが、
安楽死で有ろうが無かろうが、関係無いわけだが、本当にそう思えるだろうか。
「残酷だ」と言いだしたらキリが無いのは確かだが、残酷という概念すら捨てたら、
それはただのサイコパス理論になる。
食文化云々の話も、度を過ぎると「ペットをどう扱おうが飼い主の自由」という話に繋がるので注意して欲しい。
そもそも「命だから可哀想」という前提がズレている。
「可哀想」「残酷」という感情がなぜ生まれるのか、それは相手に心や苦痛が存在すると想定するからだろう。
誰も苦痛を感じていない状態で、一体何が可哀想になるのか。
当然だが、苦痛を感じない体質であっても、大元の意識的なものが存在するなら同じ事。
単細胞生物のどこにそういったものが存在し得ると、科学的立場から言えるのだろうか。
彼らは心の有無で命を区別するのは傲慢だと言うが、命の有無もまた境界が曖昧である以上、
それを言ったら命の有無で物を区別する事も傲慢となる。
鉱物だって可哀想という話になってしまう。
そもそも人間と獣はしっかり区別しているではないか。
「植物だって不快な刺激に対して毒素で反応するから痛覚も心もあるだろう」
という反論も多く見られるが、それを言ったらAIにだって痛覚や心がある事になる。
科学的立場によれば、生存を考えて毒素を出すのではなく、毒素を出すものが生き残っただけ。
振るいに石が残るのと同じなのである。
「植物だって成長する」「植物にだって感情移入する事はある」
というのもあるが、それは鉱物や創作上のキャラクターや燃焼現象も同じだ。
現実と空想の区別はまず付けておくべきだろう。
では逆に、獣に意識や痛覚がある保証はあるのかであるが、現代科学の範囲ではその保証は無い。
しかし実は、そもそも「自分以外の人間」がそれを持っている保証さえも無い(他我問題。詳しくはこちら)。
現代科学の範囲では、人間さえも機械に過ぎない。
では、自分自身の痛覚・感情すらもそうやって割り切れるだろうか?
結局の所、「俺は嫌な思いしてないから」で終始してないだろうか?
生物的特徴を比べれば、植物と獣よりも、獣と人間の方が遥かに近い。
現代科学に基くならば、植物に苦痛・意識がある可能性は限りなく低く、
獣に苦痛・意識がある可能性は限りなく高いため、同列にするのは無理がある。
動物でも、神経はあっても脳は無いタイプや、脳が極めて小さくて機械的反応しかしないタイプとなると
よくわからなくなって来るが、それらに対しては特に、人と獣は科学的にもあまりに共通点が多い。
他、「動物と植物を区別すると環境破壊の原因になる」という反論が有名な漫画の中でなされているが、
誰も植物なら粗末にして良いなどとは言っていないし、その理屈で行けば、
オゾン層や南極の氷も、植物と区別したらいけない事になる。
2011.7.10-2019.5.4
霊やあの世が人の頭の中にのみ存在するものならば、
全ての人間もまた、頭の中に存在するものに過ぎないのかもしれない。
2010.9.6
「自殺した者は地獄へ行く」的な話がよく語られるが、それは外道の思想であり、
根絶されるべきではないかと思う。
そう言う人の多くは、「死ぬのは簡単」という嘘を信じてるのではないだろうか。
確かに漫画やドラマを見てる分には非常に簡単そうに思えるだろうが、
実際にはそんな生易しいものではない。
もう死ぬしかないような状況に自分を追いつめても、死に踏み切れるとは限らなかったりする。
生半可な根性では、自殺なんてできない。
それでも自殺に踏み切ったその気持ちは、想像を絶するものだっただろう。
それを実感した上ならば、自殺した人を貶めるなどとてもできなるはずはないし、
せめて冥土で救われて欲しいと思うのが人情ではないだろうか。
人が自殺者を貶めるのは、自殺を予防するため仕方ない部分もあるのかもしれないが、
死ぬ事を簡単だと思ったり馬鹿にしているならば、彼らとは話は全く噛み合わないだろうし、
遺族の前でそういった思想を語るのは、非常に冷酷な行為となる事も忘れないで欲しい。
2010.6.28-2019.5.3
人(生物)はもしかしたらみんな同じなのかもしれない。
ある時はAという人間の中におり、ある時はBという人間に居て、それが瞬時に入れ替わっている。
Bである時には、Aである時の記憶は無いから、Aを違う存在だと認識する。
Aに戻れば、Aである時の記憶しか無いから、ずっとAであったと認識する。
あくまで可能性の一つとして(いつ頃だったか)思い付いたもので、あまり好きな世界観では無いけど、
魂というものを上手く説明出来る気もする。
世にいう「梵我一如」は、もしかしたらこういう事なのだろうか。
2003.10.24-2011.8.2
外見や運動能力はもちろんの事、知力、更には記憶も性格も、客観的なパラメータと見なす事ができる。
しかし、自分の死後、同じ記憶と性格を持った人間を作らせたからと言って、生き返る事が出来た事になるのかどうか。
周囲の人にとっては、生き返った事になっているのだろうが、では、生きている間にそれを作ったらどうなるか。
一旦冷凍されて、解凍された時、元の自分のままで居られるかどうか、それはもしかしたら、
自分は死に、別の誰かが自分と同じ記憶等を持って誕生した事を意味するのでは無いのか…。
その「自分」を便宜上、客観的に割り切れる物事とは常に対極にあるものという意味合いで
「主観」と呼んでいる。
世間では「自我」「意識」などと呼ばれている感じのもの。
普段は簡単のため、単に「心」と呼んでいる。
いずれの言葉も誤解を招き易いのが苦しいが。
現代科学において、この主観というものは、自分自身(これを読んでる貴方自身)以外には宿っている事が証明されていない。
それは「クオリア」「哲学的ゾンビ」といった話で扱われ、「他我問題」などとも呼ばれている。
「全ては物質に過ぎない」という思想は一見合理的だが、この辺の問題を全く説明できない。
現代科学の範囲では「苦痛」というものは存在しない。
あるのは、「苦痛を感じているように見える機械」だけ。しかし、本当にそうだろうか?
耐えがたい苦痛を「単なる幻」で解決できたら、どれ程楽だろうか?
物理やコンピュータに関わっている人程、この問題には気付き易いはず。
ボタンを押したら「痛い」と表示されるプログラムを作ったからと言って、
さすがにそこに苦痛が存在するとは到底ならないだろう。
主観について悩んでいるのだって、そう見えるに過ぎないかもしれないし、
主観を持っている証拠にはならない。
主観は「現在」というものの不思議とも関わっていると思う。
現代物理の世界は、基本的に決定論であり、そこには自由意志は存在しない。
自由に決めたと思い込んでいるだけ。(量子的作用による非決定論効果が唱えられる事もあるが)
そこでは「現在」もまた存在しないはずなのである。
過去から未来に亘って決定された年表がポンとあるだけで(これは多分、ブロック宇宙論と呼ばれるもの)。
本当にそうだろうか?
「死が無である」か否かという話にも関わっている。
死ぬ事によって、記憶や性格情報というものは消えるのかもしれない。
考える事というのもできなくなるかもしれない。
それでも、苦しみ抜きながら死ぬのは御免だろう。
つまり、死んでも「苦しむ」という経験そのものは無に帰されないという事。
すると「死が無である」という仮定がそもそも怪しくなって来る。
そもそも、物質で語り切れないものが、物質の飛散と共に消滅するのか、というのも疑問である。
「生命というものに意味はない」といった話も、あくまで現代科学における結論だと思うので、
その範囲に収まらないものがある以上は、そうとも言い切れないのではないかと思う。
2003-2019.5.2