迂路の跡

2012年10月01日(2024年06月18日改稿)

「信仰と無信仰」

 あるメールが届きました。それは日本語に翻訳されたであろう宗教への勧誘と思わしき内容でした。短い内容でしたが、抜粋して紹介します。

 冒頭「最近あなたに欠けているかもしれない崇高な情熱を取り戻すお手伝いをしたいと考えています。」
 主部「Eメールを通して、進むべき道を決めるのに役立つ神秘の力と宇宙の力に関する情報を提供することを目指しています。幸運、愛、健康、富――あなたの望みが何であれ、最高の幸福と成功をもたらすものを再発見できるように、あなたを導くことを目標にしています。」

 私から言えば、自ら求め行動した結果から考え得た言葉は大きな効果が出ますが、一方的な受け身から得た言葉は効果が充分に出ません。紹介された助言に対して疑問なく理解できれば、あなたは既に過去の通過点でその回答を導き出しているから理解できてると思われます。今受け入れるに値するかは別ですが。
 話が逸れました。言葉だけでは体験の差により誤解が生じたり正しく理解できないので、まず助言に疑問が沸くはずです。その問答をする場がないと正確に理解できないことを警告したいと思います。良い助言は自ら探した上で巡り会うものと考えます。インターネットならネットサーフィンやSNS等の交流の場で自ら輪に加わって良い助言を発見すると、折角巡り会った言葉だけに知恵を理解するための行動をとることがあります。そして、その助言の発言者や掲載者の環境(どのような人物か一見無意味な情報さえ)も理解の糸口になるでしょう。なので、理解したいと思わせるコンテンツを生み出す人は、その人物像を知りたくてファンが増えるのでは無いでしょうか。もちろん共感する人など、他にもファンになる要素はありますがそれは本題とは関係ありません。
 と、経験ありきのことを言いましたが、言葉だけ先に心に留めておき、後々ふとした切っ掛けで理解することもあります。知識として受け入れるのもよいかと思います。ただ、煩雑なメールが多いこの時代では、やはりメールの印象付けは悪く、記憶力に自信のある方やメールに執着している人でないと効果は薄いでしょう。
 私は下記メッセージを添えてお断りしました。この言葉を考え出したとき、我ながら全くその通りだと思いました。
送信者のメールアドレスが外国からだったので、日本語と英語の両方で記述しました。

 信仰に自由無し。
 無信仰に際限無し。

 A believer does not have freedom.
 A non-believer's suffering is boundless.

畑 幸平