それでも、ベンゼン環は「学術記号」ではない

要旨

 98年11月に公開された新JIS漢字公開レビュー資料中の文字記号「ベンゼン環」は包摂に問題がある。また学術記号としては認めがたく、新JIS漢字に収録する文字記号としては適当ではない。[追記]後日、「化学の象徴として利用されることも想定した」という情報が出されたが、それでも私は納得できない。[追記その2]99年3月27日のJCS公開審議で「ベンゼン環の削除」が報告されました。

はじめに

 1998年11月6日から新JIS漢字の公開レビューが始まった。レビュー資料を完全にチェックし終えてはいないが、JCS委員の方々の努力には頭が下がる。一読した後、特に記号文字に関して「今すぐにでも使いたい」規格となりそうな感触を持った。しかしながら、表題に示した「ベンゼン環」、この1文字だけに関しては、どうしても受け入れられない。なんとなく感じた「異和感」を以下にまとめてみた。

ベンゼン環の「字形」?「包摂」?

 公開レビュー資料の「非漢字面区点及び詳細(案)」には下記のようにある。
一般的な図形記号(3)
 採取された図形には各種のものがあったが,一般的な利用を勘案して,コンピュータ関連で利用頻度の高い“空白記号”と“四つ菱”の一般記号2文字と,学術記号の“ベンゼン環”1文字を追加候補とすることとした。なお,ベンゼン環の字形としては種々のものがあるが,例示字形を含め,6とおりの字形を含むこととした。
 これを読んで「ん?」と思う人は少なくないはず。私は本職は化学屋(Chemist)だが、有機化学はオチコボレである(故 西田先生、ゴメンなさい)。それでも変だと思った。「ベンゼン環の字形」って何だろう?同じ公開レビュー資料の8pより該当部分を切り出したものを上に示した。3種類の「字形」が例示されている。(直接は関係ないが、例示字形のような外枠が太いベンゼン環の表現は見たことがない。何から採録したものであろうか。2重結合は同じ太さにするのが普通だが…)
 「6とおりの字形」とは右図に示した6個を言うのであろう(これが違ってると、論点がズレるが…)。ここからの図形の言及には右図の下に示した数字を使用する。
 公開レビュー資料には1,3,5が例示されている。少しでも有機化学を教わった人間ならわかるはずだが、1,3は5と等価ではない!1,2の重ねあわせの電子状態を表現したもの(非局在電子)が、5であり、3,4の重ねあわせの電子状態を表現したものが6である。一般的な教科書の「モリソン・ボイド 有機化学(上)第5版(東京化学同人)」629pにも、そう書いてある。
 ただ、これは「柿」の「かき・こけら」論争と似た状況なのかもしれない。しかし、少なくとも、この「学術記号」を規格に収録しなければ、このようなやっかいな議論はしなくてもすむ。

ベンゼン環は「学術記号」か?

 前項の議論は、むしろ補助的な理由にすぎない。一番の理由は『「ベンゼン環」を「学術記号」として文字規格に入れる意味がない』ということである。
 「ベンゼン環」が「地の文章」に入っているのを見たことは一度もない。たとえば「と共鳴理論」などという用法はまずありえない。(はずである。ご専門の方のご教授を待ちたい)。また、下記のような反応式
  C6H6+Cl2→C6H5Cl+HCl
のC6H6を新JIS規格文字でと置き換えられたとしても、右辺のクロロベンゼンを新JIS規格文字で表現できない以上、無意味なのは明白である。実際的なケースとして、誘導体でないベンゼンを単独で用いることは極めて少なく、複雑な化合物の一部構成要素として使うのがほとんどである。
 別に、と表現しなければならないケースなどはないはず。必要なら、benzeneと文字で、または「図」で示せばよいだけである。また、C6H6と書けば「ベンゼン」であることは誰でも判かる。
 「ベンゼン環」を文字規格に入れるなら「シクロヘキサン」や「シクロペンタン」、「シクロヘキセン」や、はては「アダマンタン」、「フラーレン」まで含んだ「有機化合物文字セット」なるものまでありえることになってしまうが、これが間抜けだということは明らかである。
 また、「ベンゼン環」を別の目的の「記号」に流用した例も、私は知らない。これがあるなら、文字規格中に収録する意味もありえるかもしれないが…
 とにかく、「ベンゼン環」が文字セットの中にあっても、誰も「うれしくない」のである。

後記

 後日、「非漢字に関する補足的事項」という解説が発表された。その中に以下のような文章がある。
3. 図形的な文字に関する事項
 今回、図形的な文字がいくつか追加されているが、これらの中にはどちらかというと、通常の文書の中で、象徴的な利用も行われることを考慮して選定したものがある。例えば、学術記号に追加したベンゼン環(1-6-77)は、ベンゼン環そのものではなく、ベンゼン環に代表される化学の象徴として利用されることを想定して追加候補としたものである。
 これを読んで納得できる人がいるだろうか。「通常の文書の中で、象徴的な利用」って何を言いたいのだろう。「化学の象徴として利用されることを想定」?何じゃそりゃ。
 「利用を想定」した程度で、文字を規格に収録するべきではない。用例を収集したものを示すべき。「化学の象徴」がベンゼン環…なんですか。私はそういう使い方をしたのを見たことがない。万一、そのような用例があったとしても、その程度の用例では規格に追加すべき文字とはどうしても考えられない。
 もし、追加しようとした理由が「UCSにあるから」というのだけなら、すぐに削除すべき文字である。日本文での用例がなければ意味はない。

追補

 JIS X0221-1995を買って(高かった;_;)チェックしました。UCS 232Cは上にあげた図形5のみを「MISCELLANEOUS TECHNICAL」の表に収録しています。何が何でも、「ベンゼン環」を収録する必要があるなら、図形5のみを収録する方がマシだろう。今のままだとUCSとの変換でやっかいなことが起きる。でも、「ベンゼン環」を収録するなら、もっと必要な記号が他にある。それをすべて入れてから、「ベンゼン環」を入れるべき。

ご意見をお待ちしています

 レビュー資料を一読して感じた異和感を、上記のようにまとめてみました。
 メールをお待ちしています。このページに、いただいたメールを転載させていただけると幸いです。その際、お名前・所属・メールアドレスなど、出せる/出せない部分を指定していただけると助かります。
 特に有機化学をご専門とされている方や、文字をご専門とされている方のアドバイスをいただけると、ありがたいです。
 もっとも、直接、JCSにメールしていただいた方が良いのかもしれませんが、公開の場で議論できた方が話が早いでしょうから…

後記

 1999年3月27日に東京で行われたJCS公開審議で、「マイクロ記号」とともに「ベンゼン環」の候補文字からの削除が報告されました。とりあえず、良かったということで。
 しかしながら、他に私が提案した文字類はすべて却下されました。まぁ、「ベンゼン環」が削除されるなら、あの文字が入らないのも理解できなくもないのですが。

追加

 まだ、今回のレビュー資料の漢字部分は目を通し終っていないのですが(169pもある;_;)、途中まで読んだ段階で抜けているように思う文字について書いておきます。これについては典拠を添えてJCSに資料を送る予定です。ちょいデータを集めにくい文字もあるのですけど…
あ゛,い゛,え゛,お゛,な゛,に゛,ぬ゛,ね゛,の゛,ま゛,み゛,む゛,め゛,も゛
濁点付きの「ひらがな」。漫画のフキダシに、写植文字として、特に「あ゛,え゛,ぬ゛,ま゛」はヒンパンに見い出せる。少なくとも鼻濁音の「か゜」よりは使用頻度は高かろう。せっかく、「温泉マーク」が収録されて、「うる星やつら」の登場人物の名前を表記できるようになったのだから、これらの文字も入れたい。
 「あ゛」は「あ」と「が」の中間の音で「あ゛〜〜」などと使われる。
 「え゛」は「え」と「げ」の中間の音で「え゛っ!」などと使われる。
 「ぬ゛」は「ぬ」と「づ」の中間の音で「ぬ゛ぬ゛ぬ゛…」などと使われる。
 「ま゛」は「ま」と「ば」の中間の音。ロボットの応答音声に良く使用される。
これらの「カタカナ」も必要か。
○,○゛,○゜,o
「伏せ字」用文字セット(爆笑)。たとえば、「検閲さくじょ」を伏せ字にした場合、「○○○○○゛o」とする場合がある。また、「○」も伏せ字専用の区点が必要かもしれない。上記のように、小さい文字用の伏せ字文字と、濁点、半濁点付きの伏せ字文字も必要になる。



(981117追記)麻雀パイ記号文字34個。ベンゼン環記号を「学術記号」として文字セットに入れるなら、こちらの方がよほど文字セットに入れる資格がある。麻雀雑誌などでは、「をツモって、を通し…」などと「地」の文章の中で使われる。また、写植文字盤への実装例がある(だから、上記のような文章が組まれている)。また特に組版機能を使わずとも、並べるだけで配牌の記述なども可能である。(おまけとしては、「うる星やつら」のラムちゃんのお母さんは、「」などと「しゃべって」いる。マンガのセリフを電子化することを考えると、コード化したい。)私は麻雀ができないのでこれ以上詳しいことは書けないが、この他に「春夏秋冬」とかほとんど使わない牌があったように思うが…。
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(990116追記)「ビブラート付き長音記号」の横書き字形と縦書き字形。マンガのフキ出しには、ヒンパンに見いだせる。「〜」や「ー」と混在することもあるので、これらの別字形ではなく、別の独立した記号である。
用例:
追補:UCS 3030(WAVY DASH)かと思ったが、これはであり、「山」と「谷」の数が1.5倍なので、別字だと判断した。この字はCJK SYMBOLS AND PUNCTUATION, HIRAGANAの表にある。
(990116追記)将棋の棋譜で、先手番、後手番を表す記号,が、収録予定になっている。非常に喜ばしい。これは私の俗字の字典で言及していた文字記号である。ところで、上にあげた文字だが、将棋専門誌『近代将棋』は後手番の記号として、上下逆のものを使っている。上下逆のものまで、包摂で対応できるかどうか疑問。思いきって収録しても良いかもしれない。なお、将棋のプロ機関である日本将棋連盟では,を使っている。
用例:7六歩3四歩2六歩4四歩2五歩3三角






(990124追記)6点式点字用文字記号63個。新規格に収録する意味はあるはず。
用例:6点式かな点字体系で「てんじ」はと書きます。
追補:ISO/IEC 10646のamendment 16(1998-11-01)にBraille patterns(ブライユ パターン=点字)として8点式点字が収録されています。2800から28FFの256文字。日本の規格としては6点式が必須です。

1998年11月16日 「ベンゼン環は「学術記号」ではない」として公開
1998年11月16日 修正:JIS内字「泗」を提案してしまっていた。反省。削除しました。
1998年11月18日 追加:「ベンゼン環」よりはよほど使用実績のある「麻雀牌」を追加。
1999年1月16日 追加:「非漢字に関する補足的事項」に対応して、「それでも、ベンゼン環は「学術記号」ではない」として改訂。「ビブラート付き長音記号」、「将棋駒」を追加。
1999年1月24日 追加:「6点式点字用文字記号」を追加
1999年2月7日 追加:「JIS X0221-1995」からの情報を追補
1999年6月12日 追加:Braille patternsにUnicdeコンソーシアムの資料へのリンクを張った。JCS公開審議(99年3月26日)での情報を追加。


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