自由研究・1

「しんにょうの点」註


1999/11/01-2001/04/02


 ●晋には春秋時代の十二列国の1つである晋(-376BC)、東晋・西晋(265-420)、後晋(936-946)がある[D-8]。引用文中の「晋」がいずれを指すのかは不明(不勉強)。ただし、年代的には東晋・西晋の頃を指すと考えるのが最も妥当と思う。

 ●随は広辞苑では581-619となっていたが、詳細は不明(不勉強)。

 ●竹村真一:著「明朝体の歴史」は、ワープロの誤変換と思われる誤字がそのまま放置されている部分が散見され、また言葉遣いが洗練(ないしは推敲)を欠く(例えば「しかし印刷に関しては具体的なことは古代には不明なので、触れている余裕はないが今後深く親密感を持つように痛感する。」p.24)など、きちんとした編集者が担当していなかったのではないかと推察される。本自由研究には非常に有益な資料であったが、誤植が多ければ書籍全体の信頼性が犠牲になるだけに残念である。従って、以下の引用でも誤植による誤ったデータの可能性があることをご承知置きいただきたい。

 ●正確には「活字」ではない。活字とは鋳造(あるいは彫刻、鍛造など)による印刷用の文字型を言い、ここで使用したものはデジタルフォントである。ただし、これらのデジタルフォントは活字の文字デザインをデジタル化したものであり、活字の例として表示しても問題ないと考える。活字やデジタルフォントを総称して「ムーバブル・タイプ」と呼ぶらしい[A-5](p74)。

 ●その他にも、小池和夫[A-4]によれば、以下のような特徴がある。

  1. 【右ハネ】縦画から連続して右へはねる場合、右ハネの始まりが左へ飛び出した形にデザインされる。「衣」「食」など。
  2. 【草冠】現在3画のくさかんむりは旧字体では4画であったが、一般に使用される明朝体では「日本に明朝活字が到来して以来」3画でデザインされていた。これは狭い空間にウロコ付の横画が2つ並ぶのを嫌った処理だと思われる。
  3. 【ぐうのあし】「禹」や「禺」の下の部分である「ぐうのあし」の縦画とカギは交叉するのが正しい形だが、明朝体では接するようにデザインする。
  4. 【ナベブタの点】楷書では常に「点」であるが、明朝体では「点」「短い縦画」「短い横画」でデザインされる。ただし、ここで言う「なべぶた」とは「点/一」を意味し、必ずしも部首の「なべぶた」を意味しない。

 しかし、これらを明朝体の特徴としてしまうと、漢和字典の見出し字に使用されている字や現代中国で使用されている字は明朝体でなくなってしまう。中国で使用されている明朝体は、筆記体に近づけてデザインされており、右ハネは縦画から直接出るようになっている。また、諸橋漢和字典を始め字典類では4画の草冠の字や交叉するぐうのあしの字を明朝体の様式で作字して使用しており、それらを明朝体と呼びにくくなる。また、「ナベブタ」には様々な字源のものがあり、明朝体でデザインが異なるのは異なる字源を反映していると考えられる。さらに、ゴチック体でも1.から4.と同様のデザイン的処理がなされていることが普通 である。以上の理由から上記の特徴は明朝体の特徴として採用しなかった。
 明朝体のデザイン的特徴は他にもあり、「令」「外」「家」などの文字のデザインが独特である。

楷書 明朝体 説明
楷書では普通{人/点/マ}であるが、楷書体では点ではなく一で、下も「マ」ではなくカギと縦画である。

子供の時に「外」カタカナの「タ」に「ト」と教わった。「ト」の字源は「卜(うらない)」であり、そこから考えても「ト」は妥当であると思うが、明朝体ではハライでデザインし、おまけに縦画を貫くのが普通 である。

「家」の最終画を上の横画から起始させるのが特徴である。「塚」でも同様。
上の表の例には「DynaFont プレミアム54書体パック for PS-Printers」(ダイナラブ・ジャパン株式会社社)の各書体を使用した。楷書は実は教科書体である。教科書体:DFP教科書体W4、明朝体:DFP平成明朝体W7

 筆記体との相違という点では、楷書が右ハライの重なりを嫌う(これは隷書の影響か)に対し、明朝体は(特に最近デザインされたものは)嫌わない場合がある。ゴチック体では右ハライの重なりを全く考慮しない書体もあり、明朝体はその点では筆記体寄りである。

 ●他の漢字圏の地域で明朝体がどう呼ばれているかについては良く知らない。中国では「宋朝体」と呼ぶそうであるが(矢作「活字のはなし」[B-5], p59)、これが全国を通じて一般的な呼称であるのか不明である。また、韓国ではどう呼ぶのか知らない。しかし、「明朝体」という名称が「日本語」であれば、明朝体の歴史が日本渡来以降を中心としたものになるのはなおさらであろう。

 ●明(みん)は1368年から1662年。ちなみに、その前が元(1279〜1368)、宋(南宋:1127〜1279、北宋:960〜1127)。明に続く王朝が清(しん)で、1662年から1912年。康煕字典を編纂した康煕帝は清朝の初代皇帝である。

 ●「〈辞書〉の発明」[B-11]によれば、許慎、字(あざな)は叔重。生没年には諸説あり、後漢明帝の永平年間(58-75)ごろに生まれ、桓帝の建和年間(147-149)ごろに没したとの推測もあるが正確なことはなお不明。高名な学者であった。
 同書のp70、pp214-215には説文の図版があるが見出し字は小篆で、本文は楷書ないし明朝体である。

 ●この規範性を例えて言えば、十の読みが旧かな遣いでは「じふ」であることから現行の「じゅう」や音便の「じゅっ」を俗あるいは誤として認めず、「じう」「じっ」のみを認める態度と言えようか。「十手」の読みは、江戸時代のものでもあり「じって」が正しいとしても、「十進法」が「じっしんほう」では実態に即せず、通 用もしない。もっとも、「赤ちゃん」が広辞苑に採用されたのは最近のことであるから、日本語辞書も編者の裁量 でかなり規範性が強くなる。

 ●このホームページでは表示できない文字を構成要素の組み合わせで表示する。「{土蓋}」は「土へんに蓋」の意味。「{土蓋}嚢鈔」は文安3年(1446年)、僧行誉の撰で、和漢の故事や字についての解説書。引用文は「解説字体辞典」[B-12]の図版(p274)から文字に起こした。