戦国時代,黒川金山閉山の時,秘密封じのため谷底に突き落とされ遊女 55 人が殺害されたという 花魁淵.そこにある看板では,その場所を土地の人は "銚子滝" と言い,花魁淵はこれより上流の藤尾橋近くにある "ゴリュウ滝" ではないかとされる.
上の橋がその藤尾橋である.花魁淵と言われる場所の約 200 m ほど上流にある.この橋は東京都水道局により平成 21 年 3 月 31 日まで管理され,"立ち入り禁止" の立ち札がある.
それにしても,何故女郎達は殺されなければならなかったのか,疑問が残る.金が掘り尽くされているならば,殺してまで口封じをする必要はない.
"甲州金", 峰 隆一郎, 宮里 洸 著,集英社文庫 2000 でもこの黒川金山が一つのモチーフとなっている.
上述の書によれば,女郎達の住まいは "鶏冠山 (ときさかやま)" にあったらしい.また黒川千件と言われる金掘りの工夫達もここに暮らしたらしい.さらには,寺屋敷も多くあったらしい.が,吉宗の時代には,既に廃墟となっていたようだ.以下に,その周辺地図を示す.確かに鶏冠山は地図に載ってはいる.
女郎達は殺され,男達は何故見逃されたのか ? 武田家が金山閉山を決意したときは,まだ金は出ていたに違いない.そして,徳川の時代となり,大久保長安が金掘奉行を担当した.
大久保永安は元々,信玄の能楽師だったらしい.彼と彼の部下がそのまま,金掘りを担当したとすれば,男達は何の咎めも受けていなかった.金山を閉山するとはいえ,徳川家は,武田家と縁の深い彼らを何故信用したのだろうか ?
"花魁淵" が二つある.何故,殺した場所までも偽らなければならなかったのか ? 多くの疑問が残る.
後に, 姫が淵 にて,武田の姫達は身を投げることとなる.これも因果応報か.
わたしが訪れたとき,どこからともなく一羽の烏が降りてきて,わたしを見張るように枝に止まった.4 月下旬のこの日,峠の道を多くの車が通りすぎていったが,徒歩で歩む者はわたし一人.数百年前に,隠したものをわたしが見つけてしまわぬように見張りに来たのか ?
上は,藤尾橋の上から,下の川をのぞいた写真である.かなり高い.高所恐怖症のわたしには,目のくらむ高さである.
実は,花魁淵とされる銚子滝には,何度となく足を運んだがいくつかの疑問があった.
その点,この藤尾橋の辺りならば,舞台という広さ,高さ,そして周りの空間でも納得のいくものである.