この短い論考では、「クラス進化論」の概要を述べる。
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クラス進化論は、進化についての理論である。しかも、従来の説とはまったく異なる立場から出発し、まったく異なる結論を出す。
従来の説では、「進化は、突然変異と自然淘汰によって起こる」とされる。この考え方は、基本的には、ダーウィンの考え方である。しかし、この考え方を取ると、いろいろと問題点が生じる。一方、私の説では、これらの問題点は生じない。
両者の原理的な違いを示そう。従来の説と私の説とは、「連続的/離散的」という違いがある。これは、「実数的/自然数的」とも言えるし、「古典力学的/量子力学的」とも言える。
直感的に言えば、こうだ。従来の説では、「進化はなめらかに連続的に起こる。中間的な種は必ず存在する」となる。しかし私の説では、「進化は段階的に起こる。中間的な種は原則として存在しない」となる。数で言えば、「1と3の中間であるものは存在するが、1と2の中間であるものは原理的に存在しない」となる。
では、なぜ、私の考え方では、そういう結論になるか? それは、「進化は遺伝子によって起こる」と考えるからだ。
なるほど、従来の考え方でも、「進化は遺伝子によって起こる」と考える。しかし、その考え方を徹底すると、ドーキンスの「利己的な遺伝子」説のように、矛盾を起こして、破綻してしまう。「進化は遺伝子によって起こる」と考え、かつ、矛盾のない説を構築すると、自然に、クラス進化論の考え方に到達するのである。
以下では、そのことを説明しよう。(ただし、あくまで、要点だけである。元の論考は非常に長いので、要点だけを簡単にまとめている。以下は、数学で言えば、証明なしの定理のようなものだ。)
従来の進化論にはどんな問題があるかを、列挙しよう。
従来の説では、進化の理由は、「突然変異」と「自然淘汰」である。つまり、「突然変異が偶然的にたくさん起こる。そのうちの一部だけが、自然淘汰のなかで生き残る。かくて、進化が起こる」というわけだ。
この場合、「自然淘汰」で生き残るのは、あくまで、個体である。「優勝劣敗」という原理で区別されるときの「優者」と「劣者」は、個体としての「優者」と「劣者」である。
「個体」レベルで自然淘汰が起こるのは、それぞれの生物が、自分のための行動(つまり「利己的行動」)を取って競争するからである。ところが、生物には、「利他的な行動」というものが見られる。ダーウィンの説は、このことを説明できない。というか、矛盾する。だから、「利己的な個体同士の間で生存競争が生じて、自然淘汰が起こる」という考え方(「個体淘汰」という概念)は、事実に反しているわけだ。
そこで、「個体レベルではなく、遺伝子レベルで、自然淘汰が起こる」と考えたのが、ドーキンスだ。その考え方を、「利己的な遺伝子」説と呼ぶ。この説を取ると、「利他的行動」というものをうまく説明できるようになった。
というわけで、この説は、かなり支持を得た。とはいえ、根元的には、人々の直感に反した。というのは、この説は、「遺伝子が個体に優先する」ということから、「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」というような極端な結論を出すからである。
さらに、論理的にも、「利己的な遺伝子」説は矛盾をかかえている。なぜか? この説は、「遺伝子は自己複製をするのが目的だ」ということを原理としている。そこで、もしこの説が正しいとすれば、生物にとっては、完全なる自己複製をもたらす無性生殖が理想になるからだ。しかるに、無性生殖というのは、有性生殖に比べれば、著しく劣った方法だ。著しく劣った方法を、「これぞ理想の方法」と考えるのは、おかしい。
また、別の問題もある。この説に従えば、有性生殖をする生物にとっては、近親婚が理想であるはずだ。近親婚をすればするほど、同じ血統を増やすことができて、遺伝子は自己複製を多く成し遂げることができるからだ。ところが、現実には、生物は近親婚をなるべく避けようとする。近親婚を避けるためのシステムができている生物もある。
さらに、純粋に論理的に考えても、「利己的な遺伝子」説はさまざまな論理矛盾を起こしている。たとえば、たくさんある利己的な遺伝子が別々の行動を促すので、一つの個体の行動に相反が生じる。これでは、とうてい整合的な説ではない。要するに、学説としては、完全に破綻してしまっている。
「進化は遺伝子によって起こる」と考えると、従来の説は、ドーキンス説のような説になるが、そうすると、矛盾を起こす説となる。一方、「進化は遺伝子によって起こる」と考えなくても、従来の説はやはり、矛盾を起こす。それは、化石的な事実との矛盾だ。
まず、「中間的な種の化石が見つからない」という事実がある。たとえば、人類の歴史では、猿人・原人・旧人・新人などの化石が見つかっているが、しかし、旧人と新人の中間種の化石が見つかっていないのだ。これは、「たまたま見つかっていないだけだ」と片付けるわけには行かない。なぜか? 新人の化石も、旧人の化石も、たくさん見つかっているのに、中間種の化石だけが見つかっていないからだ。ここでは、「たまたま見つからなかった」というような奇跡的な偶然が起こったと考えるよりは、「旧人と新人の中間種などは、もともと存在しなかった」と考える方が合理的である。
同様のことは、あらゆる生物種に見られる。従来の説によれば、進化は突然変異の蓄積によって起こるのだから、見つかった化石は、必ず、連続的な進化の過程を示しているはずだ。しかるに、どの種を見ても、進化の過程は段階的なのである。つまり、「一定の状態がしばらく続き、その後、急激に進化が起こる」というふうになる。人間だけでなく、あらゆる種において、そういうことが化石的に判明している。(だからこそ、一定のものをまとめた「種」という概念がある。)
従来の説は、「進化はなめらかに連続的に起こる」ということを結論する。とすれば、従来の説は、化石的事実と対比したとき、もはや破綻していることになる。
化石的事実以外にも、事実に反することが、従来の説にはたくさんある。
第1に、遺伝子の多様性だ。従来の説によれば、「優勝劣敗」が働く。優者の遺伝子だけが残り、劣者の遺伝子は絶滅する。とすれば、種のなかの遺伝子は均一化しているはずだ。ところが現実には、種のなかの遺伝子には多様性がある。その種が登場してから、何千万年もの時間がたっても、遺伝子には多様性がある。つまり、「優勝劣敗」は、(完全には)成立しない。
第2に、種の多様性だ。海であれ、川であれ、草原であれ、森林であれ、とにかく、同一環境に、多様な種が存在している。従来の説によれば、「優勝劣敗」によって、一つの種だけが生き残って、他の種は滅びてしまっていいはずだ。なのに、現実には、どの環境においても、多様な種が共存している。つまり、異なる種の間には、「優勝劣敗」はまったく成立していない。
第3に、旧種と新種がずっと共存することがある。「下等な生物から、高等な生物へ」という進化の過程では、新種が生じても、旧種が淘汰されずに残っている、という例が、非常に多くある。だからこそ、下等な単細胞動物や、魚類や、両生類や、爬虫類が、今日も十分に繁栄しているのである。これらの生物は、「新種が登場したときに、旧種は淘汰された」というふうにはならなかったのだ。なお、このことを説明しようとして、「旧種と新種とは、別の環境にいたからだ」という説明がなされることもあるが、地球上の環境は有限なのだから、「何万種類という生物に応じて、何万種類という環境がある」と考えるのは、無理がある。たとえば、魚類だけでも、多様な魚類が存在するが、それらの魚類が、まったく別々の環境に生息しているわけではない。ここでは明らかに、自然淘汰が働いていなかったのだ。
第4に、そもそも、「進化は原則として起こらない」という事実がある。下等な単細胞動物や、魚類や、両生類や、爬虫類は、何億年前か何千万年前かの大昔のころから、ほとんど進化していない。一般に、「旧種から新種へという進化はあるが、旧種はそのままほとんど進化しない」という事実がある。たとえば、「魚類から両生類へ」という進化があったときも、魚類は進化しなかった。魚類は、大昔から今日まで、ほとんど進化しなかったのだ。このことは、「突然変異と自然淘汰」という従来の説に矛盾する。従来の説によれば、突然変異は一定のペースで起こるはずだ。とすれば、旧種と新種とに分かれたあとも、旧種は一定のペースで進化していくはずだ。両者の違いは、環境だけであるはずなのだ。たとえば、「魚類から両生類へ」という進化があったあと、両生類はさらに爬虫類や哺乳類へと進化していったが、その間、多大な突然変異があったことになる。ならば、魚類にも、それと同じように多大な突然変異があって、魚類は海に適応するように、大幅に進化していったはずなのだ。たとえば、魚類は鯨になっていいはずなのだ。なのに、魚類は、ほとんど進化しなかった。魚類だけではない。一般に、「旧種から新種へという進化はあるが、旧種はそのままほとんど進化しない」という事実がある。つまり、従来の説は、「進化が起こる」という事実を説明できても、「進化が起こらない」という事実を説明できないのだ。
( ※ このことは、「段階的な進化を説明できない」というのと、ほぼ同じ事情である。段階的な進化では、進化と進化に挟まれた途中の時期には、進化が起こらない。この「進化が起こらない」ということを、従来の説は、うまく説明できない。)
従来の説は、明らかに間違っている。では、問題の根源はどこにあるのだろうか?
そのことを理解するために、従来の説について、根元的に考えることとしよう。以下で述べるが、従来の説の原理は、二つの図式によって理解できる。
従来の説では、「突然変異と自然淘汰によって、進化が起こる」と考える。このことは、遺伝子レベルでは、次の図式で示せる。(ただし、旧種の遺伝子を「A」と書き、新種の遺伝子を「B」と書く。)
AAAA
↓
BAAA
↓
BBAA
↓
BBBA
↓
BBBB
この図式では、「A → B」という「遺伝子の交替」が次々と起こり、そのたびに、遺伝子レベルで進化が起こる。結局、最初の遺伝子列は「AAAA」であったが、最後の遺伝子列は「BBBB」となる。
ここでは、「遺伝子の交替」をもたらすのは、突然変異と自然淘汰である。この二つは、個体レベルと種のレベルで、進化をもたらす。つまり、こうだ。まずは突然変異によって、「A → B」という「遺伝子の交替」が、個体レベルで起こる。次に、自然淘汰によって、Aという遺伝子が減ってBという遺伝子が増えるので、種のレベルで「遺伝子の交替」が起こる。
( ※ 突然変異と自然淘汰は、「遺伝子の交替」という点では共通し、かつ、「個体レベル/種のレベル」という点では対照的だ。この本質を理解しよう。)
種のレベルの「遺伝子の交替」は、自然淘汰によって起こる。では、そういう「遺伝子の交替」が次々と休まずに進んでいくのは、なぜなのか?
従来の説は、「環境が変化したからだ」と考える。環境が変化したから、環境における最適値が変化して、その変化した方向に種が進化していくのだ、と。たとえば、キツネのような哺乳類で考えよう。この哺乳類の体長は、現状の平均値が50センチであり、環境における最適値が60センチであるとする。すると、体長が50センチから60センチへと大型化する方向に種全体が進化していく、というわけだ。そして、同様のことが繰り返されて、環境における最適値が「60センチ → 65センチ → 70センチ」というふうに変化していったから、種全体の平均的な体長も大型化する方向で進化していったのだ、と考えるわけだ。
このことは、次のように図示できる。(なお、 ● は、環境における最適値である。「求心性選択の中心」と言い換えてもよい。)
新種 旧種
(1) ●
(2) ●
(3) ●
(4) ●
ここでは、時間的に (1) から (4) へと変化するにつれて、環境における最適値がだんだん移動している。そして、その最適値に引っ張られる形で、進化が起こる、というわけだ。
なお、このときの進化を遺伝子レベルで示すと、「AAAA」→「BBBB」という、すぐ前の図式になるわけだ。だから、二つの図式は、「遺伝子レベル/環境レベル」という違いはあっても、実質的には同じ変化を意味しているわけだ。
結局、「環境の連続的な変化に応じて、遺伝子にも連続的な変化が起こる」というふうになる。それが、従来の説の考え方だ。
これはこれで、一つの説としてまとまっているし、論理としては整合的である。しかし、たとえ整合的だとしても、事実には合致しないのだ。(事実としての進化は、連続的でなく、段階的だから。)
また、先に述べたように、「利他的行動を説明できない」という問題もある。この問題を、「個体レベルで進化が起こる」という考えても矛盾するし、「利己的な遺伝子のせいで進化が起こる」と考えても矛盾する。
また、「有利な突然変異による進化は、これまで一度も観察されていない」とか、「『工業暗化』と言われる例は、実は進化の例ではなかった」とか、さまざまな難点がある。
結局、従来の説は、とうてい信頼に足る説ではないし、むしろ、事実に反する間違った説であるとさえ言える。
こういうさまざまな難点の根源は、従来の考え方の基本自体にあるのだ。
従来の説には、そういう難点があるとしても、クラス進化論は、それらの難点をすべて解決することができる。では、いよいよ、クラス進化論の説明をしよう。
クラス進化論では、遺伝子レベルで物事を考える。まずは最初に、「遺伝子と個体」という関係に着目する。この関係を、次の表で示す。(この表を「行列表」と呼ぶ。)
\ 遺伝子 | A | B | C | D | …… |
個体1 | |||||
個体2 | |||||
個体3 | |||||
個体4 | |||||
: |
たとえば、ミツバチを例に取ろう。個体数は5億であり、DNA上の遺伝子の数は2万であるとしよう。すると、個体と遺伝子の関係を考えたとき、5億行と2万列の表が書ける。それが、上の表だ。
ここで、淘汰を考えると、「一つの個体に複数の遺伝子がある」ことと、「一つの遺伝子は複数の個体に含まれる」ことが、わかる。ともあれ、個体と遺伝子とは、この表の示すように、複雑に関係しているわけだ。こういう関係を取る淘汰を、「マトリックス淘汰」と呼ぶ。
ダーウィンの説は、「個体レベルで淘汰が起こる」と考える「個体淘汰」説だった。ドーキンスの説は、「遺伝子レベルで淘汰が起こる」と考える「遺伝子淘汰」説だった。一方、クラス進化論の説は、「個体と遺伝子とが行列表のように関係しながら淘汰が起こる」と考える「マトリックス淘汰」説である。
( ※ 現代の生物学では、このことは「ほとんど当たり前だ」と思えるだろう。)
「マトリックス淘汰」という概念を基本としよう。
ある特定の遺伝子をもつ個体たちの集合のことを、「クラス」と呼ぶことにする。たとえば、遺伝子Aをもつクラスがあり、遺伝子Bをもつクラスがある。(上の表を参照。たとえば、遺伝子Bをもつ個体をすべて集めるわけだ。)
自然淘汰ないし優勝劣敗は、個体レベルで考えるのではなくて、クラスのレベルで考える。「遺伝子Aをもつ個体は、遺伝子Bをもつ個体よりも、有利だ」と考えるのではなくて、「遺伝子Aのクラスは、遺伝子Bのクラスよりも、有利だ」と考える。個体レベルで考えるときには、個々の出来事における「有利・不利」が問題となるが、クラスレベルで考えるときは、個々の出来事は無視して、統計的な数字だけが意味をもつ。
( ※ このことは、初期の進化論とは異なるが、現代の進化論ではほぼ常識的である。)
従来の説では、「優者が残り、劣者が消える」と考える。しかしクラス進化論では、「優者となるクラスが拡大して、劣者となるクラスが縮小する」と考える。(つまり、クラスの個体数が増減する。)このとき、「劣者となるクラスの個体は、減るだけであって、必ずしも消えないわけだ。
ここでは、「個体」のレベルではなく、「クラス」のレベルで考えている、ということに注意しよう。このとき、「優劣」というのは、「個体間の優劣」でなく「遺伝子間の優劣」を意味している。
さて。以上のことは、従来の説と比べると、「着目点が異なるだけだ」と思えるかもしれない。しかし、そうではない。それについては、「異なる種の個体間の優劣」を考えるといい。従来の説によれば、(個体間で優劣があるわけだから、)異なる種の間でも「優勝劣敗」が起こるはずで、同じ環境に生息する種はほぼ1種類になるはずだ。しかし、私の説によれば、(遺伝子間で優劣があるわけだから、)異なる種の間では、遺伝子間の比較が無意味であり、遺伝子間の「優勝劣敗」は起こらないはずで、同じ環境に異なる種が多様に存在できるはずだ。
環境による影響力というのは、原則として、同じ種において遺伝子レベルで働く力であり、種を区別せずに個体レベルで働く力ではない。この点に留意しよう。
劣者となるクラスAの個体と、劣者となるクラスBの個体とが、交配して、優者となる個体を誕生させる、ということがある。つまり、劣者である親同士から、優者である子が誕生することがある。
モデル的に言おう。「羽だけを備えた個体は不利である。翼だけを備えた個体も不利である。しかし、羽根と翼をともに備えた個体は、空を飛ぶことができるので、有利である」という話が考えられる。(実際にはそうではないが、ここではあくまで、たとえ話として示す。)
こういうふうに、異なるクラス同士の個体の交配によって、優者となる個体を誕生させることを、「クラス交差」と呼ぶ。
以上が、クラス進化論の基礎である。この基礎に立つと、進化は、次のような原理で説明される。
従来の説では、「環境における最適の点は、連続的に変化する」と考えた。そのことは、先に、 ● が右から左へ移動していく図式で示した。
私の説では、そうではない。一つの点が連続的に移動するのではなく、かわりに、二つの点が大きくなったり小さくなったりするのだ。次の図式のように。
新種 旧種
[ 前期 ] ・ ●
[ 後期 ] ● ・
説明しよう。まず、図式を(1行ごとに)横に見る。すると、こうわかる。
前期には、「新種の中心は小さく、旧種の中心は大きい」となる。
後期には、「新種の中心は大きく、旧種の中心は小さい」となる。
次に、図式を縦に見よう。すると、こうわかる。
旧種においては ● が ・ になる。
新種においては ・ が ● になる。
旧種と新種のそれぞれでは、「中心が小さくなる」または「中心が大きくなる」という連続的な変化があっただけである。
しかるに、このとき、種全体を見ると、「種全体の中心は、旧種の中心から、新種の中心へと、一挙に移転した」と見えるのである。たとえて言えば、東京でミッキーが消えて、アメリカでミッキーが登場したとき、「ミッキーが東京からアメリカへ、一挙に移転した」と見えるのである。
とにかく、この図式では、「一つの中心が移動した」と見えるとしても、本当は「二つの中心が大きさを変えた」だけなのだ。このことが、本質的なことだ。
進化の事実をこのように認識するべきだろう。そうすれば、問題はない。一方、「種全体の中心である ● が、なめらかに移動していった」と考えると、間違うことになる。それが、従来の説の誤りである。
( ※ なお、「種全体の中心」というのは、実体のあるものではなくて、単に抽象的に用語レベルで定義されたものにすぎない。実態として存在するのは、「旧種の中心」と「新種の中心」だけである。)
( ※ 旧種および新種における「中心」というのは、「求心性選択の中心」である。それは、自然淘汰の力の中心であり、環境によって決まるものである。中心が大きくなるというのは、自然淘汰によって旧種または新種の個体数が増えるということである。)
環境的でなく、遺伝子的には、どう説明されるか?
従来の説では、「A」→「B」という「遺伝子の交替」が、次々と連続的に生じていった。(先に図式で示したとおり。)
私の説では、次の図式で示せる。
[ 新種 ] [ 旧種 ]
ABAA
↓ ↑
BAAA ← AABA ← AAAA →
↑ ↓
AAAB
説明しよう。(AとBには添え字を付けて考えるとわかりやすい。たとえば、 AAAA のかわりに A1A2A3A4 )
ここでは、旧種の側と新種の側とで、別々のことが起こっている。(換言すれば、種全体で同一のことが起こるのではない。この点は、従来の説とはまったく異なる。)
旧種の側(右半分)では、特に何も起こらない。ときどき、突然変異の遺伝子が発生することもあるが、それらは、旧種には適さない遺伝子なので、「劣者」として排除されるだけだ。
新種の側(左半分)では、次のことが起こる。まず、「BAAA」という遺伝子列がある。ここが新種の中心となる。これを「新種の核」と呼ぼう。この「新種の核」をめざして、「ABAA」、「AABA」、「AAAB」などの遺伝子列が、引き寄せられてくる。(図の左側を参照。)それらの遺伝子は、「新種の核」との間で、クラス交差をする。つまり、交配によって、それらの遺伝子を備えた個体を誕生させる。かくて、すべてのBを含む「BBBB」という遺伝子列を備えた個体が、誕生する。──このような過程を、「遺伝子の集中」と呼ぼう。
私のこの考え方は、従来の説とは、次の点で異なる。
第1に、進化をもたらすものは、従来の説では、「遺伝子の交替」であったが、私の説では、「遺伝子の集中」である。(基本概念が異なる。)
第2に、「遺伝子の交替」は、「突然変異」によって起こるが、「遺伝子の集中」は、「クラス交差」によって起こる。
第3に、「遺伝子の交替」では、突然変異が次々と「直列」的に生じたが、「遺伝子の集中」では、たくさん生じた突然変異の遺伝子が「並列」的にクラス交差をする。
この三点からすると、私の説では、新種を発生させる進化は、多様な遺伝子がクラス交差をするだけで済むから、きわめて急速に進むことになる。
こう考えると、進化とは何かということへの認識も、従来の説とは異なったものになる。
進化とは、「旧種 → 新種」というふうに、一つの種が質的に変化することではない。むしろ、「旧種 → 旧種 + 新種」というふうに、種の数が一つから二つへ増えることだ。ここでは、進化とは、旧種についての「変化」という出来事ではなく、新種についての「誕生」という出来事なのだ。
進化があっても、旧種は特に変化しないのが普通だ。たとえば、「猿から人間へ」という進化があっても、猿はそのまま猿である。なぜか? 「猿が人間になった」のではなくて、「猿のなかに人間が出現した」だけだからだ。
旧種と新種では、それぞれ、別々の出来事が起こっている。旧種と新種とには、それぞれ、別々の中心があるのだ。
旧種の中心と、新種の中心とは、別のものである。
とすれば、それぞれの中心のまわりに発生する突然変異の範囲も、別のものである。このことは、次の図で示せる。
◯
◯
下の ◯ は、旧種の突然変異の範囲であり、上の丸は、新種の突然変異の範囲である。旧種の ◯ よりも、新種の ◯ の方が、少し上に位置する。(つまり、下等なものから、高等なものになる。)
ここでは、注意すべきことがある。新種の中心は、旧種の ◯ のなかに誕生する。そして、新種の ◯ は、旧種の ◯ とは、異なって、もう少し上に位置するのだ。つまり、旧種のなかに登場する新種の位置よりも、新種のなかに登場する新種(新々種)の方が、上に位置することができるのだ。
( ※ このことは、従来の説とは、異なる。従来の説では、旧種の ◯ と、新種の ◯ とは、同じ円となる。新々種は、その同じ ◯ のなかに登場することになる。)
「旧種のなかに新種が誕生する」という進化を、すでに示した。この進化を、「一期の進化」と呼ぶ。すると、長期的には、「一期の進化」がたくさん繰り返されたすえに、次の図のようになる。このような進化を、「多期の進化」と呼ぶ。
R P
◯ ◯
◯ ◯
◯ ◯
◯ ◯
◯ ◯
◯◯
◯
…… Q
◯
◯
◯
◯
◯
◯
( ※ 下から上へと進化が進んでいく。途中の点 Q では、「種の分化」が起こる、と示されている。なお、この図式を「Y字状の図」と呼ぶ。)
すでにクラス進化論の原理を示した。すると、どのような結論が得られるか?
クラス進化論によれば、進化は段階的に起こる。つまり、連続的に起こるのではない。
なぜか? それは、「一期の進化」と「多期の進化」とが、区別されるからだ。この区別は重要だ。
「一期の進化」は、進化において、一つの最小単位となる。これ以上さらに小さく分割することはできない。化学で言えば、原子のようなものだ。数学で言えば、自然数のようなものだ。
「多期の進化」は、「一期の進化」が複数集まってできたものである。非常に長い期間を見れば、「一期の進化」をいちいち考慮しなくていいかもしれないが、短い期間を見れば、「一期の進化」が二つか三つぐらいあって、それらによって進化の過程が構成されているとわかる。そして、その二つか三つのものが続く過程は、段階的なのである。だから、中間種などは、存在しない。
旧種の ◯ から新種の ◯ が出現するとき、その途中段階というものは、ある。しかし、途中段階とは、中間にある ◯ のことではない。そんな中間的な ◯ は、存在しないのだ。たとえて言えば、2と3の間の自然数は、存在しないのだ。
では、途中段階とは、何か? それは、新種を形成する「一期の進化」において、新種になりかかったもののことである。つまり、「遺伝子の集中」という過程が途中であるもののことだ。たとえば、新種が誕生するとき、新種には遺伝子が百個導入されたとしよう。その途中では、新種の遺伝子を百個のうち五十個か六十個だけもつ個体が、登場するだろう。そういう個体が、中間的な存在なのである。
ただし、この中間的な存在は、個体として存在しているだけであり、「種」を形成してはいない。だからこそ、中間的な「種」は存在しないのである。
( ※ なぜ、「種」を形成しないのか? 「遺伝子の集中」が非常に急速に進むせいで、個体数が非常に少ないからだ。だから、もちろん、化石として残ることはない。)
「進化は不可逆的である」ということは、化石的な事実からはわかっている。
しかるに、従来の説では、「進化は可逆的だ」という結論が出る。その理由は、「遺伝子の交替」が可逆的だ、ということによる。
たとえば、環境が変化したとき、突然変異によって、「AAAA」→「BBBB」という遺伝子の変化があったとしよう。ならば、環境が逆方向に変化したときに、突然変異によって、「BBBB」→「AAAA」という遺伝子の変化があっていいはずだ。
具体的に言おう。「猿が、森林から草原に進出して、人間になった」のであれば、「人間が、草原から森林に進出して、猿になる」というふうになっていいはずだ。
もちろん、現実には、そんなことはありえない。そこで、「進化は不可逆的である」ということを説明しようとして、こう説明する人もいる。「遺伝子は、複雑化するという方向性だけがある」と。しかしこれは、「木ではダメだから、木に竹を接ごう」という、行き当たりばったりの対処である。それよりは、むしろ、最初から不可逆性を取り込んだ理論を構築するべきだろう。
私の説では、どうなるか? 「進化は不可逆的である」ということは、自然に導き出される。このことは、次のように言い換えればいい。
「旧種のなかでは、クラス交差によって新種の核が発生するが、新種のなかでは、クラス交差によって旧種の核が発生することはない。」
ただし、このことを説明するには、手間がかかる。この短い論考では、十分には説明できない。とりあえず、本質的には、こう理解するといい。──新種のなかでは、旧種が誕生するかどうかは、旧種の遺伝子が突然変異によって出現するか否かによって決まるのではなくて、旧種の遺伝子が突然変異によって出現したあと、旧種の遺伝子がクラス交差をするかどうかによって決まるのだ。進化は、突然変異が起こるか否かによって決まるのではなく、クラス交差が起こるか否かによって決まるのだ。そして、旧種のなかにある新種の遺伝子は、クラス交差によって核を形成することが可能だが、新種のなかにある旧種の遺伝子は、クラス交差によって核を形成することが不可能だ。この違いが、進化に不可逆性をもたらす。
( ※ なお、注意しよう。この不可逆性は、「一期の進化」における不可逆性である。このことから、長期的にも、進化の不可逆性が成立するのである。)
「進化は不可逆的である」ということが成立する。その一方で、「進化は環境に適応する形で起こる」ということが成立する。この両者を組み合わせると、どうなるだろうか?
従来の説では、「進化は環境に適応する形で起こる」ということだけを原理としていた。だから、「環境に適応して猿が人間になったように、環境に適応して人間が猿になることもある」と片付けて、それでおしまいだった。ここでは、「進化は不可逆的である」という原理は、成立していない。
しかるに、私の説では、「進化は不可逆的である」という原理が、成立する。このことは、「環境に適応する形で進化は起こる」ということと、矛盾しているようにも感じられる。では、この二つをどう扱うべきか? それは、次の図で示せる。
R1 R2 P1
◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯
◯◯ ◯
R…… ◯ ◯ …… P
◯ ◯
◯ ◯
◯ ◯
◯ ◯
◯◯
◯
…… Q
◯
◯
◯
◯
◯
◯
この図は、先の「Y字状の図」を、二重に組み合わせたものだ。つまり、いったんQにおいて「種の分化」が起こり、そのあとで、Rにおいて「種の分化」が起こっている。
具体的な例に当てはめよう。左方向への進化を「陸上への適応」と見なし、右方向への進化を「水中への適応」と見なす。すると、R2 という種は、いったん陸上に適応する進化をしてから、ふたたび水中への適応をするようになった種である。また、P1 という種は、最初からずっと水中へ適応していた種である。そして、この両者を比較すると、「両者は異なった進化を遂げる」と結論できる。具体的に言えば、「鯨は、魚類とは異なった種となる」となる。
「そんなことは当たり前だ。進化の系統樹に従っただけだ」
と思う人もいるだろう。しかし、「進化の系統樹に従う」ということは、すぐ前の図を前提としたからこそ、結論できるのだ。
そもそも、従来の説は、「進化は環境に適応する形で起こる」という原理だけがある。だから、「鯨も魚も、水中に適応する方向に進化する」ことゆえに、「鯨は魚と同じになる」という結論が出てしまうのだ。
「鯨が魚になる」でもいいし、「魚が鯨になる」でもいいが、とにかく、「環境に適応する形で進化は起こる」ということを原理とすれば、「魚と鯨は同じになる」という結論が出てしまう。「エラ呼吸と肺呼吸のどちらか一方が残る」とか、「温血と冷血のどちらか一方が残る」とか、そういうふうに、「自然淘汰」が進んで、海に存在する生物は一種類だけになるはずだ。
しかし、私の説では、そうではない。「鯨は魚とは異なったものとなる」という結論が出る。そして、その理由は、すぐ前の図だ。ここでは、「分岐する点(QとR)が異なれば、異なった種に進化する」という結論が出る。出発点(QとR)が異なれば、到達点も異なるわけだ。
まとめて言おう。従来の説では、種の形質を決めるものは、環境だけであった。しかし、私の説では、種の形質を決めるものは、環境と遺伝子である。図を見よう。環境は、進化について、「右か/左か」という方向性で影響する。しかし、それとは別に、遺伝子には、「下から上へ」という方向性がある。進化を決めるものは、環境による方向性と、遺伝子による方向性の、双方なのだ。そして、「遺伝子による方向性」とは、「進化の不可逆性」のことなのだ。
従来の説は、「進化の不可逆性」を無視した。つまり、「遺伝子の方向性」を無視した。単に「環境が進化の方向を決める」とだけ考えた。私の説は、そうではない。
ここまで、いろいろと書き記してきた。しかし、あくまで、要点を記してきただけだ。
クラス進化論は、大きな理論体系である。いわば、数学や物理学のような、一つの学問分野である。緻密に構築していくものであって、ただの解釈論ではない。この点は、従来の説とは、大きく異なる。
ダーウィンに基づく説は、「突然変異と自然淘汰」という原理で、すべてを説明しようとした。ドーキンスの説は、「遺伝子は自己複製を目的とする」という原理で、すべてを説明しようとした。いずれも、一種の解釈論である。ごく簡単な原理を前提して、現実のすべてを、その原理で解釈しよう、というものだ。
クラス進化論は、異なる。一つの原理や仮定のかわりに、大きな体系を提出しているのだ。両者の違いを、図式で示せば、次のようになる。
[ 原理 ] [ 現実 ]
[ 従来の説 ] ◆ → ○▽☆Δ◎
[ 体系 ] [ 現実 ]
[ 私の説 ] ◆ ← ○▽☆Δ◎
従来の説は、簡単な原理によって、複雑な現実を解釈しようとした。クラス進化論は、方向は逆である。現実を説明するための、大きな体系を構築しようとしているのだ。
この体系は、最初は、「マトリックス淘汰」という小さなものだけを原理としていた。その後、「クラス交差」や「遺伝子の集中」や「二つの中心」などの、さまざまな概念を追加することで、体系全体を大きくしていった。
クラス進化論は、ただの仮説ではなくて、一つの体系である。いわば、量子力学のようなものだ。もちろん、完全に正しいと保証されているわけではない。だから、このあと、修正を受けたり、補足を追加されたり、いろいろと発展する余地がある。
今後、なすべきことは、「クラス進化論は正しい」と前提して、現実を解釈することではない。「現実は正しい」と前提して、クラス進化論をさらに構築することだ。この意味で、クラス進化論は、従来の進化論とは、まったく立場は異なる。
クラス進化論の説明は、すでに終えた。ついでに、付録として、二つの話題を取り上げておこう。世間の関心を引きつける話題である。それは、「ミトコンドリア・イブ」および「鳥類の進化」という話題である。
( ※ 「ミトコンドリア・イブ」の方は、演習問題となる。つまり、すでに述べたことを十分に理解していれば、以下のことを読まなくても、自分で考えれば、同じことを言えるはずだ。演習問題として、考えてみてほしい。)
「ミトコンドリア・イブ」という説がある。「人類の祖先をたどると、すべての人類はたった一人の母親にたどりつく」という主張を出す。それに基づいて、「すべて人類は、たった一人の母親から進化した」という主張を出す。
この二つの主張は、どちらも正しいのか? 「否」というのが、私の見解だ。前者は正しいが、後者は正しくない。そのことを以下で示そう。
まず、前者の主張を調べよう。
「人類の祖先をたどると、すべての人類はたった一人の母親にたどりつく」
という主張だが、これは別に問題はない。分子生物学的に、そう言える。すべての人類のミトコンドリアの遺伝子は、たった一人の母親にたどりつくだろう。これは別に、不思議でも何でもない。むしろ、「複数の祖先がいた」、つまり、「同一の遺伝子を生じる突然変異が、複数の個体において同時に起こった」と考える方が、よほど不自然である。
問題は、前者の主張から後者の主張が結論されるか、ということだ。つまり、「ミトコンドリアの遺伝子におけるイブが、あらゆる遺伝子におけるイブであるか」ということだ。これに対して、私は「否」と答える。
私の考えでは、「ミトコンドリア・イブ」のほかに、多数の「最初の祖先」(イブまたはアダム)が存在したはずだ。たとえば、新人のための遺伝子が、百個あるとすれば、百人の「最初の祖先」が存在したはずだ。ただし、それらの「最初の祖先」は、新人の遺伝子の百個すべてを備えているわけではなくて、新人の遺伝子を1個ずつもっているだけだ。そして、百人の「最初の祖先」が、クラス交差をして、新人の遺伝子を百個もつ個体を出現させたとき、最初の「新人」が誕生したことになる。
私の説と従来の説とでは、どこがどう異なるか?
私の説では、「最初のイブ」(百個の遺伝子をすべてもつ個体)がいきなり登場したのではない。「部分的なイブまたはアダム」(百分の1だけのイブまたはアダム)が百人いただけだ。その百人のうちの一人が、ミトコンドリア・イブである。ミトコンドリア・イブは、ミトコンドリアの遺伝子については、「最初の祖先」であった。しかし、他の99個の遺伝子については、別のイブまたはアダムが存在した。
一方、従来の説では、「遺伝子を百個もつ個体が、いきなり誕生した」ということになる。その最初の個体が、ミトコンドリア・イブだ。しかし、この考え方を取ると、論理的な矛盾を引き起こす。
この考え方の前提となるのは、「突然変異が次々と続くことで、進化が起こる」ということだ。つまり、
「AAAA」→「BAAA」→「BBAA」→ ……
というふうに突然変異が次々と続くことで、進化が起こる、というわけだ。なるほど、その通りであれば、「人類はたった一人のイブから進化した」と言えるだろう。
しかし、である。突然変異というものは、偶然的なものである。それは、長い時間のなかで、一定のペースで生じるものだ。たとえば、「1万年に1個」というようなペースで。とすれば、論理的に矛盾が起こるのだ。
第1に、「新人の遺伝子を百個もつ個体が、いきなり誕生した」とすれば、ごく稀な突然変異が、ごく短期間のうちに百回も生じたことになる。これは、「突然変異というものは偶然的なものである」という前提に反する。確率的に計算すれば、偶然が百回も重なるようなことが起こることはまずありえない、と言える。
第2に、「新人の遺伝子を百個もつ個体は、いきなり誕生したのではない」(つまり旧人から新人へなだらかに変化していった)とすれば、「イブ」という概念が、そもそも無意味である。なぜなら、「進化はなだらかに起こる」のであれば、旧人と新人との境界を引きようがないからだ。
結局、「イブ」という概念を出している時点で、この説は自己矛盾を起こしている。一方では、「突然変異は年ごとに一定のペースで発生する」ということを前提しながら、他方では、「突然変異があるとき急激に発生した(人類を誕生させた)」ということを前提しているからだ。つまり、一方では白を前提とし、一方では黒を前提としている。そのような説は、自己矛盾を起こしているのだ。
まとめとして、進化というものの本質を、ふたたび述べておこう。
「新しい種の誕生」という進化は、「一期の進化」である。一期の進化は、突然変異が蓄積することによって起こるのではなく、クラス交差によって起こるのだ。そして、「一期の進化」というものがときどき突発的に起こるからこそ、進化というものは長期的には段階的に進むのである。
( ※ ミトコンドリア・イブについて、付言しておこう。「新しい種の誕生」という進化は、クラス交差によって起こるから、突発的である。一方、その後の進化は、「新しい種の誕生」ではなくて、ただの「小進化」であるから、漸進的である。この期間については、分子生物学的な推定が成立する。だから、「ミトコンドリア・イブ」説において、「最初の人類が登場した時期は、これこれの時期」という推定は正しい。しかし、「最初のイブは一人だけいた」という推定は正しくない。……というわけで、冒頭で述べたように、二つの主張を区別する必要があるわけだ。)
「鳥はどのような進化によって誕生したか?」という問題がある。この問題は、クラス進化論とは、直接の関係はない。それでも、この問題に対して、私は従来からの説とはまったく異なる結論を出す。まずは、従来からある説を見よう。
・ 「鳥類の先祖は、始祖鳥である」
・ 「鳥類の先祖は、恐竜である」
この二つが、従来からある説だ。私は、前者に対しては完全に否定し、後者に対しては半分否定する。かわりに、次の説を唱える。
・ 「鳥類の先祖は、走鳥類である。走鳥類の先祖が、恐竜である」
これらについて、以下でざっと解説しよう。
(1) 始祖鳥
「鳥類の先祖は、始祖鳥である」という説が、従来からある。
始祖鳥は、「翼と羽根」という形質を備えている。だから、この二つの形質をもって鳥類の定義とすれば、始祖鳥は鳥だということになる。
しかし、骨格を調べると、始祖鳥の骨格は、現在の鳥の骨格とは異なるグループに属する。この事実から、「始祖鳥から鳥へと進化した」という説は、今日では否定されている。
( ※ 始祖鳥やプロトエイビスなどの鳥は、「古鳥類」と呼ばれる。現代の鳥は、「新鳥類」と呼ばれる。両者は、骨格などから、区別される。)
(2) 恐竜
「鳥類の先祖は、恐竜である」という説が、従来からある。
恐竜の一部の、マニラプトル類(特にオビラプトル類)には、鳥類と同じ骨格がある。また、羽毛もある。だから、「恐竜から鳥類へ」というふうに系列がつながる。
私も、この系列を否定しない。問題は、恐竜からいきなり鳥類になったのかどうか、ということだ。
たいていの学者は、「イエス」と答える。すなわち、マニラプトル類が、あるとき進化して、翼を備えるようになって、空を飛ぶようになったのだ、というわけだ。
しかし、この説には、難点がある。「恐竜 → 鳥類」という進化があったのだと仮定すれば、その中間種となる化石がまったく見つかっていない、ということだ。つまり、「翼を生やしたマニラプトル類」という化石がまったく見つかっていないのだ。
なるほど、クラス進化論では、「中間種は存在しない」という結論を出す。しかし、それはあくまで、「旧種と新種という二つの ◯ には、中間種は存在しない」ということである。近縁の ◯ と ◯ ならともかく、まったく離れた ◯ と ◯ の間に中間種が存在しないということではない。 ◯ と ◯ がまったく離れていれば、中間種は存在するはずだ。なのに、「マニラプトル類 → 鳥類」という進化があったとすれば、この二つの類は、形質の差があまりにも大きいのに、中間種の化石がない。それでは不自然である。
さらに、別の問題もある。古鳥類との順序関係だ。「マニラプトル類 → 鳥類」という進化があったとすれば、マニラプトル類の方が鳥類よりも古い時代にいたことになる。ところが、化石を見ると、「鳥類 → マニラプトル」という順になる。なぜなら、始祖鳥やプロトエイビスなどの古鳥類は、ジュラ紀の後半にいたのだが、マニラプトル類がいたのは、もっとずっとあとの、白亜紀の後半である。これでは、時間関係が逆になる。矛盾。
(3) 走鳥類
そこで私は、まったく別の説を出す。それは、「鳥類の祖先は、走鳥類である」という説である。(走鳥類には、ダチョウ・ヒクイドリ・キウイ・エミュー・モア・レアなどが含まれる。)
この話を聞くと、「走鳥類は鳥類ではないのか?」という疑問が出るだろう。そこで、注釈しておく。たしかに、従来の説では、走鳥類は鳥類の一部である。「走鳥類は、鳥類の一部が進化したものだ。つまり、鳥類の一部が、体格を大型化させ、翼を縮小したものだ」と説明する。ここでは、次の図式が成立する。
恐竜(マニラプトル類) → 鳥類 → 走鳥類
しかし、私の説では、そうではない。次の図式が成立する。
恐竜(マニラプトル類) → 走鳥類 → 鳥類
私の説では、走鳥類は、鳥類の一部ではない。走鳥類は、恐竜と鳥類の間に存在するものであり、どちらのグループにも属さないものだ。しいて言えば、(一般の)鳥類に近いから、用語としては、「鳥類」という言葉で呼んでもいい。しかし、走鳥類は、他の小形の鳥類と同じグループに属することはない。
私の説では、さらにもう一つ、別の結論を出す。それは、古鳥類の位置づけだ。私の考えによれば、ある重要な理由によって、古鳥類は、新鳥類と同じグループには含まれず、爬虫類に含まれるのだ。しいて言えば「鳥類型爬虫類」と呼ぶべきである。古鳥類は、形態だけは新鳥類に似ているが、そのことは、「(爬虫類である)魚竜が、(哺乳類である)鯨に似ている」というのと、同様である。古鳥類は、いわば、「羽根のある翼竜」のようなものである。
まとめて言おう。私の説では、古鳥類と新鳥類とは、まったく別々のグループに属する。そして、進化の順は、「恐竜 → 古鳥類 → 新鳥類」という順ではなくて、「恐竜 → 走鳥類 → 新鳥類」という順だったのだ。それが、私の説である。(なお、走鳥類と新鳥類の間に、キジ類を置くと、いっそうはっきりとする。)
この私の説は、さまざまな点で検証される。列挙しよう。
第1に、骨格。叉骨や竜骨などを見ると、この順で変化しているとわかる。
第2に、形質。トサカや足指や翼や顔つきなどを見ると、この順で変化しているとわかる。
第3に、化石。走鳥類の仲間に、いわゆる「恐鳥類」(ディアトリマなど)を含めると、この順でかなりなめらかな進化があったことが化石からわかる。
第4に、分子生物学の系統。この順で進化があったことが、分子生物学でかなり実証される。
なお、従来の説の考え方を、批判的に示しておこう。
従来の説では、自然淘汰を前提とした上で、「新しい環境への進出にともなって進化が起こる」と考える。そして、「恐竜が空に向かってジャンプしたから、恐竜が鳥になった」とか、「鳥が地上に降りたから、鳥が(足を発達させて)走鳥類になった」というふうに考える。
しかし、そんなことは、まったくありえないのだ。たとえば、恐竜が空に向かってジャンプすれば、恐竜が鳥になるのではなくて、恐竜が地面に激突するだけだ。鳥が地上に降りれば、鳥が走鳥類になるのではなく、鳥が肉食動物の餌になって食い殺されるだけだ。同様に、人間が空に向かってジャンプしても、人間に翼が生えることはない。また、魚が陸上に進出しても、魚が両生類に進化することはなくて、魚が干上がるだけだ。
結局、「新しい環境への進出にともなって進化が起こる」ということはありえない。「新しい環境に進出すると、必要に応じて進化が起こる」というのは、ほとんどラマルキズムのような、非科学的な考え方なのである。
( ※ 新しい環境があると、進化は起こりやすくなるが、だからといって、ちょうど好都合に進化が起こってくれるわけではないのだ。たとえて言えば、金が必要だからと言って、ちょうど好都合に空から金が降ってくるわけではない。)
鳥類の進化について、簡単に述べた。この原稿は、概要であるから、詳しく説明する紙数はない。それでも、ここに述べた話は、興味深いことだろう。
( ※ なお、鳥類の進化の話は、クラス進化論とは、直接の関係はない。だから、鳥類の進化の話が、たとえ完璧に間違っているとしても、クラス進化論には影響しない。鳥類の進化の話は、あくまで余談である。)
( ※ このような収斂進化は、かなり偶然性を帯びるが、十分に起こり得る。実際、白亜紀以前の鳥類は、すべて、収斂進化で翼が生じたものだ、と見なせる。実際、それらのさまざまな鳥類は、いずれも翼をもつが、たがいに直接の系統関係がない。)
( ※ とはいえ、竜骨突起の一致まで、収斂進化で説明できるかどうかは、判然としない。何とも言いがたい。)
[ 付記 ]
上では二つの可能性を示したが、どちらが有力か?
それについて知るには、キジとカモの遺伝子的な類縁関係を調べるといい。
・ (a)ならば、キジとカモの類縁関係は近い。
・ (b)ならば、キジとカモの類縁関係は遠い。
現在の遺伝子研究によると、キジとカモの類縁関係はかなり近いらしい。とすると、(a)の方が有力だ、ということになりそうだ。つまり、新たに追加した仮説(b)は、正しくないらしい。……元の木阿弥ですかね。 (^^);
( ※ なお、一部学説では、「カモ → キジ」という順が想定されているが、それはありえない。トサカであれ、足であれ、顔つきであれ、飛行能力であれ、あらゆる点で、カモよりもキジの方が原始的である。「カモ → キジ」という順では、いったん進化したあとで、逆行して退化したことになってしまう。そんなことはありえない。ゆえに、「カモ → キジ」という順はありえない。つまり、「キジ → カモ」という順が正しい。)
[ オマケ ]
※ このあとはヤマカンふうになるが、一般の鳥類のうち、最初のもの(カモの次のもの)は、一部の小型鳥類であろう。というのは、小形化することで、飛行距離を伸ばせるようになったはずだからだ。その後、小型鳥類の一部が、大型化していったのだろう。
なお、大型化は、あらゆる進化においてみられる現象だ。哺乳類でも、初期の哺乳類は小型で、のちに大型の哺乳類が生じた。鳥類でも、同様のことが起こったと推定される。
※ ついでだが、上の (b)によると、カモの子孫は分岐して大量の種が生じたが、キジの子孫は特に分岐しなかったことになる。
ただし、これは、別に不思議ではない。キジは地上性だから、同じ領域にとどまり、同じ種に留まり、特に大きく分岐はしない。一方、カモの子孫は、空中を自由に飛ぶので、空中という新たな領域に進出したことになる。そのことで、「適応拡散」が起こり、莫大な種が誕生したことになる。……こう考えれば、特に不思議ではあるまい。
題 名 クラス進化論の概要
著者名 南堂久史
Eメール nando@js2.so-net.ne.jp
URL http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/
(この原稿は、クラス進化論の「概要」である。
より詳しい「本編」については、上記のURLを参照。)