姓名のローマ字表記

  国語審議会の方針について



 正編


 国語審議会では、日本人の姓名のローマ字表記を、「名-姓」でなく「姓-名」の順にするように、指針を示す予定らしい。
  (→ 参考 :2000-09 の試案報告


 しかし、このようなことは、国語審議会が一方的に決めて押しつけることではない、と思える。
 簡単に言えば、国語審議会は、日本人が日本語を使う指針を示せばいいのであって、外国人が英語を使う際の指針を示すべきではない。それはちょうど、日本人のカタカナ語の書き方について、欧米人があれこれ指針を示すべきではないのと同様だ。
    「日本語のラ行は R と L の区別がつくような書き方にしろ」
 などと欧米人に言われるのはまっぴらである。欧米人に、(カタカナ語を含む)日本語の指導をしてほしくはない。
 しかるにこのような、お節介ないし出しゃばりをするのが、国語審議会である。よほどお節介なのか、暇をもてあましているのか。……そのうち、英語全般についても、指針を示すようになるかもしれない。 ( 日本語の指針を示すのはサボったまま。たとえば「濾紙」が教科書で誤字なのをほったらかしにしておいて。パソコンで「冤罪」が誤字なのもほったらかしにしておいて。)

 ともあれ、この「姓-名」の件に関し、とりあえず私見を述べる。

 【 注記 】
 この「正編」の部分は、すでに「略字&正字」という圧縮ファイルのうちに hosoku.htm として含めておいたものである。




 この問題に関し、私見を述べる。

 姓名の順序をどうするか、というのは、国語の問題ではなくて、文化の問題である。
 たとえば、米国ならば米国、英国ならば英国、豪州ならば豪州、香港ならば香港、それぞれの文化で決めるべきことである。日本の文部省あたりが勝手に決めるべきことではない。

 米国内では「名−姓」という順序が文化的に定まっている。「ファーストネームで呼んでくれ」というような言葉もまた、そのような文化のうちに含まれる。
 このような文化のなかで、日本人が勝手にとんがって「姓−名」という順序で自己紹介しても、相手に勘違いされるだけである。しかも、勘違いされたとしても、文句を言うべきではない。相手はその文化の環境のなかで、その文化に従って理解したのだからだ。よそ者が勝手に入り込んで、自己流を押しつけるのは筋違いである。
 要するに、「郷に入らば郷に従え」である。米国で暮らしながら、日本の文化を押しつけても、粗暴な野蛮人扱いされるだけだ。
 もっとも、そうは言っても、「思いやりの心」が先方にあれば、親切な米国人は、日本人の奇妙な風習を理解してくれるだろう。そしてこの珍妙な未開人の風習にあわせて、「姓−名」の順で理解してくれるかもしれない。
 とはいっても、そのような親切心を当てにするのは、虫が良すぎる。先方には「思いやりの心」を要求して、こちらからは「思いやりの心」を出さず、一方的に勝手に自己流を押しつけるだけ、というのでは、粗野な田舎者として嫌われるだけだ。

 結局、結論を言えば、こうだ。
  ・ 海外にいる限りは、「郷に入らば郷に従え」で、相手国の文化にあわせる。
   英語で表記するなら、英語としての記法を守る。
  ・ 日本国内では、英語としてでなく、日本語の一種たるローマ字としてならば、
   「姓−名」という表記も許容される。ただし、単独で記しては誤解を招くので、
   あくまで、漢字の脇に添えて用いるだけにするべきだろう。これはつまり、
   「ふりがな」ならぬ「ふりローマ字」である。(これなら誤解はされない。)
   また、「ふりローマ字」でなくとも、それがローマ字で書かれていることは、
   はっきりと明示しておくべきである。

 例示すれば、こうなる。
   ・ 論文の署名は、英語論文なら「名−姓」で。ローマ字論文なら「姓−名」で。
   ・ 名刺は、肩書きが英語なら「名−姓」で。肩書きがローマ字なら「姓−名」で。

   ・ If you write a name in English, you should write such as "Taro Yamada".
   ・ Mosi Roma-ji de namae wo kakuno naraba, "Yamada Taro" to kaku beki da.

 要するに、「英語のなかで書くときは英語ふうに、日本語(ローマ字)のなかで書くときは日本語ふうに」という、当たり前の結論だ。

 一方、「何でもかんでも自国流を押し通そう」というやり方は、世界中で嫌われる。それ専用の言葉もできているほどだ。 "ugly American" というやつだ。
   (ブックシェルフの「プログレッシブ英和中辞典」にも出ている。)


 アメリカ人の前で、「ガツンと一発言ってやれ」と思っている日本人は多い。それでいて、現実に向かいあったら、何も意見を言えなくなる人が多い。そういう人にとって、何より大切に思えるのが、「姓−名」という表記法なのだろう。

   「ガツンと一発言ってもらおうじゃないか。 Speak it ! 」
   「えー、あのー、……マイネーム・イズ・タロー・ヤマダ、じゃなかった、
    マイネーム・イズ・ヤマダ・タロー」

 こうしてお茶を濁しながら、堂々と自己主張したつもりになるわけだ。「姓−名」という表記法は、その程度のものであろう。雄弁という言葉からはほど遠い人にとってのみ大切なことである。
 (ガツンと言ってしまって、済みません。)





 続編


  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *



 § なぜ国語審議会が?

 そもそも、なぜ国語審議会がこんなことをするのか? 完全な越権ではないのか? 
 国語審議会とは、そもそも、日本語の方針を打ち出すべきところだ。それなのに、なぜ、「英語で日本人の人名を書くときの基準」を打ち出すのか? そんなふうに「英語の方針」を打ち出したいのなら、英国か米国の国語審議会の委員にでもなればいい。
 どうしても日本の国語審議会がそんなことをしたいのであれば、委員は英米の人に任せるべきだ。ネイティブでもない日本人が、英語の方針を打ち出すなんて、馬鹿らしくて聞いていられない。
 こういうことをする国語審議会というものが、いかに非常識なものであるか、ということを、自覚してほしい。そういう自覚もなしに方針を出すのは、まことに見苦しい。服装のセンスもないくせに、ファッションショーの方針を出すようなものだ。道化じみている。
 【 付記 】
 「日本人の人名は日本人が決める」という国語審議会の方針に従うとしたら、外来語については、日本人ではなく外国人が決めることになる。
 たとえば、外国の地名について、
  ・「カリフォルニア」ではなく「カリフォーニャ」にしろ! 
  ・「米国」ではなく「ユナイテッドステーツ」にしろ! 
 などと命じられたら、その命令に唯々諾々として従わなくてはならない。つまり、外来語(という日本語)の決定権は外国人に委ねられることになる。
 もちろん、これは馬鹿げている。なのに、こうした馬鹿げたことを相手国に要求するのが、国語審議会だ。「英語の表記法はおれたち外国人が決める」と。
 ま、それでも、その方針が一貫しているのなら、わからなくもない。しかし実際は、今回の試案では、日本における外来語についても、(外国人には委ねずに)日本人だけで表記の方針を定めている。「臆面もなく」と形容したいほどだ。世界中の言語決定権をすべて自分たちが握っているとでも思っているのだろうか。


 § なぜ一方へ導く?

   もう一つ。そもそもなぜ、世論が割れているときに、一方向へ結論を導こうとするのか? 
 漢字の略字・正字の問題であれば、世論は割れていない。書籍を見ても、「略字はほとんど使われていない」という事実がある。だから、ここで「圧倒的に多数の方を標準として定めて、統一する」というのなら、十分に根拠がある。
 しかし、ローマ字の姓名順については、新聞報道でも明らかなとおり、文化庁か文部省の調査では、世論はまっぷたつに別れている。
 こういうふうに世論が割れているときに、国語審議会が一方に導く、というのは、実に危険であると言える。それは民主主義の無視であり、お上の一方的な押しつけだ。
 ま、それでも、「お上が学識があって、民衆が無知だ」というのなら、話はわかる。しかし、話は正反対で、お上の方に学識がないのだ。そのことは、「国語審議会が英語の方針を定める」ということからしても推察できるが、次項のことでいっそう明らかになる。


 § 基礎の誤解

 「名前は誰のものか?」
 この問題に対しては、意見が二つある。
  ・ 名前は本人のものである。
  ・ 名前は社会的なものである。

 この二つのうち、国語審議会は、前者の立場を採っている。そして、「日本人の名前は、本人の日本人のものだから、日本ふう[姓-名 順]にするべきだ」というふうに理屈を組み立てている。しかし、この考えは、誤りである。

 名前は誰のものか?
 たいていの人は、「名前は本人のものだ」と思い込んでいる。しかしそれは素朴な思い込みにすぎない。名前は社会的なものだ。
 なぜか? 名前は自分だけで使うものではなく、他の人に使ってもらうものだからだ。本や鉛筆ならば、「自分のもの」として、他人に使わせないでいることもできる。しかし名前は、他人に使ってもらわなくては意味がない。たとえば、あなたの名前が「山田太郎」であるとする。この名前は、他人に「山田さん」と呼んでもらったり、封筒の宛名に「山田太郎 様」と書いてもらったり、名簿に「山田太郎」と記述してもらったり、……というふうにして、社会的に使ってもらうものだ。このように、名前は「本人だけのもの」ではなくて、「社会的なもの」なのだ。
 【 付記 】
 このようなわけだから、名前は、社会にとって受容可能な名前でなくてはならない。社会にとって受け入れがたい名前は、制限される。たとえば、日本では、名前は日本語の文字で記述する必要があり、サンスクリット語の文字やハングルなどで記述するわけには行かない。
 参考までに言うと、以前、「悪魔くん」問題というのがあった。「悪魔」という名前を付けるか否かが問題となったものだ。「名前はどう付けようが個人の勝手だ」という主張があったが、こうした主張は、名前の社会性を無視したものであろう。いくら勝手だとしても、反社会的な名前は受容しがたい。
 たとえば、女の子の名前に「おかちめん子」とか、「ウン子」とか「珍ぽ子」とか、「おめ子」とかいう名前は受容しがたい。本人はそれでいいとしても、そんな名前を聞いた周囲が迷惑する。「お万子って、すてきだなあ」なんて電車のなかでしゃべったりされては、はた迷惑である。 
 名前とは、このように、社会的なものだ。個人の私的な所有物などではない。
 なのに、国語審議会は、そのことをまったく理解していない。そして「日本人の名前だから、外国に行っても日本ふうにすべきだ」と唱える。まわりの環境に合わせる、ということを考えていない。

 言葉とは何か? 言葉とは物に付属するものか? 
 違う。言葉とは、物に付属するものではなくて、人が物を認識するその方法自体である。「リンゴ」と呼ばれる物体がある。この物体に「リンゴ」という名前が付属しているのではない。人はそれを見て、「リンゴ」と名付けることもできるが、「果物」「赤いもの」「贈り物」「大好物」などと名付けることもできる。そのように名付けるときに、そのように認識する。
 言葉とは、対象に付属するものではなくて、環境のなかで語られるものだ。日本においては日本の環境で語られ、米国においては米国の環境で語られる。日本で「ブス」と呼ばれた女性が、米国で「beauty」と呼ばれることもある。
 ある人を言葉で呼ぶとき、その言葉を決めるのは、呼ばれる本人ではなくて、呼ぶ周囲の人たちなのである。人がどんな言葉を使うかは、語る本人が決めることであって、語られる対象が決めることではない。

 なのに、国語審議会は、この根本的なことを理解していない。「日本人の名前だから日本ふうにする」と素朴に思い込んでいる。
 国語審議会の委員は、「言葉とは何か」ということについて理解しない、一種の素人の集団である。このような素人集団が、一方的に強権を打ち出して、言葉の方針を打ち出す、というのは、恐るべきことだ。
  「どんな言葉を使うかは、語る人ではなく、語られる対象が決める」
 というのは、一種の言論弾圧でさえある。
 そのうち政府がそんな方針を打ち出すかもしれない。「政府のしていことはすべて『正しい』ことである。政府をどう表現するかは政府が決める。政府が許容しないような政府批判を言うことは禁じる」と。
 今回の国語審議会の方針に立つ限り、言論の自由などというものはありえない。国語審議会は、言論を守るための機関ではなくて、言論を弾圧するための機関になり下がった、とさえ言える。



  《《《 以上では、原則的なことを述べた。以下では、各論的に述べる。》》》



 § 名前と発音 

 「姓-名順」などよりも、もっと重大な問題がある。それは名前の発音だ。
 一般に、本人の名前が原音のとおりに発音される、ということはあまりない。たいていは、現地の音で呼ばれる。たとえば、米国では、

   アオキ   → エイオキ
   エドベリ  → エドバーグ
   ピアッツァ → ピアザ
   シュタイン → スタイン
   ベルイマン → バーグマン
   シャルル  → チャールズ


 などと、英語読みになることが多い。
 これと同様の問題だが、日本・中国・韓国などでは、漢字人名を原音ではなく現地音で読むことが多い。たとえば日本では「金大中」は「キンダイチュウ」であり、「毛沢東」は「モウタクトウ」である。逆に、中国では「田中角栄」は「タナカカクエイ」ではなく該当の中国音で呼ばれる。

   ※ 日本のマスコミはだいたい統一されているが、風変わりなことをするの
     がNHKである。「金大中」は「キムデジュン」と原音にする。ならば原音
     に統一するのか、と思えば、そうではなくて、西洋人はすべて英語に
     統一する。テニスの人名だと、世間では「セレシュ」「エドベリ」なのに、
     NHKだけは「セレス」「エドバーグ」などと言うから、別人のことかと誤解
     しかねない。 (NHKの認識では、日本の公用語は英語なのかも。)
 人名以外でも例はある。ブランド名の「DATSUN」(日産自動車がかつて海外で使ったブランド名)がそうだ。これは日本では「ダットサン」と発音されたが、米国では「ダッツン」と発音された。いくら日産が「ダッツンじゃない、ダットサンだ。固有名なんだから、ちゃんと発音してくれ」と主張しても、駄目なのだ。英語圏において英語式の表記を取っている限り、英語式に発音されるのは当たり前のことだ。それを日本式ないし和風英語式に発音してもらおう、などという考え方が間違っているのだ。「郷に入らば郷に従え」である。正編でも述べたことだが。
[ 日産自動車は、結局、(発音しにくい)「DATSUN」というブランド名を諦めて、「NISSAN」を用いることにした。自己流の言語主義をゴリ押ししよう、とはしなかったわけだ。どこかの国語審議会とは違って、実に賢明である。]
 このように、名前の発音は、原音ではなくて、現地の流儀で発音されるのが普通だ。だから、本人がどうこうしてほしい、と願っても、無駄なのだ。
 そもそも、発音が困難なことが多い。たとえば、中国人の四声とか、欧米の独特の子音や母音は、日本人には発音できないことが多い。また、日本人の人名も、欧米人には発音できないことが多い。(仏語では h や g の音が発音しがたいことがある。また、英語圏の人には「マルヤマ」とか「コイズミ」というのは発音しがたいようだ。)
 発音でさえ、こうなのだ。国語審議会の方針がいかに無意味であるか、よくわかるだろう。たとえば、「マツオ・マルヤマ」ではなく、「マルヤマ・マツオ」と呼ぶべきだ、と主張したところで、どちらも発音不可能なのだから、無意味なのだ。せいぜい「マリューヤ・マチューオ」にしかならないだろう。
 このことからしてもわかるが、国語審議会は、英語のことをろくに知らないで、一方的に自己流を押しつけようとしているのだろう。


 § 国籍別をどう覚えるか 

 言語的な見地はさておいて、実用的な見地からも考えてみよう。
 仮に、「姓-名順」か、「名-姓順」かを、区別するとしたら、各国ごとの区別をすべて覚えなくてはならない。しかし、そんなことが可能だろうか? 
 たとえば、ベナン共和国の人名である「ゾマホン・ルフィン」という人名を聞いて、どちらが姓で、どちらが名であるか、わかる人がどれほどいるのだろう? エチオピアとか、ザイールとか、そういう国ごとに、すべての順序を覚えられるだろうか? 世界には百数十カ国もあるのだ。それらについて、すべて覚えなくてはならない。
 しかも、覚えるのは、世界でも名だたる「外国知らず」の英米である。英米人の大半は、日本は中国の一部であると思っている。白地図で図示させれば、台湾かインドネシアかオーストラリアのあたりに日本があると思っている。こういう人たちに、「日本では『姓-名順』だ」などと教えても、まったく無意味だろう。そもそも、覚えるのなら、こんな下らないことより、もっとまともなことを覚えてもらいたいものだ。
 たとえば、日本の首相の名前を覚えてもらいたいものだ。(いや、これこそ下らない知識かな。)

 § 国籍をどう見抜くか 

 実用的な見地から言えば、もっと問題がある。相手の国籍をどう見抜くか、ということだ。
 ある人物が「ナツメ・ソーセキ」と名乗ったとする。この「ナツメ」が姓であることを知るには、この人物の国籍が日本であることを見抜かなくてはならない。しかし、どうやって国籍を見抜くのか?
 一見してアジア人であっても、国籍は日本か中国かシンガポールか香港か、さっぱりわからないはずだ。さらには、アメリカ在住の日系アメリカ人かもしれない。なのに、どうやって国籍を見抜くのか? 
 国語審議会のように、「国籍を知ってもらいたい」と思うのならば、頭に日の丸を付けて歩くしかあるまい。
 そもそも、このインターナショナルな時代に、いちいち「国籍で相手を区別する」というやり方は、私は好きではない。人と人とが知りあうとき、人間同士として知りあえばいい、と私は思う。国語審議会のように、「まず国籍を知りあってからでなくては、名乗ることもできない」という国家主義的な考え方は、好きではない。国籍喪失ふうに金髪の日本人も好きではないが、いつも頭に日の丸を付けているような日本人も好きではない。
    (※ ただしマンガの「おそ松くん」の「ハタ坊」は好き。国語審議会って、「ハタ坊」
       なんですね。)
    (※ 私自身の個人的な体験を言うと、フランス人のマドモワゼルとは、ベッドの
       なかで知りあってから、たがいの国籍を知りあった。  (^^)??? )



 § 国籍主義の破綻

 国語審議会は、国籍ですべてを決めようとする。しかし、国籍で区別するとしたら、二重国籍の人はどうするのか? 
 このボーダーレスな時代には、国際結婚というものは多く起こるし、その子供は(未成年の間は)二重国籍になることも多い。
 また、無国籍の人はどうするのか? 
 こうした場合、「国籍で『姓-名順』を変える」という国語審議会の考え方そのものが成り立ちにくくなる。
 ま、普通は、「その場その場で別にする」というふうにするが、それは状況主義であり、「本人の国籍の固有の順で」という国語審議会の方針とはあいいれない。
 国語審議会の「国籍主義」は、破綻しているのだ。

 § 反対意見と私の立場

 以上、いろいろ述べたが、国語審議会の意見への賛成論も、巷間にはある。
  ・ 中国人や韓国人は、アメリカでも「姓-名順」で示される。ならば日本人も。
  ・ 西洋人は、日本では「名-姓順」だ。ならば日本人も、外国で同様に。
 などだ。

 これらの意見については、特に批判はしない。「それももっともだ」と思う。
 さて、である。「だから『姓-名順』なのが好ましい」と主張するのならわかる。しかし、「だから『姓-名順』を押しつけよ」と主張するのには賛成できない。
 いくら自分にとって望ましいからといって、自分の望みを一方的に相手に押しつけるのには賛成できない。自分の都合よりも相手の都合を優先するべきだと思う。それが節度というものだ。
 本当は、私としても、「できれば『姓-名順』が好ましい」とは思う。それが相手に受け入れてもらえるのであれば、そうなるのに越したことはない。私としても、そうなるのが喜ばしい。
 しかし、相手の都合も聞かずに、一方的にこちらの都合を押しつける、というのが、私としては理解しがたい。

 たとえば、逆に、外国の人が次のように日本人に求めたら、どうするか? 
 「私の名前はRとLをちゃんと区別して発音してほしい。THとSも区別してほしい。日本語で『ジ』となる3種類の音 も区別してほしい。私の名前は私のものだ。正しく正確に発音すべきだ。日本人が発音できるかどうかなんて、私の知ったこっちゃない。私の望むように発音しろ!」
 同じようなことを、中国人が四声について言うかもしれない。フランス人は複雑な鼻母音について言うかもしれない。
 そうしたとき、日本語を話す日本人としては、どうするべきか? 

 話は初めに戻るが、名前とは、本人だけのものではなく、社会的なものなのだ。言葉は、対象に付属するのではなく、環境に依存するのだ。
 そうしたことを知ってほしい、と思う。


 § 実行したら

 仮に、「姓-名順」を強引に実行したら、どうなるか? 
 そうしたいという人が、どうしても、
     My name is Yamada Taro.
 と言いたければ、そう言ってもよい。
 しかし、そう言ったとすれば、「Yamada」がファーストネームだと誤解されることは、十分にありうる。そして相手が親愛の意を込めて、「Yamada」とファーストネームのつもりで呼ぶことはありうる。
 そのように「呼び捨て」にされたとしても、怒ったりしないでほしい。誤解されたとしても、それは、誤解されるようなことを自分がしたからだ。勝手に自己流を押し通そうとしたあげく、誤解されたからといって、先方に腹を立てるのは筋違いである。
 一方的に「姓-名順」にしても、それを「名-姓順」に誤解されるのは当然のことなのだ。自らの招いたトラブルに対して、他人に責任転嫁して、いちいち文句を言わないでほしい。
 少なくとも、それだけの礼儀はわきまえていてほしいものだ。


 § 結語

 「姓-名順」か「名-姓順」か? 
 この問題は、実は、完全な二者択一ではない。一方が全面的に正しく、他方が全面的に間違っている、というようなものではない。どちらにも長所があり、どちらにも短所がある。そのどちらを評価するか、という問題である。「どちらが完全に正しいか」ではなく、「どちらがマシか」である。
 そこで、その評価基準が問題となる。
 「おれの名前はおれのものだ。おれの好きなように呼ばせる」というのが、国語審議会の立場だ。
 「ぼくの名前はぼくだけのものではない。あなたの呼びやすいように」というのが、私の立場だ。
 そのような二つの立場のうち、どちらを採るかは、たぶん、人生観の問題なのだろう。あるいはまた、礼儀の問題でもある。


  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

※ 以上、いろいろ生意気を言って、済みません。
  「学説」というようなたいそうなものではなく、ただの与太話の私見
  ですから、気に食わない点があっても、適当に聞き流してください。

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 【 補足 】
 「姓-名順」とすることに、あらゆる場合において反対しているわけではない。
 例外となる場合もある。それは、次のような場合である。
  「当人が日本人であることがあらかじめ周知である場合」

 具体的には、たとえば、次のような場合だ。
  ・ 夏目漱石のような有名人を、説明対象として書く「英文百科事典」。
  ・ 夏目漱石などの日本人を、研究対象として書く「英語論文」。
 このような場合は、明らかに日本人であるとわかるので、姓名の順序が誤解されることもない。だから、「Natsume Soseki」とする方が好ましい。 (「正編」の最後にも同様のことを記した。)

 私が先に「姓-名順」に反対したのは、普通の日本人がアメリカで通常に交際するような場合のことである。そういう場合には、「郷に入らば郷に従え」と唱える。しかし、他の場合にまで一律に適用するわけではない。
   ※ 「おれは世界中で知られている超有名人だ」
      という自惚れがあれば、「姓-名順」でもいいだろうが。

 要するに、私が反対しているのは、
   「日本人であれば、必ず『姓-名順』にする」
 という、「対象がすべてを決める」という考え方である。そして、かわりに、
   「その名前を用いる状況にふさわしいように決める」
 と主張しているのである。
 つまり、「対象決定主義」に反対して、「状況決定主義」を唱えているのである。

   ※ 「姓-名」に反対して、「名-姓」と唱えている、というのとは違う。






  【 後日記 : 参考サイト 】

    国語審議会の正式答申



 ※ 注記 : ソースにあるコメントは読まないでね。


     氏 名  南堂久史

     メール  nando@js2.so-net.ne.jp

     URL   文字コードをめぐって (文字講堂)  (表紙ページ)


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