【 目次 】 論点 Q&A 付録 (字形の変更について)
略字については、賛否両論がある。それらは次のように大別できる。
略字賛成論
略字を認めるべきだ。なぜならば:
- 正字は画数が多いので、見にくいし書きにくい。略字は逆で、便利。
- 常用漢字の新字と、部分字形が共通しているので、覚えやすい。
- 略字はすでに電子機器や新聞で流布しているので、廃止するべきではない。
略字反対論
略字を認めるべきではない。なぜならば:
- 正字は画数が多いからといって、特に面倒だということはない。なぜなら、
いちいち手で書くわけことはまずないし、見るときもパッと全体を見るだけ。
- 部分字形が不統一なまま併存するのは、混乱して困る。たとえば「區」→「区」で
「鴎」は略字にするのに、「謳」はそうしない。わけがわからん。
- 略字は書籍ではほとんど使われない。略字と正字の二重流通では混乱する。
上記のように賛否両論があるわけだが、これは単純な二分法である。
もう少し詳しく各論を見ると、次のように細分できる。
【 略字の範囲 】
どの範囲を略字にするか | 仮称 |
第二水準も含めて、すべて。 | 朝日主義 |
第一水準だけ。 | JIS主義 |
常用漢字だけ | 常用主義 | | |
※ 注釈
- 「すべて」というのは、康煕字典のすべてらしい。なぜ「すべて」と見なすかというと、
「ここまでは略字」という区切りが明示されていないから。(実際には、「朝日新聞で
使うすべて」ということらしいが、これではあまりにも自分勝手で無責任に過ぎる。)
- 「第一水準だけ」というのは、83JISで第一水準が略字になっているから。
ただし第一水準にも「寵」のように正字はあるから、一応の原則にすぎない。
- 朝日主義とJIS主義の差は、第二水準漢字で顕著。
第二水準文字は、朝日新聞では略字、JISではだいたい正字。(たとえば「彙」「撥」)
ただし第二水準にも「迸」(つくりに注目)のような俗字がある。(正字でなく。)
- 「常用漢字だけ」というのは、常用漢字以外が正字になることを意味しない。
正字でなく、俗字であることもある。(略字ではなくて、俗字。)
以上のうちでは、最後の「常用主義」が最も世間に支持されているようだ。 国語審議会の見解がそうである。
なお、国語審議会の見解は、意見や主張というより、単に世間の実態をまとめたにすぎない。
※ 一部の人は「国語審議会は特定の主張を出すべきではない」と言ったり、
あるいは逆に、「国語審議会は逆の主張を出すべきだ」と言ったりするが、
どちらにせよ、勘違いである。国語審議会は、特定の主張を打ち出して
いるわけではなく、単に世間の実態を調べて、「二種類の字体があると
混乱するので、多く使われている方に統一する」と言っているだけである。
「多く使われている方」は、正字とは限らなくて、俗字であることもある。
そのあたりは、個別に異なる。
【 流通 】
世間での流通は、略字と正字のどちらを許容するか | 仮称 |
正字に統一。 (例外あり) | 正字派 |
略字に統一。 | 略字派 |
略字と正字の共存。 | 併用派 | | |
※ 注釈
- 「統一」といっても、強制的なものではない。罰則などはない。あくまで原則である。
- 「正字に統一」というのは、国語審議会の方針。これは混乱を防ぐためのもの。
例外的に俗字を採用することもある。ただしパソコン略字のたぐいは採用しない。
- 「略字に統一」というのは、略字賛成論者の目標であったらしい。しかし、現実には、世間には支持されなかった。83JIS以来、20年近くたっても、書籍では正字が主流である。結果的に、統一のかわりに、二重流通が生じた。それは混乱をもたらした。
- 「略字と正字を共存させる」というのは、字体の二重流通である。ただ、この意見は、二重流通を、あえて積極的に採用しようとする。つまり、一つの字ごとに、二つの字体が共存することをめざす。国民は、覚える漢字の数が多く、負担が多大になる。
- 「略字派」および「併用派」では、前述のように、どの範囲まで略字になるかが問題となる。(たとえば第二水準に相当する「彙」「撥」は正字か略字か。JISに現れないような、特殊な漢文典籍専用の文字は、正字か略字か。特に「すべての文字を略字に」とした場合、問題が顕著。)
【 用字の範囲 】
常用漢字以外の文字を普通に使うことを許容するか | 仮称 |
原則として共用しない。カナ書きか、交ぜ書き。 | 制限主義 |
第一水準までは自由に使う。(常用漢字の拡張。) | 拡張主義 |
特に主張せず。 | 中間主義 | | |
※ 注釈
- ここで述べたのは「普通に使う」場合での区別である。たとえば新聞記事など。
学術論文とか小説とか漢文典籍などの場合、ここに述べたのとは別の話であって、もちろん、どんな難解な文字であろうと、自らの責任により、いくらでも自由に使ってよい。
また、「ルビつき」で使うことは、まったく問題なく、議論の対象外である。
- 「制限主義」は、朝日新聞によく見られる。たいてい交ぜ書きである。朝日は、ルビを使えるのに、なぜかやたらと交ぜ書きやカナ書きにする。よほど漢字が嫌いらしい。
- 「第一水準まで自由に使う」というのは、つまり、「常用漢字を現在の1945字から、第一水準の2965字まで拡大せよ」ということである。これはこれで、理屈が通っている。(賛成する人はほとんどいないが。また、現実には、常用漢字さえまともに読めない人がけっこういるのだから、実施したとしても、実効性は低い。新聞嫌い・本嫌い・活字嫌いが増えるだけかも。)
- 「特に主張せず」というのは、世間の普通の考えである。常用漢字以外の漢字の利用は、ケースバイケースであって、特に定めない。カナ書きにすることもあるし、正字で使うこともあるし、正字にルビをつけて使うこともあるし、交ぜ書きにすることもある。ケースバイケース。(現在のこの文書もそう。題字の「侃侃諤諤」は、読み仮名を付けているので、ルビつきに相当する)
- 以上のほか、「無制限主義」というべきものもある。すなわち、「常用漢字以外のすべてを自由に使ってよい」という立場である。しかし、現実には、これは無理。数万字もの漢字を自由に使う、とは、読み手に数万字を覚えることを強要することになり、無意味だからだ。
以上の区別を見た上で、既存の主張者がどのように主張しているかを見ると、次のような表ができる。
\ | 略字の範囲 | 流通 (常用漢字以外) | 用字 |
朝日派 | すべて | 正字・略字の併用 | 制限 |
83JIS派 | 第一水準 | 略字に統一 | 拡張(第一水準) |
書籍派 | 常用漢字 | 正字に統一 | 中間(主張なし) | | |
※ 注釈
- 「朝日派」とは、朝日新聞の社説や解説などで述べられた意見。
略字の範囲は康煕字典のすべてらしい。
自社では略字を使うが、世間では正字を使うことになる。逆にいえば、世間では正字を使うが、朝日は略字を使う。こういう二重流通をしよう、と主張する。それはそれでひとつの意見だが、実際には、朝日の紙面に現れる用字は、原則として常用漢字のみである。つまり、略字も正字も原則としてどちらも使わない。要するに、両方とも流通させよう、と主張しながら、実際には両方とも使わない、というのが、朝日主義。自己矛盾かもしれない。あるいは、壮大なる無駄。
- 「83JIS派」とは、第一水準のみを略字として、世間的に略字に統一しよう、という立場。
第一水準は略字だが、第二水準は正字になる。(原則として。)
さて、ある文字が略字となるか正字となるかを判別するには、その文字が第一水準か第二水準かを知らなくてはならない。というわけで、結局、第一水準漢字をすべて覚えなくては、その文字をどう書くかわからない。
だから、83JIS派が自己矛盾を起こさないためには、常用漢字を現在の1945字から、第一水準漢字の2965字まで拡張する、ということが必要となる。
- 「書籍派」とは、世論の大多数。常用漢字だけは略字(新字)で、あとは正字(一部は俗字)、ということ。要するに、国語辞典に示してあるようにしよう、ということ。シンプルであり、何も問題はない。用字については特に主張しない。常識で対処する、ということになる。
- 以上のほか、「文語派」とでも言うべきものもある。「略字は使わず、正字だけを使い、用字は無制限」というものである。ただ、これは、世間に流布させようというものではなくて、狭い範囲の研究者同士や同好の仲間でこうしたい、というものである。というわけで、世間一般の用字を問題にする場合には、考慮外となる。
さて、以下では、このような現状に対して、私なりにコメントを加えてみよう。
(1) 朝日派
これは論外である。
第一に、「正字と略字を併用しよう」というのでは、いちいち同じ字に対して、二種類の字体を覚えなくてはならない。たとえば「籠/篭」「濤/涛」など、いちいち同じ文字について二種類の字体を覚えなくてはならない。国民の負担は多大になる。常用漢字以外を覚えるだけでも、一般の国民にはかなり負担になるのに、常用漢字以外について二種類の字体を覚えよ、なんていうのは、あまりにも国民にとって負担が多い。
第二に、「日常的には正字も略字も使わない」というのでは、第一の点と矛盾する。「どちらも使おう」と主張しておきながら、「どちらも使わない」というのでは、話が支離滅裂である。「いや、略字は使ってもいいのだ」と言うかもしれない。しかし、だとしても、略字を覚えても、使い道がない。略字で出版する人などはほとんどいないし、国語審議会は略字の使用を原則として禁じているし、当の朝日でさえ紙面には略字は使わないことになっている。(略字のかわりに、原則としてカナ書きか交ぜ書き。ま、朝日の独自の略字など、使ったとしても、読者が読めないから、それはそれで当然だが。)
以上をまとめて言えば、さんざん努力して二種類の字体を覚えさせておきながら、その使い道がない、ということになる。これでは、あまりにも無意味である。朝日派の主張には、それ自体のうちに自己矛盾がある。
第三に、どんな略字にしたらいいか、見当もつかないことがある。たとえば、「經」を「経」にするなら、「挨拶」の「拶」はどんな略字にするのかな……と悩んでしまって、字を書けなくなってしまう。たぶん、「タ」の上に「メ」を置けばいいのだろうが、私にはよくわからない。「鴎」にならって、「臨」「操」「藻」の「品」を「メ」にするべきかどうかも、よくわからない。たぶん、朝日に問い合わせるまで、字をまともに書けなくなるのだろう。あるいは、あらゆる略字の決定権は朝日が握っていて、国民はすべて朝日にお伺いを立てなくては、漢字が使えなくなるのだろう。
というわけで、朝日派の意見は論外と言えよう。
さて、ここで少々、付け加えておこう。このような事情にもかかわらず、朝日がこのような奇妙な主張をしているのは、なぜか? 推測すれば、おそらく、「せっかく自社で発明した朝日字体を、廃止するのはいやだ」という、朝日新聞社のメンツの問題であろう。
これまで使っていた朝日字体をやめるとなれば、朝日のメンツは丸つぶれである。それはカッコ悪い。「自分は間違っていた」と認めるのは、誰しも困難である。たとえ間違っていたとしても「オレは正しい」と言い張りたいものである。本当に勇気のある傑物であれば、自分の誤りを素直に認めることはできる。しかしそれを朝日に求めるのは酷であろう。
それと、もうひとつ、理由がある。朝日新聞社には、(呆れた話ではあるが)正字の字母がほとんどないのだ。たとえ正字を使いたくても、使えないのだ。こういう事情なので、「略字を使おう」と言っているのだろう。
※ 朝日新聞社にある文字数は、朝日から直接聞いたところでは、7000字強。つまり、
JIS第一・第二水準と同程度。この7000字強のうち、大部分は、自社独自の略字。
だから、自社でもっている文字のうちに、正字はろくに入ってないことになる。
(朝日の文字は、「彙」のような第二水準にあたる文字まで略字だ、という点に注意。
略字と正字の双方を備えるなら、1万字以上が必要となる。)
(2) 83JIS派
これは一応、理屈が通っている。
「第一水準だけを略字にした上で、略字に統一する。そして、世間的に略字を使おう」
という立場である。
しかし問題は、多くの略字賛成論者が、この立場に徹しきれていないことだ。たいていは、中途半端な立場に留まっている。
「第一水準を略字にして、それを使う」
というのなら、話はすっきりしている。しかし現実には、そうは主張していない。
「第一水準を略字にして、それを使わない」
としているのである。換言すれば、
「常用漢字以外は原則として使わない」
つまり、
「常用漢字は1945字にとどめて、2965字まで拡張はしない」
としているのだ。しかし、このような中途半端さは、矛盾ないし問題を引き起こす。
「定めるけれども原則として使わない」というような中途半端な立場では、いつまでたってもそんな略字は普及しない。一方、正字のままの既存の書籍や文書は大量にあるから、大量の正字のなかにぽつぽつと略字が浮かんでいる、というふうにしかならない。これでは混乱を引き起こすだけだ。
ここで、当用漢字を振り返ってみてほしい。当用漢字では略字が成功した。それはなぜかといえば、
「略字にして日常的に使う」
としたからだ。ところが、今の略字賛成論者は、そうはせず、
「定めるけれども日常的に使わない」
である。これでは、普及のしようがない。普及しないまま使えば、すでに普及している正字と、対立する。そこで混乱が生じるわけだ。
また、常用漢字と第一水準漢字との区切りが別々なのでは、ある文字を正字で書くか略字で書くかが、はっきりとしない。
例を挙げよう。たとえば、「剥/彙」「溌/撥」「鴎/謳」を見ると、いずれも、前者は第一水準だから略字で、後者は第二水準だから正字。……しかし、実際に略字になるか正字になるかは、いちいち、その文字が第一水準か第二水準かを調べるまで、わからない。これでは困る。漢字を書くときにいちいち文字コード表を見なくては使えない、というのでは、実用にならない。
「パソコンでIMEに任せりゃいいじゃないか。そうすりゃ、自動的に決めてくれる」と思うかもしれないが、さにあらず。IMEの現状は、デタラメなものである。たとえば、次のように。
読み | MS-IME98 | ATOK12 |
はとう | 波涛 (だけ) | 波涛 波濤 |
あしげ | 葦毛 (だけ) | 葦毛 芦毛 |
やせる | 痩せる 瘠せる | 痩せる (だけ) |
そうそふ | 曾祖父 曽祖父 | 曾祖父 (だけ) |
「はとう」は、ATOK12では略字と正字の両方だが、MS-IME98では略字だけ。
「あしげ」は、ATOK12では略字と正字の両方だが、MS-IME98では正字だけ。
「やせる」は、MS-IME98では略字と別字の両方だが、ATOK12では略字だけ。
「そうそふ」は、MS-IME98では略字と正字の両方だが、ATOK12では正字だけ。
要するに、IMEに頼っている限りは、どんな文字が出るかは、まったく見当がつかない。ギャンブルのようなものである。あるときは略字だけ、あるときは正字だけ、あるときは略字と正字の双方。こんなものに頼っていては、まともな日本語は書けはしない。
※ ATOK は、正字には比較的強いが、別字には弱い。
たとえば、「英知」があっても「叡智」がない。
「IMEに任せず、自分で調べりゃいいじゃないか」と思うかもしれない。しかし、さにあらず。「涛/濤」は第一水準と第二水準の両方がある。「穣/穰」も第一水準と第二水準の両方がある。いったいどちらを取るべきか、迷ってしまうだろう。
そこで、たいていの人はやむなく、次の原則を立てる。
「常用漢字以外は正字」
これで済むはずである。本来は。しかし、そううまく行かないのだ。たとえば「脱兎のごとく」は、通常、このような字形を用いるのであって、正字で「脱兔のごとく」とは書かない。この「兎」は、略字ではなくて、俗字なのである。これは歴史的に一般的に使われてきたという事実があって、正字はあまり使われない。
もしパソコン略字なんていう変なものがなければ、IMEは変な略字を出さないから、IMEをそのまま信用することができる。上の例で言えば「波濤」「頸椎」「曾祖父」などは正字だけになるし、「脱兎」「豊穣」は俗字だけになるし、「痩せる」は正字と俗字の両方(さらに別字)が出るようになる。IMEはきちんとした国語辞書にのっとって作られるので、IMEを国語辞書と同様のものとして使うことができる。
しかるに、パソコン略字なんていう変なものがあるから、IMEは国語辞典とは別個にへんてこりんな用字を示すことになる。そのため、IMEは信用できないものとなってしまい、IMEを国語辞典の代用として使うことはできなくなるのだ。
以上のようなことは、すべて、世間の標準的な用字に対して、パソコンが(というかJISが)独自の用字をもつせいである。換言すれば、「常用漢字/それ以外」という原則の上に立つ標準的な用字体系に対して、「第一水準(略字)/第二水準(正字)」という別個の用字体系をもつせいである。
日本語という一個の言語体系の上に、異なる二つの用字体系が併存すれば、混乱は必然である。だから、どちらか一方に統一しなければならない。
そして、統一するとすれば、その方法は、二通りある。
ひとつは、世間的な用字体系に、パソコンの用字体系を合わせることである。(国語審議会の方針が、これである。)
もうひとつは、パソコンの用字体系に、世間的な用字体系を合わせることである。(常用漢字を第一水準すべてに拡張することが、これである。)
この二つのうちのどちらをとっても、特に問題はない。しかし、それ以外では困る。
「略字を使おう」と主張するのなら、それならそれで、上記の二通りのうち、後者を主張するべきである。そうすれば、少なくとも、理屈として筋が通っているし、混乱も回避される。
だが、そうはしないで、中途半端な主張をするだけなら、やたらと混乱をもたらすこととなる。
(3) 書籍派
これは簡単である。常用漢字は略字だが、それ以外は原則として正字、という立場である。正字でなくて俗字を使うこともあるが、それはそれで問題ない。「パソコン略字なんてものを使わない」という点が肝心の点であり、これに尽きる。ぶっちゃけて言えば、国語辞典に示してあるとおりにすればいい。それだけのことだ。
これは、原則は簡単だし、どれをどう書くかはすぐにわかる。(国語辞典を引けばよい。)
また、現実に世の中の書籍はこうなっている。ほとんどの人はこのようにしている。これに反するのは、パソコンなどの電子機器と、朝日新聞だけである。
現実の世の中がこうなっているのだから、これを「どうするか」などと、あれこれ議論する必要はない。議論したがっているのは、一部の革命的な思考の持主だけだろう。
「何とかして、世の中をひっくり返してやろう」
と。ちょうど、ちゃぶ台をひっくり返すようにね。
ま、こういう人たちが、特定の色のついた旗を掲げて、議論したがるのは勝手である。しかし、こういう人たちとは、私は議論したくない。 ( 「嘘つけ! この文書はどうなんだ!」……ひえー。ゆるして。)
なお、この「書籍派」という立場をとった場合、ひとつだけ考えるべきことがある。現実のパソコンの略字とどう折り合いを付けるか、ということだ。つまり、JISをどうするか、という問題だ。新JISにおいて、「鴎」の正字などを、どのように導入するべきか。──これが深刻な問題となる。
ただしこれは、別の話になるので、この文書の最後にまとめて述べることとする。
結語
以上をまとめれば、次のいずれかのみが、選択可能な道となる。
(a) 略字を常用漢字に取り込んだ上で、使う。(常用漢字の拡張)
(b) 常用漢字以外は原則として正字に統一する。(多用される俗字も併用する。)
(c) 略字と正字を併用する。二重流通として、さまざまな混乱を引き起こす。
(d) 略字も正字も使わず、カナ書きか交ぜ書きにする。
以上の四つのうち、現実に行なわれているのは、(c) と (d) である。
ただ、この二つは、現実だとはいえ、愚策である。そこで、何とかして改良したい、というのが、昨今の議論のテーマとなる。
国語審議会で提案しているのは、(b) である。
(a) の「常用漢字の拡張」は、理論的には可能ではあるが、支持者が少ない。
私が本論で言ったのは、(a) と (b) のみが理屈上で正しい、ということである。(a) と (b) のどちらを取るべきかは、主張しない。(私としてはどちらでもいい。)
【 付言 】
現状は、 (c) の「略字と正字を併用する」(書籍では正字、パソコンでは略字)となっている。
これは混乱を引き起こす、と述べたが、具体的には、どんな問題を引き起こすだろうか?
そこで、詳しく見ると、次のような問題が浮かび上がる。
(1) 略字と正字が二重に流通しているため、混乱する。
国民は両方を覚えなくてはならない、という負担が生じる。
使いたい漢字があっても、出すのに苦労する。「波濤」のつもりがつい「波涛」になったり。
そこで、「略字に統一すればいい」という意見が出る。しかしこれは、誤りである。略字と正字の二重流通ならば、まだ可能である。しかし、略字に統一することなどは、決してできない。
そのことは、制定後 20年近くたった 83JIS略字が、書籍でまったく受け入れられていないことからもわかる。略字というものは世間一般に本質的に拒否されているのである。 (略字が嫌いだからではない。他人の決めたものを勝手に押しつけられるのがイヤなだけ。洋服だろうが古女房だろうが、「今のはダメ、こっちにせよ」と勝手に別のものを押しつけられたら、誰だって頭に来る。)
なのに「略字に統一する」としたら、強権をもって強制するしかない。「略字を使え! 正字を使用したら、打ち首だ!」と。(「生類憐れみの令」に似ている。) 民衆のいやがるものを押しつけるには、このくらいの強権が必要だ。 (ただし、それを狙っている人もいるようだ。)
(2) 見慣れない略字が出たら、いちいち頭のなかで直さないと理解できない。
たとえば「篭もる」とか「剥がす」とか「怒涛」とかを見たら、いちいち頭のなかで正字に直す必要がある。さもないと、漢和字典を引くこともできない。
(3) 部分字形の統一、というものがデタラメである。
略字を見たら、それを理解するために、頭のなかで正字に直さないといけない。しかし、直すことはできないこともある。次の例のように。
区 → 區 × → 臨
つまり、「區」の「品」を「メ」になったからといって、「臨」に同様のことがあてはまるわけではない。同様のことは、次の場合にも言える。
竜 → 龍 × → 襲 ( × は「竜衣」)
仏 → 佛 × → 沸 ( × は「さんずい+ム」)
国 → 國 玉 → 或
つまり、「竜」「仏」「国」の正字が「龍」「佛」「國」だからといって、「龍」「佛」「國」ならぬ「襲」「沸」「或」に同じようなことが成立するわけではない。
さらにまた、次のような場合もある。
歯 → 齒 米 → ×
粛 → 肅 米 → ×
つまり、「歯」の部分字形「米」を正字に直したからといって、「米」や「粛」の該当部分を、同じような複雑な字形に変換できるわけではない。
要するに、「部分字形の統一」というのは、神話にすぎない。幻か虚言か誇大宣伝である。
したがって、こんなものを信じて、「部分字形の統一」などを唱えれば、混乱が起こるだけである。
※ 以下では、略字をめぐるさまざまな疑問に対して、質疑応答形式で述べる。
冗談半分で書いているところもあるが、そこはそこ、ご容赦いただきたい。
Q1 常用漢字では「臺」が「台」になって、とても便利になった。その事実を認めよう。
A 話の論点がずれている。
常用漢字をどうこうしろ、という議論をしているのではない。「常用漢字を正字に戻せ」なんて、誰も言っていない。常用漢字以外の話をしているのだ。
常用漢字で略字が問題にならないのは、「略字を日常的に使う」としているからだ。つまり、(常用漢字として)日常的に使っている限り、略字を使うことには何の問題もない。このことについては、すでに何度も述べた。
Q2 常用漢字以外だって、常用漢字と同じような部分字形にすれば、きっと便利のはず。
A すでに述べたことだが、すべての漢字(数万字)を略字にすることはできない。朝日はそう主張しているようだが、不可能である。
とすれば、どこまでを略字とするか。それが問題となる。
たとえば、第一水準だけ略字、と定めたとする。その場合、第一水準までのすべての漢字を覚えなくてはならない。さもなくば、その漢字をどう書くか(略字にするか正字にするか)がわからなくなる。(すでに述べたとおり。)
書くときだけに混乱が起こるだけでない。読む方もまた、書籍用とパソコン用とで、二種類の字体を覚えなくてはならなくなる。途方もない負担となる。
「略字は画数が少なくて、簡単だ」と思うのは早計である。「ちょっと楽をしようとすれば、かえって骨が折れることになる」ということだ。
教訓的ではないか。実は、そういう話には事欠かない。イソップにも、日本昔話にも、いろいろとある。「アリとキリギリス」という話もあるし、「損して得取れ」という諺もある。
というわけで、「楽をしたいから略字を!」と思うのなら、まず、小学校か幼稚園に行きなさい。「楽をしたがってばかりいてはダメですよ。そんなことだと、あとで苦労しますよ。」と優しい先生が教えてくれるはずだ。そこで、「はーい」と大きな声で答えましょう。
Q3 正字と略字の両方があると二つあって混乱するなら、全部略字に統一すればいいでしょ。
A そんなことを言っているのは素人だけ。すべての漢字(数万字)を略字にすることなど、とうていできない。あまりに荒唐無稽である。
そもそも、珍しい古典漢文典籍にしか現れない文字を略字にして、何の意味があるのか。古典漢文典籍というのは、原本の形で理解してこそ、意味がある。勝手に文字を作り替えて研究しても、まったく意味がない。そんなことをして喜ぶのは、「おれの主張が通った!」と思う、特殊な略字主義者だけだろう。そういう古典漢文典籍を読みもしない略字主義者の都合で、古典研究は台無しにされるわけだ。
なお、朝日新聞は、「すべてを略字に!」と主張しているようだ。しかし、実は、自社で持っているのは、正字を含めても、7000字余りでしかない。(前述)
だから、数万字もあるうち、ほとんどの文字について、略字は作られていない。これから作り出さなくてはならない。たとえば、平野啓一郎の「日蝕」の本文中の正字を、朝日字体で書くとなると、どのくらい新たに略字を作るハメになることやら。まして、漢文典籍までとなると。……
要するに、ろくに略字も用意していないくせに、「略字を使え」と言っているのが、上の主張である。これは結局、「難しい漢字なんかどうでもいい、自分がふだん使う範囲だけ考えていればいい」という意見にほかならない。 ( 漢字をまともに書けない小学生あたりは、よくそう主張するようだ。いつまでたっても小学生みたいな意見を言わないでほしい。)
なお、そもそもの話、全面的な略字化などをして、世間に通じるのだろうか? たとえば「とう小平」の「登+おおざと」は、「登」の部分を「丁」に書き換えるのか? 韓国から「盧」大統領が来たら「戸」大統領と書き変えるのか? 歴史の教科書の「蘆溝橋」は「芦溝橋」に書き換えるのか?
こういったことをすれば、大変な混乱が起こるだろう。さらに、ひょっとしたら、「国家侮辱罪」に問われて、戦争が起こるかもしれない。「略字が国を滅ぼす」が、比喩でなく現実となるかもしれないのだ。
Q4 私は正字なんか使わない。常用漢字とあとちょっとだけあれば十分だ。
A 実は、それが本音なんじゃないの? 「おれはそんなもん使わない、だから要らない」と。
実は、ここが、最大の対立点であるらしい。文科系の研究者は、ふだん、正字を頻繁に使う。古典文書では正字が必要不可欠であるからだ。一方、現代の大半の人は、常用漢字だけで済ませている。だから、正字なんか要らないと思っているらしい。
でもねえ、ふだん常用漢字しか使わないなら、どうせ略字も正字も使わないのだから、黙っていればいいんじゃないの? 自分が使わないものについて、どうこうしろ、と発言することはない。
たとえば、普通の人は、数学や物理の難解な記号なんか使わない。でも、だからといって、「それらを廃止してしまえ」とは言わない。ただ黙っているだけだ。だったら、文学系の難解な漢字についても、黙っていればいいんじゃないの? 自分たちが使わないのなら、ほっといたらいいのに。
なのに、「自分たちは使わないから要らない」と言って、強引に正字を押しつぶそうとする。「必要だ」という人の意見を押しつぶして、「これにしろ」と強制する。……これはもう、ほとんど理解できませんね。宗教的狂信に近いのでは? 「正字は魔女だ! 火あぶりにせよ!」 ……昔も、焚書坑儒って、ありましたね。
「そういうおまえは略字を火あぶりにしたがっている!」
いえ、違います。誰も使わないゴミを燃やそうとしているだけです。
Q5 数万字もの漢字を略字にするのではなくとも、せめて、日常語の範囲では略字にしたい。
A だったらまず、常用漢字を略字に統一するべきだろう。たとえば、次のように略字にするといい。
襲 → ? (cf. 龍 → 竜 )
書 → ? (cf. 晝 → 昼 )
品 → メ (cf. 區 → 区 )
こういうふうに新しい文字を発明してこそ、常用漢字は略字に統一される。そういうふうにしたければ、そういうふうに主張すればよい。ただし、そんな書き方をすれば、書き手の「メ位」が疑われるだろうが。
Q6 常用漢字はともかく、JISの第一水準は略字になっているのだから、常用漢字以外の第一水準の範囲では略字に統一しよう!
A とんでもない。第一水準でも、「櫨」「寵」「鐙」のような文字は略字になっていない。これらのうち、「櫨」に対応する「枦」という略字はあるが、「寵」に対応する略字はJISには存在しない。さらに「鐙」(あぶみ)にいたっては、その略字体である「釘」は、別字(くぎ)である。 [ cf. 燈/灯 ]
第一水準の範囲で略字に統一しよう、なんて、ハナから無理な話である。JISで可能なことは、「その場その場のご都合主義」、つまり「原理も規則もない、まったくのデタラメな用字」だけである。
※ 「ではどうすればいいか?」という質問に答える。「言葉はすべて慣用に従う」という
のが基本である。慣用ではなくて原理や規則を打ち立てようとするのは、間違いだ。
それを科学的と考えているとしたら、あまりにも非本質的だ。科学とは、原理や規則
をつくることではない。現実の真の姿を見抜くことである。
Q7 しんにゅうぐらいは、一点しんにゅうに統一したって、いいんじゃない?
A わけのわからんことを言わないでほしい。今でさえ、「どれを略字にして、どれを正字にするか」と考えると、二種類ある。「JIS第一水準を略字に」という立場と、「すべてを略字に」という立場と。そのため、ひどく混乱している。(前者の流儀では、第二水準は正字。後者の流儀では、第二水準は略字。統一がとれていない。)
そこへもって、今度は「しんにゅうだけを略字に」だって?
そんなことをしたら、ますます統一がとれなくなる。いったい何種類の基準があれば気が済むのか? 百種類ぐらい基準をつくるつもりか? 基準がすごくいっぱいあれば、基準がひとつもないのと同じことになるが、それがわかっているのか?
まったく、呆れるね。略字主義者の言うことをいちいち聞いていたら、世の中は混乱の極みになる。もうちっとまともな論旨を唱えてほしい。
Q8 JISの第一水準の範囲で、統一しなくてもいいから、現状の略字を認めよう。
A そうすると、「どれを略字にして、どれを正字にするか」という問題が生じる。
「パソコンで出せばわかる」というふうには行かないことは、先にIMEのチェック表で示したとおり。
だから、表記法が定まるようにしようとすれば、結局、第一水準をすべて常用漢字に取り込んで、それを人間が覚え込むしかない。このことは、先に詳しく述べたので、そちらを参照。(「83JIS派」のところ。)
Q9 略字はすでにパソコンで定着している!
A 言葉遣いが不適切。「パソコンの漢字環境ははいまだにダメである」というべきだ。
かつて、MS-DOSが非常に普及していた。しかし、だからといって、「MS-DOSは定着している。ゆえにWindowsなんか導入するべきではない」とでも言うべきだろうか?
「普及度が高い」ということは、「定着している」ことを意味しない。定着しているか否かは、普及率なんかでは決まらない。人間の事情で決める。人間がそれを「よい」「オーケー」と認めて、受け入れれば、それは定着したことになる。
では、略字について、人間はどう見ているか? もちろん、世間の相当多数の人が、パソコンで正字が出ないことに大きな不満を持っている。「鴎」については、非難ごうごうだ。「よい」「オーケー」なんて言っている人はほとんどいない。とすれば、「定着した」などとは、とても言えないはずだ。
だいたい、「普及したものはそのまま変える必要はない」などと言い出したら、あらゆる技術的進歩は止まってしまう。誤りや欠陥が見つかれば、修正するのは当然である。 (誤りを修正するのと、規格を次々と勝手に変更するのとは、別のことである。混同してはならない。)
Q10 パソコンの画面では、複雑な字画の文字は出せない。だから画面上でも見やすくなるよう、字画は単純である方が好ましい。
A なるほど、傾聴すべき意見である。たしかに、それが望ましい。
しかし、複雑な字画が望ましくないからといって、それを勝手に改造してしまえ、というのは、あまりにも暴論である。
数千年もの歴史を持つ漢字を、できてからせいぜい30年程度のコンピュータの都合で勝手に変えられてしまっては、たまったものではない。あまりにも言葉を侮辱している。「侮辱罪で逮捕!」と言いたいところだ。
仮に、上のような意見が成立するとしたら、「襲」 「書」 「驚」 などの文字はどうなるのか。これらの常用漢字も、パソコンの画面では、小さなフォントでは、正確に表示できない。たとえば 「襲」 「書」 「驚」 のように。となると、「常用漢字ももっと見やすく簡略化せよ」という、極端な略字主義になってしまう。 (先の Q5 を参照。)
それだけではない。第二水準には、略字でない文字もたくさんある。また、「雛」のように、朝日略字にならない文字もある。(1999-5-22 朝日新聞朝刊に用例あり。) これらの文字も「字画が複雑」である。
となると、上の批判者を満足させるには、略字になる文字だけを略字化しただけでは不十分であって、あらゆる文字について簡体字を使うしかない。あるいは、漢字そのものを廃止するしかない。
思えば、昔も、似たようなことを言った人はいた。漢字の字画が複雑であることを問題視して、「すべてローマ字で書こう」「すべてひらがなで書こう」などと言うわけである。
ま、そう主張したい人は、勝手に主張すればいい。ただし、ローマ字やひらがなでね。
「KANJI WO YAMEYOU」
「かんじはじかくがなんかいなのではいししよう」
というふうにね。 (漢字 恥かくが……? )
Q11 わたしゃ、老眼なんです。小さな文字だと、複雑な字画は見えないんです。
A だったら、パソコンで大きなフォントで表示してください。それだけのこと。パソコンの使い方の問題です。文字の問題ではありません。
見やすくするやり方がわからなかったら、パソコンかアプリのサービスセンターにでも相談してください。それでもダメなら、老眼鏡を新しいものに買い換えてください。
あのねえ、ここは、文字の話をしているところなの。パソコンやアプリの話をしているんじゃないの。なんか、勘違いしていませんか?
【 付記 】 全体を見る
そもそも、漢字というのは、いちいち字画を見ることはない。パッと全体を見るだけだ。
仮に、いちいち字画なんかを見ていたら、文章を読めっこない。たとえば「躊躇」という文字なら、その一画一画をいちいち調べて確認しているわけではない。字の全体をパッと見て、瞬間的に理解しているのだ。だから、字画が複雑であるかどうかなんか、ほとんど意味のないことなのだ。
【 付記 】 ルビ
本当のことをいおう。字画がどれほど複雑であろうと、いっこうに差し支えないのだ。なぜなら、常用漢字以外なら、ルビを振るのが普通だからだ。
ルビは、文字は小さいが、ひらがなだから、見にくいということはない。少なくとも、字画の多い常用漢字(「襲」「驚」など)よりは、目に優しい。
さらに、ルビのサイズを少し大きめにして、「1/4」角なのを「1/3」角ぐらいに拡大すれば、まったく問題ないはずだ。(ルビを付けられる漢字同士に隙間ができて、間延びするが、気にするほどのことはない。)
漢字の字画が複雑であるかなど、どうでもいいことだ。そちらはろくに見ないで、ルビを見るからだ。
だから、何よりまず、「ルビを使おう!」と言えばいいのだ。「漢字を作り変えてしまえ!」「日本語を改造してしまえ!」なんていう極論を言うよりも、その方がずっと筋が通っている。
( ※ ルビについては、表紙ページにリンクを置いた「ルビについて」を参照。)
Q12 パソコンの文字なら拡大できるが、書籍の文字は拡大できないぞ。
A また勘違いしている。ここで問題にしているのは、書籍の文字をどうするか、ということではない。パソコンの文字をどうするか、ということなのだ。勘違いしては困る。
書籍の文字なら、どうするか悩むことはない。国語審議会で調べたとおり、書籍の文字はほとんど正字になっているし、この現状をあえて変更する必要はあるまい。
それでも、どうしても変更したければ、「現状を革新して略字化すること」をテーマに、審議すればよい。(ほとんど無駄だが。だいたい、仮に「略字にする」と、お上が一方的に決めたところで、国民がそれに従うとは思えないが。)
そもそも、一般出版物で字画が多いと不便だ、という問題については、すでに決着がついている。すなわち、「常用漢字は、見やすくするように、簡略化された字体にする」と。
これで話は済んでいるのだ。もう片付いた問題である。
Q13 でもやっぱり、字画の多い文字は見にくい。
A だからといって、自分の都合に合わせて、文字を作り変えてしまえ、というわけ? そりゃ、あまりに過激な暴論だろう。
たとえばフランス人に、こう言うだろうか?
「フランス語の複雑な発音が聞き取りにくいんです。フランス語の音韻体系を、日本人の私にわかりやすく作り変えてくれませんか?」
そう言えばいい。たぶん、鼻母音で軽くあしらわれるだけだろうが。
Q14 戦後、朝日字体が生まれたころ、文字はカスレがあって見にくかった。朝日の略字には、そういう歴史がある。
A それはそのとおり。まったくそのとおり。戦後、新聞は今日のような [12字/行] ではなくて、 [15字/行] だったから、文字はごく小さかった。また、写植でなく、鉛活字だったから、文字のかすれは非常に多かった。というわけで、細かな字画は非常に判読しにくかった。
だから、そういう状況下では、朝日字体というものは、十分に意義がある。私としても、そのような状況下なら、朝日字体を認めていいと思う。むしろ朝日字体に賛成する。
しかし今や、状況はすっかり変わった。文字はずっと大きくなったし、カスレもなくなった。さらにまた、ルビも立派に使えるようになった。
このように、今の状況は、昔の状況とはまったく別のものになった。昔の状況から生じた朝日字体にこだわる必要は、もはやまったくない。今と昔とは異なるのだ。
余談だが、上のことからわかるのは、「朝日は時代の変化にまったくついていけない」ということだ。状況が一変したことに気づかずに、いつまでも50年前の態度を守ろうとする。ほとんどシーラカンス的な思考である。あるいは、「親方日の丸」かも。 (だからそういう社名なの?)
Q15 公文書などで、平易な漢字でなく、難解な漢字を多用するのは困る。
A 勘違いしているようですね。略字にしたからといって難解な漢字が難解でなくなるわけではない。
なるほど、「亀/龜」のような新字・旧字の場合ならば、新字の方がわかりやすいに決まっている。しかし、常用漢字以外についてまで、同じことが当てはまるわけではない。
「波濤」を「波涛」と書けばわかりやすくなるか? まさか。「波濤」という用字なら、文系の人ならたいてい読めるが、「波涛」なんて用字では、たいていの人が読めない。いちいち頭のなかで、「寿」→「壽」と直して、それによって「涛」→「濤」と直さねばならない。ここまで直して、ようやく、理解できるようになる。また、理解できなければ、漢和字典を引くこともできる。一方、「涛」なんていう文字そのままでは、漢和字典を引くことさえできない。
つまり、「涛」は「濤」に比べて、形の上では簡単でも、余計な手間がかかるだけで、ちっとも簡単になっていないのだ。
「画数が少ないから難解でない」というのは、あまりに単純すぎる考えである。むしろ、上のようなクイズもどきのこと(頭のなかでの部分字形変換)が必要になるだけ、難解さが増える。略字は正字よりもずっと難解なのだ。
ちなみに、言う。画数が少ないのがわかりやすい、と思うのなら、すべて草書体にすればよい。草書体ならば、画数は劇的に減る。ただし、たいていの人にとって、難解すぎて、読めないだろうが。
あるいはまた、漢字をやめて、すべてカタカナかローマ字にすればよい。もちろん、かえってわかりにくくなるだけだろう、とは思うが。勝手にすれば。 (パズルの好きな人が読んでくれるかもしれない。)
Q16 現実に、パソコンでは略字が出るんだ。それを認めて、それに合わせればいい。
A 呆れた話である。パソコンの都合に人間の都合を合わせよう、なんて。これでは、本末転倒である。
パソコンの方が人間の都合に合わせるべきなのだ。その逆ではない。そのくらい、わきまえていてほしい。 (ま、私の周辺の人は、「パソコンを使っているつもりが、パソコンにこき使われている」と嘆いているが。……)
Q17 でも略字は、パソコンで長年使われてきたという実績がある。そういう歴史の積み重ねがある。
A 83JIS略字は、国語政策の変更にあたる。このような重大な国語政策の変更は、最低限、国語審議会の認知が必要である。なのに、そのようなこともせず、国民から広く意見を問うこともなく、国語政策とは無関係なJISの間で、少数の人々の間だけで勝手に決められた。
このような隠蔽的な策定方法は、民主主義に対する挑戦といえよう。こっそり勝手に制定しておいて、あとは既成事実として押しつける、というのでは、民主主義というものは形骸化してしまう。
たしかに、略字には実績がある。しかし、もし、このような「実績主義」というものが許容されるのなら、政治の世界ではあらゆる独裁が許されてしまうだろう。「おまえたちは、独裁者の決めたことに従うだけでいい」と。
83JIS略字はいったんチャラにして考えた方がいい。それが、民主主義というものに対する、我々の良心の表明である。
Q18 できた経緯は別としても、略字は一応普及しているんじゃない?
A 普及なんかしていない。「涛」なんていう変な略字を見たとしても、たいていの人が読めない。辞書で引いて調べたくても、辞書で引くこともできない。国語辞典にも出ていないし、漢和字典にも出ていないのだ。そんなものが、どうして「普及している」と言えるのか。
たとえ俗字であろうと何だろうと、国語辞典や漢和字典にちゃんと載っているような文字なら、喜んで認める。しかし、辞書に載っていない文字は困る。そんなものを勝手に作って「使え」と言われては、たまったものではない。それは言語に対する破壊行為である。
Q19 略字は公文書などでも使われていることがある。いきなり廃止したら、混乱は必至だ。
A 勘違いしているんじゃないの? 同じ文字に二種類の文字をあてはめれば、混乱する。それを統一したからといって、「混乱する」と批判するのは、話が逆である。
ずっと昔、尺貫法で、くじら尺が使われてきた。同時に、メートル法も使われてきた。二種類の基準があったわけだ。これでは混乱する。そこで、メートル法に統一した。これで、混乱は回避された。
ところが、それを批判する人もいた。「現状では、くじら尺も使われているんだ! いきなり廃止したら、世の中が混乱する!」
これは、「混乱」という言葉遣いの誤用である。従来のものを廃止すれば、それなりの「不便さ」や「手間」は一時的に生じる。それだけのことだ。それは、混乱から統一へ収束する過程での、一時的な痛みにすぎない。
ま、しいていえば、その人の頭のなかに精神的な「混乱」が生じる。それだけのことだ。そして、かわりに、世の中では、「混乱」が解消され、整然たる「統一」ないし「秩序」が生じる。
上の批判は、その論旨自体が「混乱」している。
Q20 略字が大好きだ! 何とかして普及させたい!
A 好き嫌いなら、仕方ありませんね。世論の大多数は反対ですから、クーデターでも起こして、独裁者になって、強引に押しつけるといいでしょう。
ただ、ひとつ、うまい手があります。姑息な手段ですが。自分たちだけで勝手に決めて、短期間だけチラリと公開することです。そして、「国民の意見をちゃんと聞いたぞ」と主張して、反対意見が出る前に、大急ぎで制定してしまうことです。(ひょっとしたら、それがうまく行くかもね。なんだか、そんな雲行き。)
Q21 朝日新聞は略字を主張しているが。
A これは話が少々複雑となる。
朝日は「略字がいい」と言っているが、本当に「いい」と思っているかは疑問である。
というのは、先に述べたように、朝日は正字を持っていないからだ。「正字と略字があって、そのうち略字を選択する」のなら、選択が働いたことになる。しかし、もともと略字しか持っていないのであって、正字を使いたくても使えないのだ。選択しようにも、選択できないのだ。そういう、きわめて貧弱な環境にあるのだ。(こんな貧弱な会社は、朝日だけだ。)
だから、朝日は「略字がいい」と言っているのではなくて、実は、「略字しか使えません」と告白しているだけなのかもしれない。
こういうのは、よくある話ではないか。ある人がしきりに「目刺しはすばらしい。カルシウムもあるし、脂肪は少ないし、すばらしい健康食品だ」と主張している。それを「ふんふん」と傾聴してみたら、実は、お金がなくて目刺ししか買えないだけだった、と。で、ビフテキを与えたら、日頃の主張も一転して、やたらと「うまいうまい」と食べ始めた。……
ま、貧者のいう「貧乏の肯定」なんて、話半分に聞いた方がよさそうだ。
私としては、せめて朝日も、古典をちゃんと表現できるだけの字母を備えてほしいと思う。まともに古典も表現できない、なんて、そんな新聞社では、文化レベルが知れる。
【 付記 】
朝日新聞の売り物の「折々の歌」では、すべて朝日略字になっている。引用された詩歌で、元の語や書名が正字であっても、勝手に朝日略字に書き換えている。口語体でもない文語体で、このような軽薄な略字が使われるのだから、ひどい違和感をともなう。要するに、そういう文化レベルの会社なんですよね、朝日ってのは。
Q22 朝日の出版物にも、正字は数多く見られるが。
A それで、奥付を見ましたか? 「印刷所 凸版印刷」となっているでしょ? つまり、自社ではまともな出版ができないので、外部の印刷所に外注しているわけだ。
本当に略字がいいと主張するのなら、自社で出す単行本もすべて略字で出版するべきだろう。(もっとも、そんなもの、売れないとは思うが。)
とにかく、略字がいいなら、売れようと売れまいと、略字で出版するべきだ。それが筋だ。ちゃんと筋を通してもらいたいものだ。
(私としては、ぜひ、略字で出版してほしい。そうすれば、大量の売れ残りと赤字が発生して、朝日は倒産する。朝日が倒産すれば、朝日字体という、エイズのようなものは撲滅される。めでたし、めでたし。……なお、Asahi Zitai を略すと AZ であり、これは「エイズ」と発音する。)
Q23 朝日だって、朝日字体の出版物は出している。「週刊朝日」がそうだ。
A だから「週刊朝日」の記事は、メチャクチャになる。そこのところ、理解してほしいですね。
1998-3-12号の「週刊朝日」のデキゴトロジーを見ると、「私は漢字が得意だ」という記事がある。ここに出てくる子供は、「私は漢字が得意だ。難しい字もちゃんと書ける。たとえば、『躊躇』とか、『痙攣』とかも書ける」と言っている。
ところが、である。ここでは 『 』 内の漢字(躊躇・痙攣)は、簡単な略字で記述されており、難しい正字になっていないのだ。(普通は見ないような変な略字になっている。)
つまり、「こういう難しい漢字をちゃんと書ける」という本人の発言が、「こういう(朝日字体の)漢字を書ける」というふうに記述されていることになる。
これでは記事の文意が通らない。「ちゃんと正字を書ける」という話が、「いい加減な朝日字体を書ける」というふうになってしまうのだ。
要するに、朝日新聞社の出版物では、日本語の文章をまともに記述することができないのだ。一種の文化破壊といえよう。
「折々の歌」もそうだ。朝日では、立派な文化事業だと錯覚しているようだが、とんでもない錯覚である。百歩譲って朝日の主張を受け入れて、記事で略字を使うことを認容したとしても、詩歌についてまで、原文や題名を勝手に自己流の字に書き換えることは、断じて許されることではない。そのようなことは、著作権(著作人格権)侵害でさえある。犯罪的とも言える。朝日新聞社というのは、そういう会社なのだ。
( たとえば私が朝日新聞社のことを勝手に別の字に書き換えて、「旭新聞社」などと書けば、怒るはずだ。ドライな自分の胸に手をあてて、他人の痛みを感じてほしいものだ。)
Q24 朝日の略字には読者が多くある。だから略字は受け入れられていると言える。
A 読者の要望も聞かずに、一方的に押しつけているだけだ。なのに、「受け入れられている」と勘違いするのは、自惚れにもほどがある。そういうのは、押し売りの論法だ。「イヤよイヤよ」という女の声を耳に入れずに、「オーケー」と勝手に解釈しているようなものだ。
そもそも、「朝日字体」というのは、JIS第二水準までも略字にしている、きわめて過激なものである。このようなものを使っているところは、朝日以外には、どこにもない。(また、朝日新聞自体も使ってない。原則として交ぜ書きなのだから。)
誰も使っていないものを「受け入れられている」と主張することはできない。自分が好かれているかどうかぐらい、ちゃんと理解したらどう?
Q25 朝日の新聞発行部数は多大だ。そこで略字が使われているということは、とにかく重要だ。
A とうとう出ました、朝日事大主義。「おれのやっていることは正しい、おれが世界の中心にいる」という主張ね。
朝日の記者も、ちっとは自己反省してもらいたいものだ。朝日なんてのはね、一匹の蛙(かわず)のようなもので、偉くも何ともないのだ。すぐにエリート意識を発揮するが、まったくその夜郎自大には辟易する。
朝日なんてのは、いくら部数が多くとも、単にひとつの出版社にすぎない。部数がいっぱい出ているからといって、毎回お金を払って買ってもらっているわけではない。月ぎめで1回契約してもらっただけだ。読者は、読みたくもない略字を、いやいや読んでいるだけだ。
だいたい「数が多いから偉いんだ」という発想自体が間違っている。そんなことを言い出したら、良心的な出版物はどうなる。ベストセラーのトップのテレビゲーム攻略本が偉くて、売れない学術書は偉くないのか。
問題は発行部数ではない。発行された紙の数ではなく、発行する人(つまり意識)の数である。発行された紙の数が問題なら、一番偉いのはトイレットペーパーだろう。
では、どうすれば、意識の数を調べられるか?
国語審議会の調査のように、印刷会社の調査をすればよい。印刷会社の調査とは、印刷所の意向ではなくて、その印刷会社を利用する出版社や著者の意向であるからだ。世の中には略字で印刷する印刷所もたくさんある。(小企業ではたいていそうだ。) そういうところを利用することもできるのに、そうはせず、たいていの出版社は、大手の印刷所を利用して、かつ、略字でなく正字で印刷するように指定する。出版社や著者の大多数の意向は、このように定まっている。(というのは、もちろん、正字が好きだからそうするのではない。世間の現状が統一されているところへ、新たに別のものを持ち込んで、混乱させたくないからである。何でもかんでも新規格を持ち込みたいのは、略字主義者だけ。)
国語審議会の調査は、表面的には印刷会社の調査になっている。しかし実質的には、それを利用する多数の出版社や著者(の意識)の調査となっている。そこを見抜かなくてはならない。
しかし、世の中には、批判する人もいる。
「朝日を調査対象からはずして、大手印刷会社だけ調査するなんて、けしからん。偏向している!」
と。その上っ面な理解には、呆れるほかない。
この人が言いたいことは、世の中の大部分が偏向していて、自分たちだけが正しい、ということのようだ。もし、こんな人が新JIS策定の責任者にでもなったら、新JISはメチャクチャなことになるだろうね。国語審議会の方針を無視して、強引に自己流の国語観を持ち込むことになるかも。 (そうならないことを祈るが。)
Q26 朝日で、人名を勝手に略字にしても、たいていの人は文句を言わないよ。
A 文句を言わないのは、諦めているだけ。頑迷な夜郎自大を相手にすると疲れるから。
だいたいね、「榊」だの「楢」だの、他人の人名漢字を勝手に略字に変更する(勝手に書き換える)。いくら文句を言われても、聞く耳を持たない。そのくせ、どこかの大スーパーの社長が「功」の異体字をちゃんと書いてくれ、と文句を言うと、誤字であるにもかかわらず、それをさっさと採用する。「へいへい」とね。
どんな人名であっても正確に書く、というのなら、わかる。でも、そうじゃない。大多数の正字の人名については、正しい字にしてくれと言われても無視する。一方、相手が大スーパーの社長であれば、ひとり分であろうと、誤字であろうと、その言い分を「へいへい」と素直に聞く。
朝日ってのは、そういう体質なんですね。「へいへい」、つまり、「へいこら へいこら」
【 付記 】 例外
ちょっと情報を得たところでは、この件、例外もあるようだ。
朝日は必ずしも全面的に上述のようであるとも言えないらしい。
というわけで、この項、冗談半分で読んでほしい。
(「どうせ全部冗談半分だろ」なんて言わないでね。 (^^); )
Q27 「常用漢字は略字で、常用漢字以外は正字」──というのは、二重基準だ!
A 朝日新聞社は、そう主張している。しかしこれは、詭弁である。というより、錯覚である。なぜなら、「二重基準」という言葉の意味を取り違えているからだ。
詳しく言おう。「二重基準」(ダブルスタンダード)とは、同じ対象に異なる基準を当てはめることを言う。古典的な用例としては、男女差別がある。「家事をしない」という同一のことについて、男に対しては「よし」と言い、女に対しては「ダメ」と言う。こういうふうに、同一のことについて、相手によって基準を変えることを、二重基準という。
一方、異なる対象に異なる対処なすのは、二重基準ではない。対象ごとに区別して異なる対処をなす、というのは、どこにでも見られる当たり前のことである。たとえば、料金表がそうだ。大人と子供で、別々の料金を課す。これは二重基準ではない。また、自動車税の税率もそうだ。異なる排気量の自動車に、異なる税額を課す。これも二重基準ではない。つまり、対象が異なれば、対処も異なるというのは、ごく当たり前のことであって、何でもかんでも一律に同じ対処をしよう、という方が、よほどおかしい。
漢字もまた同様である。「常用漢字/常用漢字以外」という異なる対象に対して、異なる対処(略字/正字)をなしたとしても、それは二重基準でも何でもない。当たり前のことだ。
どちらかといえば、朝日新聞の方が、二重基準である。朝日新聞は、「略字と正字を併用しよう」と言っている。つまり、同じ単語でも、あるときは略字、あるときは正字、となる。正字で書かれた原稿であっても、朝日に掲載したら略字になってしまう。朝日に略字で掲載された記事も、朝日が単行本で出版するときは正字になってしまう。(二重表記?)……こういうのを、二重基準というのだろう。
【 付記 】 誤変換
朝日の出版物では、「濾過」を「瀘過」と書く、という、けったいな
表記が見られる。 これはどうやら、上記の二重表記に起因する
誤変換であるらしい。 詳細は、「私案」に記したので、そちらを
参照してほしい。「天声人語」というキーワードで検索できる。
Q28 現在のJISは、二重基準ではないの?
A 朝日新聞社に言わせれば、二重基準だろう。「第一水準は略字/第二水準は正字」というのだから。朝日の目から見れば、JISはとうてい許し難いものとなろう。
ただ、朝日の言うように、「すべてを同一の基準で!」「すべてを略字に!」なんていう主張は、狂気の沙汰としか思えない。数万字もの漢字をどうやって略字にするのか?
「すべてを略字にしないのは、二重基準だからけしからん!」なんて言うのは、よほどお気楽で能天気な人の主張でしょう。
Q29 どうして朝日ばかりそんなに攻撃するのか。いくら朝日が略字を使っているからって、公正な態度ではないぞ。あんまり、いじめないでね。
A 朝日をいじめたいわけじゃないんですよね。〜 ほんとは朝日なんか無視したいところ。
ただね、朝日には、困るところがある。それは、言論の公器を私物化している、というところだ。
朝日はマスコミとして、巨大な権力を持っている。そのことを自覚しているのだろうか。(もしかして、自覚していて、わざとやっているのかな?)
言論の公器というものには、責任がある。特定の立場に与してはならない。事実は事実として報道し、賛否両論があるときは両方を平等に扱うべきだ。
なのに、朝日は、この立場を取っていない。「略字が是か非か」ということについては、あくまで公平に報道するべきなのに、一方に偏って報道している。偏向報道である。これではまったく困る。
自社として朝日字体や略字を肯定する、というのは、それはそれでよい。ただし、その場合、あくまで、当事者の一方としての分をわきまえるべきだ。そしてまた、一方では、略字反対論者の立場の人もいるだろうから、そうした当事者もまた、その場で意見を述べるべきだ。そして、新聞社としては、中立的な立場で、この双方を平等に報道するべきである。
しかし、朝日の記事はそうしていない。一方的に略字の肯定だけを報道している。言ってみれば、一人で検事と裁判官を両方兼ねているようなものだ。ここでは反対意見を述べる側はほぼ排除されている。(欠席裁判のようなものだ。)
これは恐ろしいことである。これはつまり、マスコミを私物化して、国民を洗脳しようとしている、ということにほかならない。
だからね、私は、本当は、朝日を攻撃しているんじゃない。みんなに警告しているのだ。「朝日のマインドコントロールに染まるな!」と。
朝日には、記事だか主張だかわからないような、特定傾向を持った文章がかなり掲載される。こういうのは、他の新聞に比べて、朝日に顕著なことだ。本当に恐ろしいことだ。注意しよう。さもないと、いつのまにか「略字大好き」人間に洗脳されてしまうかもしれない。 (もう洗脳された人も多い ?? )
Q30 そんなに朝日が嫌いなら、朝日なんか読まなければいいでしょ。嫌いだったら、なぜ読むの?
A むむむ。……それはね、いくら性悪女だろうと、古い女房とは別れられないものであって…… (いてっ。)
Q31 略字を批判してばかりいるようだが、略字は昔からあったぞ!
A 略字というより、俗字というものがある。これは、歴史的に使われてきたという事実があり、かつ、正字ではない。
たとえば、「和同開珎(わどうかいちん)」の「珎」は、その当時という大昔から使われてきた俗字らしい。この字は、「珍」の異体字だという説もあり、「寳(寶の俗字)」の略体文字として「ほう」と読む説もある。というわけで、略字といっても、昔からいろいろと使われてきたものもある。
そこで、問題は、このように、「歴史的に使われてきたという事実」があるか否かである。「珎」もそうだが、常用漢字もまたそうである。(戦後に限られるが)
また、国語審議会の方針もまた、そうである。国語審議会の検討では、「餠」という正字が使われることはほとんどないそうで、たいていは俗字(「餅」の旧字体)であるそうだ。私自身が見たところでも、たいていの近代文学書で、この俗字になっているようだ。
一方、83JIS略字は、そうではない。ごくわずかな例外を除けば、出版物では83JIS略字はほとんど使われていない。くだんの朝日新聞社でさえ、単行本では朝日略字を使っていない。
このような世間的に認知されていない戦後の略字と、昔からあった俗字とを、同列に扱うことはできない。略字と俗字とは、似て非なるものなのである。
Q32 でもねえ、なんでそんなに略字が嫌いなの?
A 全然、私の言っていることを理解していませんね。「略字が嫌いだ」なんて、誰も言っていないでしょ。
略字が困る、と言っているのではなくて、不統一なのが困る、と言っているのだ。
常用漢字なら、略字(新字)を使うことはいっこうに差し支えないし、むしろ、そちらを使うべきだ。かえって、ここに旧字が混じり込んだりしたら、その方が気持ち悪い。現代仮名遣いで「旧字」と書いている文章中に、ところどころ「舊字」なんていう用字がまぎれこんだら、不快なだけだ。
ついでに言えば、「行きませう。」「さうですね。」なんていう旧仮名遣いが部分的にまぎれこむのも、不快である。 (古典を覚えたばかりの中学生のガキが、よくこういう書き方をする。)
私が何度も言っているのは、「用字を統一してくれ」ということだ。「常用漢字は略字/それ以外はだいたい正字」という原則があるのだから、その原則にしたがってくれ、ということだ。すでにある原則を、勝手にいじくって、バラバラな用字をしないでくれ、ということだ。
世の中のほとんどは、ひとつの原則に従っている。ただし、朝日新聞とパソコンだけが、その例外となっている。この両者がどちらも同じ流儀で略字を使っているならともかく、それぞれ勝手な基準で、別々の流儀で略字を使っている。まことに不統一で、気持ち悪い。
「略字なら略字でいいが、それなりのちゃんとした基準で使ってくれ!」
というのが私の主張だ。つまり、「それらの略字をすべて常用漢字に取り込んで使うのならば、別に問題ない」と。
そういう基準もなく、バラバラな基準で略字を使うのに反対しているだけだ。それはあまりにも精神錯乱的だからだ。たとえば次の文章のように。
「さういふキジュンもなく、bara-baraなキジュンで RYAKU 字や舊字を使つたつて、いひじゃなひか。さふいうことは個人の勝手でありませう。勝手な文字じゅかいをユルちてこそ、自由というものだっちゅーの。うれピー」
Q33 でもやっぱり、正字が好きなんでしょ。古いねえ。
A いったいどこを読んでいるの? わたしゃ、正字が好きだなんて、ちっとも言っていないぞ。正字ばかりの戦前の古い本は、あんまり読みたくない。
私が言っているのはね、簡単に言えば、「国語辞典に示してあるとおりにしよう」ということ。「規範というものがちゃんとあるんだから、それに従おう」ということ。「勝手に変なものを発明して、混乱させるのはやめよう」ということ。
たとえばね、「花篭」なんて文字を読んでも、ピンと来ない。まして、「印篭」なんて文字を読んだって、何のこったかさっぱりわからないじゃないですか。頭のなかで正字に直して、やっと、「黄門様のいんろうか」とわかる。
だから、誤解しないでね。「当たり前の書き方にしよう」と言っているだけ。「へんてこりんな書き方はやめよう」と言っているだけ。国語審議会と同じなんです。たとえば、「餅」を「餠」にする必要はないんです。モチろん。
何回言ってもわからない人がいるようなので、もう一度、重ねて言う。
私が言いたいのは、
「略字か/正字か」
ということではない。そんなことはとっくに結論が出ている。83JISの略字が出てから、もう 20年近くたっている。朝日字体という略字が出てから、なんと 50年程度たっている。それだけの年月を経て、なお、略字は定着していないのだ。( 前述。Q9 ) だから、この二者択一をしなければならないのなら、すでにはっきりと結論は出ているのであって、議論の余地はない。そもそも、朝日新聞社だって、「正字をやめよ! 自社の略字に統一せよ!」などと主張しているわけではない。 (いくらなんでも、そんなに厚顔無恥ではない。)
私が言いたいのは、むしろ、
「2種類の字体の併用か/1種類に統一するか」
である。換言すれば、
「混乱か/秩序か」
である。そして、もちろん、これは、私独自の見解ではない。国語審議会の見解と同じである。まともな国語感覚があれば、誰しも同じ結論にたどり着くだろう。 (文芸家協会なども同様の結論になるはずだ。)
結局ね、たとえて言えば、次のように言いたいわけだ。
「女房は二人もいらない!」
二人もいたら、どっちの言うことを聞いたらいいのか、わからなくて、混乱するばかりだろう。皺だらけの(縦線や横線がいっぱいある)女房だろうと、ちゃんと長年の歴史があるのだから、それと連れ添う以外には、家庭安泰の道はない。古女房と愛人を同居させようなんてのは、狂気の沙汰である。
それでも、こう主張する相手も出てくるかも。
「古い女房なんか捨てて、ついでに子供も捨てて、今までの資産も全部捨てて、あたしと結婚しましょうよ。うふふ。若くて、ピチピチよ〜ん。」
こういう単細胞な性悪女が勝手に押しかけて、家庭に大波乱を起こしたら、どんなことになるやら。
(でもまあ、単細胞なギャルの魅力に引かれる気持ちも、わからないわけではない。 「そうするよ〜ん」と答える人もいるかも。……あとでひどい目に遭うだろうが。)
Q34 あんたはともかく、私は略字を使いたいんだ。誰にも迷惑をかけなきゃ、いいだろう?
A いったい何が言いたいの?
「略字と正字を両方流通させたい」と言っているのなら、そんな二重流通は、世の中を混乱させるので、世の中にとって迷惑だ。
「略字に統一したい」というのなら、国語審議会の調べたことからもわかるように、世の中の現状を否定することになり、やはり世の中にとって迷惑だ。
どちらにせよ、迷惑だ。
それでもなお、「迷惑でない」と言い張るの? 自分が何を言いたいのか、ちゃんと整理してから、発言してほしい。
Q35 世の中の迷惑なんか知ったこっちゃない。ともかく、おれは略字を使いたいんだ! おれの好みだ! 文句あっか!
A そういう人もいるだろうが、ひとこと言っておきたい。
それならそれで、朝日やJISのつくった略字ではなくて、私のつくった略字を使ってほしい。略字をつくる権利は、朝日やJIS担当者に限られているわけではないだろう。私だって、自己流の文字を作って、漢字ごっこして、遊びたい。
だから、ここで、はっきりと言う。どうしても略字を使うなら、「南堂体の略字を使え!」と。
Q36 南堂体の略字とは?
A 朝日やJISのような中途半端なものではなくて、もっと徹底的に略字化した略字である。
要するに、先に述べた方法に従って、「襲」「書」をへんてこりんな略字にしたものである。さらに、「鐙」(あぶみ)を「釘」(くぎ)にして、「登」を「丁」にして、「馘」を「首玉」にして、「或」を「玉」にして、「品」を「メ」にする。まあ、一種のジョークである。私はジョークが好きなので、このようなジョークな字体を使ってもらいたい。そいつに「南堂体」または「N&O体」という名前を付けてもらいたい。ま、おふざけである。
「ふざけるな!」
と怒るかもしれない。しかし、朝日や83JIS制定者だって、自分たちで勝手に作った文字を、世間に強制的に流布させようとしている。私がその人たちと同じように、自己流を押しつけたからといって、非難されるいわれはない。 (そもそも、JISや朝日の字体だって、ジョークじゃないの?)
それとも、何ですか。朝日や83JIS担当者ならば、好き勝手をやってもいいが、それ以外の一般人は、同じことをやってはいけないというんですか?
ついでにいえば、私以外にも、ふざけた真似をやっているところはあるじゃないですか。JRがそうだ。「E電」なんて。だったら、「慶應」は「KO」だし、「猥談」は「Y談」だし、「郵便」は「U便」(臭そう)だし、「人類の英知」は「人類のH」である。(ありゃ、最後のは、そのままピッタリかな。)
Q37 南堂体なんていう個人的な略字はダメだ! 朝日やJISが定めた、権威あるものでなくては!
A 語るに落ちたり。ふ〜ん。やっぱりね。
「略字は平易で大衆的だから、すばらしい!」
なんて唱えていたのは、嘘だったのね。本当は、朝日やJISなどの権威を押しつけたかったんだ。つまりね、略字賛成論というのは仮の仮面であって、本当は権威主義だったのね。
優しそうな顔をしていても、かぶっている皮を剥がせば、略字主義ってのは、権威主義なんだ。昔から一般大衆が使ってきた慣習的なものを否定して、エリート意識あふれる自分たちが「これぞ理想」と決めたものを押しつけようとしているわけだ。
「おまえたち愚かなやつらは、頭のいいオレたちの決めた略字を使っていればいいんだ。馬鹿どもは、黙っていろ。」とね。
え? 違う? 別に権威なんかないものも認めてくれるの? じゃ、「NandO体」というジョーク字体も認めてね。
ま、あんまりこのジョーク字体の自己宣伝をすると、私まで権威主義になってしまいそうだ。だから、このへんで黙ることにします。 では、さいなら。 (^^)/~~~
字形の変更 について
新JISでは、略字に対応する正字を採択する方針である。たとえば、「鴎」の正字を採択する。
では、その正字を、どう採択するべきだろうか?
・ 既存の略字に対して正字を追加する。
・ 既存の略字の字形を変更する。
このどちらにするかが、問題となる。
前者は、コードポイントを別に必要とする。
後者は、同じコードポイントをそのまま使う。
| コードポイント数 | 既存コードポイント | 新コードポイント |
正字の追加 | 計2 | 無変更 (略字) | 新規文字 (正字) |
字形の変更 | 計1 | 変更 (正字) | なし (※) |
( ※ 別途、後述する。 → ここ )
さて、「正字の追加」と「字形の変更」では、いずれが好ましいか?
もちろん、どちらも一長一短であり、片方が一方的に優れている、ということはない。
ただ、総合的に勘案して、私としては、「字形の変更が好ましい」と判断する。
その最大の理由は、「字形の変更」でなく「正字の追加」をした場合、途方もない混乱が起こるからである。つまり、 「混乱の回避」というのが、最大の根拠となる。
では、混乱とは、何か?
83JIS改訂では、「壺/壷」などのコードポイントの交換を行ない、多大な混乱を引き起こした。今回、もし正字の追加をした場合、その二の舞となるからである。
ただ、このことを、逆に理解している人が多い。つまり、
「字形の変更を行なえば、83JIS改訂のコードポイント交換と同じような混乱が起こる」
と。しかし、これは、大いなる錯覚である。
以下では、このことも含めて、詳しく論拠を述べる。
【 字形の変更の メリット 】
字形の変更をすることには、大きなメリットがある。それについては、表紙ページにある「私案」でも述べた。重複をいとわず、ここでも述べてみよう。
(ただし、「私案」第6章も、一応参照してほしい。)
(1) 過去の資産
過去に作成された文書がたくさんある。こうした過去の資産を生かすには、字形の変更をするしかない。
たとえば、「森鴎外」という用字の文書がたくさんある。これらは、字形の変更をすれば、そのまま正字の「森鴎外」となる。これですべてうまく行く。何も問題は生じない。
一方、「鴎」の正字を追加した場合、どうなるか。新規に作る文書については、その正字を使えばいい。しかし、過去の文書については、すでにある「森鴎外」がすべて略字に文字化けしてしまう。このような多大な文字化けが生じる。つまり、途方もない混乱が生じる。
結局、過去の資産を生かそうとすれば、「字形の変更」をする以外にない。
これまでに過去の資産としての膨大な文書が作成されてきた。そのすべてを無視するような議論は、承服しがたい。
「新たに作る文書では、新たな正字を使えるから、それでいい」
というのは、過去の資産を無視した、暴論である。
※ 「現状でも『森鴎外』は略字ではないか」というのは、早とちりである。
現状では、78JISも使われている。また、97JISでは包摂されている。
だから、83JISでは略字に見えても、「正字のつもりで見てくれ」と言える。
しかし、「正字の追加」をしたら、今後、既存の「森鴎外」はまぎれもない
略字となってしまうのだ。つまり、明白な文字化けを起こすわけだ。
(2) 文字コードの破綻
それでも、過去の資産をすべて切り捨ててしまうことが、実際に可能であれば、混乱は生じない。
「過去の文書は過去の文字コード規格で」
「今後の文書は新しい文字コード規格で」
と、きっちり切り分けることができるのであれば、別に問題は生じない。 (過去の文書が無駄になるが、それだけだ。)
しかし、現実には、そうは行かない。
仮に、正字を追加したとする。そのあと、インターネットで「森鴎外」を正字の「鴎」で検索したとしよう。すると、もちろん、過去のコードポイントを用いた「森鴎外」は、すべて検索から漏れてしまう。これでは、検索の用をなさない。
では、どうするか? 読者の側で、それに対処するしかない。つまり、現実的には略字のコードポイントを用いて「鴎外」と記してあっても、「それは正字のつもりで書いてあるのだから、正字として理解する」と対処するしかない。 (実際、現時点では、たいていの人は正字のつもりで書いているのだから、それが当然だ。)
となると、新JISで略字として規定されている「鴎」は、現実のユーザにとっては正字としても理解されることになる。略字として理解されるだけでなく、略字と正字の双方として理解されることになる。これはつまり、一つのコードポイントが、二つの字形で理解されるというわけだ。これでは、文字コード規格としての破綻である。
もっとも、好意的に解釈すれば、この点は、現在と同じだとも言える。別に悪くなったわけではない。
しかし、現在と同じなら、新たにコードポイントを追加したことの意味がない。まったく無駄なことをしたことになる。
それだけではない。悪くなる点もある。現在ならば、「森鴎外」は、たとえ略字で表示されていたとしても、「正字で理解する」という暗黙の合意がある。この暗黙の合意の上で、特に大きな混乱は生じずに済んでいる。
ところが、正字の追加をした場合、従来のコードポイントで「森鴎外」と書いた文書(たとえば過去の文書)を見たら、「この人はあえて意図的に略字を使っているのかな? 何か深いわけがあるのかな?」と考え込まざるを得ない。暗黙の合意が働かなくなってしまうのである。つまり、無用な混乱が生じるのである。
何もメリットがなく、無用の混乱だけが生じる。それが「正字の追加」をすることの結果である。
(3) コンバータ
以上のような混乱は、是が非でも回避したい。
そこで、仮にこれが実行された場合、少なくともユーザレベルで何とか対処しようとすることになる。
具体的には、旧規格から新規格へのコンバータを用いて、旧規格で書いた文書を変換しようとする。たとえば、旧来のコードポイントの「鴎」を、新コードポイントの文字に置換する。
これが現実に可能であれば、まだいい。しかし、現実には、不可能である。
なぜか? ファイルに用いられている規格は、シフトJISのテキストファイルだけとは限らないからだ。
文字コードでは、シフトJIS以外に、EUC,JIS,unicode,UTF-8など、さまざまなものがある。
ファイル形式では、テキストファイル以外に、RTF,MS-Word,一太郎,pdf,エクセル,パワーポイントなどの各種文書があるし、さらに、バイナリ形式のヘルプファイルもある。
こうしたものに対して、一律に変換処理するコンバータなど、作成することはまったく不可能である。 (どんなに努力しようと、元の文書の使用コードが、78JIS,83JIS,混用のいずれなのかわかりようがないのだから、原理的に、絶対に不可能である。)
しかも、このコンバート処理は、一回やれば済むというものでもない。たとえ100時間かけて、過去の文書をすべてコンバートしたとしても、それで終わりになるわけではない。今後も、他人から次々と、コンバートの必要な文書が送られてくる。まったくキリがない。ほとんどシジフォスのような呪われた運命にある。
要するに、コンバータで対処することなどは、とうていできない。
とすれば、正字の追加による恐ろしい混乱を、ただ耐え忍ぶしかないことになる。
【 字形の変更の デメリット 】
字形の変更をすることのメリット( 正字の追加をすることのデメリット)は、すでに述べてきたとおりである。
ただ、字形の変更には、メリットばかりがあるわけではない。デメリットもある。それについても、評価しよう。
(1) 本来の略字
字形の変更にも、デメリットはある。そのうちの最大のものは、次のことだ。
「もともと略字のつもりで書いたものが、勝手に正字に変換されてしまう」
ということ。
たとえば、「鴎外」さんはもともと正字だからいいとして、もともと略字だった「鴎子」では、略字が勝手に正字になっては困る。
また、「何が何でも略字を使いたい」という人の書いた文書まである。
……以上のような問題が考えられる。これらは、デメリットとなる。
ただ、よく考えてみると、これらのデメリットは、理論上では考えられるが、現実的には、ほとんど問題にならない。
その理由を、以下に述べよう。
(a) 83JIS改訂時のコードポイント交換のような問題は生じない
83JIS改訂時には、コードポイントの交換がなされた。
この際、略字の「桧山」さんは、正字の「檜山」になってしまった。(逆のことも起こった。)これは途方もない混乱であった。
では、このような混乱は、「字形の変更」をした場合、同じように起こるのではないか? ……そう思うかもしれないが、そんなことはない。
「桧山」さんが「檜山」さんに化けてしまって問題となったのは、もともと「桧/檜」の二つの文字が、JISのうちにあったからである。この状態で、両者を交換すれば、混乱が起こるに決まっている。
しかし今回は、話がまったく異なる。「鴎」の正字と略字の二つがあったわけではない。もともと「鴎」のひとつ(のコードポイント)しかなかった。
つまり、このひとつのコードポイントに、略字と正字の双方が込められていた。
「鴎」という略字を使っているとき、まさしく略字のつもりで書いている人もいただろうが、一方では、正字のつもりで(つまり代用字として)書いている人もいた。
だから、コードポイントの交換と、字形の変更とは、別のことなのである。
コードポイントの交換
檜 → 桧 (正字 → 略字)
桧 → 檜 (略字 → 正字)
字形の変更
略字と正字 → 正字
このように、別のこととなる。
そして、後者の場合、もともとひとつのコードポイントに二つの文字が込められていたのだから、二つのうちひとつは否応なく追いやられることになる。どちらか一方は、どうしても文字化けが避けられない。
そこで、問題は、ふたつのうちどちらを取った方が、文字化けを減らせるか、となる。
これはつまり、「現在、たいていの人は、『鴎』という文字を、略字と正字のどちらのつもりで使っているか」ということになる。
それは、もちろん、正字に決まっている。そもそも略字の「鴎外」なんていう用語は、この世に存在しない。存在するように見えるのはすべて、誤字、もしくは、自己流の勝手な書法である。(『森鴎外』という人名の書き方を決定できるのは、森鴎外その人以外にはいないから。)
同様に、「鴎」以外でも、たいていの場合は正字で使っている人が多い、と推定できる。そのことは、先の国語審議会の調査から、明らかである。
要するに、ユーザは、もともと、正字のつもりで「鴎」などを使っているのだ。だとすれば、その意図を尊重して、正字にするのが自然である。
ユーザが正字のつもりで「鴎」を使ってきたのに、「略字にしろ」と押しつけるのは、あまりにも強引すぎる。JISとは、特定の主義主張のためにあるのではない。国民がそうしたいという意図を尊重するべきなのだ。
要するに、略字を正字にしたからといって、ユーザの意図に反した字形が表示されるわけではない。むしろ、これまではユーザの意図に反していたのが、正常に直るだけである。
結局、字形の変更と、83JIS改訂時のコードポイントの交換とは、話がまったく異なる。原理も異なるし、影響も異なるし、ユーザの意図の実現という点でも異なる。いくらか話が似ているように思えるが、実はまったく似ても似つかぬことなのである。
ここで、コードポイントの交換との対比を、整理してみよう。
コードポイントの交換では、もともと二つの文字があって、その字形を交換した。
字形の変更では、何かを交換するわけではない。(交換しようにも、元々ひとつしかないのだから、交換のしようがない。) ここで起こるのは、「交換」ではなくて、「変更」である。そして、その変更とは、「右から左への変更」というような種類の変更ではなくて、「誤から正への変更」つまり「正誤訂正」である。
正誤訂正は、した方がいいのは当たり前だ。「間違いは間違いのままそのまま流通させよう」なんていうのは、まともな人間の考えることではない。
いわゆるパソコン略字は、ほとんどが正字のつもりで使われているのである。あえて略字で「森鴎外」を書こうとしている人はほとんどいない。(現時点では、出版物を見ればわかる。今後、国語審議会の方針が決定すれば、いっそうそうなる。)
だとすれば、こうした過去の文書では、見た目では略字のように見えていても、実質的には正字なのであるから、ユーザのその意図を尊重して、正字にするべきなのである。
その際、例外的に「略字を使っているつもりだった」人は苦情を出すだろうが、それは、やむを得ない。多数意見を採用すれば、少数意見は捨てざるを得ない。二者択一しかできないときは、そうするしかない。
(b) 略字の人名
正字の「鴎」を用いた「鴎外」さんならともかく、略字の「鴎」を用いた「鴎子」さんがいたら、困ったことになる。それはたしかに、その通りである。
しかし、略字の「鴎」を用いた「鴎子」さんなど、現実にいるだろうか? 「鴎」は常用漢字でもないし、人名漢字でもない。したがって戦後生まれには、そのような名前の人はいないはずだ。また、戦前生まれなら、当然、正字としての「鴎」を使っていたはずだ。
となると、略字の「鴎」を用いた「鴎子」さんなど、現実にいるとは思えない。もしいるとしたら、戦前生まれのうちの、誤用で書いた略字の「鴎子」さんぐらいだろう。しかし、誤用としての人名漢字などは、いちいち考慮する必要はない。そもそも、誤用という特殊な例外を「主」にして、大多数の正字の「鴎外」「鴎太郎」さんなどを「副」にするなど、本末転倒である。
つまり、(姓でなく) 名については、略字の名を考慮する必要はない。
一方、(名でなく) 姓については、話は異なる。
たとえば、「榊原」などを見ると、多くは正字だが、略字の「榊原」さんもかなりいる。となると、「榊」を略字から正字に変更すると、略字の「榊原」さんは、大いに不満になりそうだ。
しかし、そうはいっても、略字の「榊原」さんを優先すれば、今度は正字の「榊原」さんが文句を言う。あちらが立てば、こちらが立たず。しょせん、一つのコードポイントに、二つの漢字が入っているのだから、どうしようもないのだ。
そこで、「榊」のように人名字(それも姓の方)として多用される略字については、字形の変更をした上で、略字を別のコードポイントに追加すればいいだろう。略字を新JISに入れることをあくまで排除しているわけではない。
ただ、その場合も、字形の変更をすることが原則である。つまり、元のコードポイントには、略字でなく、正字を入れる。
なぜそうするか? その理由は、次の2点だ。
・ その字は、人名に使われるだけでなく、一般名詞にも使われるから。
たとえば「榊」という一般名詞がある。
・ 人名の場合も、正字で使われることの方が多いのが普通だから。
たとえば、略字の「榊原」さんより、正字の「榊原」さんの方が多い。
(c) 略字主義者の文書
略字主義者の文章がある。つまり、
「世間がどうであろうと、とにかくおれは略字を使いたいんだ」
という人の文書である。
これを正字に直すと、「略字のつもりで書いたのに、勝手に正字に直すとはけしからん!」と怒られそうだ。
しかし、この点については、表紙ページにある「私案」で詳しく述べた。
簡単に言えば、そういうふうに自己流を貫きたい人は、勝手に「略字フォント」を使えばいい、ということだ。
83JISに不満な人は、現在、78JISフォントを使っている。同様にして、新たに正字の新JISが定まったときに、それが不満なら、83JISもしくは新JIS対応の略字フォントを使って、略字で表示すればよい。自己流を貫き通したければ、自己流のやり方をすればよい。それだけのことだ。
ともあれ、そうしたい人は、節度をもって、そうすればよい。自分が風変わりなことをしたければ、自分だけでやればよい。世間一般に自己流を押しつけるようなことは、やめてもらいたい。
(2) 混乱と二重流通
「字形の変更をすれば、旧来のJISと、新JISとで、別々の字形となる。つまり、字形が二重流通する。したがって、混乱が生じる」
という批判がある。
それは正しい。まったくその通りである。たしかにそのような混乱は生じる。
しかし、よく考えてみよう。このような混乱が生じるからといって、誤った略字をそのまま放置することが、正しい道だろうか?
ある出版社が、誤字だらけの本を出版したとする。しかもすべて販売されてしまって、今さら改修はできない。このようなとき、次回の増刷では、どうするべきか? もちろん、誤字は訂正して、正しい用字に直すべきである。「誤りがあるのと、誤りがないのと、二種類の同じ本が出回っては、混乱する。だから誤字のまま増刷するべきだ」とは言うまい。
あるいはまた、某M社のソフトがバグだらけだったとする。このあと新バージョンを出すとしたら、バグを放置するべきではない。「バグがあるのとバグがないのと、二種類のソフトが出回っては、混乱する。だからバグはそのまま残すべきだ」とは言うまい。
このような場合、多少混乱が生じることになったとしても、誤りは誤りとして修正するべきなのである。その程度の混乱は、治療の痛みである。「注射が痛いから、治療はしたくない。病気のままでいい。直らなくてもいい」などと主張するのは馬鹿げている。
略字もまた同様である。略字とは、世間的に認知もされていないし、たいていの人が読めないし、国語辞典や漢和字典にも出ていない。このようなものは、誤字の一種にすぎない。誤りやバグや病原菌のようなものである。そんなものは、さっさと追放する方がよい。そうしてこそ、健康な体になれるというものだ。
【 参考 】 83JISの誤字
バグのようなもの、でなく、まさしくバグと言えるものがある。つまり、誤字である。
83JISには「冤罪」の「冤」という字があるが、これは誤字である。正しい字形は、「ワ」かんむりの下の「ク」を「刀」に変更したものである。
83JISでは、この部分字形を「免」と同様のものと見なしたようだが、「免」(「メン」と読む)は点がないし、そこが「ク」になっている。「冤」の部分字形の方(「ベン」と読む)は、点があるし、そこが「刀」になっている。両者は別のものである。
83JISの文字は誤字なのであるから、もちろん、正しい字形に直さなくてはならない。
さて、ここで、「正しい字形を追加すればいい」と主張するのは馬鹿げている。なぜなら、これまでにも、「冤罪」などという単語を使った電子文書はたくさん作られているからだ。そうした過去の資産を捨てるわけには行かない。一方、該当個所をすべて修正することも、不可能である。
そもそも、83JISが勝手に間違えたのに、国民の側がその尻拭いをして、あちこちの文書を修正するいわれはない。
「冤」のような誤字は修正されるべきである。それが最善である。正しい字形を別途追加するのは得策ではない。
そして、誤字ではなく、略字についても、同様であろう。
【 結語 】
以上をまとめて言えば、こうなる。
・ 字形の変更は、メリットは大きく、デメリットは小さい。
・ 正字の追加は、逆に、メリットは小さく、デメリットは大きい。
そもそも、どうして、このような結論になるか?
それは、たいていの場合、人々は、略字ではなく正字のつもりで、その文字を使っているからである。たとえ略字で「鴎外」と書いたとしても、本来は正字の「鴎外」のつもりで書いているのである。わざわざ国語辞典にもないへんてこりんな略字を使おうとしている人はほとんどいないのだ。
「字形の変更」は「字形の交換」ではない。83JISのコードポイント交換とは事情がまったく異なる。とすれば、これらを混同したりせず、正しくメリットとデメリットを比較するべきである。
“ 「区」と「區」だって略字と正字がある。だから「鴎」も、正字を追加すればよい ”
そう思っている人が多いようだ。しかし、それは錯覚なのだ。
初めから「区」と「區」を用意しておけば、両者を使い分けられるから、何も混乱は生じない。しかし、現在どちらか一方しかなければ、新たに別の字体を付け加えることで、大きな混乱が生じることもあるのだ。
83JIS改訂時には、コードポイントの交換で、多大な混乱をもたらした。今回、もし「正字の追加」をすれば、その二の舞となりかねない。
なぜか? 「鴎外」はほとんどが正字のつもりで書かれているからだ。それなのに、正字を新たに追加したとすれば、コードポイントが、現在のコードポイントから、新たなコードポイントへと、変更されることになるのだ。これはちょうど、83JISのコードポイント交換と同様である。
「正字の追加」は、83JIS改訂時のコードポイントの交換と、同じような混乱を引き起こす。しかも、今回の方が、電子機器ははるかに普及しているから、混乱の度合いはいっそう大きい。おそらく、次のような苦情が殺到するだろう。
「新JISでは、『鴎外』がちゃんと出る、と言われていたのに、手持ちの文書の『鴎外』が直りません。どうしたらいいの! 今までの文書の「鴎外」をすべて正字にする方法を教えて!」
「せっかく新JISを入れたのに、pdf ファイルの『鴎外』が直りません。どうすればいいの?」
「78JISで書いた『鴎外』がみんな文字化けしてしまった!」
「97JISでは、二つの字体が包摂されていたのに、今度は一方に固定されてしまった! 97JISを信じて、『鴎外』という文書を作成してきたのに、どうしてくれるんだ!」
このように、非難ごうごうとなる。
一方、字形の変更をした場合は、こうなる。
「新JISを入れたら、『鴎外』がみんな正字に直った。ばんざ〜い!」
「あ、ほんとだ。 pdf ファイルも doc ファイルも、みんな直っている! シフトJIS以外の EUC などの HTMLファイルまで、どういうわけか、みんな直っている! すごい。魔法みたいだ!」
「これまでせっせと入力していた『鴎外』などの文書が、無駄にならずに済んだ。よかった。ほっ。」
「97JISで、『どちらでもよい』としたのは、この日のことを予測していたからか。さすがだな、97JISの担当者は」
「世の中のみんなが喜ぶから、パソコンもどんどん売れる。わが社もほくほく」
「会社が儲かるので、私も給料アップ。うれしいな。あれも買おう、これも買おう」
「みんながいろいろ買うので、景気が回復。これで私の政権支持率も。うひひ……」
ただし、その一方、世の中の片隅では、不平の声がつぶやかれる。
「せっかく試みた83JISの野望はついえたか。略字による日本征服の夢は断たれたか! くやしい〜! ギリギリ」(歯ぎしり)
「最近、患者が多いなあ」(と歯医者さん。)
【 付記 】 略字と正字のどちらを追加するべきか?
※ 「字形の変更」の場合、原則として既存の略字は廃止する。
ただし、廃止しない、ということも、可能ではある。
それを詳しく見ると、次の二通りが考えられる。
・ 「字形の変更」をした上で、「略字を追加」する。
・ 「字形の変更」をしないで、「正字を追加」する。
この両者は、どちらも行なわれるべきだ。
どの文字をどちらにするか、という区別は、以下の通り。
別記資料の「略字&正字」の「別表」を見て :
・ 「要修正分」ならば …… 追加するのは略字
・ 「追加分」ならば …… 追加するのは正字
このように区別せず、一方に統一する、という案もある。
それはそれで一案だが、私としては、あまり支持できない。
なお、国語審議会の方針では、略字は原則として使わないよう、
求められている。だから、上のようにして略字を追加するとしたら、
あくまで例外的な措置となる。せいぜい、人名用の「榊 灘 楢」など、
数文字で済むだろう。 (「榊」についての説明も参照。)
p.s.
ついでに、ちょっと述べておくと :
「ある一定の規則のもとに統一するべきだ」
という考えは、言語に関する限り、迷惑千万な考え方だと言える。
科学的真実ならいざ知らず、言語については、個別事情が優先する。
言葉はひとつずつ個性をもっているのであり、規則で「こうすべきだ」
などと決めつけられるべきものではない。それは人間と同様でもある。
「こういう規則があるんだ。それからはみ出た異端児は処罰する」
なんていう考え方によれば、人間性は抹殺される。
言葉というものは一種の生き物のようなものだ。規則にはなじまない。
あくまで個別に、ひとつずつ考えるべきだ。
※ 私は、理系の分野では、規則とか公理とかをよく考える。
だからこそ、規則性などをやたらと言語に導入することを危惧する。
理系の物理的規則性などを言語に持ち込むことは、理系の分野に
文学趣味を持ち込むのと同様で、非常に危険である。
【 参考資料 】
(1) 私案
略字については、表紙ページの「南堂私案」でも、いろいろと述べた。
「字形の変更」のほか、「タグ字による略字フォントの指定」などもある。
そちらも一応、参考にしてほしい。
(2) インターネット上の情報
略字については、インターネット上の情報は、限られている。
この現在の文書が最大であり、他にはあまりめぼしいものはない。
しいていえば、次のものであろうか。
・ 国語審議会のページ
・ ことば会議室 (意見交換の場)
そのうち特に、 国語審議会の関連
または直ちに、 略字 侃侃諤諤
※ この会議室では、略字への意見を好きに発言できる。
現在見ているこの文書への感想などがあれば、どうぞ。
(3) インターネットブーメラン
ジャストシステムの「インターネットブーメラン」を所有していれば、
「略字」というキーワードで、付属の「朝日新聞記事データベース」
を検索することで、合計6件の情報を入手できる。 ただ、そこに
ある論点は、今回の原稿でも取り上げてある。一応の参考として
なら、いくらか役立つ程度である。
* * * * * * *
なお、表紙ページには、資料「略字&正字」もある。
ここには、略字をめぐる非常に精密な情報を記した。
これを見れば、学術的な情報は、ほぼ十分に得られるだろう。
また、この資料のそばにある「後日補記」にも、若干の追加情報が
あるので、そちらも参照してほしい。
|
Copyright :
南堂久史
メール nando@js2.so-net.ne.jp
表紙ページ 文字コードをめぐって (文字講堂)
URL http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/moji/code00.htm
End.