【 参考 】
「通り抜ける」のかわりに「越える」という用語を使う人もいる。
つまり、粒子であれ人間であれ、「通り抜ける」というのは不自然だから、「越える」というふうに考えればいい、というわけだ。
越えるということは、エネルギーの図で示される。
壁の左側の位置にある ● が、壁の右側の ● の位置に移動したい。そのとき、壁を通り抜けることはできないので、壁の上を越える、というわけだ。
しかし、このような解釈は、間違いである。それは比喩を比喩として理解しない、という間違いだ。(比喩を字面通りに読み取る、という間違い。読解力不足。)その理由は、次の通り。
(1) この図で「越える」というのは、「エネルギーの壁を越える」という意味である。それは、抽象的に「越える」という意味であり、一種の比喩である。どうせ比喩であるならば、「越える」と言おうが「通り抜ける」と言おうが、何でも構わない。「泳ぎ抜ける」でもいいし、「壁を破る」でもいいし、「ワープする」でもいい。どうせ比喩なのだから、どんな比喩を使おうがかってである。そして、実質的には、「エネルギーの壁を間に挟んで、最初と最後で位置が変わる」ということだけを意味する。それだけが事実であり、「越える」という言葉を使うかどうかは無意味だ。
(2) 「越える」という本来の意味(比喩でない意味)は、「空間的に別の経路をたどる」ということだ。では、そういうことは、トンネル効果において、起こるか? もちろん、起こらない。「別の経路」なんてものはない。つまり、「そこをふさぐとトンネル電流が流れなくなる別の経路」(迂回経路)というものはない。だから、字義通りの意味では、「越える」ということは成立しない。
(3) 仮に「越える」ということが字義通りに成立するとしたら、それはただの「サイホン」であるにすぎない。つまり、「エネルギーの壁を越えて、物が移動する」というのは、「サイホン」であって、「トンネル効果」ではないのだ。上記の「越える」論者は、「サイホン」と「トンネル効果」とを混同している。(サイホンならば、特に珍しくもない、当り前のことである。どの家にもサイホンはある。便器の管に。便器の管では、汚水はエネルギーの壁を越えるが、別にトンネル効果を使っているわけではない。)
まとめて言おう。
「通り抜ける」という概念は、たしかに間違っている。「粒子が壁を通り抜ける」ということは、ありえない。
しかし、それが間違っているからといって、「越える」という概念をもってきても、真実に達したことにはならない。間違いに対抗して、別の間違いをもってきても、真実は得られない。
真実は、「通り抜けること」でもなく、「越えること」でもなく、むしろ、「消滅と発生」である。
そして、「消滅と発生」の根源にある基盤は、「それぞれの量子はたがいに区別不可能である」ということだ。たがいに区別不可能だからこそ、 「一つのものが移動した」というふうに錯覚するわけだ。(本当は、ある場所で A が消滅して、別の場所で A’ が誕生しただけだが。)
ここでは、錯覚こそが重要である。この錯覚を理解するということが、量子の真実を知るということだ。
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