細々とした周辺的な問題 

 本サイトで示した量子論の記述で書き落とした周辺的な話題を扱う。

    【 目次 】

 《 基本的な話題 》
 モデルの重要性
 重ね合わせ
 波動関数の収束
 仮想粒子
 運動中の粒子
 トンネル効果
 物質中の電子
 場の量子論との関係
 
   *  *  *  *  *  *  *
 
  《 些末な話題 》
  エーテルの用語法
  負のエネルギー
  3の神秘
  量子コンピュータ
  量子テレポーテーション
  ベル不等式関係
  EPRパラドックスと観測の問題
 



モデルの重要性

 物理学におけるモデルの重要性について説明する。


モデルとしての理論


 本サイトで示す理論(超球理論)は、モデル理論である。すなわち、従来の「波」または「粒子」のモデルに対して、「粒子と波の相互転換」のモデル(玉突きモデル)を提出した。
 このモデルを使うと、「二重スリットの問題」もうまく解決がつく。たとえば、「一つの粒子が二つのスリットを同時に通った」というような難点は生じないし、また、「別々の時点の粒子がたがいに干渉する」というような難点も生じない。
 結局、新しいモデルを使うことで、物理現象をうまく理解できるわけだ。


数式だけを重視する立場


 ただし、これに対して、次のような立場も考えられる。
 「モデルなんか必要ない。数式だけがあればいいんだ」
 この立場は、次のように主張する。
 「コペンハーゲン解釈だろうが、エヴェレット解釈(多世界解釈)だろうが、玉突きモデルだろうが、そんな解釈(またはモデル)がどんなにあろうと、そんなことは関係ない。数式だけがあればいい。数式で結果を予想して、現実がその通りになれば、それでいいのだ。すべては数式だ」

 しかし、そういう立場は、あまり好ましくない。「論理的な間違い」というわけではないのだが、好ましくないのだ。その理由を次に示す。


数式だけでは済まない理由


 数式だけでは済まない理由は、二つある。

 (1) 本質
 「シュレーディンガーの猫の核心」というページ余談でも述べたことだが、次のことがある。
 「物事の本質を示すには、図形またはモデルで示すことが大事だ」
 改めてその箇所を引用すれば、次の通り。
たいていの学者が数式だけであれこれと表現するときに、ファインマンは「あなたの考えを、図で示してくれ」と言った。すると、たいていの人は、途方に暮れてしまった。自分の考えを、数式で表現することはできても、図で表現することはできないのだ。
 図で表現するということは、物事の本質を示すということだ。ファインマンは、そのことの重要性を理解していたから、「図で示してくれ」と言ったのだ。そして、たいていの人は、物事の本質を理解していないから、「図で示してくれ」と言われたとき、途方に暮れてしまうのだ。

 実は、数式というのは、「物事の細かな部分を精密に示す」という役割だけがある。そして、物事の骨格となる肝心の部分は、モデルが示すのだ。
 数式というものは、いきなり天から降ってくるのではない。試行錯誤のすえにたまたまどれか一つが一致したわけではない。初めに、何らかのモデルがある。そのモデルを厳密に精密に表示するために、数式を使うだけだ。
 比喩的に言えば、モデルのない数式というのは、コーヒー豆を使わないコーヒーのようなものである。あとで味を調整するためのミルクや砂糖がいくらあろうと、コーヒー豆がなければ、コーヒーにはならない。
 モデルのない数式などは無意味である。逆に言えば、モデルがあれば、そこから数式を得ることは難しくない。偉大な公式の発見というものは、どれもこれも、いきなり空から降ってきたわけではなくて、何らかのモデルを形式化したものにすぎない。
 数式の意味は、モデルなのだ。モデルのない数式などは、何の意味もないのだ。そのことをはっきりと理解しよう。

 (2) 言葉
 モデルの重要性は、もう一つある。「モデルがあるからこそ、言葉で呼べる」ということだ。
 仮にモデルがなくて、数式だけだとしたら、言葉を使うことができない。たとえば、「電子」という言葉を使うことができない。ま、電子だけなら、「 e 」で代用することもできるが、「電子が区間 W を通過する」というような文章を書くことができない。何でもかんでも数式で書くだけだ。それでは不便すぎる。(数式以外の文章表現ができなくなるからだ。)
 逆に言えば、「電子が区間 W を通過する」というような文章表現を使っているときには、暗黙裏にモデルを使っていることになる。通常は、粒子としての電子を想定する。一方、場の量子論や、超球理論では、また別のモデルを想定する。いずれにせよ、何らかのモデルを想定する。
 そして、だからこそ、「一つの電子が二つのスリットを同時に通る」というような表現がなされることもある。この表現は、コペンハーゲン解釈では成立するかもしれないが、超球理論では断固として成立しない。なぜなら、二つのスリットを同時に通るものは、電子であるが、それは、一つの電子ではなくて、(一つのものとは言えない)電子の波であるからだ。
 電子が一つのものであるならば、二箇所を同時に通るということはありえない。電子が波であるならば、二箇所を同時に通るということはありうる。

 結局、言葉で表現するためにはモデルが必要だが、のみならず、言葉で表現すると、モデルの問題をも浮き上がらせる。それはまた、この世界の解釈についての問題を浮き上がらせるということだ。
 だからこそ、数式だけでなくモデルを使うということは、とても大切なのだ。


モデルと科学


 科学というものは、「未知の真実を解明すること」である。物理学であれ、天文学であれ、科学というものは、未知の真実を解明しようとして、発達してきた。
 そして、未知の真実を解明するには、「解決不可能な謎」を浮き上がらせることが必要だ。ここでは「わかっていること」よりも、「わかっていないこと」の方が大切なのだ。
 謎とぶつかるたびに、謎を解決する。そういうことを繰り返して、科学は発達してきた。
 ここでは、「謎を回避すること」は、有益であるどころか、有害である。謎を回避すれば、新たな真実を見出すことができなくなるからだ。狭い世界に閉じこもって、そこでお気楽に停滞して、進歩がなくなってしまうからだ。
 「数式さえあればそれでいい」
 というのは、
 「役立つものがあればいい」
 という工学的な発想である。しかし、科学というものは、
 「役立つものがあればいい」
 というだけでは済まないのだ。むしろ、
 「未知のものを解明したい」
 という好奇心によって発達するものなのだ。
 そして、そのためには、「数式だけで済まそう」という立場よりも、「モデルによって本質を理解しよう」という立場の方が、ずっと大切なのである。



重ね合わせ

 重ね合わせとは何か? ── この問題は、別の文書にまとめてある。そちらを参照。
  → 重ね合わせとは何か

( ※ ただしこの文書は、「シュレーディンガーの猫」という話題の一部分となっている。上の文書だけを単独で読まずに、次の文書から順々に読んでほしい。)
  → シュレーディンガーの猫(表紙) 



波動関数の収束

 「重ね合わせ」が解消することは、「波動関数の収束」として理解される。では、それはどう理解されるべきか? 


 波動関数の収束という問題


「重ね合わせ」という概念に対して、逆に、「重ね合わせが解消すること」が考えられる。これは、数理的には、「波動関数の収束」として理解される。
 マクロ的に言えば、シュレーディンガーの猫は「生と死」の重ね合わせ状態にあったのだが、観測の瞬間に、「重ね合わせの解消」つまり「波動関数の収束があった」と理解する。

 しかし、これについては、
 「観測の瞬間に波動関数が収束するというのは、おかしい」
 という疑問がある。人間のなした観測が、量子の世界に影響するのは、おかしい、というわけだ。たしかに、おかしい。このことは、量子力学の世界では、しばしば話題になる。(特に、コペンハーゲン解釈。)
( ※ 「観測のためには光を当てるので、光を当てたことが影響する」という解釈もあるが、妥当ではない。「観測するか否か」では、「光を当てたか否か」が問題なのではなく、「光を当てたあとで人間が見るか見ないか」が問題となる。ずっと光を当てっぱなしで、そのあとで、見たか見ないかが問題なのだ。)
( ※ 超球理論の立場で言えば、電子に光を当てることはほとんど影響しない。光を当てたからといって、波が粒子に変換されるわけではない。一方、光を当てなくても、真空中で粒子が発生することはある。場の量子論から当然の帰結だ。)
( ※ 要するに、「観測が現実に影響する」というのは、どう考えてもおかしいのだ。)

 抽象世界と現実世界


 この問題については、次のように理解するのが正しい。
 「観測の瞬間に波動関数が収束する、ということはない」
 波動関数は、観測しようが観測するまいが、収束しない。「未決定状態」は、観測しようが観測するまいが、決定状態にならない。

 では、なぜか? 次のように分けて考えるのが正しいからだ。
  ・ 波動関数  …… 理論の世界のこと
  ・ 状態の決定 …… 現実の世界のこと
 これらは別々の世界のことであるから、観測によって数値が変わることはない。

 たとえば、コインで考えよう。コインが回転して、コインが止まる。コインが回転中は、裏の確率が50%だ。コインが停止したときも、コインを見るまでは、裏の確率は50%だ。
 では、コインを見たあとは? 確率は 0%または 100%か? いや、やはり、確率は 50%のままだ。裏になる確率は、いつでもどこでも、50%のままである。

       確率           観測
                ○●
    抽象的な現象      現実の現象

 確率というのは、抽象的なものであり、一般的な事象における数値だ。「存在」という抽象概念が抽象的であるのと同様に、確率もまた抽象的な概念である。それは一般的な事象についての数値だ。
 一方、特定の事象についての数値は、0%または 100%になる。しかしそれは、特定の事象についての真偽値である。それは、一般的な事象についての確率とは異なる。(確信度」と呼ぶべきものに近い。)
 ここでは、確率が急激に変化することはない。確率は最初から最後まで、50%のままだ。一方、0%または 100%になるのは、確率とは別の値である。

 シュレーディンガーの猫についても同様だ。「観測によって波動関数が収束する」ということはない。生死についての 50%というのは、波動関数から与えられる値であり、ずっと不変である。その値は、0%または 100%になることはない。一方、現実の猫を見たときの値は、0%または 100%になる。それは、波動関数から与えられる数値ではなく、観測から与えられる数値である。


 変化と交替


 より詳しく本質を見るために、比喩的に考えよう。
 バトンリレーをする。区間Aでは花子が、バトンをもっている。区間Bでは、太郎がバトンをもっている。花子が交替点に達したとき、バトンをもっている人は、花子から太郎に変わった。

    ━━━━━━━━━━━━━━━
                 花子              太郎

 それを見て、次のような主張がある。
 「花子が太郎に変わった。一瞬にして、人間が変形してしまった。不思議だ」
 これは馬鹿げた認識である。別に、花子が太郎に変わったわけではない。バトンが花子から太郎に引き継がれただけだ。
( ※ バトンは、エネルギーに相当する。エネルギーを引き継ぐと姿が変化するのではなく、エネルギーを引き継ぐものの姿が変わるだけだ。一つの粒子が変化するのではなく、複数の超球が交替するだけだ。)

 要するに、「波動関数が収束する」というのは、勘違いである。その勘違いは、「花子が太郎に変化する」とか、「(コインが停止したときに)確率が一挙に変化する」とかいうのと、同様である。


波動関数の意味


 では、真実は? 次のように理解するといい。

        )))))))))))))))))))))))))) 
         |←──────────→|
               波動関数

 途中の区間における値は、波動関数で表現される。これは確率的である。中間的な値となる。
 終点における値は、波動関数では表現されず、観測によって判明する。それは確率とは違う。もちろん、中間的な値とはならない。必ず何らかの形で決定されるからだ。
(この二通りの場所は、前項の比喩では、花子の区間と太郎の区間に相当する。波が粒子に転換するときは、花子が太郎にバトンを渡すときに相当する。)

 ここで、終点における値が問題だ。終点における値は、波動関数から「推定」されるだけである。しかし、その推定は、推定者によって得られた値であるにすぎず、現実の値と一致するとは限らない。

 終点における値は、細かく見れば、次の二通り。
  ・ 波動関数から推定される値 (推定値
  ・ 観測から判定される値    (観測値
 この両者は異なる。そして、この両者を混同すると、「波動関数の収束」という、おかしな概念が生じる。本当は二つのものが交替しただけなのに、一つのものが変化したのだと思う。(花子が太郎に変化した、と思うように。)── これが真相だ。

 なお、この結論が得られるのは、上記の図のように、「玉突きモデル」を前提としたからだ。
 つまり、「粒子 → 波 → 粒子」というモデルを。

 [ 参考 ]
 「波動関数の収束」については、別のところでも似たような説明をしてある。
 「シュレーディンガーの猫(表紙)」から、「猫の生死」という三つの文書の説明(論理的な説明)を参照。
 もっと細かな専門的な話もある。本文書の最後のあたりに記してある。下記を参照。
   → EPRパラドックスと観測の問題
 ( ※ 高度な話というより、細かな話。専門家以外、特に読む必要はない。)



仮想粒子

 仮想粒子とは何か? それはどう扱われるべきか? 


概念と実例


 仮想粒子とは、「実在しないが想定される粒子」というふうに定義される。詳しくは、次の通り。
  ・ 理論上では計算の途上で「(量子論的に)存在する」と見なされる。
  ・ 実際に観測されることはない。

 実例では、たとえば、次の二通りがある。
  1. 電子が電磁場を作るときに、光子を交換する。その光子は仮想光子である。つまり、計算の途上ではその光子が出現するが、現実に観測されることはない。
  2. 真空中で粒子・反粒子が対発生する。実際に観測された粒子・反粒子は実在の粒子だが、観測されないまま存在だけが推定されたものは仮想粒子である。(カシミール効果の実験で、存在性だけは確認される。 → 「カシミール効果の重要性」)

問題


 前項のような仮想粒子というものは、おかしなものである。普通の物理学者は漠然と「そういうものだ」と思っているが、よく考えると、あまりにもおかしい。

 (1) 理論と実験
 「理論では存在するが、実験では観測されない」というのでは、そのまま受け取る限り、科学性そのものを否定することになる。科学というものは、理論と実験が合致することを要請するからだ。「理論と実験の食い違い」を前提とするような主張は、科学としては根源的におかしい。

 とはいえ、形式的には、その難点を避けることができる。次のように。
 「もともと観測されないことが理論的に予想される」
 なるほど、それならば形式的には、矛盾は生じない。量子力学の方程式では、存在確率は予想されても、現実に存在を確言することはできないが、それと同様だ、と思える。たとえば、二重スリット実験で、(スクリーンに達する前の)真空中の電子は「これ」と確言できない。それと同じように、仮想粒子も確言できない、というふうに見なせる。
 しかし、よく考えると、それもおかしい。二重スリット実験における真空中の電子は、「必ずどこかに存在する」と言える(途中の時間では真空中のどこかに存在する確率が1である)のだが、電子の回りで交換される仮想光子は、それが仮想光子である限り、「どこかに存在する」とは言えないのだ。
 二重スリット実験における電子は、「場所はわからないが存在する」のだが、電子の回りで交換される仮想光子は、「場所はわからないが存在する」とは言えないのだ。(仮想光子である限りは。)……つまり、「存在する場所がわからない」のではなく、「存在すること自体が言えない」のだ。これが仮想粒子の特質だ。

 (2) カシミール効果
 「存在することが言えない」というのが仮想粒子の特質だ。
 しかしながら、カシミール効果を見よう。ここでは、「これ」という形で個々の粒子を指定することはできないが、「粒子・反粒子」のペアの総数については実験的にわかる。たとえば、「この空間にあるペアの総数は約百万個である」というふうに。こうして、存在性が実験的に確認される。
 かくて仮想粒子は、「実際に存在する」ということが実験的に判明する。存在しないはずのものが、存在することになってしまう。……これでは、「仮想粒子」の定義が破綻してしまう。


整理


 前項の (1) (2) のような問題点がある。これは現代物理学における問題だ。この問題を曖昧にするべきではあるまい。
 「仮想粒子というものを考えれば理論は整合的になる」
 というふうに考えてお茶を濁すべきではない。むしろ、
 「仮想粒子とは何か?」
 ということを、根源的に考えるべきだ。
 つまり、次のいずれかにするべきだ。
 では、そのどちらか? 
 前者は、無理である。仮想粒子は、計算の途上で現れただけのものではないからだ。この世界で現実に作用を及ぼしているからだ。
 後者も、現代物理学では無理である。なぜなら「観測(されること)」と「存在」とは同じことだ、と見なされるからだ。ここから、「観測されなければ存在しない」ことが結論される。
 結局、前者も後者も無理だ。こうして、矛盾にぶつかる。


解決への道筋


 しかしながら、すべてを解決する方法がある。そのことを以下で説明しよう。
 まず、問題の核心を示すと、次のことだ。
 「粒子の存在性と、作用の存在性とを、区別する」
 仮想光子であれば、仮想光子の存在性と、仮想光子による作用の存在性とを、区別するべきだ。
 対発生する粒子・反粒子であれば、それらの存在性と、それらによる作用の存在性とを、区別するべきだ。

 このあとで、次のことを結論する。
 「粒子は存在しないが、作用は存在する、ということを想定する」
 仮想光子であれば、仮想光子は存在しないが、仮想光子による作用は存在することになる。
 対発生する粒子・反粒子であれば、それらは必ずしも(固定的に)存在しないが、それらによる作用は(固定的に)存在することになる。

 となると、問題は、次のことだ。
 「粒子が存在しないのに、粒子の作用が存在するとは、どういうことか?」
 この問題を解決すればよい。
 ただし、話は簡単ではない。なぜなら、この問題を解決することは、困難だからだ。というのは、「観測(されること)と存在は同じことだ」という現代物理学の立場からすると、おかしなことだからだ。
 「観測されなけば存在しない」という立場からすると、「存在しないものが作用を及ぼす」ということになる。これでは、幽霊のようなものを認めることになる。比喩的に言えば、「お化けがいるから悪さをした」とか、「悪魔のせいでひどい目にあった」とか、「神のご加護で助かりました」とか、そういうふうに、ありもしないものを信じるのと同様だ。これは科学的な立場ではない。
 要するに、「観測もされず、存在もせず、しかるに作用だけは及ぼす」というような粒子を考えることは、非科学的なのだ。それというのも、「観測(されること)と存在は同じことだ」という現代物理学の立場を取るせいだ。


超球理論による解決


 この問題は、超球理論によって根源的に解決される。
 なぜなら、超球理論では、次の立場を取るからだ。
 「超球は、通常は観測されない。超球が波から粒子の形に転じた場合のみ、真空としての超球が、物質としての粒子に転じる」

 超球理論では、真空はもともと超球で満たされている。ここが決定的に重要である。
 通常の理論では、真空には何もない。何もないところでは、粒子は存在しないが、ときどき粒子・反粒子の対が発生する。
 超球理論では、真空はもともと超球で満たされている。何もないわけではない。たとえ何も観測されなくても、そこでは超球が満たされているのだ。この超球こそが、「仮想粒子」に相当する。そして、超球の作用が、「仮想粒子の作用」である。

 では、超球(仮想粒子)は、「存在する」と言えるのか? ここで、用語の問題が出てくる。次の二通りの区別が必要だ。
 比喩的に説明しよう。
 回転するコインがあり、コインは停止したときに表か裏かが決まる。ここで、「回転するコイン」は超球に相当し、「表か裏か」は粒子・反粒子に相当する。
 「粒子は存在するか?」は、「表は存在するか」ということだ。
 「表は存在するか」ということは、表か裏かがすでに決まっている場合には「イエス/ノー」で答えることができる。しかし、コインが回転中である場合には、「イエス/ノー」で答えることができない。……この場合には、「表/裏」という二者択一で考えるだけなく、「回転中」という状態をも考慮するべきなのだ。
 このように、「表/裏」だけでなく、「回転中」という状態をも考慮すること。それが、超球理論の立場だ。

 ここまで理解すれば、解決は容易だろう。
 仮想粒子とは、超球理論によれば、「回転する超球」(振動する超球)のことであり、「波の状態の超球」のことである。それは「表/裏」の状態で静止していることはない。そのせいで、「粒子/反粒子」の形で観測されることはない。しかし、観測されないからといって、何も存在していないわけではない。
 すなわち、「粒子としては存在していないが、(回転する)超球としては存在している」というもの。それが「仮想粒子」と呼ばれるものだ。

 電子の回りにある仮想光子とは、回転する光子のことである。それは静止していないので、光子として観測されることはない。しかしながら、光子の超球というものが、回転しながら、真空中に満たされている。それは決して、計算上のものではなくて、まさしくこの世界にあって、まさしくこの世界で作用を及ぼしている。それは決して仮想的なものではない。
 真空中で対発生する仮想電子とは、回転する電子のことである。(3次元空間で回転するのではなく超球の次元で回転する。)その電子は、回転している限りは、静止していないので、観測されない。しかしながら、電子の超球というものが、回転しながら、真空中に満たされている。それは決して、計算上のものではなくて、まさしくこの世界にあって、まさしくこの世界で作用を及ぼしている。それは決して仮想的なものではない。……たとえば、電子の超球は、ときどき瞬間的に電子・反電子に転じる。すると、カシミール効果の電磁的な作用をもたらす。この現象は、決して仮想的なものではない。


まとめ


 仮想粒子は、従来の理論では、「存在する/存在しない」という枠組みからはずれるので、「仮想的なもの」「理論上の便宜的なもの」というふうに見なされた。
 しかし、超球理論では、新たに「回転中」という状態を想定する。そして、「回転中」の超球が真空を満たしている、と考える。そのような超球(回転する超球)がまさしくこの世界にあるのだと理解する。そのことで、「存在する/存在しない」という枠組みを越えて、仮想粒子を理論のうちに組み込むことができる。


 《 従来の考え方 》

       現実                    理論
 [ 存在する/存在しない ]   [ 存在する/存在しない/仮想粒子 ]

  ( ※ 従来の考え方では、現実と理論の食い違いが生じる。)
  ( ※ それは、幽霊や悪魔を信じるような、非科学的な立場である。)



 《 超球理論 》

       現実 & 理論
 [ 静止(実在粒子)/回転(仮想粒子) ]

  ( ※ 超球理論では、現実と理論の食い違いが生じない。)
  ( ※ 超球理論では、「何も存在しない真空」というものは、ない。)
  ( ※ 超球理論では、「存在する」という言葉はあいまいなので使わない。
      かわりに、「静止する」という言葉を使う。その反対概念は「回転する」
      だが、それは決して「何も存在しないこと」ではない。)


参考 (位相)


 参考として、「位相」という概念を示す。
 数理的に表現するには、「位相」という概念を導入するといい。
 「位相」とは、回転角 θ によってもたらされる e のことである。( 0 ≦ θ < 2π )
 位相の値は、+1 から -1 の間で、さまざまな値(複素数)を取る。

     ・ 位相が  +1  のとき …… 超球は「粒子」である
     ・ 位相が  -1  のとき …… 超球は「反粒子」である
     ・ 位相が 複素数 のとき …… 超球は「粒子」でも「反粒子」でもない (つまり仮想粒子

 こうして、位相によって超球の状態が決まる。
 なお、上のことを言い換えれば、次のようになる。

     ・ 「粒子」 とは、 位相が  +1  の超球である。
     ・ 「反粒子」とは、位相が  -1  の超球である。
     ・ 「仮想粒子」とは、位相が 複素数 の超球である。

 つまり、おのおのには、位相の違いだけがある。
 位相が +1 または -1 になって静止している超球が、「粒子/反粒子」である。
 位相が 複素数 になって回転している超球が、「仮想粒子」である。


参考 (回転する超球)


 真空中では粒子・反粒子の対が発生するが、その理由は前項からわかるだろう。
 超球がぐるぐる回転していれば、ときどき瞬間的に、位相が +1 や -1 になる。そのとき、粒子・反粒子の対が発生する。……超球がたえず回転しているのであれば、これは当然のことだ。
 粒子と仮想粒子の違いは、位相が実数になるか複素数になるか、という違いでしかない。(換言すれば、回転角が 0 または π のどちらになるのが粒子・反粒子であり、回転角が中途半端な角度になるのが仮想粒子である。)
 次の図を参照。

白 or 黒
 停止中 = 粒子 or 反粒子  
 
回転コイン

 回転中 = 粒子 or 反粒子 or 仮想粒子   
     【 用語について 】
        ※ 回転する超球そのものを「仮想粒子」と呼ぶ用語定義もある。
        ※ 明白に区別したいときは、「粒子/反粒子/虚数粒子」と呼ぶといいだろう。
           その場合、「粒子/反粒子/虚数粒子」の総称は、ただの「超球」である。
        ※ 「仮想粒子」という言葉は、「虚数粒子」か「超球」か、どちらか曖昧なので、
          あまり使わない方がいいかもしれない。実際、混同している人が多い。
        ※ 上の図ではとりあえず、「虚数粒子」を「仮想粒子」と表現している。


 さて。この図で大事なのは、次のことだ。
 「真空は何もないところではなく、真空は超球で満たされている」
 このことから、「超球が回転しているときに、回転角の違いだけで粒子・反粒子が出現する」とわかる。
 対発生が起こるとき、何もないところで、何かが誕生したり消滅したりしているわけではない。無のなかで正と負が同時に誕生しているわけではない。
 超球というものは常に存在している。ただし、回転角によって、姿を現したり姿を消したりする。それだけのことだ。

 存在することと姿を現すこととは異なる。存在しても姿を現さないことはある。そのとき、「姿がないから存在もしないのだ」というふうに考えるべきではない。「姿はなくとも存在はしている。単に見えないだけだ」というふうに考えるべきだ。……それが超球理論の発想だ。
 見えないものを見出すこと。そのことで真実を知ることができる。(逆に、「観測されたものだけが真実だ」と思い込むと、見えない真実を見失う。)



運動中の粒子

 運動している粒子は、粒子か波か? これについて考えよう。


問題提起


 超球理論では、「静止している超球は粒子、運動している超球は波」というふうに(モデル的に)説明した。  ( ※ 詳しくは、「玉突きモデル」のページ。)
 ここで示したのは、次の二通りだ。
  ・ 静止している場合
  ・ 光速に近い速度で運動している場合

 では、「ゆっくり運動している粒子」はどうなのか?


問題の整理


 問題を整理しよう。

(1) モデル

 「玉突きモデル」で説明されたのは、次のことだ。
  ・ 静止している電子は、粒子である。
  ・ 電子銃で発射された電子は、(粒子のように見えるが)波である。
 なお、ここでは、「波」というのは、ただの波ではなくて、「粒子の波」である、というのがミソである。「媒体物質の波」ではなく、「粒子の波」となっている。ここが超球理論の特性だ。

(2) 準光速

 電子銃で発射された電子は、光速にかなり近い。光速の半分ぐらいの速度となる。それというのも、真空中を抵抗なしに進むからだ。
 このままどんどん加速していくのが、加速器だ。加速器では、光速の 99%かそれ以上にまで加速される。この場合も、「波」と見なしていいだろう。

(3) 静止

 一方、静止した電子は、どうか? これは粒子として見なしてよい。
 ただし、粒子といっても、現実に「粒」のように見えるわけではない。たとえば水素原子にある「電子」を探そうとしても、確率波が雲のように分布するだけで、「これ」というふうに指摘できるわけではない。
 また、真空中に電子を固定するとしても、確実に一箇所で見出されるわけではなく、ある程度の波のように見出されるだけだ。つまり、「ピークの狭い波」である。
 ( ※ いくら正確に測定しようとしても、無駄である。不確定性原理により、どうしてもバラツキが出てしまう。)


結論


 となると、「ゆっくり運動する粒子」についても、上記の「静止」の場合と同様に見なされる。
 つまり、そもそも、「粒子」というものは「ピークの狭い波」と区別がつかないのだ。
 そして、「ピークの幅が狭い」ということは、進行中の場合には、「進路の幅が狭い」ということに相当する。

 超球理論の図式で説明すれば、次の通り。
 「粒子の波が進むとき、(速度が遅くて)波の進路の幅が狭ければ、粒子が進むのと区別つかない」
 
 例で示そう。二重スリット実験では、干渉縞ができる。これは、真空中では波が速くて、波がかなり幅広く進むからだ。
 一方、電子が真空中ではなく物質中を進むのであれば、干渉縞はできない。これは、物質中では速度が遅くて、波が狭く進むからだ。

 ともあれ、「粒子か波か?」という問題は、「白か黒か」という二社対立ふうになるわけではない。途中の「灰色」のような状況がある。それというのも、「粒子」と「ピークの狭い波」とがほぼ同義であるからだ。


図による説明


 図で示すと、次の通り。(おおまかな図。簡略表記。)
 
 [a] ピークの幅が広い場合(高速)

       /\         ) ) ) ) ) )))))))))))))))))))))))) 
    ピークが広い     進路の幅が広いのでとして見える。
 
 [b] ピークの幅が狭い場合(低速)

     ┃        ━━━━━━━━━━━━ 
    ピークが狭い     進路の幅が狭いので粒子として見える。

 二つの図を比べると、[a] では波として見えるが、[b] では粒子として見える。ただし、[b] の場合も、「粒子の波」というふうに見ることが可能だ。
 ( ※ 一般に、振動数が高いほど、進路の幅は狭くなる。)

 玉突きモデルの図で言おう。

billiards

 この図で、最初と最後の ○ は、静止しているように見えるが、実は、「微小振動している」というふうに見なしてもいい。
 「微小振動している」のと「振動していない」のとは、ほとんど区別がつかない。また、区別しても意味がない。
( ※ もちろん、玉突きモデルの2次元の図でも、同様だ。)


別の説明


 前項の説明は、「量子は波だ」という立場からの説明だった。
 一方、「量子は粒子だ」という立場からの説明も可能である。基本として「玉突きモデル」を取った上で、次のように考える。
 
  ・ 高速 …… 玉突きモデルで、始点と終点との距離は長い。
          ○ → ○○○○○○○○○○○○○○○○○ → ○

  ・ 低速 …… 玉突きモデルで、始点と終点との距離は短い。
          ○ → ○○ → ○

  ・ 静止 …… 一つの超球のまま。(波が発生しない)
          ○
 高速の場合は、始点と終点との距離は長くて、その長い距離を一挙に波が進む。たとえば、2メートルの距離を一挙に波が進む。その速度はとても速い。
 低速の場合は、始点と終点との距離は短くて、途中で何度も波から粒子になる。たとえば、2メートルの距離を進むとき、途中で何回も波になったり粒子になったりする。(たとえば1ミクロンごとに粒子になる。) 見えない波を無視して、粒子になったときだけを見ると、粒子が連続的に進んでいるように見える。その速度は遅い。

 比喩的に言おう。水泳でたとえる。
 高速で進むのは、「潜水泳法」で、最初と最後だけに姿を現す。途中では姿を隠している。この移動速度は速い。
 低速で進むのは、「呼吸泳法」で、途中で何度も息継ぎをする。息継ぎをしたときに顔が現れる。顔が現れるとしても、とびとびに現れるだけだが、ざっと眺めると、顔が連続的に移動しているように見える。水上に現れた顔の移動速度は遅い。(いちいち息継ぎしているからだよ。)

( ※ なお、上の玉突きモデルの図は、ちょっと不正確である。1次元の直線モデルで示すよりは、2次元の平面モデルで示す方がいい。)


まとめ


 まとめて言おう。
 超球理論では、「粒子か波か」と問うことは、そもそも無意味である。なぜなら、すべては「振動する粒子」であるからだ。
 ただし、静止した粒子では、振動の幅が非常に小さい。一方、運動する粒子では、振動の幅が広い。……つまり、「振動する粒子の分布が狭いか広いか」という、それだけの違いだ。(粒子そのものは移動せず、粒子の振動状態だけが移動する、ということから来る。)
 だから、「粒子か波か」と問うかわりに、「振動状態がどのように分布するか」だけを考えればいい。そして、そのことこそ、シュレーディンガー方程式が示すことなのだ。


(参考) 加速器の場合


 参考として、加速器の場合を考えよう。加速器の場合には、どうなるか?
 加速器で素粒子を加速した場合、「光速に近いが、進路の幅は狭い」というふうになる。なぜか? これは、本来ならば幅が広くなるはずの波を、電磁的な力をかけて、あえて幅が狭い領域に閉じ込めているからだ。(周回軌道上で。)
 仮に、電磁的な力をかけなければ、どうなるか? 一応、直線的に進むが、それでも、どんどん進むうちに、進路はどんどん拡散していくだろう。大きな距離をたどった場合、最終的に電子が発見される場所は一点だとしても、電子が発見される場所は、確率的にいくらかひろがるだろう。

( ※ なお、電荷を帯びた粒子が同じ方向に進むと、電磁力によってたがいに引き合う。これは電磁気学の本に書いてあるとおり。本サイトでも「電磁場のモデル」で説明してある。)



トンネル効果

 トンネル効果について言及する。


問題提起


 トンネル効果とは、「エネルギーの壁を越えること」というふうに説明されることが多い。しかし、本質的には、「薄い物質の壁を量子が通り抜けること」と言い換えることができるだろう。
 そして、このことから、「トンネル効果を使えば、人間が壁を通り抜けることができるようになるかもしれない」というような想像をもたらす。しかし、これは、いかにも不自然である。


超球理論の解釈


トンネル効果  超球理論に従えば、トンネル効果は不思議でも何でもない。「物質中を波が伝わること」と言い換えることができる。右の図を参照。

 上半分の図は、普通の解釈である。
 Aという粒子が、壁を通り抜けて、その向こう側に出て、同じAという粒子として現れる。

 下半分の図は、超球理論の解釈である。
 Aという粒子は、壁にぶつかっていったん消滅する。その後、壁のなかを、波がエネルギーとして伝わる。その後、エネルギーが粒子に転じて、同じ種類だが別の粒子である A’ として現れる。
 ここで、A と A’は、同一の粒子ではない。だが、同種の粒子はたがいに区別されないので、A と A’は区別されない。(たとえば別々の二つの電子はたがいに区別されない。)
 そのせいで、あたかも、一つのAが壁を通り抜けたように見える。(本当は、A と A’は同一ではないのだが。)

 超球理論では、粒子が壁を通り抜けるわけではない。その意味で、別に、不思議でも何でもない。
 比喩的に言えば、壁を音波が伝わるようなものだ。壁をドンと叩くと、壁に振動が伝わって、隣の部屋で音が発生する。それとだいたい、似たようなものだ。ここでは、ドンとたたいた手(こぶし)が壁を通り抜けたわけではない。壁を振動が伝わっただけだ。
 壁を伝わるのは、あくまで波だけであって、物質が壁を通り抜けたわけではない。壁の一方では何かが消えて、壁を振動が伝わり、壁の向こうで何かが現れた、というだけのことだ。


透明と半透明


 トンネル効果における「壁」としての物質は、波を伝える。その意味で、「半透明」と言えるだろう。着色されたガラスのようなものである。薄ければ、透明っぽく見えるが、厚ければ、不透明に見える。薄ければ、光線を伝えるが、厚ければ、光線をほとんど伝えない。
 物質の壁も、同様である。薄ければ、粒子の波を伝えるが、厚ければ、粒子の波をほとんど伝えない。

 一般に、真空は透明であり、物質は不透明または半透明である。
 透明と半透明との区別は、「減衰」という概念で理解される。
 たとえば、水中の音はほとんど減衰されずに遠くまで伝わるが、水中にゴミがいっぱい漂っていると、水の振動がゴミに吸収されるので、音波が減衰する。
 同様に、真空中の超球は「固い超球」なので波は減衰しないで伝わるが、物質中の超球は「ゴミの挟まった超球」のようなものなので波が減衰する。
 こういうことは、超球理論のモデル( ○ がたくさん密集したところを、○ の振動が伝播するモデル)で理解すると、わかりやすい。


真空中の量子


 前項のことからすると、真空中の量子は、粒子ではなく波であるはずだ。(超球理論に従う。)
 すると、少し前の図の下半分においては、 ● で表された粒子[灰色の壁の左右にある粒子]は、本当は、真空中の粒子ではなく、真空中の波であるはずだ。
 ただしこの波は、観測器にかかった時点で、粒子として認識される。すると、あたかも粒子が飛んできたかのように認識されるのである。下図を参照。



 見かけ : (粒子が真空中を移動する)

  《 発射器 》 ● | → ● → ● → [ ))))))) ] → ● → ● → | ● 《 観測器 》



 本当は : (波が真空中を伝播する)

  《 発射器 》 ● | → ))))))))  → [ ))))))) ] → )))))))) →  | ● 《 観測器 》


 
 見かけ上では、粒子が「発射器 → 壁 → 観測器」というふうに移動したように見える。
 しかし本当は、発射機を出た粒子は波として真空中を伝わり、次いで、波として固体中を伝わり、次いで、波として真空中を伝わり、最後に、波が粒子に転じて観測器で観測される。
 結局、トンネル効果の意味は、「薄い物質は半透明になることがある」ということであり、「薄い物質中を波が伝播することがある。ちょうど真空中を波が伝播するように」ということだ。
 それは、単に「波の伝播」を意味するだけであって、「粒子が通り抜けること」を意味するわけではない。


マクロ的なトンネル効果


 ただ一つの電子ならば、トンネル効果によって、「壁を通り抜ける」というふうに見える(見かけ上はそう見える)ということがある。
 では、もっと多くの分祀ではどうか? たとえば、水の分子では? はたまた、分子の集合である人間は? 
 「人間が壁を通り抜ける確率」
 というのは、ゼロに近いとしても、ゼロではないので、少しはその可能性があるように見える。しかし、いかにも不自然だ。本当は、どうだろうか? 

 考えよう。そもそも、ただ一つの電子からして、「通り抜ける」ということはない。単に真空中(など)から、発生するだけだ。
 しかし、電子ならともかく 分子(複数の粒子の固まり)ならば、電子と同様のことはない。電子はたがいに区別不可能であるが、複数の電子と原子の固まり(分子)は、たがいに区別不可能だとは言えないからだ。

 特に、分子量が巨大になって、はっきりと目に見えるマクロサイズになれば、「通り抜ける」というふうに見える場合はありえない。
 したがって、単一の量子ならば「壁の通り抜け」は(見かけ上では)ありえても、人間のような巨大な物質ならば「壁の通り抜け」は(たとえ見かけ上でも)ありえない。(確率的にゼロ同然である。)


( ※ マクロ的な物質がトンネル効果で移動すること。これは、既存の物理学では、否定されない。たとえば、「巨視的トンネル現象」というような用語で説明されている。しかしながら、超球理論では、このような現象は明確に否定される。人間が壁を通り抜けるようなことなどは、絶対にありえないのだ。たった一枚の紙でさえ通り抜けることはできない。シャボン玉の泡のように薄い薄膜でさえ通り抜けることはできない。マクロの世界ではトンネル効果などは原理的にありえないのだ。トンネル効果はあくまでミクロの世界の話である。)

( ※ では、なぜ、そうなのか? ミクロの世界では、「同種の量子はたがいに区別されない」という確率的な世界であるが、マクロの世界は「同種の物質は(厳密には)たがいに区別される」という非確率的な世界だからだ。たとえば、二人の人間は区別される。そっくりの双子もどこかで区別される。ごくそっくりの二台の自動車だって、細かく見れば、どこかが違っている。二つのものがまったく区別不可能だ、ということは、ミクロの世界ではありえても、マクロの世界ではありえないのだ。)


 マクロ的なトンネル効果の件について、わかりやすくて興味深い話は、次のページを参照。
   → トンネル効果の本質


物質中の電子

 物質中の電子について言及する。


問題提起


 真空中の電子は、光速に近い速さで移動する。では、物質中の電子は、どのくらいの速さで移動するのだろうか? これはかなり問題である。

 すぐ前の図では、次の二通りの場合を対比させた。
  ・ 量子が「粒子」として真空中を伝わる場合。(そして壁にぶつかる)
  ・ 量子が 「波」 として真空中を伝わる場合。(そして壁にぶつかる)

 これらはいずれも、真空中を伝わる場合であった。量子が粒子であるとしても波であるとしても、どちらにしても大差はないだろう。
 しかし、物質中では、大差があるはずだ。
 特に、金属中を電子が伝わる場合が問題だ。この場合、電子は、どのくらいの速度で移動するのだろうか? 

実験と観測


 実験と観測によれば、金属中の電子の速度は、非常に遅い。人間が歩くのと同程度の速度である。
 もう少し正確に言うと、かかる電圧しだいで、微生物のぐらいの遅々たる速度から、人間の速度や、自動車の速度ぐらいになる。ものすごい高電圧をかけると、飛行機ぐらいの速度になる。
 しかし、いずれにしても、光速に比べれば、ほとんど「止まっている」と言ってもいいぐらいの遅さだ。ま、実際、「止まっている」と見なして、何ら差し支えないだろう。
 
 一方、金属中を電位差が伝わる速度は、光速に近い速度になる。たとえば、発電所で高圧をかけると、一瞬後には、ずっと遠くの家庭のコンセントに電圧がかかる。


実験と観測


 以上のことから、面白いことがわかる。
 トンネル効果において、壁である物質中を通るのは、何であるか? 壁を通るのが粒子であれば、その速度は非常に遅い(静止も同然)。壁を通るのが波であれば、その速度は非常に速い(光速に近い)。── 理論的には、そうなる。
 
 では、現実には? 光速に近い速さであることが確認されている。すなわち、トンネル効果においては、「電子が通り抜けている」のではなくて、「波が伝播している」と見なすべきなのだ。(さもなくば、電子がほぼ光速で物質中を走っていることになり、おかしなことになる。)

 こうして、トンネル効果の速度の観測から、「トンネル効果において物質中を伝わるのは、粒子ではなくて波である」という結論が得られる。
 すなわち、通常の量子力学よりも、超球理論の方が、実験事実に合致するのだ。

( ※ 超球理論では、超球は原則として停止しており、超球の振動としての波だけがほぼ光速で伝播する。)

  【 参考 】
 ついでに、もう少し細かく考えよう。(特に読まなくてもよい。)
 金属中を電位差が伝わる速度は、光速と同じぐらいか?
 実は、光速よりは、かなり遅いはずだ。実際、実験結果を見ても、トンネル効果素子に比べて、普通の半導体素子はかなり速度が遅い。では、そのわけは?
 超球理論に従えば、たぶん、こうだろう。
 「トンネル効果素子では、超球の波が複素数空間を伝わるが、普通の半導体素子では、電子の波が実数空間を伝わる。複素数空間の超球は質量がないが、実数空間の電子は質量がある。後者の方が重い。どちらも玉突きモデルで波が伝わるが、質量のある電子の方が、(玉突きモデルで)波の伝わる速度が遅い。」

         → ◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯ → 

  この図で、 が質量という抵抗をもつと、振動(=波)の伝わる速度が遅くなる。比喩的に言えば、きれいな金属球なら、(玉突きの)波の伝わる速度は速い。金属球にゴミのようなものがくっついていると、(玉突きの)波の伝わる速度は遅い。


場の量子論との関係

 場の量子論について、ざっと言及しておこう。


初歩的な説明


 まず、初歩的な説明をしよう。
 場の量子論は、通常の量子論とは、発想の枠組みが異なる。簡単に言えば、空間を量子化する。一方、通常の量子論は、エネルギーを量子化する。(おおざっぱな言い方だが。)

 量子力学の歴史を見ると、まずは「連続的なエネルギー」という概念があり、それが「とびとびの値をもつエネルギー」という概念に変わった。これが量子化に相当する。そして「とびとびの値をもつエネルギー」の具体的な形が、量子である。たとえば、光子、電子、中間子など。
 このような量子を描写するために、古典力学の方程式を適当な仕方で書き換えると、量子力学の方程式になる。これもまた「量子化」に相当する。
 
 この方法を、「空間」ないし「場」にも適用したのが、場の量子論だ。
 すなわち、「空間」ないし「場」も、とびとびの値をもつと見なして、古典力学の方程式を適当な仕方で書き換える。
 さらに、同様のことをもういっぺんやると、空間から「量子」(粒子)というものが出現する。……これは、何だか手品みたいな話だが、現実に合致する。というのは、「空間から対発生で粒子・反粒子が発生する」ということを結論できるからだ。
 こうして、量子力学では、二通りの枠組みがあることになる。

 ( ※ 「場」とは何かというと、「力を作用させるものとしての空間」というふうに理解するといい。たとえば、「電磁場」とは、「電磁力を作用させるものとしての空間」である。その詳細は、「電磁場のモデル」からわかる。)


 もう少し詳しく説明すると、次の通り。(物理学の基礎知識を要する。)
 物理学には、二通りの方法論がある。
 第一は、自然状態を「質点」としてとらえるもの。たとえば真空中で慣性運動をする粒子とか、万有引力の法則とか、クーロンの法則とか。
 第二は、自然状態を「場」としてとらえるもの。たとえば、電磁場。

 前者(第一)は、一つのものに注目する剛体力学ふう。
 後者(第二)は、たくさんのものからなる流体の動きを見る流体力学ふう。( → 「電磁波のモデル」の「参考」)
 それぞれの立場で、量子力学を構築すると、通常の量子論と、場の量子論とになる。

 なお、この二通りの立場は、一般的に言って、どちらも成立するものだ。たいていは、どっちにしても結論がほぼ一致する。(向き・不向きはあるし、結論までの手間暇の違いもあるが、そういうことは別として。)

 で、量子力学の場合はというと、やはり、二通りの量子論は、どっちでもほぼ同じ結論が出る。ただし、である。「粒子の発生・消滅」ということは、場の量子論からしか出てこない。[ 重要! ]

( ※ では、なぜそうか? その理由は、次項からわかるはずだ。何もないところからハトが出るはずがない、というような話。)



場の量子論の意味


 前項に述べたことは、たいていの解説書に書いてあるとおり。問題は、このあとだ。

 通常の量子論と場の量子論の違いは、どこにあるか? 次のことだ。
  ・ 通常の量子論 …… 真空は何もない空間だ、と考える。
  ・ 場 の量子論 …… 真空は何かで満たされる、と考える。

 簡単に言えば、こうだ。
  ・ 通常の量子論 …… 量子は粒子だ、と考える。
  ・ 場 の量子論 …… 量子は波だ、と考える。

 通常の量子論は、「量子は粒子だ」と考えて、「何もない空間を粒子が通る」と考える。ただし、それでは済まないこともあるので、「この粒子はときどき波の性質をもつようになる」というふうに考え直す。
 場の量子論は、「量子は波だ」と考えて、「何かで満たされている空間を波が伝播する」と考える。さらに、「この波が粒子の性質をもつ」というふうに考える。……こうして、おおむね、何もかもうまく行くように説明できる。

 どちらがいいかと言えば、場の量子論の方がいい。というのは、「真空中からの対発生」ということを説明するには、場の量子論に頼るしかないからだ。
 通常の量子論の方が優れている点は、「理論が簡単だ」というぐらいのことでしかない。初歩的なことは、通常の量子論で片付くので、けっこう便利ではある。ただし、高度なことを説明しようとすると、どうしても、場の量子論に頼らざるを得ない。
 20世紀前半までの量子力学は、通常の量子論の枠組みでも済んだが、20世紀後半の量子力学は、場の量子論によって発展してきた。「くりこみ理論」や、「電弱統一理論」などは、場の量子論による成果である。


場の量子論の問題


 では、場の量子論を取れば、すべて解決するのか? いや、そうでもない。
 場の量子論には、根源的な問題がある。それは、「矛盾」というような数理的な問題ではなくて、「本質が不明だ」という問題だ。
 場の量子論では、真空を「何かで満たされている」というふうに考える。だが、その「何か」というのを、具体的に提示できない。「何かで満たされている」と言っているくせに、その「何か」がさっぱりわからないのだ。

 比喩的に言えば、「空気」というものをよく理解できないでいる状態に当たる。
 古代人は、風などによって、「空気」というものがあることを理解していた。しかしながら、「空気」とは何であるかを、よく理解できなかった。「大気圧」というものをまともに理解したのも、近代に近い時代になってからのことである。(金属の半球形を二つ重ね合わせて、中の空気を抜いて、大気圧を知る、というような実験。)
 場の量子論もまた同様である。「真空は何かで満たされている」ということを前提として話を進めているのだが、その「何か」をうまく説明できないでいる。
( ※ 「空気」というものを理解できず、単に「何か透明なものがある」と理解していただけの古代人のように、「媒体」「複素エーテル」というものを理解できず、単に「見えない不明のものがある」とだけ考えている。── それが、場の量子論だ。)


超球理論による説明


 この点をうまく説明したのが、超球理論だ。
 超球理論では、「真空とは超球で満たされている」という発想を取る。そのことで、場の量子論ではわからなかった「何か」というものに、具体的な形を与える。── 「見えない空気」の実体が「窒素・酸素などの気体分子」だと明かすように、「見えない真空」の実体が「たくさんの超球の海」だと明かす。
( ※ これが「粒子の海」ではない、という点で、場の量子論とは異なる。)

 超球理論については、下記の文書を参照。
( ※ 英文版の後半では、電磁場との関係なども含めて、いろいろと詳しく説明してある。)


まとめ


 ここまでの話をまとめよう。(重複するが。)

 場の量子論というのは、基本的には、「空間の量子化」である。それでいろいろと有益な結論が得られる。だが、根源的な問題がある。
 真空とは何か? 何もない空間か? しかし、何もない空間をいくら量子化しても、何もないままだ。それではおかしい。
 空間というものを量しかできるとしたら、空間というものは「無」であってはならないはずだ。
 とすれば、真空は、「何もないように見えるがそこには何かがある」というふうに認識するべきだ。
 しかし、「真空には何かがある」というふうに考えるべきなのだが、その「何か」というのが、さっぱりわからない。となると、「何かがある」とは言えず、「何かがあるらしい」と言えるだけだ。
 要するに、現代の「場の量子論」は、何があるのかわからないまま、「何かがあるらしい」と信じて、数式をいじっているわけだ。

 ここでようやく、「超球理論」の意味がわかる。
 超球理論は、場の量子論が真空について「何かがあるらしい」と思っているところの、「何か」の正体を明かしている。── すなわち、「何かとは、超球ですよ」と。「それ(超球)は、目に見えないものであるが、確かに存在しているのだ」と。
 こうして、超球理論は、「場の量子論の根拠を与える」という形になる。



  【 余談 】

 以上のことから教訓とするべきことが二つある。人生論ふうの話だが。

 (1) 数式と本質
 理系の研究者は、「数式こそ大事だ」と思いがちだ。しかし、数式ばかりにとらわれて、物事の本質を見失うようでは、ダメである。真実を知るためには、物事の本質を見るべきだ。
 「場の量子論の数式でうまく説明できる」
 というふうに思うだけでなく、
 「その数式で意味しているものは何なのか?」
 というふうに本質を考えるべきだ。
 なぜか? 数式は大切ではないのか? 違う。次のことがある。
 「数式は思考の形式化である」
 「何らかの概念を得たあとで、それを明確化するために、数式化する」
 「数式よりも、それに先立つ概念の方が、本質的である」
 やたらと数式をいじくり回して、たまたまうまく行く数式を見つける、というやり方は、馬鹿げた発想である。パソコンの将棋ソフトみたいに一秒間に百万手を読むのならばともかく、人間は一秒間に百万通りの数式を産み出して検討するわけではないのだから、そんな行き当たりばったりの方針は馬鹿げている。むしろ、物事の本質を突くことで、正解にたどり着くべきだ。ただの数式よりも、数式の意味の方が大切だ。意味を知ることから、本当に正しい数式にたどりつける。

 (2) 真実はどこにあるか?
 通常の量子論と、場の量子論は、どちらも(完全な)真実ではない。では、(完全な)真実は、どこにあるか? 次のような発想がある。
   ・ 二つの説がどちらも一長一短ならば、真実はその中間にある。
   ・ 二つの説がどちらも一長一短ならば、真実は両者を足せば得られる。
 しかしながら、歴史的には、このような発想は常に間違っていた。かわりに、次の発想が正しかった。
   ・ 二つの説がどちらも一長一短ならば、真実はそれらとは別の第三のところにある。
 二種類の量子論がどちらも不十分であるときには、両者をうまく融合すればいいのではない。両者の真実をどちらも包み込むような、新らしい意外なものを導入すればいいのだ。また、そうするしか、解決の道はないのだ。
 ただし、そういうふうに見出された真実は、見出された時点では、あまりにも意外なので、すぐには賛同を得られない。進化論であれ、ビッグバンの理論であれ、まったく新しい学説が学界で広く受け入れれるには、かなり長い時間がかかった。
 人間というものは、新たな真実に出会うと、どうしても不消化になってしまうものだ。真実というものは単純で美しいが、それを受けれるほど人間の頭は柔軟にはできていないようだ。



 【 応用 】
 
 「モデルなんか、あったってなくたって、どっちだっていい。物理学では、数式だけあればいいさ」
 と思う人もいるだろう。しかし、そうではない。そのことを具体的な問題で示す。

 (1) 発散の困難(無限大の発散)
 「場の量子論」の発想をそのまま取ると、「発散の困難」(無限大の発散)という問題が発生する。このことは、根源的な問題だ。
 「くりこみ理論」を使うと、形式的には問題を回避できるが、あくまで回避できるだけであって、問題を解消するわけではない。
 しかし、超球理論の発想を取れば、問題は根源的に解消する。

 超球理論では、量子力学の数式の成立する範囲は、超球と超球の間だけである。もともと「超球同士の振動」を扱う方程式だからだ。当然ながら、超球の半径以下では、数式は成立しない。
 かくて、理論の適用範囲が示されることで、問題は根源的に解決する。

 (2) 特殊相対論との矛盾
 では、上の (1) の問題が起こるのは、なぜか?
 それは、「量子は点である」(半径がゼロである)ということを前提としているからだ。
 実は、「半径を(ゼロでなく)有限にすれば、発散の困難は解決する」ということは、昔からわかっていた。だが、そういうモデルを構築できずにいた。
 なぜかというと、「半径を有限にする」(ゼロ or 無限小ではなくする)という発想を取ると、特殊相対論に矛盾してしまうからだ。
 たとえば、「空間の伸び縮み」によって、量子の大きさが伸び縮みする。そうなると、おかしな結果になってしまい、矛盾する。
 というわけで、「特殊相対論」を前提とするならば、「場の量子論」において「量子の大きさはゼロである」というふうにするしかない。(有限の大きさを取れない。)

 しかしながら、この問題も、超球理論では解消する。
 超球理論では、空間というものは、液体のように自由に伸び縮みするものではない。むしろ、気体のように、粒子のある空間で粒子の密度が変化することだ。


 《 古典的な空間像 》
      ┣━╋━╋━┫
        |         \
      ┣━━╋━━╋━━┫



 《 超球理論の空間像 》
      ○  ○  ○  ○
        |          \
      ○   ○   ○   ○


 古典的な空間像では、量子の大きさがゼロでないと、空間の伸び縮みにともなって、量子そのものが伸び縮みする。(それはまずい。)
 超球理論の空間像では、超球そのものは不変だから、空間の伸び縮みがあっても、超球そのものが伸び縮みすることはない。

  ──

 結局、ちゃんとしたモデルを得ることで、従来の理論の問題を、きちんと解消することができるようになるわけだ。



 【 蛇足 】 (量子化とは何か)

 ついでに、蛇足。(特に読まなくてもよい。)
 場の量子論では「量子化」ということをなす。では、量子化とは、何なのか? 
 量子化とは、「連続的な値を、とびとびの値になるように、直すこと」というふうに理解してよい。(原理的・意味的には、そうだ。)
 一方、数式を使う話は、Wikipedia (日本語版・英語版)で調べると、定義がわかる。演算子を使って、可換ではない関係などとして、説明される。
 では、その両者が、どうして対応するのか? 計算してみると、結果がそういうふうになる(数式からとびとびの値が得られるようになる)のだが、どうしてそういうことになるのか? 「やってみたらそうなった」という結果論ではなくて、「どうしてそういうことが起こるのか」という原理を知りたい。
 そこで、私としては、おおまかな推定を出す。(あやふやだが。)それは、次の通り。
 空間を3次元ユークリッド空間と見なすのは、古典的な立場だが、それはただの近似的な理解にすぎない。空間は、おおまかには3次元ユークリッド空間だが、本当は、超球で埋まった9次元空間である。そのような空間を描写するには、演算子を使って描写するしかない。
 座標値は連続量ではなく、運動量も連続量ではないが、両者の積は連続量のように見える。比喩で言うと、ドミノ倒しでは、個々のドミノの動きは離散的だが、ドミノ倒しの流れは(離れて見ると)連続的に見える。個々のドミノの動きを描写するには、演算子で描写するしかない。
 個々のドミノに着目すると、ドミノに独自の次元が見出される。それは、ドミノの流れのある3次元空間の次元とは異なる次元である。その次元は、3次元空間からは独立し(直交し)、かつ、長さの短い次元である。
 こういう「ドミノの独自の次元」を見出すか否かが、「量子化」に相当する。もし無視してしまえば、「ある種の流れが3次元空間を進む」というふうに見える。それは「質点の運動」で近似できる。一方、ドミノの大きさを見て、個々のドミノの回転運動に着目すれば、もはや運動量や位置は、「質点の運動」では近似できなくなる。……かくて、古典的な認識とは別の認識が必要となる。そのための表現手段が、演算子による表現だ。
 比喩のかわりに数理的に言うなら、次のようになる。
 スカラーでなく演算子を使うわけは、その対象を描写するのに、質点力学でなく流体力学の発想を要するからだ。(前述。質点力学と流体力学。)
 ではなぜそうかというと、(モデルからわかるように)もともと粒子ではなく波としての性質をもつからだ。粒子は質点たる点として表現されるが、波は流体ふうに広く広がる。
 より正確には、波と言っても、普通の波ではなく、ソリトン(孤立波)と見なされる。
 ソリトンの動きは、離れてみれば粒子の進行のように見えるが、細かく見れば波としての構造をもつ。それを示すには、演算子を要する。ただし、遠くから見て近似的に示すだけなら、粒子(質点)のように近似表現することもできる。それが古典力学の立場だ。
 なお、このソリトンは、3次元空間におけるソリトンではなく、別の次元(微小次元)におけるソリトンである。また、このソリトンは、調和振動子のモデルによって表現できる。
 さて。以上のことから、こう結論できる。
 われわれの住んでいるこの宇宙を「3次元の空間」と見なすのは、ただの近似にすぎない。本当は微小な直交次元を含むのだ。ただし、その微小差は、プランク定数のレベルなので、直接測定することが困難であるにすぎない。
 とはいえ、直接的にはともかく、間接的にはわかる。影響ないし結果としての量子的な事象が、あちこちの面で見られるからだ。
 結局、「古典力学は量子力学の近似にすぎない」ということの意味は、「9次元空間を3次元空間で近似しているにすぎない」ということだ。
 なお、以上の話が、すべて真実であるかどうかは、あやふやである。あくまで、あやふやな仮説であるにすぎない。最初に述べたとおり。……考え方の一つ、というふうにのみ、受け止めてほしい。
 とはいえ、まったく無意味な与太話というわけでもない。こういうことを前提として、次のように推定することができる。(大胆な推定だが。)
 量子化の本質は、「位相のズレがある」ということだ。(二つの変数について。)
 たとえば、座標位置 X と運動量 P について量子化することの意味は、 X と P との間に「位相のズレがある」ということだ。その位相のズレは、角度で示すと 90度であり、数値で示すと i (虚数単位) である。
 たとえば、光子の場合、電流と電圧には 90度の「位相のズレ」がある。電流と電圧はまっすぐ進むのだが、完全に直線状に進むのではなく、サインカーブという波線を描きながら進み、しかも、そのサインカーブには位相のズレがある。……こういうことが、あらゆる量子に成立する。それを数理的に表現する方法が「量子化」である。
 このような「位相のズレ」は、量子においては成立するが、古典力学においては成立しない。古典力学においては、「位相のズレ」はゼロだと見なされる。たとえば、質点たる粒子について、その位置と運動量には、「位相のズレ」は見出されない。しかるに、量子においては、波の性質をもつので、「位相のズレ」が見出される。逆に言うと、「位相のズレ」を見出すことが、「波動性」をもつことに相当する。
( ※ 波の微分方程式を思い出すといい。二回微分すると、一定の定数が現れる。逆に、そのことをもって、波が定義される。同様に、位相のズレは、90度であり、虚数単位 i で示される。逆に、そのことをもって、複素数の波が定義される。そして、複素数の波を得るということは、超球の波を得るということだ。)
 さらに言えば、特に「調和振動子」のモデルが該当するはずだ。そして、調和振動子のモデルが該当するということは、媒体が粒子によって構成されているということを意味する。……こうして、「位相のズレ」から、「粒子性」が結論される。
 以上は、かなり大胆な推定だ。しかし、このような推定を取ると、何もかもがすっかり理解できるようになるだろう。「量子論ではなぜ、古典力学を量子化することで、量子論の方程式になるのか」ということも、はっきりと説明がつくようになる。(厳密に証明されたわけではないが。)

 なお、図式的に考えるなら、「ソリトン」や「調和振動子の波」は、玉突きモデルの波に相当する。たくさんの粒子があって、そこに一つの粒子がぶつかる。すると、一つの波が、粒子の全体に次々と伝わる。その一つの波とは、一つのソリトン(孤立波)である。
 つまり、「量子化」とは「玉突きモデル」で図式的に理解されるし、逆に、「玉突きモデル」は「量子化」で数式的に表現される。どちらもほぼ同じことを意味している。── こうして、「量子化とは何か」ということは、本質的に理解されることになるだろう。つまり、「量子化とは、玉突きモデルの数理的な表現だ」と。



 【 まとめ 】
 以上をまとめて整理すると、「量子化」の意味は、次の (1) (2) の通り。(やや難解。理解できなくてもよい。)
 (1) 通常の量子論
 質点系の力学(古典力学)を基盤にして、それを拡張する形で「量子化」をする。その意味は、3次元における点粒子のモデルを、9次元の複素空間におけるソリトンのモデルに置き換えることだ。それによって「エネルギーの移動」を考察する。その際、エネルギーは自動的に「とびとびの値」になる。(その理由は、次の (2) のことからわかる。)

 (2) 場の量子論
 場の量子論では、もともと「場」があり、流体力学をモデルとしている。だから (1) のように「点から波へ」という拡張をすることは、別に必要ない。ただし、媒体というものをしっかり考慮する。抽象的にエネルギーの移動を考慮するだけでなく、エネルギーの移動をもたらす媒体の性質を考慮する。それは「調和振動子」であり、「の振動」である。
 また、単に「調和振動子」の性質をもつだけでなく、「9次元の複素空間に属する」ということを規定する必要がある。これがポイントだ。ここでは、「位相のズレ」が虚数で示される。(実数の波の場合とは違う。)
 以上の二点が「空間の量子化」に相当する。その上で、さらに「第二量子化」がある。第二量子化は、エネルギーの量子化である (1) に似ている。波のエネルギーは連続的だが、粒子(調和振動子)の存在は離散的である。だから、「波から粒子へ」という転換では、「連続値から離散値へ」という転換がある。その過程が「第二量子化」で示される。その過程は確率的な過程である。



エーテルの用語法

 複素エーテル(虚数エーテル)の性質について考えよう。


実数エーテルの否定


 通常の意味のエーテルとは、19世紀物理学における「物質としてのエーテル」である。
 これは、マイケルソン・モーレーの実験で否定された。周知の通り。

( ※ この二つの用語で検索すると、ネット上の情報を得られる。)


複素エーテル(虚数エーテル)


 本サイトでは、新たに「複素エーテル」というものを導入した。
 ただし、時系列で言うと、最初に提出した概念は、「虚数エーテル」であった。
 その後、「虚数エーテル」という概念を拡張する形で、(実数3次元と虚数3次元の)「複素エーテル」という概念が出た。
 
 ただし、注意しよう。
 「虚数エーテル」という概念が出たときには、虚数そのものが実数に直交していた。一方、「複素エーテル」という概念が出たときには、複素数の実数部が3次元空間に直交していることは、ただちには言えない。
 複素エーテルの実数部の次元が、既存の3次元に直交していることを言うには、複素数であることを言うだけではダメで、「異なる次元に属すること」を言う必要がある。(こうして、「3次元+3次元+3次元」という宇宙空間モデルができる。)


異次元エーテル


 前項で述べたことを踏まえよう。すると、用語としては、「異次元エーテル」という用語も考えられる。これは、意味的には「複素エーテル」と同じだが、複素数であることよりは、異次元であることに着目している。
 あくまで用語の問題ではあるが、「異次元エーテル」と呼ぶ方が、いっそう本質的であるかもしれない。
 そこで、「複素エーテル」という言葉は、将来的には、「異次元エーテル」という言葉に変更されるかもしれない。

 なお、読者としては、どの用語を使っても差し支えない。「異次元エーテル」でもいいし、「複素エーテル」でもいいし、はたまた「虚数エーテル」でもいい。どっちみち、意味するところは、同じである。(超球理論のもとでは。)

 さらに言えば、単に「エーテル」と呼んでもいい。これが一番いいかもしれない。現段階では、19世紀の「エーテル」とまぎらわしいが、そういうまぎらわしさを回避すれば、「エーテル」と呼ぶのが最も適していると思える。

( ※ 難点があるとすれば、化学の「エーテル」とまぎらわしいことだ。しかしこれは、日常的には現れないものだから、無視してもいいだろう。)
( ※ 英語では、化学の方は ether であり、量子論の方は the ether である。)



負のエネルギー



 重力理論やエーテルの概念に関連して、「負のエネルギー」という概念を導入する。ちょっと信じがたいところがあるが、仮説として。(正しいかどうかは、あやふやなところがある。)


重力の「場」


 まず、重力についてのおさらいをしよう。
 重力を「場」の概念でとらえることは、すでになした。( → 「力とは何か?」という文書。)
 そこで示した図は、次の通り。


        (超球の密度の高いところ[左方]は、星などのせいで、空間が密になっているところ。
          空間内にある物質  については、右から左へと力が働く。)


 この考え方では、重力は、空間の「粗」なるところから「密」なるところへ、という方向で働くことになる。


気体とは逆方向の力


 前項の図を、気体分子論における力と比べてみよう。すると、次のことがわかる。
 「前項の図は、気体分子論における力とは、方向が逆である」

 気体分子論における力の方向は、空間の「密」なるところから「粗」なるところへ、という方向で働く。
 一方、超球理論における重力の力の方向は、空間の「粗」なるところから「密」なるところへ、という方向で働く。
 両者には、食い違いがある。では、この食い違いを解決するには?


エネルギーの正負


 気体分子論における力は、どういう形でもたらされるか? 次のことだ。
 「圧力の高い側(密なる側)では、分子が高いエネルギーをもつ。圧力の低い側(粗なる側)では、分子が低いエネルギーをもつ。高いエネルギーをもつ分子が物体にぶつかると、多くのエネルギーを物体に与える。ゆえに、高いエネルギーをもつ分子は、エネルギーを与えるという形で、力をもたらす」

 さて。このことからすると、次のように考えるといいはずだ。
 「超球が物体に衝突したとき、『負のエネルギー』を物体に与える。すると、密なる側では『負のエネルギー』をたくさん与え、粗なる側では『負のエネルギー』をわずかに与える。そのことで、力の方向は、気体とは逆になる」

 こうして、「負のエネルギー」という概念を導入することで、重力の由来を説明できるようになる。


「負のエネルギー」の実在性


 問題は、「負のエネルギー」の実在性だ。そんなおかしなものがあると信じてもいいのだろうか? 

 実を言うと、場の量子論の立場では、「負のエネルギー」は、「会ってもいいもの」ではなく、「是が非でも必要なもの」である。
 このことは、ディラックが示した。ディラック方程式を取ると、どうしても「負のエネルギー」というものが出現してしまうのだ。
 ディラックの方程式からすると、「負のエネルギー」というものは必然的である。また、「負のエネルギーに満ちた空間」というのも、必然的である。
 というわけで、超球理論の発想は、場の量子論と、矛盾するものではない。むしろ、場の量子論によく合致する。


場の量子論との違い


 ただし、場の量子論の発想と、超球理論の発想とは、まったく同じではない。両者には、違いがある。では、どう違うか? どちらも「負のエネルギー」というものを考えるのだが、「負のエネルギー」の現れ方が異なる。

 (1) 場の量子論
 場の量子論(特にディラック)の発想だと、次のようになる。
 「負のエネルギーをもつものは、粒子である」
 このことから、奇妙な結論が出る。次の二点だ。
   ・ 「ディラックの海」…… 真空は負のエネルギーをもつ粒子で満たされている、という結論。
   ・ 「騾馬(らば)電子」…… 通常の粒子とは逆の性質をもつ粒子が存在する、という結論。
 これらはいずれも、奇妙な結論である。

 (2) 超球理論
 超球理論の発想だと、次のようになる。
 「負のエネルギーをもつものは、超球である」
 この超球は、現実の粒子ではない。だから、場の量子論におけるおかしな結論は出ない。
、超球理論では、「真空は負のエネルギーの素粒子で満ちている」という結論のかわりに、「真空は負のエネルギーの超球で満ちている」という結論を得る。この発想ならば、騾馬粒子」ないし「騾馬電子」という不自然なものは発生しない。……こうして、話は整合的になる。

 ( ※ 超球理論で何もかも解決する、というわけではないにせよ、ディラックの海という難題[未解決の問題]については、従来の発想よりははるかに整合的な解答を得られるわけだ。)


重力子


 重力をもたらす超球は、どのような超球か? 
 超球の性質からすると、「超球一般」というものはあり得ず、何らかの特定の形を取る。たとえば「光子」とか「電子」とか。
 というわけで、重力の場合も、実際に力を及ぼす超球は、特定の超球であろう。それを「重力子」と呼んでもいいだろう。
 「重力子」は、現時点では発見されていないが、一応、予想されている。たぶん、その予想の通りの性質をもつだろう。

 ただし、注意。「重力子」が発見されたからといって、それが「光子」と同じような形で作用する、ということにはならない。つまり、重力子が重力場を作り出して、その重力場が重力をもたらす、ということにはならない。重力子が重力をもたらす原理は、まったく別の原理だ。この件は、「力とは何か?」に記したとおり。



3の神秘

 この世界は3次元である、ということの意味。


なぜ3次元か?


 われわれのいるこの世界は3次元である。それは、なぜか? ── このことはしばしば話題となる。
 この問題には、直接答えることはしないが、関連する話題を示そう。


さまざまな3


 関連する話だが、超球理論では、次のことが説明される。
  ・ 次元の数は、時間を除くと、9である。
  ・ 内訳は、通常の空間の3次元(x,y,z )と、エーテルの6次元(u,v,w,iu,iv,iw )。
 ここでは、次の点に注意。
  ・ 通常の空間の次元(x,y,z )も、エーテルの次元の基本(u,v,w )も、通り。
  ・ 次元の種類は、次の通り。
   「通常の空間の次元」「エーテルの実数次元」「エーテルの虚数次元」
 いずれにおいても という数字が現れる。
 ( ※ なお、u,v,w という3種類は、「電磁気力/弱い相互作用/強い相互作用」に対応する。)

 さて。次のことも知られている。( → 参考サイト
  ・ クォークは、世代ある。
  ・ クォークは、つが結びついて、一つの素粒子となる。
 ここにも という数字が現れる。

 というわけで、いずれにしてもという数字が現れる。
 つまり、「この世界はなぜ3次元か?」という問題を解決するのであれば、他の箇所に現れる3という数との共通性も大事だ、というふうになる。あっちもこっちも3という数が基本的なのだから、それらがバラバラだとは思えない。何らかの関連性があるのだろう。その関連性を探り出すことで、真実が見えてくるはずだ。

 なお、これは、ただの直感である。理屈ではない。とはいえ、ここには、真実へのカギがひそんでいるように思える。そこで、細かな話題として、取り上げておいた。

 ( ※ 余談として、エピソードを述べておこう。昔、イタリアの詩人であるダンテは、神曲などの大作を書いたが、そこでは3という数が非常に重視された。これは有名な話だ。彼は3という数を宇宙の基本をなす数と見なしたらしい。……ひょっとしたら、現代のわれわれよりも、はるかに真実を見抜いていたのかもしれない。)


3の対称性の仮説


 これらに共通する3という数について、根拠を与えたい。そこで、仮説を示そう。ただしあくまで、(あやふやな)仮説である。特に読む必要はない。(読んでも無駄かも。)

(1) 第一の仮説


 電磁波については、別の文書でモデルを与えた。( → 電磁波のモデル
 このモデルでは、基本原理として、次のことが(公理のように)与えられた。
 「電子が一定方向に進むとき、電子(超球)は回転する」
 「その回転の方向は、電子の進行方向を向いたとき、左回り(反時計回り)になる。つまり、通常の右ねじとは逆である」
 ここから電磁波のモデルが与えられ、電磁場というものが判明した。

 さて。同様のことを対称的に考えるなら(ゲージ対称性を考えるような発想を取るなら)、次のことも考えられるはずだ。
 「量子が一定方向に進むとき、量子は回転する。その回転の方向は、x 軸回転のほかに、3次元的に2通りが考えられる。すなわち、y 軸回転と、z軸回転である。
 野球のボールで言うと、次のようになる。
  ・ x 軸回転 …… ジャイロボール (ねじと同様)
  ・ y 軸回転 …… スライダー(&シュート)
  ・ z 軸回転 …… 直球(&ドロップ)

 以上のことから、次の結論が出る。
 「空間の次元は、x, y, z の通りがある。それゆえ、(量子的な)力の種類も、通りがある」
 こうして、次のことが示される。
 「空間の次元と、(量子的な)力の種類とは、同じ数(=)である」

      *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

 この結論は、面白い。ただし、この結論は、次の理由で否定される。
 「進行する量子にとっては、上下左右を区別するための絶対基準は存在しない。ゆえに、スライダー回転・シュート回転・ドロップ回転・直球回転の4通りは、たがいに区別されない」

 地上に立つ人間ならば、重力があるので、重力を基準として、上下左右は区別がつく。しかし、宇宙空間で浮遊する人間にとっては、重力がないので、体全体が上下左右方向に回転できる。右だと思った方向があっても、そちらに90度回転すれば、右だと思った方向が上になる。
 このように、座標軸を変えることで、スライダー回転・シュート回転・ドロップ回転・直球回転の4通りは、たがいに区別されない。
 かくて、第一の仮説は否定される。



(2) 第二の仮説


 新たな仮説を考える。同じく回転を区別するにしても、次の3通りを区別する。
  ・ 右ねじ回転
  ・ 左ねじ回転
  ・ スライダー回転・シュート回転・ドロップ回転・直球回転
 こうして、3通りの回転が区別される。

 こういう仮説も、一応、考えられる。ただしこの場合、空間の3次元との対応は、第一の仮説の場合ほどには、きれいに対応しない。数学的にきれいでないので、あまり信頼性がない。
 どちらかと言うと、次に述べる「第三の仮説」の方が、信頼性がある。



(3) 第三の仮説


 新たな仮説を考える。数学的にきれいな対称性を考えると、回転については、次の対称性だけが成立する。
  ・ 右ねじ回転
  ・ 左ねじ回転
 これは二通りの回転だ。これに相当するものは、量子力学における「スピン」であると思える。そして、そう理解すれば、モデルがかなりきちんと量子力学に対応する。

 ただし、そう理解するとなると、この場合は、二通りであって、三通りではない。となると、空間の次元の数(3次元の3)とは、関係がないことになってしまう。
 というわけで、「回転のモデルと次元の数とを結びつける」という当初の目的には、失敗したことになる。「3の神秘を解決する仮説」というもくろみは、うまく行かなかったことになる。

 
 以上に三つの仮説を示したが、いずれも仮説としては成功していない。「回転のモデルと次元の数とを結びつける」という目的は、達成されなかったことになる。ここまで述べた「3」についての推論や仮説は、見当違いの点が多かったようだ。とはいえ、試みは失敗だったとしても、失敗の痕跡をここに残しておこう。失敗は必ずしも無益ではないからだ。過去の失敗は、未来の成功のために、奉仕する。

 最初の話題に戻ろう。「なぜ3か?」という問題は、まだまだ神秘のままである。本項では、自然界の神秘に踏み込むための最初のステップを提供した、という程度のことがあるだけだ。本当の真実は、もっとずっと奥深くにあるのだろう。
 現状では、「3」については、「なぜ?」には踏み込まず、「そういうものだ」と天下り的に受け入れるしかないようだ。



量子コンピュータ

 量子コンピュータの核心(のみ)を説明する。


概念


 量子コンピュータは、「重ね合わせの原理を用いて、並列計算する」というふうに言われている。既存のノイマン型コンピュータと比較すると、指数関数的に少ない計算量で済む、と言われている。(計算対象の量に対する割合。)
 もっと知りたければ、ネット上にあれこれと情報がある。


基本


 では、超球理論では、この問題はどうなるか? 
 超球理論では、そもそも、「(粒子の)重ね合わせ」という原理は成立しない。とはいえ、「波」という原理が成立する。これが実質的には、「(粒子の)重ね合わせ」に相当する。その意味で、量子コンピュータという概念は、超球理論でも成立する。

 図のイメージで言うと、次のようになる。
  ・ 重ね合わせ
    …… 二重スリットを通る二つの粒子が、それぞれ計算する。
  ・ 超球理論
    …… 二重スリットを通る波の一部(計2箇所)が、それぞれ計算する。

 このイメージでは、二重スリットを通るものを「粒子」と見なすか「波(の一部)」と見なすか、という違いはあるが、現実的には、差はない。
 というわけで、どちらの解釈を取っても、「量子コンピュータ」というものは成立する。


限界


 ただし、超球理論の立場から見ると、量子コンピュータの限界も判明する。

 まず、基本として、次のことがある。
 「二つの実在が同時に成立するわけではない。二つの可能性が同時に成立するだけだ。」
 イメージ的に言えば、二つの粒子が同時に二つの場所に存在することはない。粒子として存在するのは、常に一つである。(可能性は複数あるが、現実の存在は一つだけ。)

 このことから、次のことが結論される。
 「並立計算は可能だが、それから得られる答えは一つに限られる」
 具体的に言えば、可能と不可能は、次の通り。

 (1) 可能な場合
  ・ 素因数分解で解答を一つだけ見つける。
  ・ 検索でマッチング対象を一つだけ見つける。
 これらのいずれでも、たくさんある可能性のなかから、一つだけの解答を得る。そういう場合には、量子コンピュータは有効である。

 (2) 不可能な場合
  ・ 複数の別々の作業を同時に実行する。
   (例。表計算で、行ごとの和と列ごとの和を取る。10行10列の作業について、
      20の作業がある。それらをすべて、量子コンピュータで並列作業する。)
   (例。各人がそれぞれ別の作業をする。ワープロや画像処理など、20人分の
      20の作業がある。それらをすべて、量子コンピュータで並列作業する。)
    ……この二つの例では、並列作業があるが、それぞれ別々の解答を得る。
      ゆえに、これらは、量子コンピュータを使っても、高速化しない。
      むしろ、ノイマン型の複数CPUで、並列処理する方がいいだろう。
      ( ノイマン型との比較は → Open ブログ 「量子コンピュータ」



量子テレポーテーション

 量子テレポーテーションの核心を説明する。


概念


 「量子テレポーテーション」とは、量子が離れたところに一瞬にして移動することだ。ただし、あくまで、見かけ上の移動である。具体的には、次の通り。
  ・ ある瞬間に、量子Aが消滅する。
  ・ 同時に、量子Bが出現する。
  ・ この二つの量子は、まったく同じ性質をもつ。
  ・ ゆえに、同じ量子が、遠く離れた場所に、一瞬にして移動したことになる。

 比喩的に言えば、次のことだ。
 「パリでミッキーが消えて、まったく同じミッキーがカリフォルニアに現れたのであれば、ミッキーは一瞬にして移動したことになる」

 ミッキーではつまらないなら、トヨタ・カローラでもいい。二つのカローラが(普通の人には)まったく区別できないのであれば、カローラが一瞬にしてパリからカリフォルニアに移動したことになる……というわけだ。
( ※ 厳密に見れば、どこかが違うのであろうが、観測者に区別できなければ、同じものだと見なされる、というのがミソである。実を言うと、量子だって、遠く離れていれば、別物に決まっているのだが、観測者には区別できないというだけのことで、勝手に同じものだと見なされてしまう。)

 では、この問題の核心は? 超球理論の立場から述べよう。以下の通り。


玉突きモデル


 核心の一つは、次のことだ。
 「量子テレポーテーションは、特別な場合に起こるだけでなく、あらゆる場合に起こる。『AとBが区別できないから同じものだと見なして、Aの場所からBの場所に移動したと見なす』ということは、運動する粒子のすべてに当てはまる」
 だから、いちいち「量子テレポーテーション」だと騒ぐことはないのだ。なにもかもが量子テレポーテーションなのだ。

 そしてまた、その核心は、次のことだ。
 「量子テレポーテーションでは、本当は、量子は移動していない。同じものが、一箇所で消滅して、他の場所で発生した、というだけのことだ」
 量子が実際に移動したわけではなくて、量子が移動したかのように見えるだけだ。

 【 たとえ話 】
 比喩的に言おう。レンタカー会社からカローラを借りる。ニューヨーク東で借りて、カリフォルニアで返す。さらに七日後に、カリフォルニアで借りて、ニューヨーク西で返す。
 
   (前半)   NY 東  ──────────→  カリフォルニア
   (後半)   NY 西  ←──────────  カリフォルニア

 前半では、カローラを借りて、カローラを返した。
 後半でも、カローラを借りて、カローラを返した。
 このすべてを通して、カローラは同じ物である必要はない。前半のカローラと、後半のカローラは、違うカローラであってもいい。カローラは、NY東 から NY西 へと移動したように見えるが、それは見かけ上のことだ。(本当のカローラは、NYとカリフォルニアの間で移動している。)
 要するに、レンタカー会社のレンタカーは、たがいに区別する必要のない物なので、一つの物が移動したように見える。(別々の物による現象だとは見えない。)


 なお、これと似たことは、前述のトンネル効果でも説明した。
 「トンネル効果」については、「量子が壁を通り抜ける」というふうに説明されることが多い。
 しかし超球理論の立場では、それは否定される。すなわち、「一つの量子が壁を通り抜ける」のではなくて、「一つの量子が壁の手前で消えて、一つの量子が壁の向こう側に現れる」というのが正しい。

 ともあれ、「移動」という概念と、「消滅と発生」とい概念とを、混同してはならない。
 「移動」という概念を取ると、「量子テレポーテーション」であれ、「トンネル効果」であれ、奇妙なことが起こったと見える。しかし、「消滅と発生」とい概念を取れば、何も不思議なことは起こっていない、とわかる。
( ※ 人々は単にトリックでだまされているだけだ。二つのミッキーを同じミッキーだと思うように。二台のカローラを同じカローラだと思うように。)


同時決定概念


 さて。もう一つ問題がある。それは「同時決定」の問題だ。
 「量子もつれ」という状態にしておくと、二つの量子がたがいに関連しあう。Aという量子が未確定から確定状態に移ると、Bという量子も同時に未確定から確定状態に移る。
 たとえば、AとBがたがいに「白または黒」という関係にあるとする。AもBも、白と黒のどちらであるかわからない。ただし、次のことはわかる。
  ・ Aが白ならば、Bは黒
  ・ Aが黒ならば、Bは白
 ここで、Aが白か黒かが決定すると、同時に、はるかに離れた距離にあるBの状態も決定することになる。

      A                       B
      ○                      ●
   白だと判明      10光年        黒だと判明

 この図で、Aが白だと判明したとき、その瞬間に、10光年離れた場所で、Bが黒だと判明する。……つまり、情報が一瞬にして長距離を伝わったことになる。
 これは、「光速以上で情報が伝わる」というパラドックスだと思える。


判明と決定


 この問題は、実は、コペンハーゲン解釈でのみ起こる問題だ。というのは、コペンハーゲン解釈では、次の立場を取るからだ。
 「状態の判明と、状態の決定は、同じである」 (観測が状態を決定する)

 しかしながら、超球理論では、そのような立場を取らない。逆の立場を取る。
 「状態の判明と、状態の決定は、別のことである」 (観測は状態を決定しない)

 たとえば、シュレーディンガーの猫や二重スリット実験では、観測したから状態が決定されたのではない。波が粒子になったから、状態が決定されただけだ。観測が入り込む余地はない。
( ※ 強いていえば、状態が決定された場合にのみ、観測が可能になる。波の状態では、観測はできない。)

 判明と決定とは異なること。── これを、前項に当てはめれば、次のようになる。
 「Aが白だと判明したとき、その瞬間に、10光年離れた場所で、Bが黒だと判明する。……これは、あくまで、判明であって、決定ではない。つまり、観測と推定をする人がいて、彼の頭のなかの出来事であるにすぎない」

 具体的に言おう。次のようになる。(時間順に記す)
  1. 00:00 量子Aが白であると決定した。
  2. 00:02 観測担当者が、Aが白であるのを観測した。
  3. 00:04 観測担当者が、「Aが白です」と物理学者に報告した。
  4. 00:06 物理学者は、その意味を考えて、あれこれと推論した。
  5. 00:08 物理学者は、「Bが黒である確率は 99.999999%である」と結論した。
  6. 00:10 物理学者がそのことを所長に報告した。
  7. 00:12 所長は、「Bは黒だ」と理解した。その理由は観測担当者の観測だ、と考えた。(物理学者の推定という作業については無視した。)
 以上の手続きには、12分間かかった。結局、最終的には 12分後に、「Bは黒である」という結論が出た。
 とはいえ、これは、所長の頭のなかの出来事であるにすぎない。本当にBが黒であるかどうかは、確実にはわかっていないのだ。なぜなら、その瞬間に、Bは核爆発のせいで消滅してしまっているかもしれないからだ。


まとめ


 前項のことのまとめを言おう。
 「観測が状態を決定する」というコペンハーゲン解釈のもとでは、Aについての観測がBの状態を決定することになる。
 しかし超球理論の元では、観測は観測であり、決定は決定であり、別のことである。「Bが黒である確率は 99.999999%である」と結論したとしても、それはあくまで頭のなかの推定であるにすぎず、現実にBが黒になっていることを意味しない。
 では、「超光速の情報伝達」とは、何なのか? それは、「頭のなかにおける、超光速の情報伝達」である。
 つまり、頭のなかで「10光年」という距離を考え、頭のなかで「瞬間的に決まる」というふうに考える。そのすべては、頭のなかの出来事である。そして、推定は推定であって、現実のことではない。
 ( イヤミを言えば、こうだ。頭のなかの想像を現実のことだと思うのは、狂人と物理学者だけである。)

 ( ※ もっと詳しい話を知りたければ、「二重スリットと観測問題(2)」の「量子テレポーテーション」の項目を参照。とりたてて重要なことが書いてあるわけではないが、本文書に記述したことを、もっとていねいに丁寧に細かく記してある。)
 ( ※ 同じ問題を、別の方向から扱う立場もある。それは、後述の「EPRパラドックス」などの話だ。)
 ( ※ その一方で、最初の方で述べたことを思い出してほしい。テレポーテーションと移動とは、本質的には異なることだ。二つのものが別々のところで消えて現れることを、「一つのものが移動する」という概念と同じことだと見なしてはならない。ミッキーの退場と登場は、ミッキーの移動と同じことではない。「二つの現象を混同してはならない」ということに注意しよう。)



ベル不等式関係

 ベル不等式やEPRパラドックスについて言及する。
 ( ※ この話は、込み入っていて難解であり、かつ、重要な結論をもたらさない。ゆえに、普通の人は読む必要はない。一部のうるさい専門家向けの細かな話であるにすぎない。)


ベル不等式

 ベル不等式(ベルの不等式)は、量子力学の根源と関わる。その意味で、「シュレーディンガーの猫」や「二重スリット実験」ともいくらか関係がある。
 では、なぜ、本サイトではこれまで「ベル不等式」について扱わなかったか? 扱えないからか? 違う。この問題は、すでに解決済みである。ただし、言及はしなかった。その理由は、次の二点である。
  ・ 解決のためには、本サイトの体系全体を、あらかじめ理解しておく必要がある。
  ・ 解決してみると、この問題はあまりにも些末であり、言及するに値しない。

 比喩的に言うと、数学の専門分野の高度で些末な問題だ。その問題を扱うには、数学の高度な知識を必要とする。で、その高度な知識を使って、解決してみると、実は下らない問題であったと判明する、というわけだ。
 というわけで、一部の専門家には、話題にはなるだろうが、普通の人は特に知る必要はない。知ったところで、たいして有益な情報を得られるわけではない。

 では、一部の専門家はどうか? もちろん、専門家ならば、この問題を解決した方がいいと思うだろう。だから、そういう人のためには、解決した内容を公開してもいい。
 しかしながら、私としては、公開するつもりはない。公開したところで、立派な業績となるような論文にはならないからだ。たいして意味のない問題には、たいして意味のない解答があるだけだ。いちいち公開するほどの内容でもない。(公開するメリットがあまりない。)

 その一方で、公開することのデメリットはある。それは、「揚げ足取りをされる」ということだ。
 そもそも、ベル不等式の問題を解決するには、本サイトの記述をあらかじめ十分に理解しておく必要がある。(これは当然だ。たとえば、解析学の問題を解決するには、解析学の体系をあらかじめ理解しておく必要がある。)
 しかしながら、たいていの専門家は、本サイトの記述をまだ読んでいない。理解してもいない。本サイトの記述を理解しないまま、その先の小さな問題を扱った説明を読んでも、ちんぷんかんぷんに決まっている。(解析学を理解しない人が、解析学における証明を読んでも、ちんぷんかんぷんに決まっている。)
 こういうふうに無知な状態のまま、高度な問題を解決した話を読んでも、誤読するのが関の山だ。そのあげく、こう結論するだろう。
 「このサイトの説明は、ベル不等式の問題を、ちゃんと解決していない。ゆえに、このサイトの説明は、トンデモである」
 たとえて言うと、解析学を理解しない素人が、こう判断するようなものだ。
 「解析学の説明は、重力の働き方を、ちゃんと解決していない。ゆえに、解析学という学問は、トンデモである」
 こういう勘違いが起こりがちだ。

 ゆえに、私としては、高度な問題の解答を示すよりも、まずは基礎的な体系を全部理解してもらいたい、と思う。特に、「超球理論」を、あらかじめ全部理解しておく必要がある。基礎たる体系としての「超球理論」を理解しないままでは、その先の説明は、何を読んでも受容しがたいはずだ。
 「超球理論」を理解する人が多くなった時点で、私としては「ベル不等式」などを解決する話を、公開する予定である。話すこと自体は、すでに内容ができているからだ。


予告

 とはいえ、思わせぶりな話だけでは、満足しない人も多いだろう。そこで、簡単に、話の内容を予告しておく。

 (1) 隠れた変数
 ベル不等式の実験結果は、「隠れた変数」を否定する。
 このことは、超球理論に矛盾しない。超球理論では、「隠れた変数」などはない。では、何があるか? 「確率的なバラツキ」だけがある。
 比喩的に言おう。コインを回転させたあと、表と裏が決まる。ここでは、表と裏を決めるのは、確率である。何らかの「隠れた変数」があるのではない。

 (2) 決定と確率
 宇宙は「隠れた変数」によって決定されるのか? それとも、「観測」によって決定されるのか? 
 どちらでもない。宇宙は、何によっても決定されず、「確率的に」定まるだけだ。
 たとえば、どこかの誰かがシュレーディンガーの猫の装置を作って、観測したとしよう。猫の生死が判明したとしよう。
 ここでは、猫の生死を決めるのは、彼の観測ではない。かといって、宇宙の始原から「隠れた変数」によって決定されているわけでもない。猫の生死を決めるのは、実験装置における粒子の確率だけだ。ここでは、「確率が猫の生死を決める」と言える。
 そして、この確率は、実験装置全体に備わる数学的な(人間の認識による)確率ではない。量子そのものに備わる根源的な確率だ。あらゆる量子は、根源的に確率的な存在なのだ。
 「量子の(根源的な)確率性」
 これが量子論における最も重要なことだ。
 たとえば、真空中において、電子と陽電子の対生成が起こるのは、量子の根源的な確率性に由来する。隠れた変数があるからでもないし、人間が観測したからでもない。

 (3) 確率と重ね合わせ
 確率が変わるということは、重ね合わせの状態が変わるということではない。重ね合わせというものは、そもそも無意味な概念だからだ。( → 量子力学のミクロとマクロ
 たとえば、猫の生死の値が 0.5 であるということは、猫が生死半々の状態になっているということではないし、猫が生と死の重ね合わせになっているわけでもない。単に確率的に 0.5 という値が得られるだけだ。つまり、「多数のものを観察すると、全体のうちの半数の場合にそのこと(死)が起こる」というわけだ。(ごく当たり前の確率概念。)

 (4) アリスとボブの量子
 このことは、遠隔地で離れたアリスとボブの量子についても当てはまる。

      アリスの量子         ボブの量子
         ○               ●
       0.5 → 1            0.5 → 0

 アリスの量子の値が 0.5 から1になったとき、ボブの量子の値が 0.5 から0になる。これは、何を意味するか? 
 「重ね合わせ」の概念に従えば、こうなる。
 「アリスの量子で重ね合わせの状態がほぐれた(どちらかに決定された)ときに、ボブの量子でも重ね合わせの状態がほぐれる(もう一方に決定される)。……ここでは見かけ上、何らかの情報が伝わったように見える。」
 一方、「確率」の概念に従えば、こうなる。
 「アリスの量子の確率が1になったときに、ボブの量子の確率が0になる」
 ここでは、何らかの情報が伝わったわけではない。そのことに注意しよう。
 たとえば、巨大なルーレット版に 50個の目があったとする。ここにボールを転がす。ボールはどこかの目に止まる。もし1という目にボールが止まったら、他の目(たとえば 26の目)にボールが止まる確率は0になる。この両者は同時に決まる。そして、それは、ただの当り前のことである。その際、1の目から 26の目に、情報が超光速で伝わったわけではない。情報は何も伝わっていない。単に確率が収束しただけのことだ。
( ※ 「重ね合わせ」という概念を捨てることで、このことがわかる。)
( ※ ここでは「確率が収束した」という言葉を使ったが、正確に言えば、この表現は正しくない。「確率が収束した」というよりは、単に「事象が確定した」と表現するのが正しい。この件は、後述する。「波動関数の収束」という箇所を検索すればわかる。)

 (5) 観測と決定
 「観測が状態を決定する」
 という主張がある。この主張に従えば、次のようになる。
 「アリスが観測したとき、アリスの量子の状態が決定する。そのとき、ボブの量子の状態も決定する。ゆえに、アリスが観測したという情報が、ボブのところに伝わる」
 しかし、このことは成立しない。なぜなら、「観測が状態を決定する」という最初の前提が成立しないからだ。なぜかと言えば、「重ね合わせ」などはもともとないからだ。(「重ね合わせ」などはないから、「重ね合わせがほぐれる」という形で状態が決定することもない。)
 観測は状態を決定しない。たとえば、観測のために、量子に光を当てるとしよう。そのこと自体は、量子の状態に影響するかもしれない。しかし、いったん光が当たったあと、その光をとらえて観測するか、その光をとらえずに観測しないかは、量子の状態に影響しない。また、機械的に検知したあと、人間が愚かだから認識できなかったということも、量子の状態に影響しない。
 観測は状態を決定しない。状態は単に確率的に決まるだけだ。アリスの量子の状態が確率的に決定したとき、ボブの量子の状態も確率的に決定する。ただし、ボブの量子の状態が決定したとき、アリスが量子を観測したかどうかはさっぱりわからない。そのときアリスは観測したかもしれないし、アリスは観測していないかもしれない。たとえば、アリスの量子の状態が確定したときに、アリスの量子の検知器は壊れていてアリスは何も観測していないかもしれない。
 量子の状態を決めるのは、(重ね合わせをほぐす)観測ではなく、確率である。したがって、アリスからボブへ情報が伝わるということはない。

 (6) 超光速の情報伝達
 アリストボブの間に、超光速の情報伝達などは、ない。そもそも、超光速であれ低速であれ、何の情報伝達もない。
 ただし、見かけ上、超光速で何かが伝わるように見えることもある。その「見かけ上」というのがポイントだ。
 実を言うと、超光速で伝わる「何か」とは、物質レベルものではない。何らかの粒子ではないし、何らかの情報でもない。観測できないようなものだ。
 では、超光速で伝わる「何か」とは、何か? それは、物質レベルで言えば、「無」( nothing )である。無が超光速で伝わるのだ。換言すれば、「超光速で伝わるものは何もない」とも言える。

 (7) 物質世界と認識世界
 なお、物質レベルでなく言えば、物質世界と認識世界の区別が重要となる。この区別をすると、「認識世界における認識が超光速で伝わる」とも言える。
 この件は、次を参照。 ( → 該当箇所

 (8) 根源
 根源的に考えよう。  EPR パラドックスは、どこから生じるか? それは、コペンハーゲン解釈の「波束の収束」という概念から生じる。この概念ゆえに、「観測が状態を決定する(観測によって波束が収束する)」という見解が生じる。そしてまたこれは、「重ね合わせ」という概念から生じる。
 しかし、そもそも、「重ね合わせ」などはないのだ。また、「観測が状態を決定する(観測によって波束が収束する)」ということもないのだ。単に確率があるだけだ。
 「重ね合わせ」とか、「波束の収束」とか、「観測が状態を決定する」とか、そういうコペンハーゲン解釈が、EPRパラドックスを生む根源である。だから、この三つの概念(間違った概念)を捨ててしまうことで、EPRパラドックスは消えるし、「超光速の情報伝達」という馬鹿げた見解も消える。
 量子の世界は単に確率的に決まるだけだ。そして、そのことは、超球理論のモデルからわかる。超球理論のモデルをちゃんと理解すれば、どんなパラドックスも解決されるのだ。


まとめ

 上記の「予告」を読んでも、「納得できない」と思う人が多いだろう。それは当然だ。これはただの「予告」であって、「説明」ではないからだ。
 その意味で、ちゃんとした説明は、まだ公開されていない。「説明していないじゃないか」という声には、「その通り」と答えるしかない。
 そして、その理由は、先に述べたとおりだ。とにかく、私としては、このような些末な問題で論議するつもりはないので、今のところ正式な公開は差し控えておく。

 なお、簡単に評価をしておくなら、次のように言える。
 「超球理論を使えば、量子力学では何も問題はない。『超光速の情報伝達』というような馬鹿げたことを考える必要もないし、『相対論との矛盾』という変なことを考える必要もない。すべては相対論と整合的になるように、きちんと説明される。EPR パラドックスというのは、コペンハーゲン解釈などではパラドックスのように見えるが、おかしなことは何もないのだ。『変だ、不思議だ』と悩むようなことは、何もない。この問題については、いちいち考えないで、(解決済みの些末な問題として)ほったらかしておくのが賢明である」


EPRパラドックスと観測の問題


 EPRパラドックスと観測の問題については、以前に「観測の意味」という文書の最後で説明しておいた。その説明を、ここに移転して記す。


波動関数の収束


 「波動関数の収束とは何か」については、前述の「波動関数の収束」で述べた。
 基本的な理解は、そちらを参照。
 そこでは書き落とした話題について、以下で言及する。細かな話題だが。


専門的な細かな説明


  ( ※ このあとの話は、やや難解なので、読まなくてもよい。)


 波動関数の収束について考える。
 二重スリット実験では、電子が発射される。その後、観測したときに、 Ψ という値は収束するか? いや、 Ψ という値は、観測する前も観測したあとも、ずっと同じである。たとえ特定の点Pに電子が到達したことが判明したとしても、やはり、確率は、元のままで、まったく変わりはない。それが証拠に、もう一度同じ実験をすれば、今度は電子はPでなない位置に発見されるだろう。仮に、波動関数が収束したのだとすれば、次の電子はふたたびPに現れるはずだが。

 Ψ という値(確率の値)は、最初から最後まで、ずっと変わらない。ただし、それとは別に、観測された値は、変化する。では、それは、どういう意味か? 
 次のように解釈するといいだろう。

 電子銃から電子が発射されたあとで、電子が見出される確率は、 Ψ1 で示される。それは波のエネルギーの分布を意味する。その後、空間上のどこか(乾板など)で、電子が見出される。このとき、波から粒子への転換が起こる。
 ただし、その転換が起こった場所では、1個の粒子が発生するためのエネルギーが不足している。そこで、電子と反電子が、同時に発生する。電子の方は、そのまま乾板に残る。反電子の方は、波になって、真空中に伝わる。

    電子銃           乾板
      ━  )))     (((  |
          電子   反電子

 反電子の波の分布は、Ψ2 で示される。空間では、電子のエネルギー分布 Ψ1 と、反電子のエネルギー分布 Ψ2 とが、たがいに干渉しながら、新たな確率分布をもたらす。それは、局所的にはいくらか意味があるが、たいていは無視してよい。
 非常に離れたところから見れば、どうか? Ψ1Ψ2 は、符合が反対で位置と量がほぼ等しいから、たがいに完全に打ち消しあう。ゆえに、遠くの方から見ると、「電子が消滅して、かわりに、他のところで電子が発生した」というふうに見える。
 結局、 Ψ1 が点Pで収束したわけではなくて、電子銃では電子が消滅して、点Pでは電子が登場しただけなのだ。ただし、同時に、電子銃から出た電子の Ψ1 と、点Pから出た反電子の Ψ2 とが、打ち消しあっているのだ。


 以上で、説明が付く。
 なお、従来の解釈に従えば、「点Pで波動関数が収束した」ということになるから、「何が波動関数をそこで収束させたのか?」という疑問が生じる。その場合、量子力学の波動関数の収束の仕方を決めるために、新たな原理(量子力学の結果を決める原理)が必要となる。
 一方、上の解釈(枠内の解釈)に従えば、波動関数は最初から最後まで収束しない。ただし、波が粒子になる確率は、全空間を合わせると1になるから、全空間のどこかで、消えた分の電子が現れるはずだ。それがたまたまPであっただけのことだ。特にPで電子が現れる必要はない。すべては確率的に決まる。(というのは、最初から最後まで、確率は収束したりしないで、一定であるからだ。)

 この二つの解釈は、明白な相違がある。それは「相対論に合致するか否か」という点だ。
 従来の解釈に従えば、「波動関数の収束は、超光速でなされる」ということになる。ある点Pで電子が生じたとき、その情報は一瞬にして全宇宙に伝わる。すなわち、情報が超光速で伝わる。その例が、「量子テレポーテーション」と言われる現象だ。たとえば、アリスの情報が、遠く離れたところにいるボブに、一瞬にして伝わる。超光速で。……そして、この問題は、「EPRパラドックス」と呼ばれる。
 これを解決するために、アインシュタインは「隠れた変数」を提案した。だが、この見解は今日では否定されている。かわりに、「二つの現象を一つのものの見なす」という解釈が受け入れられている。また、「情報」は「普通の情報」ではなくて、「ただの確定か否かの情報」というふうに限定されている。とはいえ、このように話を限定したとしても、「超光速の情報伝達」という現象はあることになる。
 一方、本ページの解釈(上の枠内の解釈)に従えば、この問題はない。点Pで電子が発生したとき、その情報は超光速で伝わることはない。なぜなら、「波動関数の収束」という現象は、最初から最後までないからだ。 Ψ1 の情報は、電子銃で発射された電子の波として、光速で伝わる。 Ψ2 の情報は、点Pで生じた反電子の波として、光速で伝わる。どちらも光速で伝わる。ここでは明らかに、相対論に制約される。
 ただし、「遠く離れた地点では、Ψ1Ψ2 は常に打ち消しあう」という事実があるから、「打ち消しあう」という事実だけは、超光速で伝わるかのように見える。(それはつまり、「量子力学が成立する」という情報が超光速で伝わるように見える、ということだ。本当は、情報が伝わるのではなくて、真理が常に成立するだけだが。)
 
 結局、「波動関数の収束」という概念を取る限りは、「アリスとボブの間で情報が一瞬にして伝わる」という非相対論的な結論が出るが、「波と粒子の相互転換」という概念を取れば、相対論的に話は片付く。……その意味で、従来の解釈は非相対論的であり、新しい解釈は相対論的である。

   ※ 「波動関数の収束」は、「波動関数の収縮」とも書かれる。
      英語では convergence (収束)という言葉が使われるようだ。



 【 補足1 】
 二重スリットの実験では、点Pにおいて、小さな波のエネルギーから、大きなエネルギーをもつ電子が発生するのが、不自然に思えるかもしれない。実は、点Pで電子が発生する確率は、ほとんどゼロに近い。その意味で、ここで電子が発生する(つまり、ここで波動関数が収束する)という現象は、かなり不自然である。
 ただし、全宇宙について波動関数を計算すると、全宇宙のどこかで電子が発生する確率は1である。つまり、電子銃で電子が発射されたら、そのあと宇宙のどこかで必ず電子が現れるはずだ。その場所が、確率的に、たまたま点Pであっただけだ。
 つまり、「どこかで電子が現れる確率」は1だが、「その場所がPである確率」はゼロ同然である。……この違いをはっきりと理解しておこう。すべては確率的に話が片付く。「波動関数の収束」というような概念を持ち出すと、話が非確率的になるので、不正確になる。


 【 補足2 】
 上の記述では、こう述べた。
 従来の解釈に従えば、波動関数の収束は、超光速でなされる」ということになる。ある点Pで電子が生じたとき、その情報は一瞬にして全宇宙に伝わる。
 ここで、「超光速」とは、どういうことか? 人為的な情報が超光速で伝わることか? そういう疑問があると思えるので、注釈しておこう。
 ここで「超光速」で伝わるのは、人為的な情報ではない。人が任意に決めた情報が「超光速」で伝わるわけではない。では、何が、超光速で伝わるのか? それは、「量子の確定の有無」という情報だ。詳しくは、以下の通り。

 今、月のそばの真空中で、電子銃で電子を発射したとする。その後、点Pで電子が生じる。この現象を、二通りで解釈できる。
 従来の解釈では、こうだ。点Pで電子が生じたとき、波動関数 Ψ1 は、全宇宙から点Pへと、一瞬にして収束する。その瞬間、宇宙における他の箇所では、(今回の分の)電子が発生する確率はゼロになる。つまり、点Pで電子が生じたという情報が、全宇宙に一瞬にして伝わったことになる。つまり、情報が超光速で伝わったことになる。……ただし、ここで伝わった情報は、量子力学的な情報だけである。それは「量子の確定の有無」という情報である。それは人為的な情報ではない。とはいえ、とにかく、情報が超光速で伝わったことになる。(これはつまり、「波動関数が収束する」というのと、同義である。)
 新しい解釈では、こうだ。電子銃からは、 Ψ1 による波動 が宇宙全体に伝わっていく。その後、点Pで電子が生じると、真空から電子が誕生したことの相殺として、反電子に対応する Ψ2 の波動が宇宙全体に伝わっていく。宇宙のそれぞれの場所では、Ψ1 の波動が早く伝わることもあるし、 Ψ2 の波動が早く伝わることもあるが、いずれにせよ、Ψ1 および Ψ2 の波動は、光速の限度があり、超光速にはならない。

 従来の解釈では、電子銃から電子が発射されたあと、点P以外の場所で電子が見出されることは(原則として)ないはずだ。
 新しい解釈では、電子銃から電子が発射されたあと、点Pとほぼ同時に、他の場所である点Qでも電子が見出されることもあるはずだ。つまり、二つの場所で電子が発生することもあるはずだ。ただし、その場合、点Pにおける反電子の Ψ2 の波動の影響を受けて、点Qではただちに電子が消滅するはずだ。……そして、この場合、電子銃から発射された電子が点Pの電子であるのか、点Qの電子であるのかは、判明しない。電子は、点Pから一瞬にして点Pと点Qに増殖し、その後に、点Pだけに収束したのかもしれない。どうであるかは、判定できない。なぜなら、点Pの電子と点Qの電子は、まったく同等の電子であり、区別ができないからだ。もちろん、その電子は、電子銃から発射された電子であるとも言えない。
 新しい解釈では、次の三点が前提となる。
 「すべての電子は同等である」(区別不能である。)
 「電子は確率的に発生したり消滅したりする」
 「真空中から電子と反電子は誕生する」
 そして、これらのことを前提とする限り、「波動関数の収束」という概念は否定されるし、「超光速の情報伝達」という概念も否定されるのだ。
 逆に言えば、「波動関数の収束」という概念は、「一つの粒子が一つの粒子として他と区別される」ということを前提としているから、量子力学的ではないのだ。

( ※ 「EPRパラドックス」については、「アインシュタインの説が正しくなくて、量子力学の説が正しいことが、実験的に証明された」と、しばしば言われる。その解釈は、正しい。ただし、その実験で否定されたのは、「隠れた変数が存在する」というアインシュタイン独自の解釈のみである。なるほど、「隠れた変数」については、実験によって否定された。だが、「超光速はありえない」と主張したアインシュタインの説が否定されたわけではない。当然、「超光速を認める」という従来の解釈が肯定されたわけでもない。)
( ※ 「超光速の情報伝達」と見えるのは、実は、「その事実は最初からわかっていた」というのを言い換えているだけにすぎない。たとえば、点Pで電子が生じたとき、点Qで電子が生じる可能性はゼロになるが、そのことは、点Pで電子が生じた瞬間に点Qで判明したのではなくて、最初からわかっていたのだ。「点Pで電子が生じれば、他のところでは電子が生じる可能性は限りなくゼロに近くなる」という形で。……要するに、伝達された情報とは、シュレーディンガー方程式そのものにすぎない。点Pでシュレーディンガー方程式が成立したとき、一瞬にして、他のところでもシュレーディンガー方程式が成立する。しかし、だからといって、情報が超光速で伝達したわけではない。シュレーディンガー方程式は、最初から成立していたのだ。)


 【 補足3 】
 そもそも、「一瞬にして波動関数が収束する」というとき、「一瞬にして」とは、どういうことだろうか? 実は、このことは、相対論に矛盾する。
 相対論では、「同時性」という概念が否定されている。時間の概念はそれぞれの慣性系で異なっているから、Aという慣性系では「同時だ」と見えたとしても、Bという慣性系では「同時だ」と見えない。
 特に、一方の慣性系が光速に近い速度で進んでいると、「時計の遅れ」がはっきりと起こるから、「同時だ」という概念は成立しない。
 たとえば、波動関数が収束したのが 3時ジャストだとしよう。一方、地球を飛び立って1光年先にいる宇宙船の飛行士の時計では、それが2時59分だとしよう。波動関数が「同時」に収束したとすれば、その現象は、一方では3時ジャストであり、他方では2時59分である。時計では時刻が異なるのに、どうして「同時」という概念が成立するのか?
 相対論では、「同時性」という概念が否定されている。したがって、「一瞬にして」というような表現は許されないのだ。つまり、従来の解釈は、相対論に矛盾しているのである。その意味では、アインシュタインの指摘したことは、あくまで正しい。



 【 注記 】 (光を当てる観測)
 
 「光を当てること」についても説明しておこう。従来の解釈では、こうだ。
 「人間が光を当てたことによって、波動関数が収束する。光を当てるという人間の行為が、波動関数を収束させるのだ」
 これは、成立しない。なぜなら、光を当てても、そこに粒子が発生していなければ、何も観測されないからだ。(存在していなければ、観測されるが、存在していなければ、観測されない。)
 たとえば、電子銃から電子が発射されて、短い時間のあとで、乾板で電子が観測される。このとき、途中の空間に、光を当てたら、電子は観測されるだろうか? 
 従来の解釈ならば、「イエス。光を当てたから、電子は観測される」と答えるだろう。しかし、新しい解釈では、「イエスとは限らない。光を当てても、波が粒子に転換していなければ、電子は観測されない」となる。
 現実には、真空中では、電子は波のままであるから、波から粒子に転換する確率は非常に小さい。当然、光を当てても、電子は観測されないはずだ。このことは、二重スリットのページで、詳しく述べた。( → コンプトン散乱
 要するに、「人間が光を当てるか否か」で波動関数の収束が起こるのではなくて、「波が粒子になるか否か」で波動関数の収束に相当すること[観測可能か否か]が起こるのだ。……観測可能になったから観測したのであって、観測した(観測しようとして光を当てた)から観測可能になったのではない。これを逆に理解してはならない。
( ※ 別所の比喩を参照。 → ドライアイスの比喩








 題 名   細々とした周辺的な問題
 著者名   南堂久史
 URL    http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/trivial.htm  (本文書)
        http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/quantum.htm  (表紙)

[ END. ]