[ 2004.11.23 ] ver 2.5
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本論で述べたことに基づいて、関連する話題に言及する。
( ※ 面倒ならば、読まなくてもよい。後日改めて読むのでもよい。)
( ※ ただし、無駄話が書いてあるわけではない。話は専門的になるが、物理学的な本質を示す話も最後のあたりに書いてある。)
( ※ 最後の「残る課題 1,2」は、かなり長文だが、本論の主張を検証する話などが記してある。ここに至って、「量子力学とは何か」が、ようやく判明する。)
二重スリットとはまったく別の問題だが、観測問題の仲間として、「量子テレポーテーション」という問題がある。簡単に言えば、次のことだ。
「一つの量子を、二つの量子AとBに分割する。分割後のそれぞれの量子の状態は、判明していない。このAとBを、多大な距離で引き離す。その後、Aの量子状態が判明すると、Bの量子状態も判明する。それは、瞬時である。AとBとの距離がどんなに離れていても、この判明は瞬時である。とすれば、光速よりも速く情報が伝わったことになる。」
ただし、この方法では、現実に光速以上で情報伝達をすることはできない。たとえば、Aの状態が判明したということを、Bのそばにいる人に伝えるには、光速以下の速度で、その情報を伝える必要がある。だから、有用な情報が光速以上で伝わるわけではない。
ここでは、何が肝心か? 次のことだ。
(1) 判明と情報伝達
「瞬時に判明する」ということは、「瞬時に情報が伝わる」ということではない。判明と情報伝達とは、まったく別のことなのだ。
瞬時に情報が伝わるとしたら、それは大変なことだが、そんなことは起こっていない。一方、瞬時に判明するとしても、それは、別に、不思議でも何でもない。たとえば、次の例だ。
室内にダイヤの指輪が一つある。A子とB子が室内に入ってから、ダイヤの指輪が消失した。二人のうちの一人が持ち去ったらしい。その後、A子とB子は、遠大な距離で離れた。探偵は、「A子が怪しい」と思って、A子を追いかけた。問い詰めたところ、A子は、「私が持ち去りました」と白状して、ダイヤの指輪を差し出した。このとき、瞬時に、はるかかなたにいるB子は潔白であると判明した。
で、それが、どうしたというのか? B子は「自分は無実だ」と知ったのか? いや、そうではない。B子が「自分は無実だ」と知るにためは、電話などの方法で、情報伝達がなされる必要がある。その情報伝達は、光速以下の速度で進む。
別に、量子テレポーテーションなんてことを持ち出すまでもない。ただの「判明」なんてのは、いつでもどこでも、瞬時になされるのだ。それは「情報伝達」とは、まるきり違うことなのだ。
(2) 現実と思考
では、なぜ、「瞬時に遠大な距離のことが判明する」というふうになるのか? 探偵は、なぜ、A子が告白したときに、はるかかなたにいるB子のことがわかったのか? 探偵には、はるかかなたの情報を得るだけの、特別な情報を得る方法を知っているのか?
そうではない。実は、探偵は、はるかかなたにいるB子の状態を、現実レベルで観測したわけではない。では、何をしたか? 理論レベルで、理論空間にいるB子について、「潔白だ」と判定したのである。探偵が結論したのは、理論空間にいるB子についてであって、現実空間にいるB子についてではないのだ。
探偵の頭のなかには、理論空間がある。そこには、A子とB子がともに存在する。A子とB子は、理論空間のなかで遠大な距離で隔たられている。とは行っても、図示すれば、次のような図と同じだ。
遠大な距離
A子 ────────────── B子
ここでは、遠大な距離が、ほんの十センチぐらいで記号的に表示されている。このような数学的空間のなかで、A子の情報がB子のところに伝わっただけだ。そして、それはあくまで、探偵の頭のなかだけのことにすぎない。現実のA子から、現実のB子へと、現実レベルで情報伝達が起こったわけではない。
「判明」というのは、そういうことだ。それはあくまで、理論世界のことだ。一方、「情報伝達」は、現実世界のことだ。それは光速以下に制約される。
では、いったい、何が超光速なのか? それは、思考の速度である。現実の物質は、光速の制約があるが、思考は、光速の制約がない。思考はどんなに長い距離でも、一瞬のうちに移動する。思考は超光速なのだ。
ただし、ここで言う「超光速」の意味を、勘違いしないようにしよう。この「超光速」とは、現実の世界における超光速ではなくて、思考の世界における超光速である。── 物質の世界において、思考が(テレパシーのように)百光年も離れたところにいる人に、物質的に伝達されるわけではない。思考の世界において、「百光年」と想定された距離(紙に書けば十センチぐらい)だけ離れたもののことを、一瞬にして推論するだけだ。
《 現実世界 》
百光年
♀ ───────→ ♀
情報伝達
|
《 現実世界 》
《 思考世界 》
百光年
♀ ───────→ ♀
推論
|
|
現実の世界の百光年は、百光年そのものである。そこは物質の世界だから、そこには相対論による光速の限界がある。情報伝達は、光速以下でしかありえない。
思考の世界の百光年は、想定された百光年である。そこは精神的な世界だから、そこには光速の限界はない。推論は、超光速で進む。
なのに、現実の世界と思考の世界を混同すると、「超光速の情報伝達」という発想が生じる。── この混同は、観測問題に特有の混同である。
- [ 補足 ]
-
ちょっと補足しておこう。上の図の「推論」というのは、対象について「推論がなされる」という意味では「思考の世界」のことだが、思考者が「その思考をなす」という意味では「現実の世界」のことだ。
つまり、対象の世界では「百光年を移動する」というふうに理解されるが、その外の現実の世界では、思考者が「頭のなかで思考を動かす」ということをしているだけだから、現実の世界でなされているのは、直径十数センチの脳のなかの世界のことであるにすぎない。
( ※ その速度は? 判断をするには、コンマ1秒ぐらいかかっているから、実質的には、秒速1メートルぐらいかもしれない。つまり、「超光速の思考」というのは、「秒速1メートルの思考」というのと同然なのだ。人間の歩く速度と同じぐらいだ。……皮肉。)
相対論との関係について述べておこう。
ただし、まずは、相対論のことを忘れて、本論で述べたことを拡張しよう。(「理論の拡張」という方針を立てよう。)
そもそも、本論で述べたことは、「振動する ◯ たちからなる真空」というモデルである。ここでは、 ◯ たちに振動状態があることが最も大事である。
さて。これまで述べたモデルでは、 ◯ たちは密集している(稠密である)と仮定した。しかし、本当に、密集しているだろうか? これが疑問となる。
この疑問に対して、先の「振動する」という基本原理だけに着目すれば、「密集している」という条件は、ことさら必要ない。たとえば、気体を見よう。気体の分子の振動数は、温度(あるいは気体の密度)に依存して変化するが、別に、気体が液体のように密集している必要はない。
要するに、 ◯ たちのモデルでは、密度はぎゅうぎゅうに密集状態でなくてもいいのだ。 ◯ たちが密集状態でなくても、バラバラの ◯ たちを通じて、波は伝わるわけだ。
では、 ◯ たちの密度が変化すると、どうなるか? こう考えると、「 ◯ たちの密度が通常よりも高い場合」というのが想定される。そして、その場合には、「透明な物質の屈折率が変わるように、真空の屈折率が変わる」ということが想定される。(前述の重力レンズの話などを参照。 → 該当箇所 )
「 ◯ たちの密度が高い状態」というのは、「屈折率の高い状態」に相当する。そして、これは、「重力レンズの効果の出る状態」のことであるから、「重力の強い状態」と等価である。
ここまで考えるとわかるとおり、「重力が高ければ、 ◯ たちが密集する」ということが想定される。そして、それがまさしく、一般相対論の主張と合致する。重力が高ければ、たくさんの ◯ たちが重力の方向に引き寄せられるので、 ◯ たちが密集するはずだ。そして、 ◯ たちが密集すれば、屈折率が高まって、重力レンズの効果が出る。
つまり、一般相対論の効果として、「重力のせいで空間が歪む」というふうに説明されるのは、本質的には、「重力のせいで ◯ たちが密集する」というふうに理解すればいいわけだ。
- [ 参考 ]
- 細かな話を補足しておく。(一般相対論への応用について。)
(1) 重力レンズ
重力レンズを考えよう。これは、「重力が強いから光が引っ張られて曲がる」というのが初歩的な解釈だが、実は、「空間が歪むから光が曲がる」というのが正統的とされている解釈だ。しかし本論の解釈では、「透明な空気が濃くなると光が屈折するように、透明な真空が濃くなると光が屈折する」というふうに解釈される。つまり、重力場では、真空の密度が高まるのだ。そのせいで、真空にレンズ効果が現れる。
(2) 重い恒星
重い恒星などの重力場では、どうだろうか? 重力場については、「重力が強すぎて、光が引っ張られて、外に出られない」という解釈が初歩的だが、実は、「空間が歪むから光がまっすぐ進めない」というのが正統的とされている解釈だ。
さて。本論の解釈では、「透明なガラスが濃くなると光が屈折するように、透明な真空が濃くなると光が屈折する」というふうに解釈される。真空の屈折率が高いと、真空にレンズ効果が現れる。重い恒星だと、表面では真空の密度が高く、表面から離れると真空の密度が低い。となると、外からに近づいた光は、重い恒星に集められていくはずだ。特に、ブラックホールだと、そこに向かってほぼ垂直に吸い込まれていくはずだ。
( ※ ブラックホールからの放射については、もう少しあとの (5) で。)
(3) 真空の密度
以上のことからすると、一般相対論の位置づけもわかる。一般相対論とは、つまり、「真空の密度が変わる(濃淡がある)空間」を示す理論だ。そして、真空の密度を変えるものが、質量なのだ。質量や重力が本質なのではなくて、真空の密度が本質なのだ。その意味で、「一般相対論は、重力という(物質間の)力を調べる理論ではなくて、空間の歪み方を調べる理論である」という解釈は、かなり正しい。
(4) 屈折率
真空の密度を具体的に数値で知るには、屈折率という形で考える。
真空の密度を、真空の屈折率と(仮に)定義する。屈折率を n と書くことにしよう。(真空の密度が1以上になると、屈折率 n の値が 1 以上になる。)
真空の密度が変わると、真空における振動状態が変化して、波長が変化する。具体的には、屈折率 n のところでは、光の速度が 「 1/n 」になる。そして、屈折の法則(スネルの法則)が成立する。
これだけ理解しておけばよい。あとは、屈折率は次のようにして与える。
「真空の屈折率は、重力によって決まる値である」
重力の強いところほど、真空の密度が高まり、屈折率が高くなる。では、重力と屈折率の関係は、どのような数式で与えられるか? それは、すぐわかる。アインシュタインの一般相対論の数式そのもので与えられる。
あとは、恒星などで「真空の密度がどういう値になっているか(分布しているか)」ということを計算すればいい。(たとえば、恒星に近いほど、真空の密度が高い、ということが、一般相対論からわかる。)
真空の密度が想定されれば、そのあとで、波がどう進むかについて、わりと簡単に計算できる。たとえば、ブラックホールに入射する光の場合には、直進した波は人工衛星が落下するような軌道を取るが、ここでは、「極座標」の形で計算すれば、割と簡単に進路の計算ができる。
もっと一般的には、「区間分割法」によって、ごく単純に機械的に処理すればいい。つまり、重力の値を、局所的な空間ごとに与えたあとは、空間を微小な区間に分けて考えてから、光の進路を、コンピュータで近似的に計算すればよい。……こういう区間分割法による近似は、今では工学のいたるところで用いられている。そのためのソフトもある。それを使って、いくらでも精密な値を出せる。
(5) ブラックホール 【 追加 】
重い恒星へ入射する光については、(2) で述べた。では、重い恒星から放射する光は? 特に、ブラックホールの場合は? ブラックホールでは、どうして放射する光が外部に抜け出せないのか? これについては、はっきりとは断言できないが、次のように推察できる。(「全反射」という概念で説明する。)
光の場合、屈折率の高いところから屈折率の低いところへ斜めに入射すると、垂直線(法線という)に対する傾きが大きくなる。その割合は、屈折率の比と同様だ。屈折率が2倍だと、斜め傾く度合いも2倍になる。で、斜めになる度合いが一定限度を超えると、出る方の角度が 90度を超えてしまう。すると、外に出ることができなくなる。── これが「全反射」と呼ばれる現象だ。たとえば、水中から空気中に出ようとする光は、ある程度よりも斜めになると、もはや空中には出られなくなる。
ブラックホールも同様だろう。ブラックホールのある空間では、中心から離れるにつれて、真空の密度がだんだん薄くなる。とすれば、ブラックホールから放射する光は、屈折率の低いところに向かうことになるので、最初にちょっとだけ傾いていた光があれば、中心から外に放射して行くにつれて、だんだん斜めの度合いが増えていく。そしてついに、90度を超える。つまり、全反射と同様だ。
この解釈に従えば、ブラックホールというのは、特別なものではない。そこでは、単に質量が大きいせいで、真空の屈折率が高いだけのことだ。
一方、従来の説では、「ブラックホールは数学の特異点だ」とか、「ブラックホールでは時空の原理が壊れる」とか、いろいろな風変わりなことが言われていたが、そういうことはないはずだ。ブラックホールとは、単に、質量が大きいだけであり、そのせいで、まわりの真空の屈折率が高いだけのことだ。屈折率の高いところでは、屈折率の低いところとは異なる仕方で光はふるまうが、それだけのことだ。まったく別の宇宙原理が成立するわけではない。「ブラックホールは体積がゼロの特異点である」というようなことはないはずだ。(この件は、話はまた後述する。ビックバンの関連で、相対論の限界として。)
補足しておこう。(特に読まなくてもよい。)
全反射についてさらに説明しよう。なだらかに密度が稀薄化していく真空中を、ブラックホールから発した光が放射していく。この経路は、いわば、外に向かって地球から飛び出したロケットが、だんだん地球に落下していくような軌道だ。かくて、ブラックホールから飛び出した光は、どんどん曲がっていって、ふたたびブラックホールの表面に達する。こういうわけで、ブラックホールから、光は抜け出せない。
もう少し細かく言おう。実は、全反射になる前に、中間的な状態もある。ロケットが人工衛星の周回軌道に乗るように、光がブラックホールのまわりの周回軌道に乗ってぐるぐる周回する場合だ。これは屈折と全反射の中間状態とも見なせる。
一方、光がこの周回軌道まで上昇しなかった場合には、墜落するロケットのように、光はブラックホールに吸い込まれていく。これは全反射と同じだ。これをわかりやすく考えるには、次の場合を想定するとよい。屈折率が1と n の物体が接している。ただし n が非常に大きい。すると、放射の角度が垂直線[法線]から少しでも傾くと、すぐに臨界角を越えて、全反射する。ごく一部の光だけは、真上に向かって、抜け出せるかもしれないが、その割合はゼロ同然だ。
( ※ 余談だが、全反射という現象は、実験的に観察することもできる。たとえば、黒い卵を水中に入れると、卵が黒ではなくて銀色に見えることがある。これは、卵の表面に空気が付いていて、そこで光が全反射されるせいだ。空気は屈折率が低く、水は屈折率が高い。そのせいで、全反射という現象が起こる。……子供のころに、この実験を見たことがあるかもしれない。)
(6) 時計の遅れ 【 追加 】
一般相対論では、「時計の遅れ」が結論される。このことは、次のようにわかる。
重力の弱いところA(惑星から離れたところ)では、真空の密度が低いので、光は長い距離を進む。重力の強いところB(惑星のそば)では、真空の密度が高いので、光は短い距離を進む。ところが、光速度一定の原理が働く。とすれば、短い距離を進む場Bでは、時計が遅れる必要がある。さもなくば、光速度が一定にならないからだ。……こうして、「時計の遅れ」という概念が出る。
なお、このことは、一般相対論でも、本論でも、結論は同様である。
念のために注釈しておこう。特に読まなくてもいいが。
「光速度一定」というのは、どの場でも成立する。だから、AにおいてAの光を見たときも成立するし、BにおいてBの光を見たときも成立する。両者において「目の前における光を見る」という現象は、区別しがたい。
ただし、離れたところから両者を見ると、その観測者にとっては、Aの光は長い距離を進んでいるように見え、Bの光は短い距離を進んでいるように見える。これらは、見かけ上の距離だ。つまり、見かけの上で、Bの方は短い距離を進んでいるように見える。
( ※ このモデルでは、重力場を輪切りにして考えている。輪切りだから、輪切りの面の垂直方向から見ると、両者の違いがわかる。とはいえ、現実には、惑星の場は三次元であって、輪切りにはならない。ここで述べたことは、あくまで、モデル的なことだ。)
(7) まとめ
ともあれ、「真空の密度」というのを考慮すれば、「一般相対論と量子力学の融合」というのは、特に難しいことはないわけだ。「光の屈折」を理解する高校物理学と同じレベルで、すぐに理解できることになる。(いわば、屈折率が一定のレンズのかわりに、屈折率の変化する遠近両用レンズみたいなものを考えればいいわけだ。どちらも媒体の密度がなだらかに変化する。)
なお、「真空の密度」というのを考慮しなければ、「一般相対論と量子力学の融合」というのは無理だ。現在の一般相対論は、量子については古典物理学と同じような立場を取っている。ミクロレベルの特別なことはまったく考えられていない。もちろん、真空の微細な振動なんてものも考えられていないし、粒子と反粒子なんてものも考えられていない。要するに、「真空の密度」というのを考慮しなければ、一般相対論と量子力学とはきわめて相性が悪いのだ。それはいわば、古典力学と量子力学を融合するようなもので、基本的立場に食い違いがある。そして、その食い違いをなくすための発想が、「真空の密度」という発想だ。
( ※ ついでに言えば、普通の量子論は、この効果を考慮していないから、その分、不完全である。)
さて。一般相対論のあとで、特殊相対論について考えよう。特殊相対論については、どう考えられるか?
特殊相対論では、「光速は一定だ」という原理がある。これはつまり、「真空の密度が均一である(だんだん濃くなったりしない)」ということを意味する。真空の密度が均一であれば、光は直進するし、光の速度も一定である。
だから、特殊相対論は、一般相対論の特殊な場合である。それは「真空の密度が均一である空間」を示す理論だ。……一般相対論と、特殊相対論は、そういう関係にある。両者の違いは、重力の有無ではなくて、真空という空間の密度が変化するか均一であるかという違いなのだ。
では、空間の違いを別とすれば、特殊相対論は、何を主張しているか? 実は、ここに、重要な点がある。
特殊相対論では、二つの原理を前提とした上で、「ローレンツ収縮」と呼ばれる現象を説明した。
しかし、それとは別に、「真空の密度」という観点から考えてみよう。すると、特殊相対論の効果は、「真空がローレンツ収縮する」と解釈すれば、簡単に説明が付く。「真空が不変なまま、物質だけがローレンツ収縮する」と解釈すると不自然だが、「真空がローレンツ収縮する」と解釈すれば、真空といっしょに物質がローレンツ収縮するのは当然だ。
特殊相対論の意味は、「真空の密度は均一である」ということを前提とした上で、「光速に近い状態で真空がローレンツ収縮する」ということを示したことにある。
では、ローレンツ収縮とは、何のことか? 具体的には、もちろん、「真空がその方向に密度を高める」ということだ。では、なぜ、そんなことが起こるのか? このことも、「真空の密度」という概念から、説明が付く。
振動数が一定であるとき、振動の発振体が一定速度で移動すると、波長は短くなる。これは「ドップラー効果」と呼ばれる現象だ。ドップラー効果が起こるのは、なぜか? 空間における音波の速度が一定であるときに、波が速度方向に押しつぶされるせいで、波長が短くなることだ。── そして、これは、ローレンツ収縮とまったく同じ効果である。
速度 0 :
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
速度 v :
|||||||||||||||||||||||||||||
( ※ 縦線は波を示す。速度が高いと、波が密集している。)
( ※ 特殊相対論の場合は、 | のかわりに ◯ が密集する、と考える。)
音波の速度が一定であるときには、発振体が移動すると、波が収縮する。光の速度が一定であるときには、物質が移動すると、物質がローレンツ収縮する。── そのいずれも「密度の圧縮」という原理で説明が付く。
というわけで、特殊相対論の具体的な効果であるローレンツ収縮は、「真空の密度」という概念を原理とすれば、「ドップラー効果」というよく知られた概念で、うまく説明が付くわけだ。
( ※ ドップラー効果の数式と、ローレンツ収縮の数式は、非常によく似ている、ということに気づくだろう。実際、基本原理が同じだから、微妙な違いを無視すれば、本質的には同じなのだ。ローレンツがローレンツ収縮の数式を出したとき、彼は、いきなりこの数式が頭にひらめいたのではなくて、ドップラー効果のことが念頭にあったのかもしれない。)
( ※ ドップラー効果の実例というと、遠い宇宙の星からくる光の「赤方偏移」という現象がよく知られている。これは、単純なドップラー効果の例だ。一方、重力の強い星から出る光についても、「赤方偏移」が見られる。このことは、一般相対論から導かれるが、ドップラー効果との関係は特に言及されない。しかし、本論の発想を取れば、どちらも「真空の密度が高まること」という原理で説明される。……ドップラー効果の「赤方偏移」も、強い重力場における「赤方偏移」も、原理は同じなのである。そして、その根底には、「宇宙の基本原理は、真空を伝わる波だ」ということがある。)
なお、以上では、相対論と量子力学の関係を述べた。つまり、「真空の密度」ということを基礎原理とした上で、相対論と量子力学とを統一的に説明した。
とすれば、物理学の課題としての「量子力学と一般相対論との統合」は、上記のことで、すでに語り尽くされている、と言えそうだ。
つまり、「量子力学と一般相対論との統合」は、何らかの統一的な方程式によって実現されるのではない。「 ◯ たちからなる真空と、そこを伝わる波」という基本的な発想(つまりモデル)によってなされるのだ。
方程式自体は、量子力学や一般相対論によって、定数などがすでに判明している。だから、その方程式をそのまま使えばよい。まったく別の方程式を使う必要はないのだ。
ただし、既存の発想では、その方程式の適用限界がはっきりしていない。だから、その適用限界をはっきりさせるためには、この新しいモデルが重要となる。
- [ 付記 ]
- この適用限界というのは、つまりは、「くりこみ理論」の問題だ。くりこみ理論について言及しよう。(特に、相対論との関連で。)
当初の量子力学の理論では、「電子を点粒子(点電荷)と見なす」と考えられた。しかし、それだと、「無限大の発散」という問題が生じてしまう。そこで、「電子を点粒子(点電荷)としないで、有限の半径をもつと見なす」という処方が考えられた。この方法はただの処方であり、必然性はないが、ともかく処方としては成立する。
これで「一件落着」と思えたが、しかるに、その処方で計算をすると、特殊相対論とは矛盾した結果が出る。つまり、その処方では、量子力学と特殊相対論とは、両立しないのだ。あちらが立てば、こちらが立たず。少なくとも、ミクロの世界では、そうである。そういう問題があった。
しかし、本論によれば、この問題は回避できる。量子力学のシュレーディンガー方程式であれ、特殊相対論であれ、その適用範囲には、「 ◯ よりも大きな範囲」という限定が付くからだ。理由は? くりこみ理論については、先に述べたとおりだ。相対論も、本項(少し前)に示した「真空の密度」を考慮すればわかる。つまり、モデルの定義からして、 ◯ が一つのときには、真空の密度なんてものは考慮できないから、特殊相対論も一般相対論も、 ◯ の直径以下の空間では適用外である。
結局、 ◯ の直径以下の空間では、量子力学も相対論も、どちらも適用外だから、理論同士の矛盾も生じないわけだ。
- [ 参考 ]
- 相対論は、本書の立場から、簡単な形で再構成することができる。(以下は物理学者向けの話。)
まず、特殊相対論は、上記のようにローレンツ収縮が起こる、と見なせる。物質が収縮するかわりに、真空が収縮する。真空が不変なまま物質だけが収縮するのではなくて、真空と物質がいっしょに収縮する。その収縮の仕方は、「進行方向に ◯ が密集する」という形だ。それはドップラー効果で波が密集するのと同じ形である。ただし、相対性原理も考慮する。なお、「光速は一定」というのと、「音速は一定」というのは、同じような効果をもつ。(これが本質。)
次に、一般相対論は、以下のように考える。強い重力のある質点の周囲では、 ◯ が密集する。この密集の度合いは、普通の三次元座標でなく、三次元の極座標で考慮する必要がある。その件では、数式処理はちょっと面倒になる。さて。探るべきことは、「 ◯ がどういうふうに密集するか」ということだ。これは、どう考えるか?
実は、この問題は、特殊相対論の拡張に相当する。特殊相対論では、物質の速度は一定速度だった。関数で言えば、速度は定数であり、位置は一次関数だ。これに対し、加速度がある場合を考える。つまり、速度が一次関数であり、位置は二次関数である場合だ。そういうふうに拡張して考えよう。すると、この場合、速度が上がるにつれて、 ◯ はどんどん密集していくことになる。つまり、物体の速度が高速になればなるほど、 ◯ がどんどん密集していくことになる。一方、物体が重力場を落下する場合には、物体は二次関数(の位置)で落下する。それが ◯ の密度の高まり方と同じだ。だから、加速度と重力場は、 ◯ の密度がだんだん高まるという意味で、同様だ。
重力
←
◯◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
結局、重力場における ◯ の密集の度合いは、二次関数の度合いで高まっていくことになる。重力中心が点である場合には、極座標の放射方向で二次関数となる。一方、極座標の円周方向では、 ◯ の密集の度合いは変化しない。この両者を考慮して計算すれば、 ◯ の密集の度合いは簡単にわかる。(極座標を使った形で。)
光の場合は、この空間を単純に直進する、と考えればよい。屈折率の変化する空間を直進すれば、外部から見れば曲がっているように見える。
光でなく物質の場合は、ここでは特に論述しないでおく。(なお、結果だけなら、ニュートン力学で数式化できる。物質の場合には、万有引力や遠心力[特に角速度]の方が大きく影響する。なお、真空の密度が影響するのは、質量のない光の場合だ。)
本論に基づいて、宇宙像を述べよう。「宇宙はどのようなものか?」という問題に、本論の立場から答える。
まず、「真空とは何か?」という問いに対して、考察しよう。
この問いに対して、従来の回答では、こうなる。
「宇宙は、真空という空間が基本だ。この空間は連続的である。そこには、何もない。何もないところで、粒子が崩壊したり、粒子と反粒子が発生したりする。粒子は寿命をもつ。長い寿命の粒子や、短い寿命の粒子がある。物質の存在は質量として表されるが、質量はエネルギーと等価であることが相対論によって示される。量子論と相対論は、物理学の二つの柱である。」
本論の回答では、こうなる。
「宇宙は、真空という空間が基本だ。この空間は連続的ではない。この空間はそれ自体に粒子性がある。つまり、空間そのものが量子化されている。ただし、どのように量子化されるかは、固定されていない。最初に登場する量子によって、そのたびに空間の量子性が現れる。その意味で、空間は物質ではない。ただし、空間は、(不特定の)物質と反物質で満たされている、と見なせる。さまざまな振動数の音に応じて水が振動するように、さまざまな振動数の量子に応じて空間が振動する。その振動が空間を伝わる。ただし、伝わり方は、複素数の波による伝わり方だ。その複素数の波が、一定のエネルギーを越えたとき、波の数学空間から粒子の数学空間に転じて、粒子が発生する。」
こうして「真空とは何か?」がわかったあとで、「宇宙とはどのようなものか?」という質問が来る。これについては、相対論も考慮すると、次のように回答することができる。
まず、基本的には、従来の物理学と同様である。ミクロの世界では量子力学が基本的に成立し、また、相対論も基本的には成立する。
ただし、結論は同じでも、解釈の点では、次のように異なる。
第1に、「空間の振動」とか「真空波」とかいうものを実在すると見なす。それらは観測されないが、たしかに宇宙の基本原理となっているはずだ。(ただし、これは観測されないから、あくまで解釈論となる。)
第2に、量子力学と相対論を、「真空の密度」という観点から、統一的に認識する。(ただし、結果の違いは観測されないから、あくまで解釈論となる。)
一方、従来の物理学と根本的に異なる点もある。それは、「粒子半径以下の距離」の場合だ。この場合、本論は、従来の物理学とは異なる結論を出す。
第1に、(量子力学の)標準理論との違い。標準理論では、電子は点電荷である。ゆえに、くりこみ理論という「まにあわせ」ないし「御都合主義」みたいなことをやらないと、理論と現実とが食い違う。一方、本論では、電子は点電荷ではない。観測されたものに相当する大きさがあると見なす。その大きさ以下では、「空間の振動」ということはありえないから、シュレーディンガー方程式などは成立しないことになる。つまり、数式の成立する範囲が、あらかじめ理論によって限定されている。こうして、理論と現実とは食い違わない。
第2に、相対論との違い。相対論では、やはり、粒子は点粒子である。また、数式の適用範囲は、ゼロまで(体積も距離もゼロまで)だ。すると、宇宙の始原では、点という体積ゼロの状態でビッグバンが起こったことになる。そこは特異点となる。一方、本論では、粒子は点粒子ではない。また、数式の適用範囲は、ゼロまで(体積も距離もゼロまで)ではなくて、一定の有限な量があったはずだ。すると、宇宙の始原では、点という体積ゼロの状態でビッグバンが起こったのではなくて、もともと何らかの体積があった状態からビッグバンが起こったことになる。となると、特異点は不要だ。
この違いは、最終的には、かなり大きな違いをもたらす。たとえば、従来の説(一般相対論に基づくビッグバン説)では、次の問題が残る。
・ 初期の宇宙はなぜ熱かったか?
・ 宇宙は大局的にはなぜ一様であるのか?
・ 宇宙は局所的にはなぜ一様でないのか?
ビッグバンの研究者であるホーキングは、これらの問題を示して、これらの問題点が生じる理由を、「ビッグバンが、無限大の密度を持つような点(特異点)から始まったことによる」と述べている。しかし本論では、このような問題はそもそも原理的に成立しない。なぜなら、(ゼロでも無限大でもない)有限の状態から始まるからだ。
では、有限の状態から始まるとしたら、どうなるか? それは、本論による宇宙像となる。以下に示そう。
まず、最初は、点ではなくて、有限の体積から始まった。そこにあるのは無限大の密度ではなくて、有限の密度である。
さて。一番最初に、エネルギーが不足していたとしよう。この場合は、宇宙には粒子がまったく発生しなかったか、あるいは、少数の粒子が発生しただけだっただろう。ところが、実際には、たくさんの粒子が観測される。とすれば、一番最初には、一定量のエネルギーがあったことになる。
その一定量がどのくらいであったかは、現在の宇宙に残っている「物質」および「真空のエネルギー」を計算すれば、推量できる。後者については、観測されないもの(物質でない真空)のエネルギーとして、「ダークマター」と呼ばれる量や、「背景放射」と呼ばれる量が、根拠となる。
では、その一定量がまさしくその一定量であったことの、必然性は? というと、たぶん、そんな必然性はなかった、と思える。一般相対論に基づくビッグバンだと、点から始まるが、本論に基づくビッグバンだと、点から始まるわけではないから、宇宙全体のエネルギー量は、もうちょっと少なくても多くても、特に問題なかった、と思える。
ビッグバンのあとで、宇宙は膨張していった。それというのも、真空の密度が高かったからだ。真空の密度が高いということは、エネルギーが高いということだから、エネルギーが拡散するのと同じ原理で、真空はどんどん拡散していく。これが「宇宙の膨張」だ。
ここで、従来の説と決定的に異なることが起こる。ビッグバンの起こったあとで、真空は膨張していくが、ここで波が粒子に転換したとは限らない、ということだ。波は波のままエネルギーを保ち、粒子には転換しないこともある。(部分的に。)
では、どのくらいのエネルギーが、波から粒子に転換しないまま残るか? その割合は、きわめて大きいだろう。たとえば、「粒子百万個分のエネルギーがあって、粒子が百万個生じる」というのであれば、エネルギーはほぼ百%が粒子に転換するだろう。しかし、そういう具合にはならないはずだ。なぜなら、エネルギーから粒子への転換は、百万個単位に進むのではなくて、1個単位で進むからだ。どんなに莫大なエネルギーがあるとしても、そのエネルギーが一挙にたくさんの粒子に転換するのではない。エネルギーが粒子に転換するのは、あくまで、一つずつだ。そのとき、転換のために存在するエネルギーは、1以上2以下であるはずだ。1以下ならば、転換は起こらない。2以上ならば、半分に分けて見て、それぞれの空間で1個ずつに転換する。となると、平均して、1.5 ぐらいのエネルギーがあるはずだから、0.5 ぐらいのエネルギーが余る。ただし、余ったエネルギーは、余ったもの同士でくっついて、新たに1個以上のエネルギーになってから、1個の粒子を生む。
これらの現象は、確率的に進む。となると、それには、確率的なバラツキが生じる。特に、時間も考慮すると、すでにあるバラツキのせいで、さらに副次的なバラツキが生じるだろう。(初期の宇宙は急速に膨張しているから。)
特に、粒子がたくさん発生した空間(物質がたくさんある空間)では、そこに重力が強く発生するので、そこに引き寄せられる粒子が多くなる。また、そこでは真空の密度が高まり、空間に歪みが生じる。これはかなり重要な結論だ。従来の説では、ビッグバン以後の重力は均一に分布するはずだと想定されたが、そんなはずはないのだ。重力の分布は、「波から粒子への転換」が起こった割合に依存するが、それは「真空のエネルギー」とは別のことだからだ。真空のエネルギーが均一だとしても、重力の分布にはバラツキが生じるはずなのだ。
( i )
たくさん発生 少し発生
◯ ◯ ◯ ◯ ◯ ◯
◯ ◯ ◯ ◯
強い重力場 弱い重力場
( ii )
◯◯◯◯ ◯ ◯
◯◯◯
◯
密集する 密集しない
|
※ たくさんの粒子が発生すると、重力場が強くなるので、 ◯ が密集する。
従来の説では、エネルギーの分布だけに依存して物資の分布が決まるが、
上記のモデルでは、エネルギーから物質への転換率も影響する。
そのあとで、 ◯ の多いところで、真空の密度が高まり、空間が歪む。
さて。いったん物質が生じたあとでも、さらにバラツキが生じるだろう。それは、「対称性の破れ」などによる。ただし、この件は、従来の説と同様である。
最終的には、真空は十分に拡散して、現在の状況になる。ただし、この状況でも、真空にはまだエネルギーが残っているはずだ。それは、1個の粒子を生むには足りないので、真空から常に粒子が発生するわけではない。しかし、ときどき、確率的な変動によって、真空から突発的に粒子が発生することもある。特に、真空に対して、よそから波が伝わってきた場合には、波のもつエネルギーをもらって、そこで粒子が発生する確率が高まる。
波が移動するにつれて、発生する確率も移動していく。(ソリトンの移動と同じ。)発生する確率が次々と移動していくのを見ると、「粒子が移動している」というように見える。しかし本当は、粒子が移動しているのではなくて、別々の粒子が発生と消滅を繰り返しているだけだ。これは、「玉突き現象」と同じだ。
時刻 1: ◯
時刻 2: ◯
時刻 3: ◯
時刻 4: ◯
|
この図では、 ◯ が移動しているように見える。しかし、同一の ◯ が移動しているのではなくて、一つの ◯ が消滅して別の ◯ が発生しているだけだ(玉突き現象を起こしているだけだ)、というのが、本論の解釈だ。
( ※ 厳密には、 ◯ そのものが発生と消滅を繰り返しているというより、発生と消滅のための波が上がったり下がったりしている形で、振動する。)
( → 波と粒子と区別の問題 )
- [ 付記1 ]
-
波の伝わり方は、振動数に依存する。
上の ◯ の例では、 ◯ が直進していると見えるが、これは、波が一本の直線状を進んでいる(波が拡散しない)場合に相当する。── つまり、古典力学で「粒子が進む」というのは、量子力学では、「波が進む」ということに相当するが、その波が細い一本のビームになる場合には、量子力学と古典力学が一致する。古典力学ふうの「粒子が移動する」というのは、量子力学の特別な場合だ、と見なしてもいいかもしれない。(現実の粒子がそうなるかどうかはともなく。たとえば、電子は、古典力学では「粒子が直進する」となるが、本論では「波が進む」となり、その波は拡散するから、両者は一致しない。)
一般的には、ミクロの世界では、粒子ではなくて波が空間を伝播する。ただし、従来の理論と比較すると、解釈は異なるとしても、従来の理論も本論も、結果は同じである。というのは、従来の理論でも、数式としては波動関数を(粒子でなく)波として扱っているからだ。── ただし、両者が一致するのは、くりこみ理論の適用範囲を除けば、という限定が付くが。
- [ 付記2 ]
-
従来の説(一般相対論)では、宇宙の最初は、「ゼロ × ∞ 」という量であった、ということになる。それに対して、本論では、宇宙の最初は、有限の量であった、ということになる。ただし、その有限の量がどのようなものであるかは、本論によってはわからない。本論は、「 ◯ たちの振動」というモデルを出しただけだから、それ以前のことはわからない。たぶん、このモデルよりも微細な空間について述べるクォーク理論によって説明されるのだろう。そして、そこでは、一般相対論は適用されないはずだ。……本論によれば、一般相対論の適用範囲も限定される、ということに注意しよう。ビッグバン以前のことは、本論ではわからないわけだ。わからないことについては「わからない」とはっきり明示しているところに、本論の明確さがある。一般相対論みたいに、理論の適用範囲が明示されていないのとは、事情が異なる。
なお、ビッグバンの初期値に「無限大」が出現することは、点電荷の値に「無限大」が出現するのと、原理は同じである。両者の類似性に着目しよう。両者は、ともに点粒子を考えるから、この無限大の問題が発生する。現実には、粒子は点ではなくて、一定量の体積をもつから、無限大の値などは発生のしようがない。要するに、「無限大」という問題が起こるのは、分数の分母にゼロが現れるのと同じであり、その問題が起こるわけは、体積ゼロの点電子を考察するからだ。── そこに根源的な難点があるということを、本論を示した。
根源的に言おう。従来の説では、「特異点」なんてものが出現したが、抽象的な概念空間ならともかく、物質としての現実世界に特異点なんてものを導入するのは、邪道である。「物質の形態変化の仕方(という抽象概念)を、特異点を用いて(幾何学的に)数学モデル化する」というのなら許されるが、「現実の宇宙空間にもともと特異点が存在する」と考えるのは、本来のあり方ではない。
- [ 付記3 ]
-
数学的な方法論について、一般的に言及しよう。(すぐ前に述べたことの続き。)
科学の世界には、「高度な数学を使えば、宇宙の真実が判明する」と思っている人が多いようだ。しかし、そんなことはあるまい。数学というものは、論理遊びのオモチャではないのだ。事実を複雑に扱うために数学があるのではなく、事実を単純化するために数学はある。
私の個人的な所感を言えば、こうだ。「真実は、シンプルである。ただし、真実をつかみそこねると、本来のシンプルな姿を見失う。そうなると、かろうじて、複雑な数式で認識するしかない。……だから、数式が複雑であるとしたら、真実をうまくつかんでいるからなのではなくて、真実をうまくつかみそこねているからなのだ。単純なものを、歪んだメガネで見ると、複雑な姿で見える。それだけのことだ。」
例を示そう。石を投げると、放物線を描く。愚かな人なら、たくさんの円弧を複雑に組み合わせて、何とか近似しようとするだろう。しかしニュートンならば、二次関数で簡潔に表示する。ここでは簡潔なものが真実であり、複雑なものが疑似的な真実なのだ。そして、今のたいていの学者は、疑似的な真実ばかり追究している。
- [ 付記4 ]
- ビッグバンの直後には、粒子はどのようにふるまっていたか? この件は、実は、実験的に調べることができるはずだ。
ビッグバンの直後には、 ◯ たちの密度が非常に高かった。では、そういう状況は、実験的に実現が可能か? 可能である。それは、粒子を光速に近い速度にまで加速することだ。そうすれば、 ◯ たちの密度は非常に高くなる。(この件は、先に説明した。 → ローレンツ収縮 )
近年では、巨大な加速器により、粒子を光速に近い速度にまで加速して、衝突させる。それはなぜかと言えば「 ◯ たちが密集している」という状況を作り出すためなのだ。そして、その状況は、ビッグバンの状況と同様なのだ。
だからこそ、人類は莫大な金を賭けてまで、巨大な加速器を建設する。わけもなく実験設備の巨大化をしているわけではない。
- [ 付記5 ]
-
ビッグバン以前は、どうだったか?
従来の解釈(ホーキングなど)では、「特異点」のような特別な数学概念を用いて、解釈をしている。しかし、本論では、もっとずっと簡単に説明できる。
一般相対論によれば、重力の強いところでは、時計の進み方が遅くなる。たとえば、地上と人工衛星内とでは、重力が1Gだけ違うので、時計の進み方は、地上の方が遅くなる。同様のことは、本論の発想でも成立するはずだ。(理由は省略。)── これを、ビッグバンについて当てはめると、こう言える。
「ビッグバンが起こったときには、真空の密度が非常に高かった。最初は、 ◯ たちが隙間なく密集するほど密度が高かった。その分、重力も強かった。(ここまでは前述の通り。)とすれば、重力が強かった分、時計の進み方も非常に遅かった」
ビッグバンの最初には、真空の密度が非常に高かったので、時計の進み方も非常に遅かった。ほとんど無限に時計が遅くなる。となると、「ビッグバン以前」というのを考えること自体が、無意味になる。
そして、このことは、結果的には、従来の解釈と同じになる。
( ※ ただし、厳密に言えば、まったく同じではない。従来の解釈では、一番最初の時点は、「特異点」となる。本論の解釈では、一番最初の時点は、「理論の対象外なので不明」となる。)
真空において粒子が発生することについては、すでに説明した。つまり、空間に存在するエネルギーと、空間の振動状態から、粒子の発生確率が決まる。
一方、粒子の発生とは逆に、粒子の崩壊も考えられる。粒子の崩壊とは、粒子が波に転換することだ。粒子の発生と崩壊とは、粒子と波の間の相互転換である。
このように理解すると、課題が現れる。それは、「波の崩れやすさとはどういうことか」という課題だ。ほとんどの種類の粒子は寿命が短いが、例外的に光子などは寿命が長い。それはなぜか? ── このことは、残る課題としておこう。
( ※ 電磁波は、実数波である。質量のある物質の波は、複素数波である。このことは、粒子の崩壊のしやすさにも多いに影響しているだろう。電磁波とは、「粒子から波に崩れっぱなしのもの」であり、「粒子にならない波」のことであり、「静止質量をもたないもの」である。いずれも同義。そして、それが、実数波の形で数式化される。 cf. 複素数の波 , 静止質量 )
- 【 追記 】 ( ver 2.0 での追記 )
- 「波の持続する限界」について。
感光板で波が粒子に転じるとき、その分布が確率的になる、ということを 波から粒子への転換
では、なぜ、波は感光板のところで必ず粒子になるのか? なぜ、波はいつまでも波のままではいられないのか? ── その問題については、以下のように答えることができる。
波動関数で定められるのは、あくまでその一定の空間だけだ。たとえば、真空ならば真空という空間だけだ。電子が発されると、電子に対応する振動数が定まるが、その振動状態が適用されるのは、その真空という同じ空間だけだ。
一方、感光板は? もはや、真空という空間の外である。とすれば、感光板ではもはや、空間の振動状態や波動関数は適用されない。感光板に達する直前の空間の振動状態まではわかるが、感光板の内部における振動状態は定まらない。……そして、ここにおいて複素数波は複素数波のまま続くことをやめてしまう。
そのあと、どうなるか? 真空の振動状態と感光板の振動状態には、共通部分がない。だから、そのままでは、エネルギーが伝わらない。両方の共通部分となるエネルギーの形は、電磁波または質量という形だけだ。いずれも実数の形で示され、観測可能だ。そして、それが、感光板に記録される。
というわけで、感光板において、波は粒子に転じる。それは確率的に起こるのではない。二つの空間(真空と感光板)の振動状態が異なるから、否応なしに、複素数波は感光板中では複素数波ではありえなくなるのだ。いわば、「複素数波の世界から追い出される」のである。このとき、エネルギー保存の法則とあわせて、「複素数でありえなければ実数となるしかない」という形で、波から粒子に転じるわけだ。
( ※ ついでに言えば、ここでは、「存在確率が急激に収束する」という現象が起こっているわけではない。それは、コインのトスの場合と同様である。 → 前述の コインのトス )
( ※ 従来の発想では、「存在確率が急激に収束するのは観測のせい」であるから、観測しなければ「存在確率は急激に収束しないままである」となる。感光が生じてから1年後に観測すれば、その時点で存在確率が急激に収束し、それが1年前の過去にさかのぼることになる。一方、本論によれば、「波が粒子に転じるのはそれぞれの空間の振動状態が異なるせい」であるから、観測なんかとは無関係に、波が感光板に達した時点で、その転換が起こった[そして感光状態が確定した]ことになる。)
( ※ なお、「複素数波は真空中以外では伝わらない」というのは、次のように言い換えることができる。「複素数波は物質内を素通りしない」「物質内を素通りするのは電磁波や重力波だけであって、複素数波は物質内を素通りしない」「複素数波が物質内を素通りしようとしたときは、いったん波から粒子の形になったあとで、波でなくて粒子の形で[古典力学的に]進行していく。」)
( ※ 具体的に示せば、次の通り。水中やガラス中を進行するときには、電子は粒子として進行していく。あちこちの物質にぶつかりながら、吸収されていく。空気中を進行するときは、ブラウン運動のイメージで考えるといい。電子はまずは、一定距離を真空波として進んだあとで、すぐに空気の分子にぶつかり、その時点で波から粒子に転換して、そこで散乱する。……その一定距離がとても短ければ、「電子はずっと粒子のままであり波にならない」と考えた場合と同様だ。つまり、液体や固体の場合と同様だ。ただし、空気の密度が非常に薄い場合には、その一定距離が長いので、真空の場合に近くなる。)
- 【 参考 】 ( ver 2.1 での加筆 )
- 「ウィルソンの霧箱」について。
ウィルソンの霧箱というのは、過飽和の水蒸気のある箱のなかに電子線や宇宙線を通過させて、その軌跡を見る、という装置だ。この装置を使うと、「光速に近い速度で進む粒子は、直線状に進む」と推定される。
ウィルソンの霧箱の結果は、「光速に近い電子は、ひろがった波として進む」という本論の主張に、矛盾するのだろうか? 実は、そんなことはない。理由は、次の通り。
すでに上記(本項の 追記 )で説明したように、「真空中を進む波」という概念は、真空中にのみ適用され、物質中には適用されない。一方、ウィルソンの霧箱は、過飽和の水蒸気で満たされた空間であるから、真空中ではなく物質中である。つまり、事情が異なる。
過飽和の水蒸気で満たされた空間を電子が通れば、上記の「空気のなかを通る場合」と同様になると思える。ただし、ウィルソンの霧箱では、もうちょっと事情が異なる。放射線(電子線)が通ったあと、電離作用で生じたイオンを核として水蒸気が凝結し、その後、粒子の飛跡に沿って水滴が並ぶ。
結局、こうだ。これまでの解釈では、次の図のように説明される。(連続的)
電子の経路 [真空中] 外壁 電子の経路 [霧箱中]
━━━━━━━━━|━━━━━━━━━━
一方、本論の解釈では、次の図のように説明される。(不連続的)
電子の経路 [真空中] 外壁 電子の経路 [霧箱中]
))))))))))))))))))))|━━━━━━━━━━
電子は、ずっと波であるわけではないし、ずっと粒子であるわけでもない。霧箱中に入った時点( or 霧箱の外壁にぶつかった時点)で、波から粒子に転換する。なぜなら、真空中から固体中 or 気体中へと空間が変化した(外壁 or 気体に波がぶつかった)ので、そのせいで、空間の振動状態が別の振動状態に変わったからだ。(本項の趣旨の通り。)
その後、いったん粒子に転じた電子が、霧箱中で軌跡が描かれる。こうしてみると、霧箱の最初の時点では、電子はまさしく粒子として現れている。ただし、従来の説では、「霧箱に入ったときは粒子だったのだから、それ以前の真空中でも、電子は粒子であったはずだ」と見なしたりした。それが勘違いだ。
本質的に言えば、従来の説では、真空中と霧箱中とを、区別していない。そのせいで、「真空中でも粒子が進む」と思い込む。そういう誤解が生じたのである。(本当は、真空中では、波が伝わるのであって、一つの粒子が進むのではないのだが。)
( ※ ウィルソンの霧箱では、最初に波から粒子に転じる位置は、二重スリットの例からもわかるとおり、確率的である。二重スリットで感光板に記録される電子の位置が確率的であるように、ウィルソンの霧箱で示される「電子線の経路」の最初の位置もまた確率的である。本当は。……だから、ウィルソンの霧箱のなかで、途中の空間から軌跡が始まることもある。その始点は、波が初めて分子にぶつかって、波が粒子に転換した位置。)
【 補足 】 ( ver 2.12 での加筆 )
なお、ウィルソンの霧箱に入る以前に、(真空中でなく)空気中を通っていれば、すでに放射線が粒子になっていることもある。なぜか? この場合は、光速よりもずっと遅いからだ。光速よりもずっと遅いときには、放射線を、波でなく粒子として扱ってよい。
光速よりもずっと遅い場合には、たとえ(粒子でなくて)波であるとしても、波束が狭い。つまり、波の幅が前後も左右も狭い。波が鋭いピークをもつ。……こうなると、たとえ波であっても、粒子と同様に扱われる。特に、静止している場合は、そうだ。また、静止していなくても、狭い波束がゆっくり進めば、それは粒子がゆっくり進んでいるように見える。……というわけで、粒子がゆっくり進んでいるように見えるのだが、それは実は、狭い波束がゆっくり進んでいるだけであって、粒子がゆっくり進んでいるわけではない。(ここまでは、量子力学の初等教科書に書いてあるとおり。)
ついでに言っておこう。「一つの粒子が進んでいるのではない」と、なぜ言えるのか? 「一つの粒子である」という保証がないからだ。ある粒子が、時刻 T1 において X 座標上の X1で観測され、時刻 T2 において X 座標上の X 2で観測されたとしよう。それぞれの粒子は、同一の粒子であるのか、別の粒子である(玉突き現象で生じた粒子である)のか、区別はつかない。だから、「一つの粒子が進んでいる」とは言えないのだ。
( → 波と粒子と区別の問題 , ◯ の移動の図 )
( ※ 実を言うと、光速よりもずっと遅いときには、「狭い波束」と「粒子」とを、区別することはほとんど困難だ。だから、「どちらでも同じことだ」と言って良さそうだ。そのことは、すぐ上のリンクで示した図の概念でもわかる。……というわけで、本論で「波」という概念を強く打ち出しているのは、電子などが光速に近い速度で移動している場合だけだ、と考えていいだろう。光速よりもずっと遅い速度では、従来の解釈と本論の解釈は、ほとんど同じになる。)
- [ 注釈 ]
- ともあれ、本論はあくまで、空間を「振動する ◯ たち」として解釈する、という基本概念を出した。それが重要である。細かな話は、二の次だ。
だから、普通の読者は、「振動する ◯ たちのある空間と、そこにおける振動状態(つまり複素数の波)」ということだけを、心に留意しておけばよい。
たとえば、中間子について、取り上げてみよう。従来の発想では、こうなる。
「二つの素粒子が、中間子という粒子をやりとりすることで、相互作用を及ぼす」
一方、本論の発想では、こうなる。
「二つの素粒子は、空間を伝わる波によって、相互作用を及ぼす。その波が観測されると、中間子という粒子として観測される」
結局、この宇宙には、さまざまな素粒子が根源的に存在しているのではなくて、さまざまな振動状態が根源的に存在しているだけだ。素粒子の理論の本質は、素粒子という粒子よりも、波なのだ。だからこそ、シュレーディンガー方程式や超ヒモ理論などのさまざまな理論は、すべて、振動状態の理論となる。……ただし、振動状態を実際に観察するときには、粒子の形で観測するしかない。それゆえ、多くの物理学者は、観測したものを見ながら、「物質の根源は素粒子である」と勘違いするのだ。そのあげく、素粒子の本質を探ろうとして、粒子のかわりに振動状態を描写する理論を用いて、「量子は波か粒子か?」などと頭をひねって、謎に落ち込むのである。
( → 巻末の「不確定性原理」の後半を参照。「粒子と波の二重性」についての説明がある。)
* * * * * * * * *
【 オマケ 1 】
オマケで一言。未知の素粒子について。
「未知の素粒子が存在するはずだ」という記事が、2004年8月20日の夕刊に出ていた。大騒ぎしているようだが、本論に従えば、大騒ぎするほどのことはない。
素粒子は別に、物質の本質ではなくて、波が粒子に変わるときの種類の一つにすぎない。未知の素粒子があるということは、「未知の根源的な真実がひそんでいる」という意味ではなくて、「波が粒子に変わったときに、その粒子がわれわれの観測装置ではうまく検知できなかった」というだけのことだ。
似た例はある。ニュートリノだって、 トップクォークだって、なかなか検出されなかったが、やがては観測装置の進歩によって検出されるようになった。「未知の素粒子がある」というのは、単に「観測装置がまだ力不足だ」というだけのことだ。……ひょっとしたら、「対称性の破れ」のような形で、新たな現象が発生しているのかもしれないが、だとしても、そこではあくまで何らかの波は生じているはずだし、その波はいつかは何らかの形で粒子として測定されるだろう。その粒子が、新聞記事の言う「未知の粒子」だ。
つまりは、「未知の粒子があるから、未知の現象が起こっている」のではなくて、「波はたしかに生じているのだが、波から転じた粒子がうまく観測されないから、未知の現象として見える」だけのことだ。要するに、観測のしやすさと粒子の種類の問題であるだけだ。宇宙の原理がひっくりかえってしまうようなわけではない。法則のバリエーションがちょっとだけ増える、というだけのことだ。たとえば、陽子と中性子と電子と中間子しか知られていない時代に、他の素粒子が予測されるとしても、それで、量子力学が崩壊してしまうわけではなくて、量子力学のバリエーションがちょっと増えたというだけのことだったし、それと同様だ。……記事には「標準理論の限界が出た」なんていう評価もあるが、標準理論なんてのはとっくに限界にさらされているのである。それは本論でも何度も繰り返したとおり。だから、今回の発見で、突発的な激変が起こるわけではない。
( ※ なお、「新しい理論が待たれる」とも記事にはあるが、「新しい理論とはどんなものか」というのも、少し前の「一般相対論」の話( → 該当箇所 )を読めばわかる。つまり、「真空の密度を、一定密度としないで、変化する密度と見なす」という一般相対論ふうの立場を前提とした上で、そこで「真空密度の変化する空間における波の振動はどうなるか」というのを考える理論だ。……ただし、そのままだと、「空間の振動」というのと、「粒子の発生&消滅」とが、どういうふうに起こるかはわかるが、なぜ起こるかはわからない。なぜ、については、「クォークの量子色力学」などと統一的に考察することが必要だ。)
なお、この実験の概略は、次の通り。
真空 → B中間子 + B反中間子
このあと、B中間子とB反中間子について、崩壊が起こる。つまり、次のことが起こる。
B中間子 → いくつかの粒子 + 真空
B反中間子 → いくつかの粒子 + 真空
この二つの場合を統計的に調べると、崩壊の仕方が異なる。それぞれで、「いくつかの粒子」というのは何か? いろいろあるようだ。今回の実験では、「いくつかの粒子」への崩壊というのは、計六種類あったという。その六種類を見ると、二つの場合で、何らかの食い違いがあったわけだ。
この実験への評価としては、「まあ、そんなこともあるだろう」ぐらいの感想しか思い浮かばない。真空波モデルは、「パウリの排他原理」のような細かなことには言及しないから、これらのこと以外にも、言及されない現象がさらに発見されたとしても、別に、どうということはない。
【 オマケ 2 】
素粒子について、新たな現象が発見された。(理研や東大などの成果。)
原子核よりも密度の高い状態があるという。ヘリウムの原子核は、通常ならば陽子と中性子が普通の形で球状に密集しているのだが、今回の実験では、K中間子を衝突させた結果、新たな現象が現れた。ヘリウムの原子核のなかに埋め込まれたK中間子が、陽子や中性子を過剰に強く引き寄せ、最も内側で通常の原子核の十倍という超高密度の状態が発生した。さらに、この原子核は、円形(球形)ではなく、ヒョウタン形をしているという。(読売新聞・朝刊・2面 2004-08-25 )
この件については、本論の立場からは、特に言及することはない。なお、ここで主任研究員が、次のようにコメントしてる。
「素粒子がなぜ質量をもつのか、という謎の解明につながるかもしれない」
なるほど、これは大切だ。ただし、「なぜ質量があるか?」に答えるためには、あらかじめ、「質量とは何のことか?」がわかっている必要がある。そして、それについて、本論は 前述箇所 などで説明しておいた。
【 オマケ 3 】
光の屈折について、新発見がなされた。 (朝日・朝刊・3面 2004-09-09 )
空気と水のように、屈折率の異なる物質の境界面を光が通ると、光は屈折する。この際、入射する光線が境界面にぶつかって、屈折した光線が境界面から出るが、境界面に入るときと出るときの点の位置は同じである、と考えられてきた。しかし、厳密に考察すると、光子のスピンのせいで、それぞれの位置が少し異なるとわかった。波長程度のズレがあるという。つまり、入射した点の位置Aと、屈折光の出る点の位置Bとは、波長程度の距離で離れていて、同一点ではないという。
───── →
━━━━━━━┥───────
───────┝━━━━━━━
──────── →
上図参照。点Aに達したあと、いったん横にズレて、点Bから出る。(なお、このズレの距離は、波長程度だから、かなり大きい。特に、フォトニック結晶を使うと、ズレの距離は波長よりもずっと大きくなるという。)
この事実は、従来の解釈に従う限り、あまりにも不自然だ。なぜなら、「光子が境界面において、AからBへ横滑りする」ということになるからだ。すると、「光子を横滑りさせるような、どんな力が働いたのか?」という問題が思い浮かぶが、答えにくい。一般相対論ふうに解釈すれば、「そこで空間が ┌┘ のような形に歪んでいる」ということになりそうだが、これではあまりにも不自然だ。
しかし、本論の解釈によれば、この問題は発生しない。なぜか? 「光子が横滑りする」ということ自体がありえないからだ。つまり、「一つの光子が横滑りする」のではなくて、「入射した光子と、出ていく光子とは、別のものである」というふうになる。このことは、
○ → ○○○○○○○○○○○◯
という先のモデル(玉突き現象のモデル)からも、明らかだろう。空気中を通って境界面に達する ◯ と、境界面から水中へ出ていく ◯ とは、別の ◯ なのだ。要するに、入射した ◯ は境界面で吸収され、同時に、少し離れた境界面で別の ◯ が発射されるわけだ。( ◯ の集まりを、上記のような一次元直線でなく、二次元平面で考えるといい。)
だから、「一つの ◯ が横滑りをした」という解釈そのものが成立しない。横滑りという現象はもともと起こっていないのだから、「なぜ横滑りしたのか?」という問題は生じようがないのだ。
なお、実を言うと、この新発見のような現象は、本論の解釈ではあらかじめ予想されていた。先に、霧箱の話 をしたが、そこでは、次のように書いた。
ウィルソンの霧箱では、最初に波から粒子に転じる位置は、二重スリットの例からもわかるとおり、確率的である。二重スリットで感光板に記録される電子の位置が確率的であるように、ウィルソンの霧箱で示される「電子線の経路」の最初の位置もまた確率的である。
つまり、「真空中から気体中へ」というふうに、空間が変わるのであれば、二つの空間の境界においては、「入る位置と、出る位置とが、少し異なることもあるはずだ」と予想される。その予想と同様のことが、電子でなく光でも起こるのだ、と解釈していいだろう。今回の新発見については。
( ※ ただし、電子と光では、まったく同じではない。電子の場合には、真空中の電子の波を観測することができない。光子の場合には、入射する光を観測できる。そのことから、位置のずれが観測可能となる。……それが、今回の新発見の意義だ。)
( ※ 少し注釈しておこう。今回の新発見について、「光の場合だけの現象だ」と見なす解釈もあるかもしれない。「光子が境界面でいったん消えて、その衝撃によって、別の光子が別のところから発射されたのだろうが、だとしても、それは光の場合だけのことだ」と。しかし、その解釈は、成立しない。なぜなら、その現象が、光の場合に起こったのだとすれば、当然、放射線の場合[ウィルソンの霧箱の場合]にも起こるはずだからだ。……しかるに、ウィルソンの霧箱では、「外部から寄せた放射線が、一つの粒子として、そのまま霧箱のなかを通り抜けている」というのが、従来の解釈だ。結局、境界面では、「入った粒子と別の粒子が出る」であれ、「一つの粒子がそのまま通り抜ける」であれ、どちらか一方にするべきであり、同等の現象に2通りの解釈を使い分けるわけには行かないのだ。そして、従来の解釈を取るのであれば、今回の新発見に矛盾する。)
-
[ 用語 ]
- 用語を新たに定めておく。「真空波モデル」という用語だ。
本論は、もともとは、二重スリットの問題を解決するために、「二重空間モデル」という用語を出した。これによって、「一つの粒子が二つのスリットを通る」という解釈を否定した。その意義は、「観測されるのは粒子だが、計算されるのは波だ」ということだ。
ただし、本論を体系化したあとで考え直すと、「計算されるのは波だ」ということの根底には、「真空を伝わるのは波だ」という現実的事実がある。この現実的事実に着目した方がいいだろう。
この波については、前に「複素数の波だ」と表現した。これは「エーテル」という物質を仮定して「実数の波」を想定した昔の物理学とは違って、「真空を伝わる波」である。そこで、この波を、「真空波」と呼び、この理論モデルを「真空波モデル」と呼ぶことにしよう。
真空波モデルでは、「真空には媒体としての粒子がある」とも見なせる。だから、この粒子に着目してもいいのだが、この粒子を物質としての粒子と見なすと、「エーテル」と同じになってしまうので、まずい。また、粒子は、計算上は波の媒質とはなるが、観測上は粒子とはなっていない。また、粒子は、固定されたものではなくて、最初の衝撃を与えるものに応じて、さまざまな粒子・反粒子が発生する。固体された粒子ではないのだから、固定された名前を与えるのはまずいかもしれない。(「仮想粒子」と呼んでもいいが。これはつまり、先の ◯ たちに相当する。)
というわけで、少なくとも当面は、仮想粒子のようなものよりは、まさしく現実的に想定していいはずの「真空波」に着目して、「真空波モデル」という用語を使うことにしたい。
本論は、解釈論としては「コペンハーゲン解釈」に対抗して「二重空間モデル」と呼ばれるが、物理理論としては「真空波モデル」と呼ばれる。
「真空波モデル」は、量子力学の基礎を与えるための基本モデルとして、仮想粒子を考えるモデルである。仮想粒子の実質は、たぶん、電子の場合には「電子」と「反電子」であろう。「電子」と「反電子」を一対としてみると、波の媒質としては粒子であるが、観測されたものとしてはただの真空である。(その点では「エーテル」とはまったく異なる。)
このモデルでは、真空中では、粒子と反粒子を振動させて真空波が伝わるが、真空波が一定条件を満たすと、波から粒子へと転じる。そのとき、粒子が観測されるようになる。
この「一定条件」とは何か? 二つある。「エネルギーが(粒子になるための)最低単位を上回ること」と、「空間の振動状態がその粒子の振動数に一致すること」である。後者の条件(空間の振動状態の条件)を定めるのが、シュレーディンガー方程式だ。十分なエネルギーがあったとしても、空間の振動状態しだいで、そのときどきで登場する粒子が異なるわけだ。そこで、空間の振動状態を調べることが大切になるが、そのためにあるのが、シュレーディンガー方程式だ。
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【 追記 】 ( ver 2.2 での追記 )
- 粒子と反粒子について言及しておこう。この件については、二つの問題として考えられる。
「ディラックの空孔理論との関係は?」
「宇宙において粒子が反粒子よりも多いわけは?」
この二つの問題に、本論の立場から答えよう。
(1) ディラックの空孔理論
ディラックの方程式に従うと、電子のエネルギーは正と負の二つの解をもつ。すると、「正エネルギーの電子は、負のエネルギー準位に落ち込んで、消失してしまう」という問題が発生する。
これを前提とした上で、ディラックの空孔理論では、次のように考える。「真空中には負のエネルギー準位の電子があらかじめ充満している。そこでは負のエネルギー準位はもはや空席ではないから、そこに落ち込むことはできない。ただし、たまたま空席になっている場所があれば、そこは穴として目立つ。そこが陽電子だ」
この発想は、これはこれでいいが、やや不自然である。ディラックの空孔理論は、それと等価であるような、もっと洗練された形になることが好ましい。(話は次に続く。)
(2) 粒子と反粒子
宇宙において、粒子が反粒子よりも多いのは、なぜだろうか? そういう疑問がある。真空というのが「何もない状態」あるいは「粒子と反粒子が釣り合っている状態」であると仮定すれば、粒子と反粒子は合体して消滅しているはずだが、なぜ、粒子だけが残ったのか?
この疑問に対する回答は、二通りがある。次の二つだ。
「最初に粒子が反粒子よりも多く生じたから」(ただしその理由は不明)
「真空というのが何もない状態だ、という仮定そのものが間違っている」
通常は、前者の解釈だ。ただし、本論の発想に従えば、後者の発想になるだろう。では、その場合、どういう解釈をすればいいか? (話は次に続く。)
(3) 反粒子の新仮説
反粒子について、新たな仮説を提出しよう。上記の(1)(2)を踏まえた上で、次のように考える。
本論の発想によれば、真空とは、何もない状態ではなくて、粒子と反粒子に満ちた状態である。ただし、粒子と反粒子は、特定の形(たとえば、電子と反電子 or 陽子と反陽子)に決まっているわけではない。そこには、エネルギーがあるだけだ。そのエネルギーが、ときどき粒子に転じる。どんな粒子に転じるかは、空間の振動状態によって決まる。── これが基本だ。
ときどき、真空から、電子と反電子が生じることがある。これは、別に、新たにエネルギーを必要としない。電子と反電子が生じるが、その後、反電子と電子は合体して消滅する。ここでは、「エネルギー → 粒子」というふうに転じたあとで、「粒子 → エネルギー」というふうに逆方向に転じただけだ。それだけのことだ。エネルギーの形が変わっただけである。「物質が無から生じ、かつ、反物質が無から生じた」というようなわけではない。(物質と反物質は独立的には発生しないから、独立した事象がたまたま二つ起こった」という解釈は正しくない。)
さて。ここで、「負のエネルギー」という概念を導入しよう。(これはディラックの言う「負のエネルギー準位」とは同じ意味ではない。混同しないように注意しよう。前者は量。後者は位置。前者は、多いか少ないかで示される。後者は、高いか低いかで示される。経済にたとえて言うと、「負のエネルギー」は、財布における、マイナスの現金保有。「負のエネルギー準位」は、商品販売における、マイナスの価格。)
真空において、正のエネルギーがあるのが普通だが、負のエネルギーがあることもある。この二つの場合を分けて考えよう。
真空において、正のエネルギーがあれば、普通の粒子が発生する。その粒子の電荷が正負のどちらになるかは、粒子ごとに異なる。通常の粒子は、正の電荷だが、電子については、負の電荷だ。つまり、正のエネルギーがあって、空間が適当に振動すると、正の電荷をもつ物質粒子か、負の電荷をもつ電子か、どちらかが生じる。(これらを「普通の粒子」または単に「粒子」と呼ぶ。「反粒子」に対置されるものだ。)
一方、真空において、負のエネルギーがあれば、反粒子が発生する。つまり、負のエネルギーがあって、空間が適当に振動すると、負の電荷をもつ反物質粒子か、正の電荷をもつ反電子か、どちらかが生じる。(これらを「反粒子」と呼ぶ。)
通常は、真空に存在するのは、正のエネルギーだけだ。だから、普通の粒子だけが生じる。ところが、稀に、正のエネルギーのなかでバランスが崩れて、局所的に負のエネルギーが発生することがある。するとそこでは、反粒子が発生する。
《 粒子と反粒子 の図 》
○○○○○○○○○
○○○○●○○○○
○○○○○○○○○
○○○○○○○○○
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○ たちのある空間には、正のエネルギー が満ちている。
そこでは空間の振動状態により、○ が粒子(物質)に転じることもある。
ときたま、局所的に、 ■ の場所に、負のエネルギーが発生する。
その部分では、空間の振動状態により、反粒子 ● が発生することもある。
ただし、負のエネルギーが発生しなければ、反粒子も発生しない。
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こういうことを理解するには、「物質とは何か?」ということを、本論の概念で理解しておくことが必要となる。従来の解釈では、「真空とは何もない状態であり、物質とは何かがある状態である」となる。本論の解釈では、次のようになる。
「真空とは、粒子と反粒子に満ちている状態であるが、真空中では、粒子と反粒子は観測されない。ただしところどころで局所的に、粒子と反粒子のバランスが崩れて、粒子だけが発生する。この際、無から粒子が発生したわけではなくて、もともとそこにあった粒子が振動状態によって形を変えただけだ。たとえば、二重スリットの実験において、感光板に電子が現れる。その電子は、電子銃から発射された電子が空間を伝わって届いたものではない。その電子は、もともと感光板にあった電子だ。ただし、真空中を波が伝わって、その波が感光板に達したとき、真空の振動状態と感光板の振動状態が異なるせいで、波のエネルギーが粒子のエネルギーに転じた。そのせいで、感光板にあった粒子と反粒子のうち、粒子の方が正のエネルギーをもらって、粒子という形で現れた。ここでは、粒子が新たに発生したわけではなくて、もともとあった粒子がエネルギーの分だけ、ちょっとはみ出しただけだ」
ともあれ、本論の立場からは、以上のように解釈できる。(あくまで仮説だが。)
では、以上の解釈を、従来の解釈と比べてみよう。
(a) ディラックの空孔理論との比較
本論の解釈は、ディラックの空孔理論とは異なる。反電子が発生する場所では、たまたまそこでは(ディラックの)負のエネルギー準位が埋まっていないのではなくて、たまたまそこでは(本論の)負のエネルギーが発生しているだけだ。
本論の解釈では、「負のエネルギー」がある場所は、局所的である。そして、電子が「負のエネルギー」を取れるのは、空間のエネルギーが「負のエネルギー」である場合だけだ。空間のエネルギーが「正のエネルギー」である場合には、電子は「負のエネルギー」を取れない。ここが、ディラックの解釈とは異なる。
ディラックの発想では、真空は本当は負のエネルギー準位の電子で埋まっているということになる。一方、本論の解釈では、真空はゼロまたは正のエネルギーで満ちていて、ところどころに局所的に負エネルギーの場所があるだけだ。あくまで粒子ではなく空間に基づいて考えている。
本論の解釈でも、結論はディラックの場合とだいたい同様となる。つまり、「正のエネルギー準位にある電子が、放射線を出して負のエネルギー準位になる」ということはないはずだ。電子は、正のエネルギーの空間にいる間は、負のエネルギー準位に移れないのだ。電子は、空間が負エネルギーである場合だけ、負のエネルギー準位に移れる。通常、そういうことはありえない。
ただし、真空が局所的に負のエネルギー状態になった場合には、そういうことがありうる。つまり、電子は負のエネルギー状態に移ることができる。とはいえ、その場合、その場所にはたちまち、よそから正のエネルギーを補充されるので、負のエネルギー状態がすぐに消滅する。
そして、そういうふうになるのは、真空には正のエネルギーが満ちているからだ。真空には、物質は満ちていないが、正のエネルギーはうっすらと満ちているのだ。(たとえば、宇宙にはたえず電波や光が通過している。その分、そこには、エネルギーがある。)……というわけで、反粒子はごく短い時間を除いて、ほとんど存在しえない。
(b) 宇宙の理論での比較
本論の解釈によれば、「宇宙において粒子が反粒子よりも多いわけは?」という質問にも答えられる。
現時点では、宇宙には正のエネルギーが負のエネルギーよりも多い。だから、次のような相互転換が起こる。
正のエネルギー ←→ 粒子(物質と電子)
逆に、負のエネルギーの方が多ければ、次のような相互転換が起こる。
負のエネルギー ←→ 反粒子(反物質と反電子)
こういうことは、局所的にのみ、成立する。宇宙全体で見れば、正のエネルギーの方が多いから、反粒子よりも粒子の方が多いわけだ。(上記の図式からすれば、「負のエネルギー」というのは「反エネルギー」と呼んでもいいだろう。)
では、宇宙の最初は?
最初の時点に、粒子が反粒子よりも多く生じわけではない。最初に、正のエネルギーが負のエネルギーよりも多く生じたのだ。つまり、正のエネルギーと負のエネルギーの差し引きが、ゼロではなくて正の値になったのだ。それだけのことだ。
仮に、差し引きしてゼロになったなら、物質も反物質もほとんど生じなかっただろう。局所的に物質と反物質が生じて、すぐに消滅しただろう。
また、仮に、差し引きして正の値ではなく負の値になったなら、今度は、符合を逆に変えて、負の値を新たに正の座標軸でとらえ直しただけだろう。つまり、反物質を物質と呼んだだけだろう。言葉の呼び方が変わるだけだ。
だから、本論の解釈では、「最初に粒子が反粒子よりも多かった」というのは、「最初に正または負のエネルギーがあった」(ゼロではなかった)というだけのことだ。その後、正のエネルギーが、空間の振動状態とのかねあいで、粒子(物質)に転じたわけだ。
( ※ 従来の疑問は、「なぜ粒子の方が反粒子よりも多いか?」というものだった。その根源には、「粒子と反粒子がぶつかって無になる」という前提があった。実は、その前提がおかしいのだ。では、正しくは? 「正のエネルギーと負のエネルギーがぶつかると無になる」である。「粒子と反粒子がぶつかると無になる」のではない。)
( ※ しばしば言われることだが、「宇宙のどこかに反粒子ばかりのある空間があるかもしれない」という想像がある。これは、「最初に粒子と反粒子が生じた」ということに基づく発想だ。しかし、そういうことはありえないのだ。宇宙に生じるのは、粒子や反粒子ではなくて、エネルギーだけだ。そして、エネルギーというものは、すぐに正と負が相殺する。宇宙のどこかに負のエネルギー空間があれば、すぐに正のエネルギー空間と相殺する。だから、「宇宙のどこかに反粒子だけの空間があれば」という仮定は、成立しないのだ。そんな仮定は、「1=2であれば」という仮定と同様で、無意味である。)
( ※ なお、「粒子と反粒子がぶつかる」というのは、局所的になら、真空中でしばしば起こっていることだ。そして、その結果は、エネルギーの相殺が起こる。たとえば、「電子と反電子がぶつかると両者が消滅する」というふうに見える場合、正しくはこうだ。「電子と反電子がぶつかると、真空におけるエネルギーの形態が粒子・反粒子から波に転じる。波としてのエネルギーが相殺する。そのあと、余った分が電磁波として観測される。……このとき、電子と反電子が相殺するのではなくて、正のエネルギーと負のエネルギーが相殺する。上図で言えば、粒子としての ○ と ● が相殺するのではなくて、空間としての「■」と「■」が相殺する。)
【 参考 】
発散問題について補足しておこう。
ディラックの空孔理論は、「発散の困難」と呼ばれる問題を引き起こす。空孔理論によれば、真空には負のエネルギー準位の電子が充満していることになる。これを「基本仮定」と仮称することにしよう。
基本仮定が正しいとすると、電場の作用によって、真空が電子と反電子に分極するはずである。(双極子になるようなものだ。これは物質の分子が電場の作用で分極するのと同じ。)そして、そうだとして計算すると、電子を点電荷と仮定した場合、真空における分極の効果の総和が、無限大のエネルギーになってしまう。……これが、発散の問題だ。
これについては、前述の ◯ たちのモデルによる説明で、「電子は点電子ではない」と説明した。このことで、一応、解決が付く。
一方、本項の「粒子と反粒子」の話では、より根源的な解決も付く。そもそも、ディラックの主張する基本仮定は、まったく成立しないのだ。つまり、「真空には負のエネルギー準位の電子が充満している」ということはありえない。真空中にあるのは、電子ではなくて、 ◯ たち(仮想粒子たち)だけである。これらは、観測不可能なものであり、質量をもたないものだ。もちろん、電場によって ◯ たちが電子と反電子に分極する、ということはない。 ◯ は物質ではないからだ。 ◯ が物質(粒子)になるためには、「一定量のエネルギー」と「振動状態」との双方が満たされる必要がある。「一定量のエネルギー」というのは、短時間なら、特に満たされなくてもいい。というのは、「電子と反電子」という形で、短時間だけ発生することも可能だからだ。しかるに、「振動状態」の方は、どうしても満たされる必要がある。つまり、「波から粒子へ」という転換が起こる必要がある。そして、それを起こすのは、「空間の振動状態」であって、「電場の作用」ではないのだ。電場がどうであろうと、真空が電子と陽電子に分極することはありえないのだ。それというのも、真空にはもともと(負のエネルギー準位の)電子は充満していないからだ。
ディラックの空孔理論では、真空に負のエネルギー準位の電子が充満していて、その穴が反電子である。一方、本論では、真空にはゼロまたは正のエネルギーをもつ ◯ たちが充満していて、その穴が負エネルギーである。負エネルギーの場所では、さまざまな振動状態によって、反電子や他の反粒子が発生することがある。とはいえ、それは、短時間だけだ。まもなく、負エネルギーの場所には、よそから正エネルギーが流れ込み、その場所は正エネルギーになる。すると、負エネルギーが消えたせいで(または反粒子に粒子がぶつかって)、反電子や反粒子は消滅する。もちろん、電子と陽電子の分極などは起こらない。
ディラックの空孔理論では、真空が電媒となるので、「正の量 × 無限大」という形となって( or 積分されて)、荷電変化の総計が無限大になるはずだ。一方、本論では、真空は電媒とならないので、「ゼロ × 何とか」という形となって、荷電変化の総計はゼロとなる。
( ※ この「何とか」というのが無限大だと、ちょっとまずいが、前述の ◯ たちのモデルの通り、「何とか」というのは有限である。だから、「ゼロ × 何とか」がゼロであることは保証される。つまり、電媒ではない真空中に置かれた電子については、荷電変化の総計はゼロである。)
( ※ 細かい話を言うと、「光子の雲」などを考慮する必要があるが、本質的ではないので、ここでは記述を省いた。「光子の雲」を考慮する必要があるのは、先の基本仮定を正しいと見なした場合だけである。)
( ※ とにかく、ディラック理論[または場の量子論]で、発散の困難という問題が生じるのは、真空というものを「物質」に満ちた空間と見なしていることによる。そこに根源的な難点がある。一方、本論では、真空に満ちているのは、物質ではなくて、仮想粒子だけだ。物質はまったく満ちていない。……ここに、両者の根源的な差がある。)
[ 注記 ]
発散の困難について、現代の量子論との関連を示そう。
そもそも、「無限大」という値が出ることと、粒子を点と見なすことは、等価である。なぜなら、不確定性原理ゆえに、一方が点だと、他方が無限大となるからだ。……ゆえに、問題を回避するには、粒子を点と考えなければいい。
ところが、従来の発想[特にゲージ理論]では、どうしても、粒子を点と考える必要がある。さもないと、難点[因果律の破れなど]がもたらされる。
一方、本論では、粒子を点ではないと見なす。つまり、粒子を一定の大きさのあるものと見なす。この発想自体は、特に目新しいわけではない。ただし、同時に、粒子の運動を、「点の移動」と見なさず、「粒子の玉突き現象」と見なす。……これによれば、粒子の大きさがゼロ以上の有限量(半径r)をもつというよりは、粒子間の相互作用の範囲が、ゼロ以上のすべてにはならずに、下限量(2r)よりも大きい範囲に限定される。
かくて、積分の範囲が限定されるせいで、難点がもたらされずに済む。……逆に言えば、本論で示した「粒子の玉突き現象」を根源に据えることで、発散の困難という問題を回避できるわけだ。
そしてまた、本論がこういう成果を収めたことの根源には、発想として、量子論を、「粒子の理論」とはせずに、「空間の理論」としたことにある。
( ※ 本論は、「空間を量子化する」という点では、場の量子論に似ている。しかし、順序が異なる。本論では、最初に空間があって、次に粒子があるのだ。従来の理論では、最初に粒子の理論があって、次に空間の量子化がある。そもそも、モデルがまったく異なるのだ。 → モデルの図式 )
( ※ 空間を重視するという点では、本論は、一般相対論と似ている。一般相対論は、重力の理論というよりは、空間の理論だ。本論もまた、素粒子の理論というよりは、空間の理論だ。一般相対論では、空間のあとで、重力が現れる。本論でもまた、空間のあとで、素粒子が現れる。……だから、素粒子と重力の理論を統一するというのは、本質的には、両者を空間の理論として統一することだ。そのことは、本論のモデルを使うことによって、実現可能だ。 → 相対論との関係 )
( ※ なお、オマケとして、数式とモデルの関係について、補足しておこう。話の本筋から、ややズレるが。余談ふうに。── 「物理学は、数式を基礎として、数式から演繹的に理論体系を展開するべきだ」と信じている人が多い。つまり、「物理学は、数学を真似すればいい」と。しかし、それは誤りだ。その方法は、数学には適用されても、物理学には適用されないのだ。……なるほど、数学ならば、「公理を提出してから、公理空間を作る」という演繹的な方法を取ればよい。なぜなら、現実などは関係なしに、抽象的な空間を作ることが目的だからだ。しかし、物理学は違う。物理学は、現実が優先する。単に数式から演繹的に理論を展開しても、現実とは関係のない机上の理論ができるだけだ。……そもそもの話、物理学では、最初に来るのは、現実だ。次に、現実に対応するモデルが来る。このモデルこそ、何より重要だ。たとえば、従来の理論のように、「一つの ◯ が振動しながら移動する」というモデルがある。あるいは本論のように、「静止した ◯ たちが振動して波を伝える」というモデルがある。まずこうして、モデルを導入する。そうしてから、モデルの内容を数学化した数式が来る。たとえば、シュレーディンガー方程式とか、ハイゼンベルクの行列式とか。だから、「数式から演繹的に展開する」というのは、理論の後半だけである。その前に、「モデルを導入する」という理論の前半が必要だ。ここに注意しよう。……さて。理論の後半では、どうするべきか? 数式から演繹的に展開するわけだが、その際、注意が必要だ。モデルが基礎にあるのだから、数式はモデルによって制約を受ける。たとえば、数式の適用範囲が定まる。また、モデルの拡張に応じて、数式も拡張される。……つまり、「先に数式を絶対的なものとして仮定してから、演繹的に体系を展開する」という従来の硬直した発想だと、モデルにおける特定状態にしか数式が適用されないので、貧弱な体系になってしまうのだ。一方、先にモデルを据えれば、モデルの拡張[たとえば ◯ の密度を変化させること]に応じて、理論の拡張もできる。また、モデルゆえに数式の限界があること[たとえば発散問題]もわかる。……とにかく、そもそも物理学は、現実を説明するための学問なのだから、単に数式をいじって数学的に演繹的に展開するだけでは駄目なのだ。「物理学は数学の方法を真似ればいい」というような、数学の下僕であろうとする態度では、駄目なのだ。むしろ、「数学を物理学の下僕として、数学を好き勝手に利用してやれ」という態度でないと、物理学は自立できない。主人を間違えてはならない。物理学は、数学の下僕ではなくて、現実の下僕なのだ。)
【 余談 】
空孔理論について、余談を言おう。
実はそもそも、ディラックの空孔理論は、根本的に不自然なところがある。空孔理論によれば、たしかに、「真空中には負のエネルギー準位をもつ電子が充満している」という基本仮定のもとで、反電子の存在を示せる。しかし、こういう発想では、不自然だ。(論理矛盾を起こすというわけではないが、不自然だ。)
反粒子としては、反電子のほかに、反陽子などのさまざまなものがある。これらの反粒子の存在を説明するためにも、反電子の場合と同様に、基本仮定と同じことを仮定しなくてはならなくなるだろう。「負のエネルギー準位をもつ電子たちの海」のように、「負のエネルギー準位をもつ陽子たちの海」などを考えて、その空孔としての反陽子を考えることになる。すると、真空という空間には、電子やら陽子やら何やらで、莫大な種類の粒子に満ちていることになる。これでは、不自然すぎる。
また、別の不自然さもある。「負のエネルギー準位をもつ電子」があるとすれば、それは、通常の粒子とは逆のふるまいをするはずだ。つまり、物理法則について、逆のことが成立するはずだ。これではあまりにも不自然だ。一方、本論では、このようなことはありえない。なぜなら、「負のエネルギー準位をもつ電子」は、負のエネルギーをもつ空間に発生するだけであるがゆえに、正のエネルギーをもつ空間には発生しないからだ。この電子は、正のエネルギーをもつ空間では奇妙な(逆の)ふるまいをするだろうが、負のエネルギーをもつ空間では奇妙な(逆の)ふるまいをすることはない。〔 (-1) × (-1) = (+1) 〕
結局、「負のエネルギー準位をもつ電子が空間全体を埋めている」なんていう面倒な発想をするより、「負エネルギーの空間が局所的に発生する」と発想する本論の方が、ずっと単純でわかりやすいのだ。しかも、他にもいろいろとメリットがある。「シンプル・イズ・ベスト」とも言えるし、「真実は簡潔で美しい」とも言える。
【 補説1 】
反粒子とは、本質的には何なのだろうか? そのことを考えると、次のように推定できる。
量子力学の波動関数で決まるのは、空間の振動状態である。それだけでは粒子は発生しない。粒子が発生するためには、エネルギー(つまり質量と等価のもの)があらかじめ存在することが必要だ。エネルギーがあれば、空間の振動状態に応じて、粒子が発生する。エネルギーがなければ、空間の振動状態があっても、粒子が発生しない。では、エネルギーがマイナスであれば? 空間の振動状態に応じて、反粒子が発生する。
まとめれば、次の図式で示せる。
空間の振動 & 正のエネルギー → 粒子
空間の振動 & 負のエネルギー → 反粒子
だから、波動関数をいくら計算しても、そこにどんな粒子が生じるかは、全部は決まらない。「質量がこれこれの粒子」というところまでは決まるが、生じるのが粒子であるか反粒子であるか(質量が正であるか負であるか)までは決まらない。粒子の正負を決めるのは、波動関数ではなくて、エネルギーの正負なのだ。
ディラックの方程式を解くと、反粒子が許容されることになるが、それは別に不思議でも何でもない。そもそも、あらゆる波動関数が、反粒子を許容しているのだ。ただし、現実に反粒子が発生するためには、空間に負のエネルギーが満ちていることが必要だ。波動関数は、そこには言及しない。
というわけで、波動関数の定めるような一定の振動状態の空間において、そのときどきのエネルギーの正負しだいで、粒子が生じたり反粒子が生じたりするわけだ。
( ※ なお、人間は負のエネルギーを発生させることはできないが、正のエネルギーはいくらでも発生させることができる。たとえば、電子銃では、エネルギーはいくらでも増やすことができる。人間がエネルギーを調節することで、発射される電子の数をいくらでも自由に増やせる。……波動関数は一定だとしても、エネルギーの量は人間が調節できる。)
【 補説2 】
本論では、「マイナスの質量」(反質量)というものを考えることで、反粒子をうまく説明できる。一方、ディラックの空孔理論では、そうは行かない。この違いを説明しよう。
ディラックの空孔理論では、空孔を「反電子」と見なす。この場合、空孔には、負のエネルギー準位の電子がない。だから、その分、質量が不足する。この意味では、空孔を「反質量」と見なすことは可能だ。ここまではいい。ただし、その先が問題だ。次の二つの難点がある。
(1) エーテル
真空が、負のエネルギー準位の電子で満たされているとすれば、この真空は、物質であるから、「エーテル」と見なすことが可能だ。しかしそれでは、相対論に矛盾してしまう。たとえば、大量の反電子を発生させたとしよう。その動きの平均値を取れば、各粒子のバラツキは中和しあって、全体の平均的な動きを知ることができる。それが「エーテルの動き」だ。
現実には、「エーテルの動き」の値は、常にゼロになるはずだ。観測者が変わっても、そうだ。とすれば、エーテル(つまり「負のエネルギー準位の電子たちの海」)は、常に観測者に引きずられる形で、全体が前後左右に移動していることになる。これは、論理矛盾だ。(観測者Aと観測者Bが反対方向に動くとき、エーテルは同時に反対方向に動くことになるから、矛盾する。)
(2) 重力の影響
真空が、負のエネルギー準位の電子で満たされているとすれば、この真空は、物質であるから、真空には質量があることになる。とすれば、重力の影響を受けることになる。そのことが問題だ。
たとえば、反電子に重力が届く。このとき、反電子が空孔だとすれば、反電子には重力が働かず、負のエネルギー準位の電子たち全体に重力が働く。とすれば、それに従った動きが真空全体に生じるはずだ。
しかるに、現実には、そうではない。重力の影響が生じるのは、必ず、空孔の隣の電子だけに限られる。次の図のように。( ■ は、負のエネルギー準位の電子。 □ は、空孔。)
時刻 1: ■■■■■■■□■
時刻 2: ■■■■■■□■■
時刻 3: ■■■■■□■■■
時刻 4: ■■■■□■■■■
ここでは、空孔 □ が移動しているように見える。しかし、そのためには、きっちりと隣の(つまり次の位置の)■ だけが重力の効果を受ける必要がある。真空全体に重力が及ぼされるのだし、その効果は確率的であっていいはずなのに、きっちりと隣の ■ だけが重力の影響を受けるのだ。これではまるで、重力に何らかの識別能力があったかのようだ。
もちろん、重力には識別能力をもたない。だから、本来ならば、次のような現象もあっていいはずだ。
時刻 1: ■■■■■■■□■
時刻 2: ■■■■■□■■■
これは、何を意味するか? □ の左の ■ が一つずつ動くかわりに、□ の左にある二つの ■■ がいっしょに動いたのだ。つまり、 ■■ が列車の車両のごとく(または雪崩のごとく)いっしょに動いたのだ。この場合、 ■ の動く速度は一定でも、■ が二ついっしょに動いたせいで、 □ の動く速度は2倍となる。 ■ が三ついっしょに動けば、 □ の動く速度は3倍となる。 ■ が 10個いっしょに動けば、 □ の動く速度は 10倍となる。次の図のように。
時刻 1: ■■■■■■■■■■■□■
時刻 2: ■□■■■■■■■■■■■
こうして、空孔はいくらでも高速に移動できることになる。つまり、ワープ(瞬間移動)だ。たとえば、地球上にあった反電子は、一瞬後に、アンドロメダ星雲の位置までワープできる。もちろん、「光速」という制約はない。いくらでも超光速になれるのだ。しかも、このことは、相対論に違反しない。なぜなら、実際に動くのは、■ だけだからだ。 ■ の動きが光速以下であれば、空孔の動きが見かけ上では超光速になれるのだ。
「反電子は超光速でふるまう」── これが、空孔理論からの論理的帰結だ。しかるに、現実の反電子には、相対論が適用される。これは、空孔理論の論理的帰結に矛盾する。
だから、ディラックの空孔理論は、正しくないのだ。
( ※ 実を言うと、正確には、「たくさんの ■ たちが一挙に動く」というのは、ちょっと起こりにくい。それにはエネルギーが必要だから、通常は、一つずつ順に動く。その方がエネルギーが少なくて済むからだ。だから、「瞬間移動」ということは、起こりにくい。とはいえ、十分なエネルギーをかければ、「ほぼ瞬間移動」つまり「超光速移動」が起こることになる。特に、電子二つか三つぐらいの短い距離であれば、容易に「超光速移動」が起こることになる。)
( ※ もう少し説明しよう。「 □ が左に一つ動くことで、 ■ が右に一つ動く。すると、それにつられて、その先の ■ もまた動く……」という形であれば、波動が起こるわけだから、それには「光速以下」という制限が働く。しかしここでは、重力に引っ張られて、「たくさんの ■■■ たちがいっぺんに動く」ということが可能だ。確率的に、そういうことは起こりうる。とすれば、そのとき、 □ は超光速で動く[と見える]はずなのだ。)
( ※ もう一つ、別の難点もある。仮に重力が「 □ の隣の ■ だけに及ぶ」とすれば、「重力は必ず、反電子の隣の電子だけに及ぶ」ということになるから、不自然だ。波ならばともかく、重力というものが、そんなふうに限定的に作用するはずがない。)
( ※ どうしてディラックの空孔理論では、こういう矛盾が起こるのか? その舞台裏を明かそう。── ディラックの空孔理論は、電荷については理屈が合うが、質量については理屈が合わないのだ。それというのも、「真空には質量がある」と考えたからだ。彼は、理論のほころびを直そうとして、空孔理論というものを提出することで、うまく理論のほころびを直せた。しかし、電荷についてほころびを直せたと思ったら、今度は質量でほころびが生じてしまったのだ。……そして、それというのも、従来の理論が根本的に狂っているからだ。では、正しくは? 電子であれ光子であれ陽子であれ、それらは粒子ではないのだ。それらは、波と粒子の間で、相互転換するものなのだ。)
( ※ なお、ディラックの空孔理論は、今日では、場の量子論やゲージ理論へと発展している。しかし、すると今度は、「点粒子」という概念に縛られて、発散の困難という問題を引き起こす。……この問題については、先に述べたとおり。 → 発散の困難の[ 注記 ] ,くりこみ理論 )
【 補説3 】 ( ver 2.25 での追記 )
ディラックの空孔理論には、前述の取り、いろいろと難点がある。が、だとしても、「反電子を理論的に予告した」ということには、立派な意義がある。── では、このことを、本論はどう評価するか?
ディラックの理論の重要な点は、「負のエネルギー準位」というものを必然的なものとして、まず導入したところにある。そのあとでディラックは、「負のエネルギー準位の電子たちの海」というものを想定して、「その海で部分的に生じた空孔」というものを想定した。なるほど、その想定には、前述のような難点がある。とはいえ、「負のエネルギー準位」という概念自体は、別に悪くはないはずだ。というのは、本論でも、「負のエネルギー」というものが想定されているからだ。本論では、反粒子は、「負のエネルギーつまり負の質量をもつ」と想定されている。当然、反粒子のエネルギー準位は、負の値となるはずだ。
ただし、似ているのは、そこまでだ。本論も「負のエネルギーをもつ反粒子」を扱うが、だからといって、反粒子が本論でも必然的なものかどうかというと、話は別である。では、どうなのか? 反粒子は本論でも必然的なものなのか?
実は、本論でも、「反粒子」というものは、必然的なものである。なぜか? 「 ◯ たちの集まりとしての真空」というモデルにおいて、「 ◯ たち」というのは、「粒子と反粒子のペア(一対)」というふうに理解できるからだ。そして、そうとすれば、粒子だけでなくて反粒子も、もちろん存在する必要がある。反粒子とは、「粒子とペアになって真空を生むもの」である。だから当然、反粒子は負のエネルギーつまり負の質量をもつ。そして、負のエネルギーをもつとすれば、当然、そのエネルギー準位は負の値となる。
だから、「 ◯ たちの集まりとしての真空」というモデルを提出した時点で、粒子と反粒子は一緒に用意されなくてはならないし、負のエネルギー準位をもつ反粒子が存在しなくてはならない。ゆえに、「負のエネルギー準位」というものを結論したディラックの主張は、まさしく本論に合致するのだ。
ただし、彼の解釈では、「負のエネルギー準位」というものが、粒子にも反粒子にも備わる、というふうに見なされた。一方、本論の解釈では、「負のエネルギー準位」というものは、反粒子だけに備わり、粒子には備わらない、と解釈される。つまり、反粒子は、負のエネルギーのある局所空間だけに発生し、正のエネルギーのある局所空間には発生しない、と解釈される。……ここに、二つの理論の違いがある。
( ※ 念のために、注釈しておく。ここでは、「 ◯ たちの集まりとしての真空」は、「粒子と反粒子のペア」と見なせるが、その際、粒子と反粒子が現実に物質として生じるわけではない。なぜなら、そのためには、「波から粒子へ」という転換が起こることが必要だからだ。そのことは原則として成立しない。特に、相対論の効果も考えると、「 ◯ たちは物質であってはならない」と強く言える。ゆえに、「現実には真空中で、粒子と反粒子のペアは発生していない」と強く言える。とはいえ、伝達するときの性質としては、真空は「粒子と反粒子のペア」のように見なせるのだ。そして、「粒子というものがある」からには、「反粒子というものもある」と考えるのが、理論からは当然のこととして要請される。というのは、仮に「粒子だけが存在して反粒子は存在しない」としたら、「 ◯ たちの集まり」というモデルをうまく成立させることができなくなるからだ。「真空が粒子と反粒子に転じる」というのならば自然だが、「真空が粒子と無に転じる」というのは不自然だからだ。)
( ※ 余談だが、光は、実数の波である。それゆえ、光には、反粒子に相当する反光子というものが存在しない。というのも、エネルギーも質量もゼロであるがゆえに、負のエネルギーつまり負の質量をもつことがないからだ。……このことは、本論と整合的である。一方、ディラックの空孔理論では、「光子のない空孔」というのも、想定されてもよさそうだが。結局、ディラックの解釈では、反光子の存在が予想されそうだ[ or 光とまったく同じ性質をもつ反光子の存在が予想されそうだ]が、本論の解釈では、反光子の存在は「原理的にありえない」というふうに強く否定される。)( ※ 光子の質量については → 静止質量 )
-
[ 補足 ]
- 本論全体の核心を示すために、不確定性原理について言及しておこう。
不確定性原理は、シュレーディンガー方程式だけから定理として導き出される。つまり、 ◯ の集まりというモデルなしに説明が付く。とすれば、 ◯ たちの集まりというモデルをいちいち使って、「不確定性原理には、何らかの限界がある」というふうに示す必要はないだろう。本論で独特の見解を出す必要はないだろう。(くりこみ理論の場合とは異なる。)
とはいえ、本論の立場から、一応の解釈も出せる。次のことだ。
本論では、「 ◯ たちの集まり」および「空間の振動」という発想を取る。とすれば、そこにはまさしく、波としての振動があるはずだ。(複素数の波ではあるが。)そして、波があるとすれば、 ◯ には次の制約が加わる。
・ 振動するゆえに、振幅の分、 ◯ の位置が定まらない。
・ 振動するゆえに、振幅の分、 ◯ の速度が定まらない。
では、振幅とは、どのくらいの量か? それは、( ◯ たちの集まりというモデルによれば)波のエネルギーの量と関係する。 ◯ の質量が大きければ、質量の大きさゆえに、波のエネルギーは大きくなるから、一定の(粒子1個分の)エネルギーを伝えるための振幅は小さくて済む。 ◯ の速度が高くても、同様だ。結局、 ◯ の運動量(= 質量×速度)が大きいほど、 ◯ の振幅は小さくて済む。
だから、不確定性原理の意味は、「波のエネルギーを伝えるためには、(質量や速度に依存して)ある程度の振幅が必要だ」ということなのだろう。つまり、振幅という形の不確定さを規定する。そういうことだろう。(ただし、その前提は、「 ◯ たちの集まりというモデル」を取ることだ。このモデルを取ることで、そういう解釈が可能となる。)
なお、古典力学では、「振幅が必要だ」(不確定性原理が成立する)という制約はない。なぜなら、物質は、別に振動する必要はないからだ。振動しなければ、振幅も必要ない。
古典力学では、次のいずれかだ。
・ 移動する物質は、特に振動しない。
・ 振動する波は、物質としては移動しない。
たとえば、投げた石は、物質としては移動するが、特に振動しない。空気を伝わる音だと、音を伝える酸素分子は振動するが、酸素分子そのものは移動しない。音波は移動するが、音波は物質ではない。……これらは、粒子か波か、そのどちらかだ。一方、量子力学では、量子は、 ◯ であり振動する。つまり量子は、粒子であり波である。
要するに、不確定性原理は、量子には「粒子と波の二重性があること」を意味するのであり、その本質は、「 ◯ たちが振動すること」であるわけだ。
さて。ここで注意しよう。この ◯ たちというのは、波を伝えるもの集団だ。一方、従来の解釈だと、一つの ◯ が移動しながら振動することになる。この点、モデル的な意義はまったく異なる。
本論のモデル 従来のモデル
◯◯◯◯◯◯◯◯◯
◯◯◯◯◯◯◯◯◯
◯◯◯◯◯◯◯◯◯
◯◯◯◯◯◯◯◯◯ ◯ 〜〜〜〜 →
◯◯◯◯◯◯◯◯◯
◯◯◯◯◯◯◯◯◯
◯◯◯◯◯◯◯◯◯
◯ たちの集まりが振動する。 一つの ◯ が振動しながら
◯ は移動せず、波だけが移動する。 波として移動する。
-
- 要するに、量子について「粒子と波の二重性がある」というのは、本論のモデル(左の図)を示すのであって、従来のモデル(右の図)を示すのではない。それが核心だ。
そして、不確定性原理は、左の図において ◯ たちに振幅があることを意味するのであって、右の図において一つの ◯ に振幅があることを意味するのではない。
( ※ ただし、観測した場合には、両者の差は付かなくなる。なぜなら、波は観測されず、粒子だけが観測されるからだ。実際に観測されるときは一つの粒子だけを見るわけだが、右の図のように、「粒子がまさしく振動している」というところが観測されるかわりに、「振幅の分だけ不確定さがある」というふうに観測されるはずだ。……そして、その理由として、従来の説では右の図のように考えたのだが、本論では左の図のように考える。本論の発想では、観測されるものの背後に、観測されないものがあることになる。)
( ※ なお、右の図は、「一つの量子に波と粒子の二重性がある」という発想だが、これはすでに、実験的に否定されている。 → 前述の 波のようにふるまう および その追記 )
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[ 補足 ]
- 不確定性原理と相対論との関係について、補足しておこう。(やや難解。読まなくてもよい。)
相対論では、ミクロの世界で「不確定性原理」のようなことはまったく考察されていない。古典力学ふうに決定論の世界で描写される。では、本論では、どうなるか? ── この件については、先に述べた相対論の話を応用すればよい。
本論では、一般相対論とは異なる仕方で、重力場を説明する。それは「真空の密度が高まる」ということだ。モデルで言えば、 ◯ たちの密度が高いモデルだ。そこでは、不確定性原理の効果は、どうなるか?
不確定性原理の効果とは、上述の通り、「 ◯ に振幅があること」だ。そして、 ◯ たちが密集している場では、 ◯ の振幅は小さくなるはずだ。( ◯ たちのモデルでは、 ◯ たちがバネで結ばれていると考えるとよい。 ◯ たちの密度が高いモデルでは、バネが短く圧縮されている。そこでは振幅も小さくなるはずだ。)……とすれば、「振幅があること」を意味する不確定性原理も、その影響を受ける。つまり、結論はこうだ。
「重力場の強いところでは、不確定性原理における不確定さの幅が小さくなっているはずだ。(不確定さが少なくなっているはずだ。)」
普通の真空においては、不確定さの幅はプランク定数程度だ。しかるに、重力の強い場(たとえば白色矮星やブラックホールの中心)では、不確定さはぐっと小さくなっているはずだ。── そのように本論は結論する。これは、従来の物理学とは、かなり異なる結論だ。
( ※ 上記の結論は、現実に検証できるだろうか? たぶん、検証できるだろう。一般相対論で結論される「重力場の違いによる、時間の遅れ」は、地上と人工衛星とで比較すると、すでに検証されている。そのくらいの精度の実験はすでになされているわけだ。あとは、精度を高めると、誤差がどのくらいあるかが検出されて、実験誤差でない不確定性原理によるバラツキも、検出されるようになるだろう。プランク定数程度のバラツキだから、バラツキの程度の検出はさほど困難ではない、と推測される。……とはいえ、それが、われわれの生きている時代のうちになされるかどうかは、何とも言いがたい。)
( ※ なお、従来の物理学とどちらが正しいかと言えば、当然、従来の物理学の方が間違っている、と結論できる。なぜなら、従来の物理学とは、「一般相対論と量子力学が融合していない」という体系であり、そこでは、ビッグバンの時点で、「密度が無限大で体積がゼロの点」というものが登場する。これは論理的におかしい。また、従来の物理学では、不確定性原理をそのまま取り込むと、体積がゼロであるビッグバンの段階で、宇宙全体が不確定さの大きさに呑み込まれてしまう。これも論理的におかしい。……こういうことは、従来の物理学において、すでに何度も指摘されてきた。)
-
[ 補足 ]
- 「対称性の破れ」について、補足しておこう。
まず、「波から粒子への転換」というのを考えよう。真空中に波のエネルギーがあって、そのエネルギーが粒子に転換する。では、そのとき、他の空間では、波は粒子に転換しないのか? ある場所で波から粒子への転換が起こったとき、その情報が瞬間的に別の場所に伝わって、「もう転換が起こったから、そっちでは転換しなくていいですよ」と伝えるのか? そんなことはあるまい。おそらく、次のようになるのだろう。
ある場所で波から粒子への転換が起こる。そのとき、真空にある波のエネルギーが奪われて、特定の場所に粒子が発生する。その粒子の発生には、粒子の質量の分だけのエネルギーが必要だ。ところが、その場所には、そんなにたくさんのエネルギーはない。
すると、どうなるか? おそらく、「マイナスのエネルギー」が発生するのだろう。つまり、粒子の質量が発生して、同時に、マイナスのエネルギーが真空に発生する。そして、真空に発生したマイナスのエネルギーと、最初にあった波のエネルギーとが、打ち消しあう。このとき、最初にあった波全体は、打ち消されて、消滅する。
というわけで、ある場所に粒子が発生したとき、他の場所にある波は、粒子の発生した場所で生じたマイナスのエネルギーによる波と打ち消しあって、全体としては消えてしまう。
では、どんな速度で? おそらくは、重力波の速度でだろう。
では、その効果は、必ずぴったりと帳尻が合うか? おそらく、稀には、帳尻が合わないこともある、と思える。つまり、打ち出された粒子と、別の場所に発生した粒子とで、エネルギーの帳尻が合わず、余ったエネルギーが波のまま真空に残る。そういうことがあるだろう。
そして、これに相当するのが、おそらく、「CP対称性の破れ」だと思える。
真空から粒子と反粒子が発生するとき、両者の割合が同じではない。どちらかが多めに誕生することがある。これが「CP対称性の破れ」だ。これは、なぜ起こるか? たぶん、差となるエネルギー(プラスまたはマイナスのエネルギー)は、真空のどこかで波のまま残っているのだろう。……そういうふうに考えることができそうだ。
ただし、以上は、あくまで推論である。「そういうふうに考えることもできる」というだけのことだ。現実にそうであるかどうかは、何とも言えない。本論はあくまで、「 ◯ たちの集まりとしての空間が振動する」というモデルを出しただけであり、その先の解釈にまではあまり踏み込まない。解釈については、「そういう解釈もできる」と言うだけに留めておく。
( ※ なお、従来の理論には、二つある。一つは、標準理論だ。これは、「CP対称性の破れ」については、実験に合致しない。もう一つは、小林益川理論だ。これは、「CP対称性の破れ」については、「クォークの世代差」から説明していて、実験に合致する。なお、本論の上記解釈は、小林益川理論とは矛盾しない。本論と小林益川理論は、論述する世界が異なるからだ。つまり、たがいに合致も矛盾もしない。……ただし本論と標準理論とは、基本的立場が矛盾する。)
( ※ 上記解釈と小林益川理論とをひっくるめて考えれば、こう言えるだろう。「波から粒子になるときに、差分のエネルギーが真空に余ることがある。それはつまり、クォークの世代差の形でエネルギーが真空中に蓄積されることだ」と。ただし、本当にそうかどうかは、何とも言えない。これはあくまで、一つの仮説であるにすぎない。)
( ※ ともあれ、本論の立場では、真空とは「無」のことではなくて、「観測されないもの」「静止質量のないもの」「物質でないもの」である。そのことに注意。たとえ観測されなくても、エネルギーは真空中に残っているはずなのだ。物質とは別の形で。……このことは実験的に検証できる。電子銃で電子を発射してから、到達点で検出されるまでの間に、短い時間がある。その短い時間の間は、粒子はどこにも登場していないから、エネルギーは真空に漂っていることになる。)
( ※ 「エネルギーは真空に漂っている」と述べたが、なぜ、そう言えるか? 実は、それを示すのが、二重スリット実験だ。この実験によると、本論の解釈であれ、コペンハーゲン解釈であれ、1個ずつ発射されたあとの粒子は、進行中に、特定の一箇所に存在することはない。その間、本論によれば空間に広がっているはずだし、コペンハーゲン解釈によれば二つのスリットを通る二つの経路をたどっているはずだ。特定の一箇所に存在していないわけだから、特定箇所の粒子とはなっていない。その意味で、真空中に漂っている。……ただし、二つの解釈では、経路の数が異なる。本論の解釈では、波として広がっているわけだから、経路は無限だ。コペンハーゲン解釈では、経路の数はスリットの数と同じで、スリットが二つならば経路は二つ、スリットが三つならば経路は三つ、スリットが百個ならば経路は百個、スリットが無限ならば経路は無限。となれば、遮蔽物がない場合はスリットが無限と見なせて、本論と同じ解釈になってしまいそうだ。その意味で、コペンハーゲン解釈は自己矛盾している、と見なせなくもない。)
以上のことを書き終えたあとで、あらためてよく考察すると、物事の核心について新たな判断を追加できる。それは次の問題に対する回答だ。
「量子力学とは、何か?」
「波動関数は、何を意味するか?」
「量子力学から相対論を導き出せるか?」
「量子力学と相対論を一つの式で示せるか?」
「発散の困難は、本質的にはどうなのか?」
これらは、この宇宙に対する根源的な疑問だ。そして、これについて考察したところ、「一つの仮説によって、統一的に記述できる」と結論した。そのことを以下に示す。(これはあくまで仮説である。とはいえ、非常にエレガントな仮説だ。)
この仮説は、簡単に言えば、次のことだ。
「われわれの宇宙は、3次元の実数空間と、1次元の時間とによって構成されている、というのが、従来の説だ。しかし、新たにもう一つ、別の次元を追加する。それは、虚数の次元だ。3次元の実数空間に対して、それとは垂直な1次元の虚数次元を追加する。ただし、この虚数次元は、粒子1個分ぐらいの小さな幅しかもたない。他の実数空間の次元は、宇宙全体の長さをもつが、虚数次元は、粒子1個分程度の幅しかもたない。そして、われわれの観測する電子や陽子など粒子は、形を質量からエネルギーへと変えてから、そのエネルギーを実数次元と虚数次元との間で、相互に行き来させる。それがつまり、波動関数の波動である」 ……( ★ )
これを別の形でいえば、こうだ。
「先のモデル( ◯ たちの集まりモデル)における ◯ とは、虚数次元に存在するものであり、しかも、粒子ではなくて、ただの空間の振動状態のことである。(たとえて言えば、水や空気の振動状態が虚数次元に存在するようなもの。)」
この発想は、従来の発想と比べると、次の二点で大きく異なる。
(1) この波動は、実数空間で振動するのではなくて、実数次元と虚数次元を含めた複素数の空間で振動する」
(2) 波動関数で示される波動は、1個の粒子の状態を示すものではなくて、空間の振動状態を示すものである」
このうち、 (2) については、すでに本論で何度か簡単に示したとおりだ。一方、 (1) については、まだ示したことがない。これが、本項(残る問題2)の核心だ。
- [ 説明 ]
- この (1) について、さらに説明しよう。
従来の考え方では、波動は実数空間の波動であった。たとえば、ディラックの考え方によれば、真空が電子と反電子に分かれる。ここでは、質量数を見ると、「1」と「−1」とに分かれている。どちらも実数の値であるから、この宇宙に存在する。つまり、電子も反電子も、この宇宙に存在する粒子だ。……ただし、この考え方に従うと、「真空が分極する」ということになる。すると、真空が電媒としての作用をもつことになり、それが電子との間で相互作用することになり、電子が無限大の荷電をもつことになる。この問題が「発散の困難」だ。
一方、本項の仮説によれば、電子と反電子の質量数に相当する値は、「1」と「−1」という実数値ではなくて、「 cosθ ± i sinθ 」という複素数値である。すると、この電子と反電子に相当するエネルギーは、 cosθ の分だけがこの宇宙に存在し、 i sinθ の分はこの宇宙に存在しないことになる。(それは虚数次元に属するので。)
ここで、 θ の値を「ゼロ」および「π」(180度)と見なせば、「 cosθ ± i sinθ 」という複素数値は「±1」となるので、ディラックの発想と同じになる。しかし、それだと、 θ の値は一つの値にはならなくなる。だから、本項の発想とディラックの発想は、かなり異なる。
通常、θ の値が「ゼロ」および「π」以外であれば、「 cosθ ± i sinθ 」という複素数値は「±1」以外となるので、ディラックの発想とはまったく異なる。
特に、θ の値が90度ぐらいの角度になると、cosθ の部分が無視されて、 i sinθ の部分だけが大部分となる。こうなると、真空が電子と反電子に分かれても、それらのほとんどの部分は虚数次元にあることになり、実数空間には存在しないことになる。
さて。電子が他の粒子・反粒子と何らかの相互作用をするには、電磁波が実数の波であることから、相手側の粒子・反粒子もまた、実数の宇宙に存在している必要がある。ところが、θ の値しだいでは、相手側の粒子・反粒子は実数の宇宙に存在していないのだから、電子と相手側の粒子・反粒子との間で、電磁波を及ぼし合うことはない。……というわけで、虚数次元に属する粒子・反粒子との間では、「発散の困難」という問題は起こらない。
結局、「実数次元と虚数次元を含めた複素数の空間で、粒子と反粒子の振動がある」というふうに考えることで、「発散の困難」という問題を解決することができる。……これは、「 ◯ のモデル」による「波動関数の適用範囲」というのとは、異なる説明だ。
( ※ ただし、まったく異なるわけでもない。「非常に短い距離では θ の値がゼロから離れる」というふうに想定すれば、「波動関数の適用範囲」が限定されることが示される。その適用範囲は、一定の値が限界として定まるのではなくて、「限界に近づくにつれて、実数次元から虚数次元に追い出される」という形で、なだらかに制約が定まる。)
以上では、「虚数次元」というものを導入した。では、なぜ、そういうものを導入したのか? それはただの思いつきか? いや、そうではない。ここには本質的な必然性があるのだ。
そもそも、波動関数とは何か? シュレーディンガー方程式は、どういうふうにして決まるのか? そういう問題がある。そこで、シュレーディンガー方程式というものがまったく存在していないと仮定して、「 ◯ たちの集まり」というモデルから、シュレーディンガー方程式を構築することにしよう。話はかなり面倒になるが、大略は、下記のようになる。(量子力学の教科書の初めの方などを参照。従来の「シュレーディンガー方程式を導き出す方法」に比べると、本質的にはそっくりだが、少しは異なる。)
なお、最終的に得られるものは、次のものだ。
「空間の振動状態を示す微分方程式」
つまり、得られるものは、微分方程式の一種である。さまざまな物理法則が微分方程式で記述されるということは、よく知られたことだ。そして、その一つに、量子力学の微分方程式がある。それが「シュレーディンガー方程式」に相当する。
ここで得られた微分方程式は、空間の各所における状態を局所的に規定する。とすれば、初期値を得たあとで、適当に積分すれば、空間全体の値を規定することが(原理的に)可能だ。……というわけで、「空間の微分方程式を得る」ということは、「空間の振動状態を規定する」ことに相当する。これがつまり、すぐ前の (2) に相当する。
ともあれ、この微分方程式(シュレーディンガー方程式)が、どのようにして得られるかを、以下で示す。
- [ 説明 ]
- 「 ◯ たちの集まりにおける空間の振動」というのが、発想の根底にある。ここから、量子力学の基本方程式(シュレーディンガー方程式)を導き出せばよい。
まず、「波である」ということが重要だ。波とは、何か? 典型的な例は、三角関数である。三角関数 u は、微分を2回繰り返して、二次微分を取ることで、次の微分方程式を得る。
u '' = −u
ここで、u を、空間と時間の関数と見て、 u ( x , t ) のように表現しよう。すると、速度 v の進行波は、「 x − vt 」の値が同じであれば同じ形になることから、 u ( x − vt ) のように書ける。ここで、 x と t で偏微分することで、v という値が出ることから、v を消去して、次の形の微分方程式を得る。( n は定数。)
∂2 u ∂2u
―― = n ――
∂x 2 ∂ t2
これは、(最も標準的な波である)三角関数の形の進行波に当てはまる、微分方程式である。ただし、「この微分方程式を満たすものは、三角関数に限らず、あらゆる波に相当するはずだ」と想定することができる。(これが普通の物理学の立場だ。このことがあらゆる波に厳密に成立するかどうかはともかく、だいたいは成立するようだ。たいていの波は、三角関数の合成の形で示せるからだ。フーリエ級数。)
さて。以上で示したのは、実数の波であるし、また、波は直線状に進む波である。ただし、ここで、拡張を行なう。(「 ◯ たちのモデル」に適用するための拡張。)
「波 ψ は、実数の波ではなくて、複素数の波である」
「波 ψ は、三次元の空間で広がる波である」
前者の意味は、こうだ。複素数でなくて実数であると、波の振幅につれて、運動エネルギーが変化してしまうことになる。だから、この波は複素数である必要がある。それならば、 ψ の絶対値は一定となる。つまり、「振動しながらエネルギーを一定に保つ」という条件を満たすために、ψ が複素数であることになる。すると、 ψ が三角関数のような純粋な波である場合には、 ψ は次の形の式で示される。(実数ではなく複素数である、というのがポイント。)
ψ = Ae i ( k・r−ωt)
ここで、A と ω は定数。k は三次元の定数ベクトル。r は三次元のベクトル。
ここでは、三つの定数がある。この定数を消去すればよい。そのための処理をする。まず、時間について一回偏微分して、 ω という値を抜き出せる。さらに、空間について二回偏微分して、 k という値を抜き出せる。このあと、ω と k という値を消去すればよい。
ただし、 ψ という値は、それ自体はただの数学的な値(三角関数のようなもの)であって、物理量ではない。そこで、運動エネルギー ε との積としての
εψ
という式を考える。これは、物理量である。(音波でいえば、音波の形は三角関数だが、三角関数自体は物理量ではない。三角関数に質量や距離などをかけた値が物理量だ。)
この εψ という値に対して、時間について一回偏微分して、空間について二回偏微分する。さらに、運動エネルギーの概念や、ド・ブロイ波の概念を入れる。そうすると、方程式で代入処理することによって、ω と k という値を消去できる。かくて、微分方程式を得る。(細かな数式処理については、教科書を参照。)
こうしてできた微分方程式が、シュレーディンガー方程式だ。
では、この微分方程式では、何が大事か? 次のことだ。
「エネルギーを一定に保つために、ψ を、実数の値から複素数の値に拡張する」
これを換言すれば、「エネルギーは複素数の世界にある」ということだ。このことを、ひとまず頭に止めておこう。
( ※ 本質的には、次のことを意味する。この波は、空間内で空間移動しても、時間内で時間経過しても、複素数の方向に量が変動する。ただし、空間移動の量と時間経過の量が一定の関係にあると、この波の変動は同じである。つまり、進行波である。)
( ※ 空間については、二回偏微分する。なぜか? 三次元空間であるせいだ。一回微分しただけだと、その値は空間に依存するような r の一次関数となってしまって、 r を消去できない。それではうまく微分方程式を作れない。そこで、微分方程式のなかに r を消去するために、空間については二回偏微分する。)
ともあれ、こうして得た ψ は、エネルギーの波である。それは実数次元の空間と虚数次元の空間との間で、相互に行き来する。全体としての量は一定であるが、実数次元における量は変動する。特に、前述の θ の値は周期的に変動するから、エネルギーが実数空間と虚数空間のどちらに属するかは、波の進行につれて、周期的に変動する。
( ※ 直感的に言えば、 ψ の進行につれて θ は回転するから、スパイラル[らせん]のようなイメージである。といっても、実際にぐるぐる回転しているわけではない。「一方では実数が伸び縮みして、それに応じて、虚数が伸び縮みする」という関係があるだけだ。それを抽象的な複素平面で描くと、抽象的に回転しているように見えるだけだ。)
さて。さらに、このエネルギーを「粒子」と解釈することにしよう。エネルギーがあれば、エネルギーが粒子になることもあるから、こう考えるのは自然である。では、エネルギーを示す ψ と粒子とは、どういう関係にあるか? そこで、次のことを想定する。(仮説の一部として。)
「波動関数 ψ と、その共役な複素数 ψ* は、粒子と反粒子に相当する」
これはこれで、一つの解釈だ。そして、この解釈に基づいて、次のように推定できる。
「 虚数の部分は質量になるエネルギーを意味する。実数の部分は、質量にならないエネルギーを意味する。」 …… ( ¶ )
これはこれで、一つの解釈だ。
このあと、以上の解釈に基づいて、次のように結論できる。
- 実数の波であるということは、「 ψ = ψ* 」ということである。
- 「 ψ = ψ* 」ということは、「粒子 = 反粒子」ということである。
- 粒子の質量を「m」と書こう。すると、「粒子 = 反粒子」ということは、「m = −m」ということである。これは、「m = 0」つまり「質量がゼロであること」である。結局、「粒子 = 反粒子」が成立することと、「質量がゼロであること」は、等価である。
- 「質量がゼロである」ということは、「エネルギーのすべてが波のエネルギーとなり、エネルギーが質量にならない」ということである。
これらのことは、光について成立する。そのことから逆に、先の解釈( ¶ )が正しいのであろう、と推測できる。
そして、以上のことから、「観測」という言葉の意味も、次のように理解される。
「エネルギーは虚数次元の空間にあるときには、観測不可能である。エネルギーが実数次元の空間に現れたときには、一部は電磁波として観測され、残りは質量として観測される。そうなったとき、観測可能となる。そうならないときには、観測可能でない。特に、エネルギーが虚数次元にあるときには、エネルギーは波のままであり、粒子の形にはならない」
具体的にいえば、電子銃から電子が発射されたとき、次のように示せる。
「電子が発射されたあと、電子は光速に近い速度で移動するように見える。しかし、本当は、粒子が移動しているのではなくて、波が移動しているだけだ。その波は、複素数の波だ。複素数のうち、実数の部分は、電磁波として観測される。虚数の部分は、虚数次元の空間に属するので、観測されない。波が進む間、実数部分と虚数部分との比率は周期的に変動するが、全体としての量は一定である。やがて、感光板や壁などの何かにぶつかる。そのとき、実数部分が進行を阻害されることで、波の全体が進行を阻害される。波が停止して、虚数次元にあったエネルギーがすべて実数次元に噴出する。その噴出したエネルギーが、特定箇所で、電磁波または質量の形で出現する。そのとき、感光板が感光したり、壁に穴があいたりする。それが目に見える形で観測される。」
以上によって、「虚数次元」というものを導入して、波動関数の意味を説明した。すると、本項の冒頭のあたりで述べた( ★ )のことが成立することになる。つまり、この宇宙は、3次元空間と1次元の時間のほかに、1次元の虚数次元があるのだ。
先のほうで、「波動関数は空間の振動状態を示す」と述べたことがあるが、実は、空間の振動というのは、「3次元の実数空間における振動」ではなくて、「3次元の実数次元と1次元の虚数次元とからなる複素数空間における振動」なのだ。
ともあれ、こうして、波動関数の意味を理解したわけだ。
- [ 注記 ]
- 従来の解釈との違いを示そう。
従来の解釈では、波動関数が示すのは、「発射された電子のふるまい」などだ。ここではあくまで、電子の状態が示されているわけだから、「電子がどうふるまうか」という発想が根底にある。直感的に言えば、「1個の電子が粒子として空間中を運動するが、その運動の仕方は確率的になる」というふうに解釈される。
本論の解釈では、違う。波動関数が示すのは、「発射された電子のふるまい」ではなくて、「電子が発射された衝撃を受けて振動する空間の状態」である。電子という粒子の性質ではなくて、空間全体の性質だ。……ここまでは、先の「 ◯ たちの集まりのモデル」と同様だ。そして、 ◯ たちの振動というのが、虚数次元の振動であるということが、本項で示されたわけだ。
結局、こうだ。従来の解釈では、波動関数というのは、運動する1個の粒子についての値である。一方、本論の解釈では、波動関数というのは、たくさんの ◯ たちから構成される空間についての値である。
従来の解釈との違いについて、もう少し説明しておこう。(面倒なので、以下は特に読まなくてもいいが。)
「波動関数が示すのは波である」と考えるのは、本論が初めてではない。それは一種の波動説である。量子論の初期においても、「電子波」という概念で、ド・ブロイなどが主張した。
「電子波」という概念で示されたのは、やはり、電子を1個の粒子として前提したあとで、電子の位置を決めるような波である。ところが、そう考えると、「静止した電子の位置は決まらない」という不確定性原理と矛盾する。かくて、「電子の位置を決める波」という発想は否定された。
その後、現在に至る量子論は、「位置を決める波」という部分を否定して、「(1個の粒子について)確率的に定める抽象的な量」というふうに記述し直した。ここでは「波」という発想そのものが否定された。
一方、真空波モデルは、「電子の」という部分を否定して、「空間全体の」というふうに記述し直した。ここでは「1個の粒子の運動」という発想が否定され、「波」という発想が復活した。
さらに本項では、「波」の意味について、「位置を決める波」または「確率的に定める抽象的な量」という部分を否定して、「虚数次元で振動する波」というふうに記述し直した。
( ※ なお、大きな流れとしては、「粒子か波か」というよりは、「粒子か空間か」という区別がある。電子が発射されたとき、それを電子の観測されるごく狭い局所だけの現象として認識するか、空間全体の現象として認識するか、という違いだ。)
* * * * * * * * *
さて。相対論に話を進めよう。
前述のようにして、波動関数の意味を理解した。すると、「質量がない」という光の性質には特別な意味がある、とわかる。
従来の物理学の立場では、「質量」というのは、あたかも「素粒子の本質」であるかのように感じられ、そうだとすると、「光」というのは「素粒子の本質」をもたないものであるかのように感じられてしまう。また、「光」が静止質量をもたないのに、現実の光は「光子」として一定のエネルギーをもつ、というのも、わかりにくく感じられる。
一方、本論の解釈では、そうではない。「質量がない」というのは、単に、「波から粒子にならない」ということである。そして、それは、本項の解釈によれば、「波動関数が虚数部分をもたない」というだけのことだ。
ただし、そうだとすると、光のこの独特の性質は、相対論的な効果をもつのではなかろうか? 一方で、シュレーディンガー方程式は、相対論の効果がまったく考慮されていない。つまり、古典力学的である。このことを、どう折り合いを付けるか?
実は、先に述べたとおり、「 ◯ たちのモデル」を使えば、量子力学と相対論との関連はつく。「特殊相対論」は、「真空の密度が増す(ただし均一に)」ということに相当し、「一般相対論」は、「真空の密度が増す(ただし二次関数ふうの変化で)」ということに相当する。このうち、前者については、「場の量子論」の方法が適用される。(その意味で、「場の量子論」は、相対論の効果が考慮されていることになる。)
とはいえ、もっと根源的な問題がある。それは、次のことだ。
「特殊相対論は、量子力学から導き出せるのか?」
これについて、ある程度、「イエス」と答えることができる。以下で、説明しよう。
- [ 説明 ]
- 相対論は、二つの原理からなる演繹的な体系だ。その二つの原理は、次の二つだ。「光速度一定の原理」「相対性原理」
だから、この二つの原理を他の体系から演繹的に提出できれば、あとは、相対論そのものを使って、相対論が示されたことになる。
では、この二つの原理を、量子力学の体系から、演繹的に提出できるだろうか? それについては、ある程度、「イエス」と答えることができる。
第1に、「光速度一定の原理」。これについて考察しよう。
まず、光の速度は、一定の有限値である。つまり、光の発光体が運動していても、その速度は加算されない。速度 v の発射体から発射された光は、 c + v という速度にはならず、同じ c という速度となる。なぜなら、光は、「 ◯ たちのモデル」からわかるように、空間を伝わる波であり、空間に依存するものだからだ。このことは、音波と比較するとよい。音波の速度は、媒質を伝わる速度であって、音源が速度 v で移動していても、音速に変化はない。
第2に、「相対性原理」。これは、低い速度で見る限りは、ただの座標変換の問題だ。ニュートン力学でも成立する。ただし、相対論の場合には、「等速運動する観測者が相対的である」ということから、「等速運動する観測者のどれにとっても、光速度が一定である」ということになる。これは「観測者が運動する」わけで、先の「発光体が運動する」というのとは、別の問題だ。
では、観測者が一定速度で運動する場合には、どうなるだろうか? やはり「 c + v 」というような速度にならず、常に c という速度になるのだが、それは、なぜだろうか?
昔の物理学者は「絶対静止空間」である「エーテル」というものを想定して、「エーテルに対する速度 v 」というものを想定した。しかし、この想定は間違っている、ということが判明した。有名な「マイケルソン・モーリーの実験」である。
さて。実は、このことは、本論からも結論できる。というのは、本論では、「空間の振動」というものを考慮するが、その振動というのは、虚数次元のものだからだ。虚数次元の振動( i sinθ )は、実数次元については、効果を及ばさない。これと同様のことは、容易に見出される。たとえば、走っている電車から発車される音波を聞くとき、観測者が電車に近づいたり遠ざかったりすれば、ドップラー効果があるが、電車と同じ方向に観測者が並行運動していても、ドップラー効果の影響はない。それと同様だ。
要するに、本論では、「エーテル」というものを想定してもいいのだが、その「エーテル」というのは、昔の物理学で想定されたような「実数次元の方向に振動するエーテル」ではなくて、「虚数次元の方向に振動するエーテル」なのだ。いわば、「虚数エーテル」だ。ここでは、真空は、「振動しない」のではなくて、「虚数方向に振動している」のだ。
というわけで、虚数方向の振動は、実数方向の変動には影響されない。つまり、観測者が等速運動していても、影響を受けない。換言すれば、「虚数エーテルは常に観測者に対して静止している」と言える。
( ※ ◯ たちのモデルでいえば、 ◯ たちは常に観測者に対して静止している。つまり、観測者の運動による影響を受けない。観測者がどの方向に運動しようと、 ◯ たちの密度は変わらない。)
( ※ なお、仮に、 ◯ たちが虚数でなく実数の粒子であれば、静止した ◯ たちに観測者がぶつかると、 ◯ たちの密度は増える。静止した空気のなかを人が走ると、空気が顔にぶつかるのと同様。)
かくて、以上のことから、「発光体の運動」も、「観測者の運動」も、「光の速度に影響しない」と判明した。これはすなわち、「光速度一定」の原理である。この原理を得れば、あとは演繹的に処理すればよい。それがすなわち、特殊相対論だ。
ただし、ここでは、「等速運動」という条件があった。なぜか? なぜ、加速度運動ではいけないのか?
そのこともまた、「 ◯ たちのモデル」から明らかになる。このモデルでは、 ◯ たちは、虚数方向にあるわけだから、観測者の運動による影響を受けない。とはいえ、発光体の運動による影響は受ける。「光速度が一定」という条件のもとで、「発光体の速度」を考慮すれば、ドップラー効果と同様の現象が起こる。このときの波は、普通の縦波でも横波でもなくて、「虚数次元の方向への横波」であるが、ともかく、ドップラー効果と同様の現象が起こる。すると、それは、「 ◯ たちの密度が上昇した」というのと同じ効果がある。そして、この密度の上昇は、均一でなくてはならない。それゆえ、そのことを観測する観測者もまた、等速運動をしている必要がある。(さもなくば、 ◯ たちの密度が均一に見えない。)
◯ たちの密度が均一ではない場合についてまで考察すると、当然、一般相対論に踏み込むことになる。この件は、前述の通り。(一般相対論の説明の箇所。)
結局、以上をまとめていえば、こうだ。
昔の物理学者は、「エーテル」というものを想定して、失敗した。しかし、量子力学の解釈によれば、この宇宙を虚数次元のあるものと見なせる。すると、「虚数次元の方向に振動するエーテル」というものを想定することができる。すると、「虚数次元が実数次元に対して垂直であること」から、「光速度一定の原理」を提出できる。かくて、量子力学から、相対論を結論できる。つまり、次の図式が成立する。
量子力学 + 虚数次元 ⇒ 相対論
現在の量子力学の体系(場の量子論を含む)は、相対論とは、直接的な関係がない。しかし、「 ◯ たちの集まり」というモデルを使って、「虚数エーテル」における「虚数次元の振動」という概念を導入したあとで、量子力学を組み立て直すと、「光速度一定」という結論が、直接的に得られる。かくて、本論のやり方では、ごく自然に、量子力学から相対論が結論されるのだ。
( ※ ここでは「光速度は一定だ」ということを示した。ただし、このことの本質は、「光は他の量子とは違って、特別な量子である」ということではない。「光速度」というのは、ここでは、「光(という量子)の速度」と解釈するよりは、「速度の上限」と解釈するべきだ。実際、電子線であれニュートリノであれ、このような「上限」に縛られる。本論で示された「光速度」とは、この「上限速度」である。それが空間に依存する、ということが先に示されたわけだ。……なお、光だけがこの上限速度に達するのは、光だけが質量をもたない[だから加速の力を必要としない]からだ。……とにかく、光以外のものも、光の速度に近い速度を取れることもあるわけだから、「光速度」は、「光の速度」と解釈するよりも、「空間の上限速度」と解釈するのが正しい。その値が「光の速度」に一致するのは、別の理由[質量がゼロ]による。)
( ※ 余談だが、マックスウェル方程式もまた、電磁波という波の理論である。ただし、ここでは、ベクトル・ポテンシャルに対する微分処理をして、微分方程式が出される。これは、よく知られたとおり。「ベクトルポテンシャルを想定して、こういうふうに数式をいじると、こういうふうな結論が出る」という体系はあるが、それはそれだけのことだ。特にあれこれと言及する必要はないだろう。)
結局、波動関数について解釈し直して、「虚数次元の振動」という概念を導入すると、「発散の困難」という問題も、「量子力学と相対論の統合」という問題も、うまく解決できるわけだ。……これが、本項(残る問題2)で示したかったことだ。
- [ 補足 ]
- 本項で述べたことは、あくまでも仮説である。結論部に至るまでには、いくつかの仮定が前提されており、その意味で、異論の余地があるかもしれない。とはいえ、そのことは、本項の記述が不確実であるということにはならない。このことを説明しよう。
先に示したのは、「 ◯ たちの集まり」というモデルだった。これを「真空波モデル」と呼ばれる。(前述。)一方、本項で示したのは、「虚数次元の振動」をもたらすような「虚数エーテル」がある、というモデルである。このモデルを「虚数エーテルモデル」と呼ぼう。
「真空波モデル」と「虚数エーテルモデル」とを比較すると、前者は単純なモデルであるのに対して、後者はいろいろと仮定のあるモデルだ。その意味で、後者は制約がある。とはいえ、最終的に提出されてモデルを比べると、前者よりも後者の方がはるかに強力なのだ。つまり、いろいろと、未知のことを説明できる。
たとえば、次のような問題に、それぞれ解答を出せる。
- ◯ は粒子なのか?
- 真空波モデル …… 粒子らしいが、仮想的なものである。詳細は不明。
- 虚数エーテルモデル …… 粒子ではない。単に振動するだけのものだ。ただし、周期に応じて、粒子と同様に扱える。
- ◯ の集まりは、何か?
- 真空波モデル …… 不明。(モデル的に仮定されているだけ。)
- 虚数エーテルモデル …… 虚数エーテル。波動関数が振動するときの空間。または、その空間の振動状態を示すために想定されたもの。
- ◯ という仮想粒子は、なぜ、最初の粒子ごとに別の ◯ になるのか?
- 真空波モデル …… 不明。
- 虚数エーテルモデル …… ◯ は実体のある粒子としては生じない。単に虚数エーテル空間があるだけだ。それが最初の衝撃と同じ周期で、振動するだけだ。(空気や水が、最初の衝撃に応じた周期で、振動するのと同様だ。別の周期で振動すると、別の粒子であるように扱える。ただし、空気や水は、粒子ではない。)
- 仮想粒子 ◯ から、現実の粒子に変化するというは、どういうことか?
- 真空波モデル …… 波から粒子になる、ということ。詳細は不明。
- 虚数エーテルモデル …… 虚数次元にある質量エネルギーが、実数次元に噴出して、そのエネルギーが、空間の振動状態に応じて、質量のある形になること。
- 二重スリットの実験では、何がどこを通るのか?
- 真空波モデル …… 二つのスリットの間を波が通る。波は、複素数波である。ただし、複素数波というのが、どういうものであるのか、詳細は不明。
- 虚数エーテルモデル …… 二つのスリットの間を波が通る。波は、複素数波であるが、そのうちの虚数の部分は、(ごく小さな)虚数次元の空間を通る。二重スリットのスリット部には、実数部分と虚数部分があり、その狭い空間のうちの実数部分の空間を実数エネルギーが通るが、同時に、虚数部分の空間を虚数エネルギーが通る。つまり、このとき、エネルギーの一部は虚数空間を通り抜けているのだ。
- 光は、波なのか粒子なのか?
- 真空波モデル …… 「 ◯ たちが振動する」というモデルが与えられるので、「粒子が振動して波を伝える」ということは言える。ただし、他の素粒子との違いは、不明。
- 虚数エーテルモデル …… 光の場合、波動のエネルギーが虚数次元には入らない。波動のエネルギーはすべてが実数空間のものである。というわけで、実数空間にある光は、波動と粒子との二つの性質を帯びる。一方では、波動として実数空間を伝わるが、他方では、実数空間に現れたときに、最小単位のエネルギー( hν )とともに、粒子(光子)としてふるまう。というわけで、光は「波」と「粒子」の二重性をもつ。そして、その理由は、光だけは質量がゼロであるからだ。
( ※ なお、他の粒子だと、こうは行かない。質量があるせいで、波動は虚数次元の振動をもつ。波であるときには複素数の量となるし、粒子であるときには最小単位のエネルギーで区分される実数の量となる。かくて、波であるときと粒子であるときとでは、別々の状態の存在となる。結局、「光の質量はゼロである」というのを別の言葉で言い換えると、「光は波と粒子の二重性をもつ」というふうになるわけだ。)
- 「真空の密度」とは、何のことか?
- 真空波モデル …… 「 ◯ の密度」をモデル的に想定して、相対論との類似性を示した。類似性を示唆しているが、詳細は不明。
- 虚数エーテルモデル …… もっと厳密に示せる。観測者の運動に対しては、虚数次元は振動は変化しないから、観測者の運動は無視してよい。しかし、観測対象(電子など)の運動は無視できない。観測対象の振動数は同じまま、観測対象が動く。すると、ドップラー効果と同じ効果が現れる。先のドップラー効果の図で言えば、 縦線の密度が変わる。図で書けば、
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
が
|||||||||||||||||||||||||
となる。つまり、縦線の本数は同じ(振動数は同じ)まま、空間の長さが変わる。つまり、虚数次元の振動数が変わらないまま、実数次元の距離が縮む(ローレンツ収縮する)。これがつまり、「真空の密度が変わる」ということだ。ここでは、虚数次元と実数次元の区別が大事だ。(単に ◯ でモデル的に示すだけでは不十分だ。)
このように、「虚数エーテルモデル」を使うと、いろいろとうまく解答を出せる。その意味で、「虚数エーテルモデル」はとても強力である。また、全体がすっきりとまとまっている。その意味で、「真実の理論」たる資格はある。
とはいえ、いくつかの仮定を用いるという点で、確実さには、いくらか疑問の余地もある。というわけで、本項の話は、「残る課題」というふうな標題にしておいた。今後、さらに検討をすることが好ましい。
[ 注記 ]
「虚数エーテル」という言葉を使うと、誤解される懸念があるので、注記しておこう。
虚数エーテルは、「エーテル」という従来の概念をそのまま虚数にしたものではない。つまり、虚数次元の広い宇宙空間があるわけではない。虚数次元の方向には、長い距離を取ることはできない。虚数次元では、単に振動するだけであるから、粒子1個分程度の幅があるだけだ。
では、粒子1個分程度とは、どのくらいの量だろうか? 結論を言えば、プランク定数 h 程度である。理由は、少しあとで説明する。 ( → 【 補注 】 )
さて。話を戻そう。「虚数エーテル」という言葉は、誤解されやすい。つまり、従来の「エーテル」という概念を虚数次元に拡張したもの、と受け止められやすい。「昔のエーテルの次元を、3次元から4次元に拡張したのが、虚数エーテルである」というふうに。そして、「この宇宙は、実数の3次元と虚数の1次元からなる、4次元宇宙である」という表現を読んだ人が、「4次元めも、他の3次元と同様だ」と思い込んで、「4次元の空間を、粒子が自由に運動する」というふうに思い込みがちだ。
しかし、そんなことはないのだ。粒子はあくまで3次元の空間のなかで運動するだけだ。ただし、運動する際に、波動だけが、4次元目の虚数次元で振動する。プランク定数程度の幅で。
主語が「粒子」でなく、「波動」であっても、同様だ。波動もまた、3次元の空間を進行しながら、4次元目の虚数次元で振動するだけである。波動は4次元めの虚数方向に進むことはない。波動が虚数エーテルの空間を伝わるということはないのだ。4時限目は、他の3次元とはまったく別なのだ。
数式で書けば、こうだ。実数の3次元空間は R 3 と書ける。さらに虚数次元という1次元を追加すると、 R 3 × i R 1 と書ける。これが「虚数エーテル」の次元であると思えるが、そうではない。正しくは、 R 3 × i h 1 が「虚数エーテル」の次元だ。つまり、虚数次元では、R 1 の長さ(無限大の距離)をもてず、粒子1個分ぐらいの幅があるだけだ。波動は R 3 を伝わりながら、粒子1個分ぐらいの幅で振動する。それだけだ。
( ※ ここで示されたことからわかるように、虚数エーテルは、虚数の次元だけをもつわけではなくて、実数と虚数の双方の次元をもつ。その意味で、「虚数エーテル」という用語よりは、「複素エーテル」と用語の方がいいかもしれない。いずれにせよ、振動は、実数空間から見て虚数次元の方向に起こるが、虚数次元のなかで起こるのではなく、実数次元と虚数次元の間で起こる。)
ついでに言っておこう。波動の振幅は、虚数次元だけにあるのではなく、虚数次元と実数次元の双方にある。 i sinθ の分は虚数次元にあるが、 cosθ の分は実数次元にある。ただし、特に光の場合には、振幅の虚数次元の分の量がゼロとなるので、振幅は実数次元の分だけになる。この場合、虚数次元の分がゼロなので、虚数次元そのものを無視していいと思えるかもしれないが、そうではない。たとえ虚数次元の分の振幅がゼロであっても、虚数次元そのものは次元として存在する。虚数次元という次元そのものは、この宇宙の性質を規定している。
( ※ なお、前述の説明を参照。虚数次元ないし虚数エーテルは、この宇宙[3次元]における波動の上限速度を規定する。光でなくてニュートリノなどについても、その上限速度による制約がある。この上限速度による制約を受けるのは、光だけでなく、すべてのものだ。虚数次元は、このようにして、この宇宙の性質を規定している。だから虚数次元は、光の速度を規定しているというよりは、波動の上限速度を規定しているわけだ。そして、こうして与えられた上限速度 c は、運動する発光体の速度 v や、運動する観測者の速度 v には、依存しない。上限速度 c は、 c + v のような値にはならず、常に一定である。このことに、虚数次元の意義がある。)
【 補注 】
波動の振幅がプランク定数 h 程度になる、ということを説明しておこう。
そもそも、この量は、粒子のエネルギーが実数次元と虚数次元で相互変換する分である。だから、「粒子1個分程度」ないし「粒子半個分程度」と見なしていい。ただし、この量は、時間に依存する。では、どのくらいの時間で区切られるか? 振動の1周期の時間だ。
以上を勘案して、具体的に実例で計算してみよう。電子の場合、エネルギーは 10-17ジュール程度で、公転周期は 10-16秒程度であるから、その積は 10-33 ジュール・秒となる。この値は、プランク定数の 6.626×10-34 ジュール・秒にほぼ等しい。他の粒子も、これと大同小異だ。だから、「粒子1個分の幅」というのは、「プランク定数 h 程度」と見なしていいだろう。
さて。以上のことから、次のように解釈できそうだ。
プランク定数というのは、波と粒子との間でエネルギーが相互変換する際の[つまり虚数空間と実数空間の間でエネルギーが相互変換する際の]、基本単位となる量なのだ。前に説明したとおり、この相互変換は、粒子1個分のエネルギーを単位として、1個分ずつなされる。ただし、粒子1個分のエネルギーというのは、プランク定数の整数倍に限られるのだ。だから光子のエネルギーも、プランク定数の整数倍に限られて、 hν というふうになる。
電子の場合で考えると、振幅が h 程度になるとしたら、逆に言えば、「電子は虚数次元と実数次元でエネルギーの相互変換をするとき、公転の1周期ごとに相互変換をする」とも言える。
結局、プランク定数というものが重要であることの理由は、上記のことにあるわけだ。プランク定数は、勝手に定まった適当な量ではなくて、量子力学の根本を規定する量なのだ。それは、われわれのいる実数世界における基本的な量なのではなくて、実数世界と虚数世界とを橋渡しする際の基本的な量なのだ。そう解釈していいだろう。
[ 実数世界 ] …… h …… [ 虚数世界 ]
* * * * * * * * * *
【 追記 】
以上のことから、不確定性原理についても、新たな結論が出る。
不確定性原理が意味するのは、何か? 「量子力学の世界では、古典力学的な決定ができない」という、哲学的な非決定論か? いや、そうではない。前記箇所にも示したが、次のことだ。
「量子の状態を決定しようとしても、量子に波の性質があるせいで、波の振幅の分だけの不確定さがある」
つまり、波としての振動にともなって、1周期ごとに、振幅の分、位置や運動量が変動するので、これらの値は定まらなくなる。
( ※ 直感的に示すと、次の比喩で示せる。……自転車の車輪の一部に、米粒が付着している。この米粒の位置や運動量は、どのように確定できるか? 当然、自転車の運動にともなって、かなり変動する。まず、自転車の乗員から見ると、米粒は回転しているように見える。また、地上に立つ人から見ると、米粒はトロコイド曲線を描く。いずれにせよ、位置も運動量も、時間につれて変動している。その変動には、ある程度の幅がある。……この変動の幅が、不確定さの幅である。自転車が一定のなめらかな運動をしていても、観測者から見れば、観測量には何らかの不確定さが見られるのだ。)
さて。このことは、本項のことと合わせて考えると、次のように結論できる。
「不確定性原理で値が定まらないのは、波長の1周期の範囲だけである」
不確定性原理の成立する範囲は、無制限ではなくて、「波長の1周期」の範囲に限定される。このことは、従来の解釈とは、まったく異なる。
従来の解釈では、範囲については、このような制限はなくて、無制限である。たとえば、次のように結論する。
「位置や運動量を厳密に決定して、その不確定さをゼロに近づけると、他方の不確定さは無限大になる」
たとえば、「運動量の不確定さ Δp をゼロに近づけると、位置の不確定さ Δx が無限大になる」と。
しかし、本論からは、そういう結論は出されない。 Δp であれ、 Δx であれ、その量は決して、「無限大」になどはならないのだ。 Δx や Δp の大きさは、一定の範囲に限られる。つまり、範囲には上限がある。その上限は、「波長の1周期」分の変動だ。
たとえば、 Δx は、波長の1周期の範囲でだけ不確定なのであって、 Δx の不確定さが無限大になることなどはありえない。 Δp も、波長の1周期の範囲でだけ不確定なのであって、 Δp の不確定さが無限大になることなどはありえない。 同様のことは、エネルギー ε と時間 t についても言える。
Δε・Δt ≧ h
という式(エネルギーの不確定さと時間の不確定さの積が、プランク定数程度以上になるということ)という式がある。これも不確定性原理だ。ここでも、Δε や Δt は、決して無限大にはならない。Δε や Δt には、波長の1周期程度の不確定さがあるだけだ。Δε の上限は粒子1個のエネルギー程度であり、 Δt の上限は粒子の公転周期程度である。それらの値は、決して無限大の値になどはならないのだ。(前述の例を参照。電子の場合、エネルギーは 10-17ジュール程度で、公転周期は 10-16秒程度。どちらも、無限大からはほど遠い。)
とにかく、不確定性原理が成立する範囲は、波長の1周期程度の範囲に限定されるのだ。不確定さが無限大になることはないのだ。結局、不確定性原理は、極微の世界においてだけ成立する原理であって、古典力学の範囲となる「無限大の距離」については、決して適用されないのだ。── 本項からは、そういう結論が出る。
つまり、不確定性原理は、「間違いだ」と否定されるわけではないが、適用範囲が制約されるという形で、部分的に修正される。特に、「位置の不確定さが無限大になることもある」という従来の解釈について言えば、この従来の解釈は全否定される。
( ※ なぜか? 論理的に言えば、こうだ。「一方の不確定さがゼロに近づけば、他方の不確定さは無限大になる」という命題において、前件である「一方の不確定さがゼロに近づけば」という仮定が、最初から成立しない。だから、この命題は、論理的に意味がないのだ。たとえば、Δp がゼロ同然にはならないから、Δx が無限大になることもない。)
( ※ 逆に言えば、こうだ。本項からは、「Δx が無限大にならない」ということから、「Δp はゼロ同然にはならない」と結論される。では、本当は? Δx も、Δp も、どちらも、ある程度の不確定さがあるのだ。どちらも、波としての不確定さがちゃんとあるのだ。だから、「 Δp がゼロに近づけば」という仮定は、「黒が白であれば」とか「 1=2 であれば」とかの仮定と同様であり、無意味な仮定なのだ。自転車の比喩でいえば、現実の自転車の車輪は26インチなのに、「車輪が1ミクロンであれば」という無意味な仮定をするようなものだ。)
( ※ 不確定性原理の根本的な理由は、何か? 推測して言えば、おそらく、前述のことだろう。つまり、「実数世界と虚数世界とを橋渡しする際に、エネルギーがプランク定数で区切られること」であろう。そのせいで、プランク定数程度の不確定さが現れる。きっちりと過不足のない滑らかな対応関係がつかない。……要するに、「不確定性原理」と「量子的に、連続量でなく離散量となること」とは、本質的には等価なのだ。そして、その両者を結びつけるためのキーワードが、「プランク定数」だ。)
( ※ 不確定性原理の核心は、「相補性」つまり「一方が決まれば他方が決まらない」ということだが、それには適用範囲の限界があるわけだ。そして、その根源には、量子性やプランク定数などがある。不確定性原理は、一つの基本的原理ではなくて、他の基本的原理から出てくる結果[定理]にすぎない。それは一定の条件下で成立するだけだ。)
( ※ とにかく、不確定性原理は、極微の空間で成立するだけだ。なのに、不確定性原理を、マクロ的な巨大な距離にまで適用させようとするのは、とんでもない勘違いだ。従来の解釈は、そういう間違いを犯している。)
* * * * * * * * *
【 追記 】
虚数次元の単位について、言及しておこう。
上記のプランク定数のことからわかるとおり、虚数次元の単位は「エネルギー」である。
この単位は、「距離」とは異なる。とすると、虚数次元を i R 1 というふうに「距離」の形で書くのは不適切だろう。
では、エネルギーの形で書けば、十分か? しかし、それだと、次元というものの意味があやふやになってしまう。エネルギーの次元というのは、意味がよくわからない。
そこで、一挙に飛躍して、次のように考えるといいかもしれない。
「虚数次元で示される空間は、1次元の距離空間ではなくて、別の宇宙(虚数宇宙)と見なせる。その宇宙は、3次元の実数空間 R 3 に対応させて、 ( i R )3 のような形で書くことができる」
この発想によれば、われわれのいる宇宙には、実数の3次元 R 3 のほかに、虚数の小さな3次元 ( i R )3 があることになる。この宇宙は、3次元の距離空間ではなく、6次元の距離空間であることになる。
この発想は、相当に飛躍した発想だ。その ( i R )3 の空間で距離を観測できるとも思えない。とはいえ、このような「虚数3次元空間」を考慮して、そこにおける「虚数エネルギー」や「虚数質量」を想定すると、事情はかなり簡明に示せるかもしれない。一考の価値はありそうだ。私の個人的な感想では、 ψ = Ae i ( k・r−ωt) が3次元空間を拡張してできたものであることから、「虚数3次元空間」は十分に成立する、と感じられる。
なお、このような虚数の宇宙こそ、「虚数エーテル」に相当する。
( ※ 「極微の3次元がある」という発想は、超ヒモ理論の発想にいくらか似ている。)
( ※ さらに、反粒子[負エネルギー]のある空間を別の空間と見なして別の次元を与えるとしたら、次元の数は一挙に倍増する。虚数世界では、虚数粒子と虚数反粒子に、極微の6次元。実数世界では、実数粒子と実数反粒子に6次元。ただし、反粒子が1個分ずつしか生じないゆえに、実数反粒子のある負エネルギー空間は、大きな広がりをもてず、極微の空間として成立するだけだ。結局、合計 12次元となるが、そのうち9次元は、極微の空間となる。また、観測されるのは、実数の6次元だけだ。また、粒子の6次元と反粒子の6次元は、どちらか一方だけが成立し、同時には成立しない。)
「虚数エーテル」について述べたあと、ついでに、本論全体との関係について説明しておこう。
本論の冒頭では、以下のように述べたが、これは、「虚数エーテル」という概念と、きわめて整合的だ。ただし、本論の冒頭の主張とは、次のことだ。
「計算されたものは波、観測されたものは粒子」
ここで、「計算されたもの」は、計算されるだけであって、観測されない。計算されたものを、複素数の波であると理解すれば、その虚数部分は、実数空間では観測されない。波は、計算されるだけであって、観測されない。
また、観測されたとしたら、そのときはエネルギー全部が実数空間に噴出したわけだから、そのときのエネルギーは、もはや波の形ではなくて、粒子の形に転換していることになる。(波は複素数であって観測されないから。)つまり、「観測されたもの」は粒子である。
というわけで、「虚数エーテル」という概念を使うと、本論の要点がうまく説明される。「虚数エーテル」という概念は、とても便利かつ有効なのだ。これがこの宇宙の真実であると見なしてもいいだろう。
本論を終える前に、話の全体をざっと一言でまとめれば、こうだ。
「計算されたものは波、観測されたものは粒子」
これを、別の形で言い換えれば、こうだ。
「宇宙には観測されないものがある。それは真空を伝わる波だ。観測されるのは粒子だけだが、観測されない波もある。目には見えない(観測されない)としても、そういう波はたしかにある」
では、どうして、そう考えるのか? これは立場や発想の問題だから、物理学的に示す必要はないだろう。とはいえ、ちょっとだけ、筆者の基本的な立場を示しておこう。余談として。……
多くの物理学者は、「観測が現実を決める」と主張する。そこにあるのは、「目に見えるものが大事だ」という発想だ。
しかし筆者は、逆に考える。「目に見えないものこそが大事だ」と。真空は、目に見えない。しかし、目に見えないとしても、そこには何か大切なものがあるのだ。── それを、「空間」と呼ぶこともできる。その空間の「振動」を想定することもできる。ともあれ、そこには、何も観測されないのだが、観測されない真実がひそんでいるはずなのだ、と思える。
これと似たことは、サン・テグジュベリの「星の王子様」にも書いてある。「本当に大切なものは、目に見えないんだよ」と。宇宙の無数の星を見ながら、人々はそこに見える無数の美しさに感嘆する。しかし、星の王子様は、愛や悲しみに満ちた人々に接して、目に見えない何かを感じたのだ。
私もまた、かくありたい、と思う。
[ エピローグ ]
本論を読み終えて、納得できないと感じた人もいるだろう。それはそれでよい。無理に納得しなくてもよい。漠然と何かを感じれば、それでいい。量子力学が初めて登場したころも、「これは確実に正しい理論だ」と信用した人は、ごく少数だった。たいていの人は古典力学を信じながら、量子力学については、おっかなびっくり、半信半疑で信じるだけだった。だから、本論を読んで、半信半疑になったとしても、それはそれでいい。
ただし、一つだけ、注意しておこう。それは、次のように誤解してはならない、ということだ。
「現代の量子論は、間違いのない完璧な理論である」
このようなことは決してありえない。現代の量子論を、完璧なものと信じている人がいるとしたら、その人は、賢明なのではなくて、逆に、量子論をうまく理解できていないのだ。もともと欠陥だらけのものを、「完璧だ」と思うとしたら、それはただの誤解にすぎないのである。
「量子論を理解している人間など、一人もいない」
こう語ったのは、私ではない。最高の量子論学者と言われる、リチャード・ファインマンだ。彼は、量子論の不完全さを、はっきり見抜いていた。だからこそ、そう語った。
ファインマンは、量子論のすべてを完璧に手に入れていたわけではなかった。しかし、少なくとも、自分が求めるものを手に入れていないということだけは、はっきりと理解していた。その点で、彼は、他の量子論学者よりは、ずっと賢明であった。愚かな人間は「全知全能だ」と自惚れるが、賢明な人間はおのれの「無知」を知る。
私もまた、おのれの限界について、十分に自覚していたい、と願う。
【 お詫び 】
この原稿は、急いで書いたため、十分な推敲を経ていません。
誤変換・誤字・誤記などが、含まれている可能性があります。
お気づきの点がありましたら、ご連絡下さい。
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氏 名 南堂久史
メール nando@js2.so-net.ne.jp
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関連 ページ
量子論 の 表紙 ページ
シュレーディンガーの猫 のページ
区体論 のページ
[ THE END ]