量子力学のミクロとマクロ  

      by  南堂久史



 「シュレーディンガーの猫の核心」というページを読んだ人向けに、補足的な説明をする。特に、次のような疑問を感じた人のために。
 これらの疑問を感じた人向けに、表形式で対比を示す。

 ( ※ なお、あらかじめ「シュレーディンガーの猫の核心」というページを読むことが必要。)




       対比表

 コペンハーゲン解釈 (基本的には「粒子」説) 新しい解釈 (「粒子の波」説)
 量子は「粒子」である。 量子は「粒子」であるとは言えない。
 二重スリット実験で、始点と終点における量子は粒子である。ゆえに、途中の量子も粒子である。

  ○ → [?] → ○
 ならば  [?]  ○ 
 (途中の [?] もまた 粒子である。)
 二重スリット実験で、始点と終点における量子は粒子である。しかし、途中の量子も粒子であるとは言えない。(つまり、粒子の波である。)

  ○ → [?] → ○
 ならば  [?]  ○ 
 (途中の [?] は 粒子ではない。)
 音波はただの波として理解すればよい。 音波は「粒子の波」として理解するべきだ。
 量子と音波はまったく異なる。 量子と音波は同様のものである。
 ミクロとマクロはまったく異なる。 ミクロとマクロはほとんど同様である。
 ミクロの世界ではマクロの世界とまったく異なる原理が成立する。 ミクロの世界でもマクロの世界と同様の原理が成立する。
 ミクロの世界では、「重ね合わせ」という独特の原理が成立する。 「重ね合わせ」という原理なんてものは、ミクロでもマクロでも成立しない。
 ミクロの世界で「重ね合わせ」という原理が成立するならば、その原理をマクロの世界に結びつけることで、「シュレーディンガーの猫」という奇妙な問題が発生する。 ミクロの世界で「重ね合わせ」という原理が成立しないので、その原理をマクロの世界に結びつけること自体が、無意味である。したがって、「シュレーディンガーの猫」という奇妙な問題は発生しない。
 「シュレーディンガーの猫」という問題では、猫が生きている状態と死んでいる状態とが「重ね合わせ」状態になっている。 「シュレーディンガーの猫」という問題では、「重ね合わせ」という原理そのものが成立しない。(単に確率的に生死が決まるだけだ。)
 ミクロの世界の確率は、重ね合わせ状態を意味する。それはマクロの世界の確率とは異なる。(量子論的な確率) ミクロの世界の確率は、マクロの世界の確率と、同じである。(どちらもただの数学的な確率である。量子論的な確率なんてものを導入する必要はない。)
 量子論の「確率の収縮」または「決定」とは、たとえば、テレビの「赤画面」と「青画面」の重ね合わせ状態から、どちらか一方に決まることだ。(観測者の意識によって決まる。) [ → 図を参照 量子論の「確率の収縮」または「決定」とは、たとえば、テレビの無数の「赤点」と「青点」の散在において、どれか一つの点が選ばれることだ。(ルーレットの偶発的な確率と同様。) [ → 左欄と同じ図を参照
 モデル的に言えば、 ○ と ● の「重ね合わせ」を考えるといい。一つの量子は、一つの ○ と、一つの ● の「重ね合わせ」だ。(同時成立。)ここでは、一つの粒子が二つの状態の「重ね合わせ」になっている。こういう奇妙なことが、ミクロの世界では起こるのだ。

 ○○○○○○○○○○○○○○ →
          +
 ●●●●●●●●●●●●●● →
 モデル的に言えば、 ○ と ● の「振動」を考えるといい。一つの量子は、一つのものが ○ 状態と ● 状態とで振動する。それは音波において空気が振動するのと同様である。音波が終点に達したとき、音波が「山」状態と「谷」状態のどちらになるかは、確率的に決まる。同様に、量子が終点に達したとき、量子の波が ○ 状態と ● 状態のどちらになるかは、確率的に決まる。それだけのことだ。不思議でも何でもない。

 ○●○●○●○●○●○●○● →
 二重スリット実験では、一つの粒子が二つのスリットを同時に通過する。(それぞれの状態の重ね合わせである。) 二重スリット実験では、「粒子の波」が空間にひろがって二つのスリットを通過する。(音波が二つのスリットを通過するのと同じ。)[ → 図を参照
 真空とは、無数のスリットがある空間と同じだ。ゆえに、真空中では、量子は無数の重ね合わせ状態となる。(二つのスリットならば、二つの重ね合わせ。無数のスリットならば、無数の重ね合わせ。) 真空とは、無数のスリットがある空間と同じだ。ゆえに、真空中では、「粒子の波」が単にさまたげられずに伝播するだけだ。(空中の音波と同様。)
 観測は、多くの重ね合わせ状態を、ただ一つの状態に収束させる。 もともと「重ね合わせ」などないのだから、観測は状態には何ら影響しない。観測の有無にかかわらず、確率的に決まるだけだ。
 「シュレーディンガーの猫」では、観測した瞬間に、状態が決まる。(重ね合わせが消える。) 「シュレーディンガーの猫」では、もともと重ね合わせなどがないのだから、観測は何ら影響しない。観測の有無にかかわらず、確率的に決まるだけだ。
 「観測が状態を決定する」( i.e. 観測まではどちらとも決定されていない重ね合わせ状態である)と見なさないと、量子論に矛盾が生じる。 「観測が状態を決定する」と見なさないと、量子論に矛盾が生じる──というのは、粒子説を前提とするからだ。粒子説を前提としなければ、矛盾はない。
 要するに、ミクロの世界とマクロの世界では、まったく別の原理が成立するから、量子論の世界はおかしなことが起こるのだ。
 ミクロの世界でおかしなことが起こるということを、あるがままに受け入れるべきだ。ミクロとマクロを統一した原理でとらえることは、不可能に決まっている。
 要するに、ミクロの世界とマクロの世界では、同様の原理が成立するから、量子論の世界ではおかしなことは起こらない。
 なのに、おかしなことが起こるように見えるのは、現代の量子論がミクロの出来事を正しくとらえていないからだ。ミクロとマクロを統一した原理でとらえれば、この問題は解決する。そのためには、「粒子の波」という発想を取ればよい。
 結局、量子の世界では、おかしなことが起こるのだ。 結局、量子の世界では、おかしなことなどは何もない。
 天動説であろうと何であろうと、ある理論が観測結果と矛盾しないのであれば、その理論を受け入れるべきだ。たとえその理論から、おかしな結論が出るとしても、構わない。理論的な美しさよりは、観測結果との無矛盾性こそが重要だ。 天動説であろうと何であろうと、その理論が観測結果と矛盾しないというだけでは、信頼するに足りない。観測結果との無矛盾性だけでなく、理論それ自体の美しさが必要だ。特に、ある理論からおかしな結論が出るとしたら、その理論はどこかに欠陥があるはずだ。ならば、おかしな結論が出ない別の理論を取るべきだ。
 どんなにおかしな結論が出ても、「量子は粒子だ」という前提を、捨てるべきではない。これを神のごとき真実と見なして、とことんこだわるべきだ。 おかしな結論が出るなら、前提が間違っている。「量子は粒子だ」という前提を、あっさり捨ててしまっていい。こだわりは不要だ。かわりに、新しいアイデアを取ればいい。(なるべく柔軟な態度を取ろうよ。)


 この表から、何がわかるか? 要するに、量子力学の世界には、主として二つの解釈がある、ということだ。
 だから、「普通の解釈(主流派の解釈)だけが絶対的に正しい」、と思ってはいけない、ということだ。それは「問題に目をふさぐこと」を意味する。つまり、「思考停止」を意味する。
 そして、「思考停止」状態に陥った人々に、「いや、思考するべきこと(考えるべき問題)はあるのだ」と示すのが、上の表だ。
 この表を見ながら、「量子力学には、未解決の問題があるのだな」と理解しよう。その上で、未解決の問題について、じっくりと考えよう。
 逆に、「すべては解決済みだ」と信じたすえに、「人は何も考えなくていい。人は自分の頭では考えずに、他人の頭が考えたことを受け入れるだけでいい」という態度では、いつまでたっても真実には届かないのだ。

 ※ 「すべては解決済みだ」という態度は、19世紀後半の人々と同様の態度だ。19世紀後半には、物理学はもはや完成されたと信じられていた。原子や分子を解明し、物質の化学反応を解明し、あらゆる元素の周期律表を解明した。こうして「宇宙のことをすべて解明し尽くした」と人々は自惚れた。
 しかしながら、19世紀後半の物理学は、そこで頭打ちになったわけではなかった。20世紀に入って、物理学はさらに大幅に進歩した。
 21世紀のわれわれから見れば、19世紀の人々が「自分たちはすべてを知っている」という態度を取ったのを、馬鹿らしく思うだろう。しかしながら、同じ態度を、21世紀のわれわれも取っているのだ。現代の量子論は、重力や相対論や量子論の統合ができないなど、さまざまな難点をかかえているのだが、そういう難点を知らない素人は、「現代の物理学は完成された完全無欠のものである」と信じがちだ。だから素人は、「未解明の問題などは何もない」と思い込みたがるのだ。ちょうど、19世紀後半の人々のように。

 ※ 上記の表について、正しい評価を示しておこう。この表にある二つの解釈のうち、どちらが正しいかということは、今のところ決着が付いていない。
 ただし、物理学の素人には、「前者が公式見解だから、前者が絶対的に正しい」と主張する人が多い。
 「前者は、教科書に書いてることだから、絶対的に正しいのだ」と無批判的に肯定する。実は、教科書には、「まだはっきりとしたことはわかっていません」と注釈が書いてあるのだが、素人というものは、そういう注釈を見落としてしまうのだ。
 実を言うと、どんな学問分野であれ、未解決の問題というものはある。物理学では、「シュレーディンガーの猫」というのが、未解決の問題だ。それでも、物理学の門外漢は、「物理学は正しいから、物理学には未解決の問題なんか、一つもない。すべての問題は、すっかり解明されている」と勘違いしてしまうのだ。

 ※ 上記の表では、二つの「解釈」を示した。ここでは、「解釈」の違いだけがある。理論の違いがあるわけではない。このことに注意しよう。
 二つの解釈があるが、二つの理論があるわけではない。どちらも同じ理論をもつ。それは、量子力学の数式で示される理論だ。その数式が異なるわけではない。ただし、数式に対する解釈が異なるだけだ。
 物理学の素人だと、「解釈が違うから、理論も違うのだ」と思い込みやすい。また、「新しい解釈は、古い解釈を否定しているから、古い理論を否定しているのだろう(ゆえにトンデモだ)」と思い込みやすい。── しかし、これは勘違いである。解釈が異なるからといって、理論が異なるわけではない。
 解釈は、理論には影響しない。量子力学は、厳密な数式だけで記述される。その数式が「解釈」によって左右されることはない。理論は理論であり、解釈は解釈だ。
 専門家は、普通、数式だけを扱う。たいていの場合は、数式だけでカタが付く。それはそれでいい。
 しかし、だからといって「数式があれば解釈はいらない」ということにはならない。素人は、この点を勘違いしやすいので、注意しよう。
 素人は数式を知らない。だから数式を尊重して、「数式を知ることが大事なんだ」と思う。それは間違っていない。しかし、数式が大事だからといって、解釈が不要だということにはならない。専門家は、数式を得るが、数式に意味を求める。その意味が、つまりは、「解釈」だ。「モデル」と言ってもいいが。
 このように、数式に対して「解釈」や「モデル」を求めるというのは、とても大切なことだ。それは物事の核心や本質を突くということだからだ。数式の計算だけなら、コンピュータに任せておいてもいい。しかし人間は、数式の意味を考える。そのような思考をなくしたら、人間はただの計算機械にすぎなくなる。
 比喩的に言おう。人工衛星の軌道を数式で計算する。その計算はとても大切だ。ただし、この計算結果に対して、次の二通りの立場がある。
  ・ この計算結果はどういう意味をもつかを考えない
  ・ この計算結果はどういう意味をもつかを考える
 前者は、下級事務員の態度だ。後者は、上級研究者の態度だ。下級事務員なら、計算結果を右から左へと流すだけで済むが、上級研究者なら、計算結果の意味を考える。── 物事の核心や真実を知りたいときには、「考える」ことが必要なのだ。
 そして、「数式の計算だけあればいい」とか、「数式の理論だけあればいい」とか、そういうふうに「数式だけ」という立場を取ることは、「考える」ことを放棄することになる。
 なるほど、素人ならば、それでいい。素人ならば、「量子力学というのは、難しい数式の理論なのだな」と思って、敬して遠ざけていれば、それでいい。しかし、真の科学者ならば、数式を理解するだけでなく、数式の意味を考えるもののだ。

( ※ このことは、数学における「エレガントな解答」というのに似ている。難しい数学の問題を解くとき、どうするか? 数学の初心者は、やたらと公式を使って強引に何十行も計算をする。数学の才能がある人は、問題の意味を考えるので、核心をズバリと突いてから、ほんの数行で問題を解く。「意味を考える」というのは、とても大切なことなのだ。……ただし、こういうことは、数学の素人には理解できないものだ。)

  【 参考 】
 「観測が状態を決定する」という主張についての問題は、この文書ではあまり扱わなかった。この問題について詳しくは、次の文書を参照。
  → 本論2観測の意味
  → ナンドウの猫







  このページについて

    氏 名   南堂久史
    メール   nando@js2.so-net.ne.jp
    URL    http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/quantum.htm (表紙ページ)


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