猫の生死 (本編1)


      
by  南堂久史
 



 ※ このページは、要旨ページ の続きです。   


 「シュレーディンガーの猫」──これは、量子力学で有名な問題だが、いまだ世間でははっきりとした理解が得られていないようだ。
 そこで、以下で、問題の解決を試みる。 (そのためには、「拡張されたファジー理論」というものを使う。)
 

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 「シュレーディンガーの猫」については、この文書を読むみなさんなら、すでにご存じだろう。そのことを前提として、話を進める。(ここではいちいち概略を説明しない。次の図を見て、あらましを理解してほしい。)

シュレーディンガーの猫の実験

 上半分と下半分は、理論の世界と現実の世界を表すが、ここでは特に区別しなくてよい。ともあれ、この図は、次のことを示す。
 「量子の存在を検出器が検出すると、猫を毒殺する装置が作動する」
 では、一定時間後に、量子の検出する確率が50%であるとすると、そのとき、猫は生きているか死んでいるか? 
 その問題の解釈について、いろいろと議論が生じる


 量子力学は一般に、確率論的な立場で現象を説明する。そこで、「猫が死んでいる」という命題についても、確率的に解釈を下そうとする。
 しかるに、猫が1匹の場合は、確率的に解釈することはできないはずだ。なぜなら、確率というものは、個別的には命題を主張できず、多くの場合についてのみ命題を主張できるからである。(多くのサイコロについては何かを断言できるが、特定の1回のサイコロについては何も断言できない。)
 
  「猫が死んでいる」
 という命題に対してもそうである。「シュレーディンガーの猫」の実験に対し、猫がたくさんいるときは確率的に何かを言えるが、猫が1匹しかいないときは確率的に何も言えない。
 
 そこで、確率的に解釈するかわりに、ファジー理論的に解釈しようとする。つまり、
  「猫が死んでいる」
 という命題の真偽値が 0.5 であるときには、
  「死んでいる」
 の部分を、ファジー理論的に(つまり中間値で)考え、
  「半分死んで、半分生きている」
 と理解しようとする。
 
 もちろん、「半死半生」などという事態は、現実にはあり得ない。猫は生きているか死んでいるか、どちらかである。だから、上の解釈はおかしい。
 ……これが、いわゆる「シュレーディンガーの猫」の問題である。
 
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 この問題は、実は、ファジー理論を拡張することで、解決ができる。
 今、一般的に
   「 A is B
 という形の命題があったとしよう。( is でなく be でも同じ。)
 そして、この命題に対して、中間的な真偽値( 0.5 )が与えられていたとしよう。
    ※ 通常の論理学では中間的な値を取らないが、ここでは中間的な値を考える。
 さて、この中間的な真偽値( 0.5 )は、AisB のいずれかに掛かる。

        is
       ↑ ↑ ↑

 確率では、このうちの「 A 」(つまり主語)の部分が真偽値と一致すると考える。
 たとえば、「猫が死んでいる」( The cat is dead. または Cats are dead. )の命題の真偽値が 0.5 であれば、確率では、「 0.5(=50 %) のが死んでいる」と解釈する。ここでは、 0.5 という値は、「」( cat )という主語部分にかかっている。[つまり 「 50 %の猫が」という意味になる。]

 一方、ファジー理論では、「 B 」の部分が真偽値と一致すると考える。つまり、「猫が、 0.5(=50 %) のである」と解釈する。ここでは、 0.5 という値は、「」( dead )という述語部分にかかっている。 [つまり 「 50 % 死んで、50 %生きて」という意味になる。]

 さて、拡張されたファジー理論では、 0.5 という値が「である」( is, are )にかかると考える。
 つまり、
   「 A is B 」
 という命題の真偽値( 0.5 )に対して、その値を決定するものは、次のようになる。
    ・ 「 A 」 …… 確率で 
    ・ 「 B 」 …… ファジー理論で
    ・ 「 is 」 …… 拡張されたファジー理論で 
 
 もう少し詳しく述べよう。
  「猫が死んでいる」
 の真偽値が 0.5 であるとき、この命題は、どう解釈されるだろうか? 
 
 (1) 確率
 確率的には、
   「半数の猫が死んでいる」
 と解釈すればよい。これは、猫の数が多ければ多いほど、意味を持つ。では、猫が1匹の場合は、どうか? 
 猫という存在の数は、1匹、2匹、……という値にはなるが、 0.5 匹というような中間的な値にはならない。──つまり、猫という存在は量子化されている。 
 だから、猫が1匹の場合は、確率というものは意味がない。猫が1匹ならば、「半数の猫」というのはありえないからだ。
 では、確率というものが意味をもたないとすれば、どうなるか? そういう場合には、他の部分が、中間的な値を引き受けるしかない。

 (2) ファジー理論
 ファジー理論的には、
   「猫は〈半分死〉である」
 と解釈すればよい。
 このようなファジー理論的な解釈ができるか否かは、述語しだいである。「高い」とか、「甘い」とかいう述語ならば、〈半分高〉〈半分甘〉という状態もあり得る。このような場合には、述語が中間的な値を引き受けることができる。
 しかるに、「死」という述語ならば、〈半分死〉という状態はあり得ない。──つまり、「死」という述語は量子化されている。
   ※ 量子化された述語に、連続値的な解釈(たとえば半死半生)をしてはならない。 
     もしそうすれば、矛盾を生じる。

 というわけで、量子化された述語の場合には、他の部分が中間的な値を引き受けるしかない。
 
 (3) 拡張されたファジー理論
 猫という存在(A)も、死という述語(B)も、量子化されている。このように、主語も述語も量子化されている場合には、他の部分が中間的な値を引き受けるしかない。
 残るのは、陳述( is )の部分だけである。 ここだけが中間的な値で考えられる。 
 そこで、ここを中間的な値に解釈すると、
   「猫は死んでいるらしい
 もしくは、
   「猫は〈死〉であるらしい
 となる。 ここでは、「である」のかわりに「であるらしい」というふうになる。 (その度合いが 0.5 となる。)
 
 この「であるらしい」とは、いったい何か? こいつは確率などとはどう違うのか?
 確率とは、多くの事象に関する、出現の度合いを示す。たとえば、「6回に1回の割合で、サイコロの目が1になる」などと。このことは、事象が多くなれば多くなるほど意味を持つが、事象が1回のときはあまり意味を持たない。特に、ある特定の1回について、確率的に断言することはできない。確率的に言えるのは、「多くの事象が起これば……となる」ということだけである。
 ファジー理論では「メンバーシップ値」という用語を用いる。これは、ある述語に当てはまる度合いである。たとえば「半分高い」「半分甘い」などと。メンバーシップ値は、「高い」「甘い」のように、中間的な値を取れる場合もあるが、「死んでいる」「生きている」のように、中間的な値を取れない場合もある。
 拡張されたファジー理論では、「である」( is, are )について中間的な値を考える。これは、陳述(断言)の度合いである。そしてこれは、その命題を語る当人の確信に依拠する。その意味で、「確信度」と見なすこともできる。たとえば、「猫は死んでいるだろう」「猫は死んでいるに違いない」「猫は死んでいるかもしれない」などと。その確信の度合いを数量的に示したものが、確信度である。  
    ※ 確信度が 1 のときは肯定の断言であり、確信度が 0 のときは否定の断言であり、 
      その中間の値のときは「どちらとも言えない」である。特に、確信度が 0.5 のときは、 
      「肯定も否定も半々で信じる」つまり「五分五分だろう」である。

 
 ある命題に対して、その真偽値を決定するものは、確率、メンバーシップ値、確信度、の三つがある。ただし、
 「猫は死んでいる」
 という命題の場合は、この三つとも取れるわけではない。 
 猫も、「死」も、いずれも量子化されており、中間的な値を取れない。中間的な値を取れるのは、確信度だけである。
 なのに、この確信度を、メンバーシップ値混同すると、「半死半生」などと誤解する。これはもちろん誤りである。 
 この誤りが、シュレーディンガーの猫のパラドックスを生んだのだ。

 シュレーディンガーの猫を考えるときには、「(命題の)真偽値」,「確率」,「メンバーシップ値」,「確信度」のそれぞれを、明白に区別しなくてはならない。にもかかわらず、これらを混同すると、パラドックスが生まれる。
 量子力学で与えられる値は確率である。この値は確率であるから、多くの猫に対して、「その 50%が」というふうに示すことができるだけだ。
 にもかかわらず、この確率の値を「真偽値」と混同すると、「半死半生」などと勘違いすることになる。

 その勘違いを典型的に示したのが、「シュレーディンガーの猫」の仕組みである。この仕組みは、量子発生の確率を、猫の生死の真偽値に変換する仕組みである。この仕組みを経ると、一匹の猫に対して、生死の真偽値が与えられる。しかるに、猫の存在数は量子化されていて、中間的な値を取れない。そこで、
 「猫の存在数ではなく、猫の死の程度が中間的な値を取る」
 と勘違いした結果、パラドックスが生まれた。実は、中間的な値は、猫の死ではなく、猫の死の断言のところにかかるのだが。
 「半死半生」ではなくて、 「この宇宙とは別に、もうひとつの並行宇宙がある」などと言い出す人もいる。これもまた、誤解による。
 「命題の真偽値」が中間値を取るのに、「確率の値」と「メンバーシップ値」がどちらも量子化している、というのを認めると、どうにも困ってしまって、「並行宇宙」なんてものを持ち出すわけだ。
 もちろん、こんな奇天烈なものを持ち出す必要はない。「確信度」が中間的な値を取る、と考えれば済むからだ。そして実際、そう考えるのが最も適切である。
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 次に、量子力学のシュレーディンガーの猫の問題を、細かく見てみよう。
 この実験では、ある量子の発生確率を 0.5 とすることができる。そして、量子が検出された場合に、猫を殺す仕組みがある。
 これは、どう理解できるか? 
 
 (1) 量子の発生の部分では、値は、あくまで確率である。
 (2) その信号が猫のところに達する。その値も確率である。
 (3) さて、猫が死んでいるかどうかは、そのことを考えている人の推定による。
  
 ここで、推定者というものが出てくる。 (観測者とは同じ人物)
 推定者は、猫が死んでいるかどうかを、推定する。
 その人は、確率に従って、「猫が死」の命題の値を 0.5 と出す。
 しかし、先に述べたような理由から、「猫」も「死」も 0.5 という値を取れないから、 0.5 という値は、その推定者の確信度である。(この確信度は、確率にしたがって導き出される。)
 
 さて、この猫は、推定者によって推定された猫、つまり、仮想的な猫である。
 一方、現実の猫もいる。現実の猫が生きているか死んでいるかは、まだわからない。現実の猫については、
   「猫が死んでいる」
 という命題に対して、真とも偽とも言えない。 (ただし、箱をすでに覗いた人は、真か偽かを断言できる。)
 
 さて、彼は仮想的な猫に対して、真偽値を 0.5 としていたが、ここで今、猫のいる箱を覗いて、その猫の生死を、目で確認する。 (観測する)
 このとき、猫の生死は、判明する。つまり、
   「猫が死んでいる」
 という命題の真偽値は、0 か 1 になる。 (つまり、それまでの 0.5 から一挙に変化する)
 
 このように一挙に値が変化するのは、不思議に感じられるかもしれない。しかし、実は、不思議でも何でもない。正しくは、次のような事情にあるのだ。

 推定者がもっていた真偽値は、「仮想的な猫についての値」であった。
  ※ この値は確率に依拠して定まる。詳しく言えば、量子の発生確率が 0.5 なので、この値
    を、仮想的な猫の死んでいることの確信度とする。その確信度が命題の真偽値を与える。


 次に、推定者が箱を覗いたあとの真偽値は、「現実の猫についての値」である。
  ※ 観測すれば、生死のどちらかを完全に確信できるので、現実の猫が生きているという
    命題の真偽値がわかる。


 つまり、観測を境にして、猫の生死の値は、 0.5 から 0 または 1 に一挙に変化するように見えるが、実は、そうではない。初めは、仮想的な猫についての値(確率にもとづく確信度)であり、次は、現実の猫についての値(観測にもとづく確信度)である。 
 要するに、ある一つのものの値が一挙に変化したのではなくて、ある一つの値から、別の一つの値へ、彼の考えている値が切り替わっただけである。(それは対象が、彼の頭のなかの猫から、実際に見ている猫へと、切り替わったからである。)
 ※ 彼が観測した瞬間に「猫の生死の状態が確定する」ということはありえない。なぜなら、彼より前にこっそり覗いていた人[彼女]は、猫の生死の状態を知っている。彼にとっては自分が見た瞬間に猫の生死が判別するが、彼女にとってはそれ以前に猫の生死は判別している。「観測が状態を決定する」などということはありえないのだ。正しくは「観測が判断を決定する」である。
 このように考えれば、「シュレーディンガーの猫」の問題は、すっかり理解できる。
 (i) 命題の値は、確率でもなく、メンバーシップ値でもなく、確信度である。
 (ii) 観測を境に値が変化したように見えるが、そうではなく、推定者の考えているものが、一つの値から別の値に、切り替わっただけである。(たとえていえば、これまでは映画のことを考えていたのに、今度は野球のことを考えている、というような、思考対象の切り替え。)

  [ 付記 ]
 上記のような結論を出せたのは、「拡張されたファジー理論」を使ったからである。

  [ 付記 ]
 「確信度」は、「可能性」と呼んでもよい。前者だと、判断する主体が明らかになるが、後者だと、判断する主体が曖昧になる。そういう言葉のニュアンスの違いはあるが、それだけだ。





 さらに以下では、追記的に説明しよう。


  【 追加 】   ( 2003-10-09 )

 結局、「シュレーディンガーの猫のパラドックスは、量子力学の問題ではない」(論理学の問題である)と言える。このことを、よく納得できない物理学者もいるだろう。そこで、そのことを完璧に証明しておこう。

 そのためには、「シュレーディンガーの猫」のかわりに、「ナンドウの猫」というものを使う。これは、「シュレーディンガーの猫」にそっくりだが、一箇所だけ、違う。確率の発生する理由が、量子力学的に決まるのではなくて、単なる確率現象として決まる。たとえば、コマのように回転してから倒れるコインだ。


     ━━━━━━━━━━━Ю

    量子検出器               猫毒殺の装置




     ━━━━━━━━━━━Ю

   回転コイン検出器             猫毒殺の装置


 この二つを比べてみよう。
 どちらも、「確率50%の現象」に対して、その情報を受けて、猫の生死が決まる。ただし、「確率50%の現象」を発生させる仕組みが、前者は量子力学的であり、後者は単なる数学的な仕組みである。(後者の装置は、現実の物質的な装置であると考えるより、抽象的な確率発生装置であると考えるといい。一種の数学的なモデルである。)
 ここで、前者は「シュレーディンガーの猫」であり、後者は「ナンドウの猫」である。

 前者に対しては、「猫を観測した瞬間に、確率が一挙に変化する」とか、「猫を観測するまでは、猫は、生きた猫と死んだ猫を重ね合わせている」とか、量子力学的に解釈する説がある。
 では、後者では、どうか? 後者でもやはり、「猫を観測した瞬間に、確率が一挙に変化する」とか、「猫を観測するまでは、猫は、生きた猫と死んだ猫を重ね合わせている」とか、量子力学的に解釈する説が成立する。しかし、後者では、量子力学的なシステムは、一切存在していない。これは単純な数学モデル(もしくは論理学モデル)である。

 「シュレーディンガーの猫は、量子力学の問題だ」と解釈することは、「ナンドウの猫は、量子力学の問題だ」と解釈することと同じである。それはつまり、「量子力学の原理が働いていない世界の現象を、量子力学で解釈する」ということだ。
 これは、デタラメの極みと言えよう。「確率の問題を、量子力学で説明する」というのは、いわば、「ユークリッド幾何学の定理を、量子力学で解こうとする」というのと同様である。あるいは、「フェルマーの定理を、シュレーディンガー方程式を使って解こうとする」というのと同じだ。「トンチンカン」または「お門違い」と言うしかない。
 
 結論。
 「シュレーディンガーの猫」は、「ナンドウの猫」と、本質的には同じである。どちらも、ただの論理学の問題であって、量子力学の問題ではない。なのに、量子力学の問題ではないことを、量子力学によって解こうとすることは、お門違いである。
 論理学の問題を、量子力学で解こうとしても、しょせん、解くことはできない。解けないことを、無理に解こうとすれば、必ず、どこかでおかしな結論が出てくる。それが、「シュレーディンガーの猫」のパラドックスの理由だ。
( ※ ピンと来ない人のために説明しておくと、こうだ。シュレーディンガーの猫の図式では、量子検出器として、 という箱があった。ここだけでは、量子力学が働く。しかし、この箱の外では、量子力学は関係ないのだ。関係ないことを、量子力学で無理に説明しようとするから、デタラメな結論が出てしまうのだ。……量子力学は、量子のことを研究するのであって、猫の毛色やキャットフードの研究をするのではない。このことを、しっかりと、わきまえておこう。)

( ※ ときどき物理学者の論文で、「シュレーディンガーの猫の実験をした」という話が出る。たいていは、量子力学的に計算して、量子に対する観測の影響を考慮している。しかし、それでは、 のなかの現象にしかならないから、「シュレーディンガーの猫」とは、全然別の話となる。「シュレーディンガーの猫」のパラドックスは、 の中にある量子の現象を扱うときに発生するものではなく、 の外にいる現実の猫を扱うときに発生するものである。この点を勘違いしないように、注意しよう。……たいていの物理学者は、この点を勘違いしているから、見当違いの論文を読んでも、同じことだと思っているのである。彼らはたぶん、「量子力学には論理矛盾がある」と証明したがっているのだろう。あほくさ。)


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  《 補足 》

 より根源的に、本質を示そう。
 シュレーディンガーの猫の問題は、ナンドウの猫の問題と同じである。そのことは、次のように説明し直すことができる。
 シュレーディンガーの猫では、生死の確率が 50%である。このことを「生の状態と、死の状態とが、半々で混じっている」というふうに解釈するのが、従来の説だ。
 しかし、これが成立するとしたら、ナンドウの猫についても同様のことが成立するはずだ。そして、ナンドウの猫の問題は、コインの裏表が半々である問題と同じである。すなわち、従来の解釈によれば、こうなるはずだ。
 「テーブルで回転しているコイン(またはトスして空中で回転しているコイン)は、裏表の確率が半々である。ゆえに、裏と表とが、半々で混じっている(または裏の状態と表の状態が並存している)」
 なるほど、これは、「成立する」と見なしてもいいかもしれない。では、このコインが倒れたあとは、どうだろうか? 倒れたあとでも、見ていないならば、裏か表かはわからない。とはいえ、いったん倒れれば、裏か表かは、どちらかに決まるのだ。
  ・ 倒れる前 (決定されていないので、事実として不明)
  ・ 倒れた後 (決定されているのだが、観測者には不明)
 この二つの事象がある。そして、従来の説は、この二つの事象を勘違いしている。どちらの事象でも、裏か表かは、半々だ。ただし、半々(50%)という値は同じでも、事象は別だ。
 コインが倒れる前(回転している間)では、状態は未確定である。ここでは、「二つの状態が混じっている」と解釈することもできなくはない。ともあれ、この値は確率の値である。
 コインが倒れた後では、二つの状態のうちのどちらか一方に確定している。となると、この値は「確信度」である。つまり「推測した値」である。(その推測した値は、通常、確率の値と同じだ。なぜなら、推測者は、科学的に考えるからだ。ただし、科学的に考えない人なら、別の値を出す。たとえば、超能力者とか、ジンクスを信じる人など。)

 結局、コインが倒れる前と、コインが倒れた後では、事象が異なる。その二つの事象では、二つの値は、数値の意味が異なる。二つの値は、数値としてはどちらも 50%であって同じだが、前者は確率であり、後者は確信度である。(前出。)
 この二つは異なる。異なるものを同じものだと混同すると、シュレーディンガーの猫の問題が発生する。── コインが回転している間は、裏と表という二つの状態が混じっていると考えてもいい。しかし、コインが倒れた後では、二つの状態は混じっていることはない。なのに、その二つの事象を区別できないと、論理が錯乱して、シュレーディンガーの猫の問題が起こるわけだ。

( ※ 「二つの状態が混じっている」と見なしてもいい、と述べたが、本当は、この解釈は不正確である。コインが回転している間には、「表」と「裏」という二つの宇宙が存在するわけでもないし、「表」と「裏」という二つの宇宙が観測者によって観測されるわけでもない。では、本当は? 「どちらでもない」つまり「未確定だ」というのが正解だ。)
( ※ 生死で言えば、「生と死が未確定」という状態はあっても、「生と死が混じっている」ということはありえない。「裏と表が未確定」という状態はあっても、「裏と表が混じっている」ということはありえない。それが確率の本質だ。)
( ※ 数学的に確率というものを理解すれば、以上のことがわかる。なのに、数学音痴の人々が、シュレーディンガーの猫という問題を見て、首をひねるわけだ。シュレーディンガーの猫の問題があるのは、物理学者が、数学の確率論というものを本質的に理解できていないからだ。[ → 誤差の話 ])
( ※ 結局、数学の確率論を本質的に理解するべきだ。そうすれば、量子力学については、[ 続編 ]で述べるような解釈以外には、ありえない。)


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 シュレーディンガーの猫とナンドウの猫を対比的に示すと、次のようになる。


  シュレーディンガーの猫  ナンドウの猫
 (1) ミクロ: 量子の状態Aと状態Bは、重ね合わせ状態にある。(決定していない) (1) コインは回転している。(決定していない)
 (2) マクロ: 猫の生きた状態と死んだ状態は、重ね合わせ状態にある。(決定していない) (2) コインは停止している。(決定しているが、判明していない。)
 (3) 猫: 観測で判明する(そのことで決定する) (3) コイン:観測で判明する(その前に決定している)
 以上の(1)(2)(3)ゆえに、「観測が状態を決定する」。 以上の(1)(2)(3)ゆえに、「観測は状態を決定しない」。
 猫の状態の決定は、観測によってなされる。 コインの状態の決定は、観測以前になされる。それはコインの停止によってなされる。

 量子をコインでたとえると、以下のようになる。

  コペンハーゲン解釈  新しい解釈
 未決定状態の量子とは、いわば、表のコインと裏のコインの重ね合わせ状態である。  未決定状態の量子とは、いわば、回転しているコインである。
 コインには裏と表という二つの状態しかない。その両者の重ね合わせ状態として、中間値が得られる。 コインには、裏と表という二つの状態のほかに、回転状態がある。回転状態として、中間値が得られる。
 決定とは、表のコインと裏のコインの重ね合わせ状態から、(表と裏の)どちらかの状態に決まることだ。 決定とは、回転状態から停止状態に転じることだ。
(量子で言えば、「波から粒子に転じること」に相当する。)
 量子に話を戻すと、量子の状態の決定は、量子を観測したときになされる。
 なぜなら、観測が状態を決定するからだ。
 量子に話を戻すと、量子の状態の決定は、量子を観測する前になされる。
 なぜなら、状態が決定するのは、「量子が波から粒子になったとき」だからだ。
 すべての前提は、「量子は粒子であること」だ。ここからすべての結論が得られる。 すべての前提は、「量子は粒子の波であること」だ。ここからすべての結論が得られる。
 「量子は粒子であること」が真実であるからには、「重ね合わせ」という概念も真実だ。 「量子は粒子の波であること」が真実であるとすれば、「重ね合わせ」という概念は不要だ。







  【 補 説 】   2002-03-31

 「シュレーディンガーの猫」の問題は、論理学の問題である。物理学の問題ではない。
 そのことを、はっきり明かすために、次の事例を示そう。

 「シュレーディンガーの猫」の問題を示すには、実は、「シュレーディンガーの猫」というモデルは必要ない。では、何が必要かと言えば、単純に、「確率」のモデルだけがあればいい。

 一番簡単な「確率」のモデルは? サイコロか、コインだろう。ここでは、コインを例に取る。

 今、コインをトスする。手をかぶせて、コインを伏せる。この状態で、コインは「表」か「裏」かのどちらかである。つまり、「立っている(≒ 裏が 50%)」とか、「斜めになっている(≒ 裏が 70%)」とかいう中途半端な状態はありえない。
 さて、これが、「シュレーディンガーの猫」と同じモデルになっているのである。なぜなら:
  • かぶせた手をはずすまで(観測するまで)は、コインは裏か表かわからない。どちらの可能性も 50% ずつである。
  • かぶせた手をはずした瞬間(観測した瞬間)に、コインは裏か表か決まる。「裏」が 100%か、「表」が 100% か、いずれかである。
 これは、「シュレーディンガーの猫」と、原理的には同じだ。「コインが裏」を、「猫が死んでいる」と見なし、「コインが表」を、「猫が生きている」と見なせばいい。

 もう少しわかりやすく言えば、こうだ。
 コインをトスして、手で伏せる。このときのコインの裏表の確率は、五分五分だ。そこで人は、「コインは、半分裏で、半分表である」と思い込む。
 (1) しかし、実際には、コインは「半分裏で、半分表である」というような状態はありえない。どちらか一方に決まっている。「半分裏で、半分表である」というのは、おかしい。
 (2) 手をはずした瞬間(観測した瞬間)に、確率は 50% から 100% または 0% へと、一瞬にして変わる。これは、おかしい。
 上記のような疑問が生じるだろう。これはまさしく、「シュレーディンガーの猫」の問題と同じだ。
( ※ 上記の説明に対して、「そんなアホな! 両者は違うぞ!」という反発を感じる人が多いようだ。そこで、もっと詳しい例示を、あとで追加しておいた。不信に感じる人は、この文書の最後のあたりを、あとでまた読んでほしい。 → 該当箇所 【 追加1 】

 結局、「シュレーディンガーの猫」の問題というのは、コインのトスの問題と(原理的には)同じことであり、ただの確率の意味についての問題なのだ。論理命題に関する、論理的な解釈の問題なのだ。
 なのに、確率や論理学というものをろくに理解しない無知な物理学者が、勝手に物理学のなかで悩んで、「ああだ、こうだ」と頭をひねるのである。あげく、「シュレーディンガーの猫」は物理学とは関係ないのに、「これは物理学の問題だ」と勘違いして、強引に物理学的な解釈を下すのである。(たとえば「並行宇宙」)(こういう自分勝手な判断は、「牽強付会」と呼ばれるにふさわしい。)

 結語。
 “「シュレーディンガーの猫」は、量子力学の問題だ ” と思うのは、勘違いである。この問題は、「コインのトス」と同じで、単純な確率の問題にすぎない。
 そして、「確率とは何か」ということをよく理解しないまま、「確率」と類似のもの(メンバーシップ値・確信度)を混同すると、話が混線してしまうのである。
 「確率」と「メンバーシップ値」と「確信度」を、たがいに区別すること。それが大事だ。そうすれば、何も問題は起こらないし、頭が混乱することもないのだ。
 とにかく、これは、論理学における問題なのである。

( ※ ただし、論理学とは言っても、通常の2値論理ではなく、拡張されたファジー論理。)



  [ 付記 ]

 物理学者のために、付記しておこう。
 以上の説明だけでは、「すっきりしない」と感じるかもしれない。「これまでの問題が勘違いに寄るのだということはわかった。では、勘違いしないで、真実で理解すれば、どう解釈すればいいのか?」と。
 それは、こうだ。

 物理学者は、量子の数量というものを確率でとらえる。(たとえばアルファ粒子の崩壊。) その確率としての値をどう解釈すればいいのか、というのが、「シュレーディンガーの猫」の本質だ。
 特に、「事象がたくさんあるときはいいが、事象がひとつのときはどうなるのか」という問題だ。

 これは、実は、確率の問題でもある。
 では、その答えは? それは、
 「確率は、ただひとつの事象については、何も言えない」
 ということだ。

 コインの裏表にせよ、猫の生死にせよ、そこでは確率的にのみ言える。それは、事象の数が多くなれば、明確な意味をもつが、事象の数がひとつのときは、何とも言えない。……確率というのは、そういうものなのだ。つまりは、「確率的な事象については、確率的に言えるだけであり、決定的(断定的)な予測を出すことは不可能だ」ということだ。

 そんなことは、誰でもわかる。コインのトスで、ある1回について、裏表を決定的に予測できないことは、誰でもわかる。
 しかし、物理学者だけは、それがわからない。「物理学は万能だ。物理学的な理論を使えば、すべてを決定的に予測できるはずだ」と考えがちだ。(頭が古典力学的になっているのだろう。)

 実際には、量子力学は、何かを決定的に予測するのではなく、確率的に示すだけだ。そして、そこで確率的に示されたことは、1回限りの現象(猫であれコインであれ)については、何も言えないのだ。現象の数が多いときのみ、意味をもつのである。

 1回限りの現象については、確率は、何も言えない。数学者ならば、「そうだね」とすぐに納得する。しかし物理学者は、納得しない。「物理学は万能だ」と思い込んだあげく、「1回限りの現象についても、物理学は何らかのことが言えるはずだ」と思い込む。そして、(言えないはずのことを)強いて言おうとする。
 しかし、(言えないはずのことを)強いて言ったとしても、そのときの言明は、「確率」ではなくて、そう言った人の「確信度」になるのである。……そのあとで、この両者を混同したり、さらに「メンバーシップ値」と混同したりすると、パラドックスが生じるわけだ。

 p.s.
 格言ふうに述べておこう。
 「パラドックスの謎の理由は、現実のうちにあるのではなく、混迷した頭のうちにある」

 自然というものは、整然として、真理に統一されている。しかし、自然を認識する人間の頭は、混然としており、パラドックスでいっぱいなのだ。彼の目と頭が歪んでいるゆえに。



  [ 補記 ]

 それでもまだすっきりしない人のために、補記しておこう。

 「シュレーディンガーの猫」のシステム(量子検出と猫毒殺のシステム)を、たくさん用意しておく。
 ここで、たくさんのシステムにおいて、たくさんの猫を見れば、明らかに、たくさんの猫は「確率」的に死んでいく。たとえば、量子検出器で検出される「確率」が、
    10% → 20% → 30% → 40%
 と時間的に変化していくとする。その場合、たくさんの猫を見たとき、死んだ猫の割合は、
    10% → 20% → 30% → 40%
 と時間的に変化していく。
 このことは、猫の数が大きければ大きいほど成立する。
 (たとえば、1000匹の猫を見たとき、
    102匹 → 201匹 → 303匹 → 402匹
  となることがある。)

 しかし、猫の数が1(匹)であるときには、何とも言えないのだ。猫の数が十分大きければ、「そのうちの 10% 」と述べることはできるが、猫の数が1(匹)であるときには、0 か 1 しか選択肢はないのだから、「そのうちの 10% 」と述べることはできない。「そのうちの 10% 」という言葉が無意味になる。
 結局、そういうことだ。確率というものは、事象の数が大きいときにのみ意味をもつのであり、事象の数が1のときには意味をもたない。……このことは、「シュレーディンガーの猫」でなく、コインのトスやサイコロ振りでも同様である。



  [ 補足 ]

 補足しておこう。
 「シュレーディンガーの猫」と「コインのトス」とは、まったく同じではない。違いもある。それは、「シュレーディンガーの猫では、量子的な過程がある」ということだ。
 ただ、それは、話の前段にすぎない。「量子的な過程」というのは、量子力学の問題であり、ここでは議論にならない。
 「シュレーディンガーの猫」で問題となるパラドックスは、量子的な過程のあとの、論理学の問題だ。量子力学には問題はなく、論理学のところで問題がある。
 粒子の崩壊までは、量子力学で簡単に説明がつく。それは、コインのトスが力学的ないし確率的に説明がつくのと、同じことだ。そして、そのあとで、「生か死か」または「表か裏か」という、観測者の推測が生じる。ここで、パラドックスが生じる。
 このパラドックスは、あくまで、論理的なものだ。粒子の崩壊や、コインのトスは、完全に科学的に説明がつくのだが、そのあとの論理判断で、パラドックスが生じる。── ここのところを、誤解しないようにしよう。

 本ページに対する批判として、しばしば、次の批判がなされる。
 「シュレーディンガーの猫と、コインのトスとを、同じ現象と見なすなんて、トンデモだ」
 しかしこれは、とんでもない誤解だ。本ページでは、この二つを「同じ現象だ」と見なしているわけではない。そんなことは、子供でもわかる。では、正しくは? 
 「同じ」であると見なされているのは、「現象そのもの」ではなくて、「現象に対する解釈」なのである。シュレーディンガーの猫と、コインのトスとは、「現象」が同じなのではなくて、現象に対する「解釈」が同じなのだ。どちらも同じ原理で勘違いを起こしているのだ。── その原理が、「一回限りの事象には、何も言えないのに、何かを言えると思い込む」ということだ。
 より詳しく言えば、後述の「ナンドウの猫」がある。「シュレーディンガーの猫」と「ナンドウの猫」は、同じ現象ではないが、勘違いは同じ原理である。── ここで、何が同じであり、何が同じでないか、誤解しないようにしよう。
 「シュレーディンガーの猫と、コインのトスとを、同じ現象と見なすなんて、トンデモだ」
 という批判は、本ページの趣旨を誤読しているのである。その誤読は、物理学的な誤読と言うよりは、日本語を正しく読めない誤読である。

 ( ※ この件について、物理学的にはもっと詳しい説明ができる。詳しい話を知りたければ、後日に公開した「観測の意味」および「物理学における問題」のページを参照。そちらに詳細が記述してある。)




 [ 誤差の話 ]
 もう少し細かく言おう。確率論で考える。
 たとえば、標本の数が 10000 ,100 ,10 というふうに異なるとしよう。そのうちの「半分」が「生」または「死」であるとする。そのとき、「半分」という数は、どれだけか? 
 確率論で言うと、誤差 Δ を含んで、(たとえば)こうなる。
   5000 ±100
    50 ± 15
     5 ± 3
    0.5 ±0.4
 最後の値( 0.5 ±0.4 )は、「 0.5 ±0.5 」(つまり「0または1」)と見なしていい。
 となると、ここでは、「確率的には何も言えない」というのが正解だ。
 なぜか? 標本の数が小さくなればなるほど、「± Δ」という誤差の部分が(相対的に)大きくなるからだ。5000に対して 100という誤差は小さな値だが、0.5 に対して 0.5 という誤差は大きな値だ。
 これがつまり、「標本数が1であるときには、確率的には何も言えない」ということだ。要するに、誤差が大きすぎる、ということだ。
( ※ はずれる確率は、「危険率」と呼ばれる。これは通常、5% が想定される。この5% という値は、「有意水準」とも呼ばれる。この値で、誤差 Δ が生じるはずだ、と見なされる。)
( ※ ここで述べたことは、「大数の法則」と言われる。標本数が大きくなると、「大数の法則」が成立する。標本数が小さくなると、「大数の法則」が成立しない。後者の場合が、シュレーディンガーの猫だ。)
( ※ たいていの物理学者は、確率論における「誤差」の意味を理解していない。それが錯乱の理由だ。なお、「誤差」の意味は、「物理学における問題」のページの最後で、「未確定」という言葉でも説明される。)
( ※ 0.5 ±0.4 は、 0.5 ±0.5 と見なしていい。なぜか? 個体数は、整数の値しか取れないからだ。この話は、先に述べた通り。)



 [ 付記 ]
 「確率というものは、事象の数が1のときには意味をもたない」と述べたが、これはもちろん、「何の意味もない」ということではない。ごくわずかの意味はある。ただ、それは、「確率」としての本来の意味ではない。
 「2回に1回の割合で表になる」という言明は、事象の数が大きければ大きいほど意味をもつ。事象の数が1回だけならば、(ほとんど)無意味である。……そういうことだ。


 [ 付記 ]
 「シュレーディンガーの猫の問題は、量子力学では解決不可能だ」
 とも言える。なぜなら、それは論理学の問題であって、量子力学の問題ではないからだ。
 量子力学の扱えるのは、量子力学の問題だけであり、料理や音楽の問題は扱えない。そういうものだ。論理学がいくら頑張っても量子力学を導き出せないように、量子力学がいくら頑張っても論理学は導き出せないのだ。
 このことを理解しないと、物理学者は、いつまでたっても、見当違いのことに悩み続けるだろう。ちょうど、「物理学でいくら研究しても、キャットフードの作り方が見出せない」と悩むように。あるいは、「物理学でいくら研究しても、猫の飼い方が見出せない」と悩むように。

 [ 補足 ]
 「シュレーディンガーの猫」と「コインのトス」との等価性は、自明だろう。ただ、よりわかりやすくするには、次のことでも示せる。

 (1) 「シュレーディンガーの猫」の本来のシステムを用意する。つまり「量子検出器」→「猫の毒殺器」
 (2) その (1) のシステムで、「猫の毒殺器」の箇所だけを、「コインの反転器」に置き換える。もともと「表」であったコインを、反転するような装置にするわけだ。これが、量子検出と同時に、作動して、コインを反転する。(猫を殺すかわりに。)
 (3) その (2) のシステムで、「猫の毒殺器」の箇所だけを、「コインを高速回転させてから、倒す装置」に置き換える。……これによると、量子検出の結果にかかかわらず、常に「表」の確率が 50% になる。(だから、「猫の毒殺器」を無視していよい。)(なお、コインを高速回転させる前に、「コインをいったん表にする」という操作を加えてもよい。こうすると、(2) に近くなるので、わかりやすい。また、こうしても、結果には影響しない。)
 (4) コインを手で投げて、トスする。

 以上の (1) 〜 (4) は、いずれも確率が 50% になり、システムとして等価である。つまり、「シュレーディンガーの猫」と「コインのトス」は、システムとして等価である。(確率が 50% になる、という点で。)

 [ 余談 ]
 確率について。
 サイコロであれ、コインのトスであれ、現実的な現象について、「古典力学的に完璧に予測が付くはずだ。それは確率的な事象ではない」と主張する人がいる。
 しかし、この説は誤り。
 このことは、「複雑系の科学」を理解すれば、すぐにわかる。小さな初期値の変動が、最終的に大きな変動をもたらすことがある。
 具体的に数式で示そう。
 プランク定数を h とすると、量子の位置 x の大きさには、プランク定数程度の不確定性がある。(不確定性原理。)
 さて、
          f(x) = sin( hx )
 であるとき、x のプランク定数程度の微小な変動が、 f(x) の変動をもたらすが、それは、値域の全区間 [-1,+1] におよぶ。  だから、この f(x) は まったく不確定である。
 つまり、x をどれほど正確に測定しても、 f(x) を正確に予測することはまったく不可能である。
 これは、「原因となる事象がいくら正確にわかっていても、結果となる事象がまったく予測不可能である」ということのモデルとなっている。
( ※ 実を言うと、これは厳密ではない。厳密に言うと、量子の「位置」ではなくて、「位置と運動量との積」を取る。また、適当に定数倍する必要がある。ただ、話の核心は、上述の通り。)


 ※ 以上の確率についての説明について、疑問を感じる人が多い。
   「ミクロにおける量子の問題と、マクロにおけるコインの問題とは、全然違うぞ」
   というふうに。そう思うのであれば、「物理学における問題」のページを参照。
   そこでは、次の図とともに、この件を扱っている。(回転するコインは、確率的であり未確定。
   つまり、「表でも裏でもない」と言える。これは、「表でも裏でもある」というのとは違う。)
黒コイン白コイン
 共存 = 空間的共存  
 
回転コイン

 回転中 = 未確定   

 詳しい説明は、該当箇所を参照。






  このあとは、続きのページへ。







    氏 名   南堂久史
    メール   nando@js2.so-net.ne.jp
    URL    http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja1.htm  (本ページ)
          http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja.htm (猫の表紙)

[ THE END ]