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【 注釈 】
たとえば、あなたが今、自宅の猫のことを考える。そうして頭のなかで考えられた猫は、猫そのものではなくて、あなたが考えているものにすぎない。しかし、あなた自身は、猫そのものを考えているつもりであるから、両者を区別することはできない。それでも、第三者から見れば、現実の猫と、あなたが考えている猫とは、別々のものなのである。
上の二つの図は、観測者(= 思考者)にとっては区別されないが、第三者にとっては区別されるわけだ。
【 蛇足 】
(1) 死亡時刻
「観測が猫の生死を決定する」のだとすれば、検死して、猫の死亡時刻を調べると、どうなるだろうか?
0時に実験開始して、1時に観測した。1時に観測によって猫の生死が決まるのだとすれば、猫の死亡時刻は、必ず、1時であるはずだ。なぜなら、それまで、猫の生死は確定していなかったからだ。
「観測が決定する」と主張する人々は、「猫の死亡時刻は必ず1時だ」と主張するだろう。
( ※ 私は、そうは主張しない。猫の死亡時刻は、量子力学で決まる確率分布曲線に従うはずだ。つまり、0時15分であることもあるし、0時30分であることもあるし、いろいろとあるはずだ。)
(2) VTR
もう一つ、示しておこう。
箱のなかの猫を、VTRで撮影して、1万年後に観測したとする。すると猫は、1万年後に、生死が決定することになる。とすれば、猫は、1万年もの間、長生きできたことになる。(これは、「並行宇宙」という説でも同様。)
以上の (1) (2) の問題には、何らかの解釈ができるかもしれない。しかし、やはり、とうてい納得しがたい不自然な解釈となるだろう。量子力学の外の世界のことを、量子力学で説明しようとすれば、しょせん、おかしな結論を避けられないのである。
たとえば、「シュレーディンガーの猫」のシステムを設置して、猫のかわりに人間を入れて、0時以降の1時間の間に人間を毒殺するようにしておく。そして1時に、発見者が観測する。すると、被害者はすでに死んでいた。
物理学者は「被害者は1時に死んだのだ」と判定した。そのあと殺人者は、「1時には、おれは別のところにいた。つまり、アリバイがある。ゆえにおれは、犯人ではない」と主張する。また、「観測したことで死が確定したのだから、監獄に行くべきは、おれではなく、発見者である」と主張する。
物理学者は、「なるほど」と認めた。「観測されるまでは、被害者は半分生きて半分死んでいたのである。被害者を殺したのは、発見者である。ゆえに発見者を監獄にぶち込め」と。
かくてこの国では、殺人はやり放題となった。逮捕されるのは、殺人者ではなくて、発見者なのだから。
「生死を決定するのは、毒や銃ではなくて、観測である!」と物理学者は叫んだ。
「目で殺すのよ!」と、糸屋の娘も叫んだ。
「やってられんね」と、私はぼやいた。
【 コメント 】
「並行宇宙」について、少しコメントしておこう。
「並行宇宙が存在する」という考え方は、いかにも奇妙である。では、なぜ、こういう発想が誕生したのか? 実は、理由がある。
猫について、生死という状態が半々であることはありえない。とすれば、命題の真偽値が半々であることになる。そこで、「猫が生きている」および「猫が死んでいる」という二つの命題が半々で成立する状況として、「二つの宇宙が存在する」と解釈するわけだ。
このようなことは、奇妙きわまりない。もちろん、こんなことがあるはずがない。では、この考え方の問題点は、どこにあるのか? その本質を示そう。
「猫が生きている」および「猫が死んでいる」という二つの命題が半々で成立する、というのは、正しい。ただし、それを「現実の世界で成立する」と見なしたところに、根源的な誤りがある。正しくは、「現実の世界で成立する」のではなくて、「頭のなかの世界で成立する」のである。
「頭のなかの世界」とは、「想像された世界」であり、「思考された世界」である。そこでは、「猫が生きている」および「猫が死んでいる」という二つの命題が半々で成立する。ここでは、「猫は生きているかもしれないし、猫は死んでいるかもしれない」というふうに、「……かもしれない」という形で、命題が半分成立しているのである。ただし、それはあくまで、その人の頭のなかでのことだ。「命題が半分成立している」というのは、事実ではなくて、頭のなかの世界でのことだ。
これは、第三者から見れば、「命題が半分成立している」のではなくて、「『命題が成立している』と彼は半分思っている」という状態だ。(「思っている」という程度が、前述の「確信度」である。)
こういうふうに、事実の世界と、頭のなかの世界とは、別々のことである。頭のなかの世界には、並行宇宙がある。頭のなかでは、「猫が生きている」という宇宙と、「猫が死んでいる」という宇宙が、どちらも半々の可能性によって信じられる。しかし、その二つの宇宙は、あくまで、頭のなかの宇宙であり、現実の宇宙ではない。なのに、そのことを理解しない人々が、「並行宇宙は現実に存在する」と勘違いしてしまうのである。
彼らの主張は、論理的に間違っているのではなくて、現実と虚構とを区別できなくなってしまっているのだ。その点では、狂人と同様かもしれない。正常な人は、「自分は鳥だ」と想像することはあっても、それを想像の世界だとわきまえている。しかし狂人は、「自分は鳥だ」と信じると、現実に自分が鳥だと見なして、現実と想像との区別がつかなくなる。
そういう狂人に似ているのが、「並行宇宙」ということを主張する人々だ。彼らを「奇妙だ」と思うのは、当然だろう。「彼らの主張にも一理ある」と思う物理学者は、現実と想像との区別がつかなくなっているからだ。
【 追記 】 ( 2005-05-25 )
「多観測解釈」と呼ぶべきものについて、追記しておこう。
「並行宇宙」を主張する解釈は、「多世界解釈」と呼ばれるが、これは、物理学の世界では「エヴェレット解釈」と呼ばれる。
ところが、この解釈(エヴェレット解釈)を、「複数の宇宙が並行して存在する」という意味で解釈せず、「複数の観測者が宇宙を観測する」というふうに解釈する立場もある。これを「多観測解釈」と呼ぼう。
多世界解釈も多観測解釈も、根っこでは「エヴェレット解釈」となる。物理学的な定式化は、どちらも同じだ。ただし、それを一般向けに解説するときに、立場が異なる。次のように。
・ 多世界解釈 …… 複数の宇宙がまさしく存在する。
・ 多観測解釈 …… 複数の宇宙が観測者ごとに観測されるだけだ。
前者では、A,B,Cという宇宙がまさしく現実に存在することになる。猫で言えば、Aの猫は生きており、Bの猫は死んでる、というふうになる。
後者では、A,B,Cという宇宙がそれぞれの観測者ごとに観測されるだけだ。現実の宇宙は一つであるが、観測される宇宙が観測者ごとに異なる。一つの宇宙に対し、ある観測者はAという宇宙を観測し、ある観測者はBという宇宙を観測する。猫で言えば、ある観測者は「猫は生きている」と観測し、ある観測者は「猫は死んでいる」と観測する。
この二つは、どちらにせよ、論理的な矛盾は含まない。ただし、難点の意味合いは異なる。
・ 多世界解釈 …… 狂気的。
・ 多観測解釈 …… 非科学的。
前者(多世界解釈)は、「複数の宇宙が存在する」と見なす。これは、狂気的である。頭のなかで複数の宇宙があると見なすのはいいが、現実に複数の宇宙があると見なすのは、正気の沙汰ではない。(すぐ前に述べたとおり。)
後者(多観測解釈)は、「観測者ごとに異なる宇宙が観測される」と見なす。これは、狂気的ではないが、非科学的である。そもそも、科学とは、何か? 「客観的に実証されること」が大前提となる。客観的というのは、「観測者によらず、誰もが同じ結果を得る」ということだ。それを否定したら、もはや科学とは言えない。
非科学的な判断の例としては、宗教や感情がある。
たとえば、宗教だ。ある人は「神は存在する」と主張し、ある人は「神は存在しない」と主張する。どちらが正しいか? どちらも客観的に実証できないから、その問題はもはや科学の問題ではない。また、かつて「常温核融合」というものが報告されたことがあったが、再現性がほとんど皆無であったために、科学とは見なされなかった。「常温核融合」というものがあると信じた人は、それを信じているのだろうが、客観性がないせいで、科学とは見なされなかったのだ。ただし、「絶対にありえない」と実証されたわけでもない。
また、感情もそうだ。一人の女性を観測して、ある男は「美しい」と判断し、ある男は「美しくない」と判断する。観測結果が、人ごとに異なる。そのどちらが正しいか? そんなことを考えても、無駄である。観測結果が人ごとに異なるような事柄は、もはや科学の扱う分野ではないのだ。その女性が美しいか美しくないかは、科学の問題ではなくて感情や趣味の問題である。「勝手にすれば」と言えばいい。
要するに、観測結果が客観的に一致しないことは、客観的ではないがゆえに、科学の扱う分野ではない。とすれば、多観測世界を主張する人々は、「量子力学は科学ではない」と主張していることになる。なるほど、その主張によれば、シュレーディンガーの猫のパラドックス(特にコペンハーゲン派の矛盾)を回避することができる。短所を消すことができる。しかし、そのかわり、長所までも消してしまうのだ。なぜなら、多観測解釈によれば、量子力学はもはや科学ではないからだ。
たとえば、量子力学が「これこれのことが予想される」と厳密に結論しても、そのことには何の意味もない。なぜなら、その予想が当たるかどうかは、まったく意味がないからだ。その予想は、ある人には「当たり」となるが、ある人には「はずれ」となる。人ごとに異なる結果が観測される。だったら、何が観測されても、その観測には何の意味もない。量子力学というのは、ただの占いみたいなもので、ゴミと同然になってしまう。
多観測解釈は、量子力学にひそむ難点を消し去るが、同時に、量子力学そのものの価値をも消し去ってしまうのだ。
多観測解釈を主張する人は、多世界解釈について「俗説だ」と批判する。しかし、そう批判する自分自身が、非科学主義に陥ってしまっている。多観測解釈は、俗説というより、珍説なのである。非科学主義に陥った多観測解釈は、たとえ矛盾を含まなくても、価値がゼロだ。
( ※ エヴェレット解釈は、多世界解釈であれ、多観測解釈であれ、どっちみち、無意味である。では、なぜ? 理由は、その前提にある。「シュレーディンガー方程式は、ミクロの世界もマクロの世界も扱える」というのが、エヴェレット解釈の前提だ。しかし、その前提は、まったく成立しないのだ。詳しくは、次の[ 補足 ]などを参照。)
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《 補足1 》
「では真実は?」と読者は疑問に思うだろう。そこで真実を、簡単に示しておこう。
まず、あらかじめ、ここまでの全体を読み通しておいてほしい。それを前提とした上で、以下のように説明する。
エヴェレット解釈では、「複数の状態が混合している」というふうに見なす。詳しくは、こうだ。
・ 多世界解釈 …… 複数の「実際の世界」が混合している。
・ 多観測解釈 …… 複数の「観測された世界」が混合している。
そして、シュレーディンガー方程式は、この混合している状態を示す、と見なす。しかし、その解釈が、根源的に狂っているのだ。観測されていない状態とは、複数の状態が混合している状態ではない。では、正しくは? 次のように言える。
「観測されていない状態とは、未確定の状態である。観測された状態とは、一つの世界における一つの状態でもなく、複数の世界におけるそれぞれの(各一つの)状態のことでもなくて、確定した状態である。」
要するに、観測とは、「未確定の状態から、確定した状態へ」というふうに、確定の有無が変わることだ。
わかりやすく言おう。未確定状態とは、白か黒かはっきりしない状態である。そこでは、白と黒とが混合して灰色になっているのではなく、白の状態と黒の状態が並存しているのでもなく、白と黒のどちらにも決まっていないのである。
観測との関連でいえば、こうだ。
観測したから「未確定から確定へ」と変わったのではない。むしろ、「未確定から確定へ」と変わったから観測できた、というだけのことだ。── ここでは、因果関係を逆に理解してはならない。注意。
以上の問題は、二重スリットで考えると、よくわかる。
二重スリットでは、真空中では波の状態であり、到達点(乾板)では粒子の状態である。
電子銃 波 乾板
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波の状態では未確定状態であり、粒子の状態では確定状態である。
ここでは、観測したから波が粒子になったのではない。逆に、波が粒子になったから観測されたのだ。
そして途中で、波の状態では、「複数の粒子状態が混合している」のではなくて、「粒子になっていない」(確定していない)のである。
この件は、「細々とした周辺的な話題」のうちの「波動関数の収束」の項目を参照。原理的な話もあるので、ぜひ読んでほしい。
以上で、この論考を終えます。
URL http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja2.htm (本ページ)
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja.htm (猫の表紙)
[ THE END ]