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つける薬 議論バージョン
(大工事中!!!)
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このページをダウンロードして皆に配ってください。(^_^;)
Vectorさんからも貰えます。
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※ (くどいようですが、)本HomePageは、出来れば(本当に出来れば、)Microsoftインターネットエクスプローラ4.0以降で参照、印刷してください。ネスケでは見れないことに作成後に気付きました。(文字の大きさ、Form、印刷などが滅茶苦茶になります。)本当にスイマセン。決してMSの回し者ではありませんが、ただ、せっかく(素人ながらも)レイアウトを気にしながら作成したものですから...。急いで直します。m(_ _)m
※ “議論”と“自己判断”は、「対象が他人であるか?」の違いだけで、同じものとして読み進んでください。
「認知心理学的錯誤」「確率推論の錯誤」「論理推論の錯誤」「データの信憑性」「正しい実験方法の難しさ」「悪意のマインドコントロール」、とザッとあげても人間とは、かくも過ちを犯しやすい動物です。しかし、見方を変えて、“これらを知った上で応用行動が行なえる”のは人間ダケということも忘れてはいけません。少々のトレーニングでより良い方向が見い出せるなら、やってみない手はないでしょう。しかし、「でも、どこに錯誤があるの?」と、気がつかない場合が実は殆どです。好例と思われるものをここでは4つだけ提出しておきます。
まず、「スズメは空を飛ぶ」「カラスは空を飛ぶ」「ツバメは空を飛ぶ」「ハトは空を飛ぶ」
更に、「スズメは鳥である」「カラスは鳥である」「ツバメは鳥である」「ハトは鳥である」
...という観察事例から推測すると、実に容易に「ゆえに、鳥は空を飛ぶ」と結論できてしまいそうな気がしますが、皆さんはいかがでしょうか? 簡単に、結論から言いますと、「アレッ? じゃあダチョウは?ニワトリは殆ど飛べないよね?ペンギンなんか絶対飛べないし...。」ということで、「ゆえに、鳥は空を飛ぶ」からは、かけ離れた例を簡単に列挙できてしまいました。あたかも正しい推論のように感じられたのですが、正確に言いかえるのであれば、「鳥の中には飛べるものもいる。」程度のことだったのです。
血液型と性格の相関関係を否定するテレビ番組で、「植物にも血液型があるという。ならば、植物にも性格があるというのか? 植物に性格などあるわけがないから、血液型と性格の間には何の関係も無いのだ。」...という論法があったそうですが、話が飛んでしまっていることに皆さんは気がつけますか? 話を整理してみます。
★<主張者>は「血液型と性格の間には相関関係がある。」とダケ主張しているのに対し、<否定者>は、あたかも<主張者>が「血液型と性格の間には密接な関係がある。植物にも血液型があるなら、植物にも性格があるはずだ。」と主張しているかのように勝手に暴走し、“植物には性格が無いのは明白である。ゆえに、この主張は成り立たない。★
...という展開です。が、ここで冷静に、考えてみてください。<否定者>は、正確に言い直せば“性格は血液型によって形成されている。”という主張に対する否定であって、確かに<主張者>が必要条件ほどの“密接な関係”を主張しているのであればこれはこれで正解でしょう。しかし、<主張者>は(“相関関係がある”とは主張していますが、)決してそのような主張はしていません。すなわち、<主張者>を厳密に否定できるものでないことはお解かりいただけるはずです。よって、この<否定者>は<主張者>から「性格というものを有する生物、つまり人間の場合、血液型と性格に相関関係があるようだ。と言ってるんですけど!?」と、切り返されてしまうわけです。
ある有名人が、たまたま母の形見のお守りをつけているときに交通事故を起こしたそうです。一週間も意識不明でしたが、死ななかったのはこのお守りのおかげだ。..ということを力説し、数人の聴衆も納得していました。が、「お守りを持っていたのに重傷を負った。」ということが問題にならないのは変ですネ。誰かに、「そのお守りこそが、事故という不幸を呼び込んだのだ。」と言われても反論は難しいでしょう。 ...(認知心理学的にも、)人間という動物は“知らず知らずのうちに自分の主張に有利なように解釈してしまう”傾向があるようです。
(関連して、)例えば...「奥さん、○○病院はいいわヨ! うちの子なんか38度も熱を出してたのに1週間もしないうちにケロッと治っちゃったんだから。 前にかかってた××医院とは大違い!」などという主張によく出くわします。が、もうチョッと思慮深く発言した方が良いのではないかと...(^_^;)。 「タダの風邪なら放っておいても一週間で治った可能性もあるのではないかと...(^_^;)。」「以前に罹った風邪とは種類が違っていた可能性もあるのではないかと...(^_^;)。」「今だかつて、そこの病院で、誤診によって酷い目にあった人っていないんですか? ヤブだって言う人もいるのではないかと...(^_^;)。」「処方や治療が他の病院と大きく異なるんなら話は解かり易いのではないかと...(^_^;)。」「単にやさしい先生だったのではないかと...(^_^;)。」 ...この場合、その主張は→“うちの子は○○病院で治った。”→“その治療は他の病院に比べ良かった。”→“だから私は○○病院を勧めるのだ。”という構造のようです。が、問題は「果して本当に“他の病院に比べ”治療方法が良かったのか?どうか?」です。 対照実験も行なっていない、または、行なえないのに、(安直にも)原因をそこに見い出し、(驚いた事に)結論まで出してしまう論法です。 w(゚o゚)w,,OH! 井戸端会議なら別に問題ではありませんが、こんな論法で他人を説得してしまった経験は皆さんが持っていることでしょう。 現実的に我々が直面する問題は“複合因子”による結果が殆どで、実にその切り分けが難しくなっています。主張の根拠に出来るような因果関係は、かなり厳密な実験を積み重ねなければその姿を現してはくれないのです。
以下のグラフを見てください。 ...実は全く同じデータを表現を変えてグラフ化したものです。馬鹿げたトリックですが、注意していると色々な媒体でこのような手法が用いられています。 勿論、悪意でこのような表現をしているのではないでしょうが、ウッカリしていると事実とかけ離れた印象を植え付けられることになります。
思わぬ落とし穴があなたを取り巻いていますネ。
また、説得力というテーマで一例。これは、“チョッとした根拠(統計データなど)の提示で随分と自分の主張に対する印象を変えることができる。”という主張ですが、好例かどうかは少々疑問です。(^_^;)
皆さんはテレビショッピングなどでよく販売されている、腹筋トレーニング器具などの“自称、素晴らしい商品”に対してどのような印象を持っているでしょうか? 過去の“ブラ下がり...”や“調理器具”などの経験から、「どうせ今までの商品とそう変わり映えするはずが無い。」という方も少なくないものと思われます。私もそのようなクチなのですが、最近、深夜のテレビショッピングで「おや!?」という説得を目にしました。アメリカの通信販売製品を番組ごと輸入するというごくありふれた番組で、やけにオーバーな司会者やユーザーのリアクションが面白い、例の“アレ”です。その日もその能天気さに苦笑いしながら楽しんでいたのですが、番組の合間に日本側の番組主催者と思われるコメントが入り、そのコメントが実に新鮮な説得力を持っていたのです。一分程度のものでしたが、主旨は...
★「アメリカではこういった商品が、年間600程度、その専用の番組と共に世に出ている。しかし、ヒット商品として残る商品は10%にも満たない。アメリカの消費者も馬鹿ではない。この数%の優良商品の中から、更に厳選したものダケを我々は日本で販売しているのです。」★
...いかがでしょうか? 生活の便を目的とした発明品が次々と世に出ているのは事実です。が、本当に便利で商品価値があるものなのか?は、実に疑問と言わざるを得ません。ところが、解かりやすい数字を提示して“その商品評価を既に済ませてある。”というのはなかなか論理的に見えます。取扱商品の利点ばかりを押すよりは、実に明解に聞こえました。役者まがいのユーザーの個々の意見では疑惑は深まるばかり。厳密ではなくとも大衆の統計を提示されることで、商品に対するイメージが変わったのは私だけでしょうか? (悪例である。という意見が多いようでしたら削除します。)
それでは、以下の“用法、用量”を守って正しくお使いください。
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◆◇◆ 用途 ◆◇◆
会社、学校、議会などの会議の場で、変な方向に結論が持っていかれてしまうようなとき。
(1つのルールを確認しあって、平等な議論を!)
仲間なのに、くだらない誤解で、関係が悪くなってしまうような傾向にあるとき。
(最後まで話し合って、相手を理解し、自分を伝えれば、よりいっそう仲良し!)
読書、討論会など、他人の主張を正しく評価したい場合。
(世の中は、間違った知識でいっぱいです。驚くような有名人がブッ飛んだ主張をバラ撒いています。)
個人的な決断、評価に、“自信が持てない”、または、“本当のより良さを追求”する場合。
(“ただ、なんとなく”で大切な人生を無駄にしてはいけません。チョット踏み込むだけでこんなにも納得できる行動がとれます。)
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◆◇◆ 用量 ◆◇◆
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◆◇◆ 注意 ◆◇◆
以下のような場合には、直ちに使用を停止し、他人の目に触れぬよう、シュレッダーにかける等の処置をお勧めします。
“酒飲み話”などの、結論を出す必要の無いような軽度の症状では、ご利用を控えてください。無駄な議論、主張は友人を減らします。
特に重要 「超えにくい個性」 ... 俗に言う“怒りっぽい人”がたまに見受けられます。今までは“性格が悪い”“怒りんぼ”などと軽蔑の対象として処理してきましたが、現在では“感情”の研究もかなり進み、どうも違った観点からそういった人を理解しなければならないようです。(勉強が間に合いませんでした。専門家の方、訂正、補足、ご教授ください。)というのは、怒りっぽい体質の人は、“そういう科学物質が脳内に分泌しやすい人、またはそういった状態になってしまった人。”と説明されており、いわば“汗っかきな人、風邪を引きやすい人”とあまり変わらず、“本人に責任の無い病”と考えられるのです。心に影響は出るが、体の病気ということです。精神治療の“向精神薬、精神安定剤”というものは全く生理学的に物質をコントロールするものであって、カウンセリングなどの心理的な治療方法ではありません。そしてこれらは治療の現場で、素晴らしい成果を上げているということです。感情も生理現象と理解できる部分がありそうです。こう考えると今まで“怒りには怒りを!”と対処していた人も“このような状態の人は、今は風邪をひいているのだ。”程度に、冷静に接することができるのではないでしょうか?(アマイか?) また、もしあなたがそのような方なら、“トイレに行くのを、もう暫く我慢する。”が如く、何とか感情を押さえるよう努力してはいかがでしょうか? (これもアマイ? ...つまり、議論以前の問題です。“??につける薬”の使用停止をお勧めします。)
(...説得力が無い文章ですねぇ。 このあたりの事は詳しいページを作らなくてはなりません。が、もう暫くお待ち下さい。(^_^;) )
特に重要 「超えにくい個性2」 ... (上記の補足です。)上記は、精神医学、心理学的見地からの「超えにくい個性」でしたが、別に、進化生物学、分子生物学、遺伝学的見地からの“性格、気質、個性”というものの扱いを少々記述しておく必要があります。 上記ともども、詳しくはリンクから関係機関を参照してください。 主旨は、...
人間の性格は、確かにその殆どが(その人間の)“置かれた環境”“学習”などによって獲得されるもので、本能、遺伝といった観点では論じきれるものではない。しかし、根底に存在する、言わば“気質”に関しては遺伝的要因を認めざるを得ない研究成果が出始めている。 もし性格というものが、全て後天的に獲得するものであるならば、その矯正も可能であろう。が、広義な性格というものの一部に先天的な要因が存在している以上、超えられない壁を前提にしないと酷く困難な努力を強いることにもなりかねない。
(例えば人間とゴリラなどの異なる種を思い浮かべると、筋肉構成の遺伝的影響の大きさは理解しやすいでしょう。同様に、同じ人間という種の中でも、遺伝的に筋肉や骨格に差が現れることも理解しやすいですネ。こういった“生まれつき筋肉が付きにくい方”に「世界的なスプリンターになれ!」というのはキツイ話でしょう。 ...これと同様なことが、“生まれつき明るい人、暗い人”“緻密な人、おおまかな人”“前向きな人、破滅的な人”などのように、“性格”と呼べるものの一部にも起こっているようです。 確かに「ココとココは遺伝的な影響が強い。」などということは全て解明されているわけもありません。今後の研究次第だそうです。 が、現時点ではっきりと予測できる研究結果は、「人間の性格(行動パターン)は、少々の遺伝的要因と、後天的な学習によるものだ。」ということだそうです。)
特に重要 「超えにくい個性3」 ... (上記の2点について、)...つまり、「いくらあなたの主張が論理的に正しいとしても、それを受け入れづらい気質を持った人々が大勢存在する。従って、“良かれ”との考えからとった行動でも、相手によっては暴力になってしまう場合もある。ゆえに我々は相当な慎重さをもって他人に対する指導(?)を行なう必要がある。」という事です。 生まれつき体力が平均より劣ることを責めることはできませんヨネ。腕立て伏せを100回できるようにするには、その人の体力差を考慮した、それなりのトレーニングを積み重ねて達成させるのが当然ですネ。 “性格”も“体格”などと同様に考えなければならないようです。例えば、スパルタ教育は50人中、50人に適するわけではありません。その人の個性、気質を前提としたアプローチが重要なのです。 (あまり先頭に立つことを好まない私としては、「“リーダーシップ”などは、正に“遺伝的気質”に該当しそうだな。」などと考えてしまう今日この頃です。(^_^;) )
また、“ジャイアンツファン、アンチジャイアンツ”などに見られるように、“強大なものに魅かれる人と、毛嫌いする人”のような“好き嫌い”は、論理的な説明はできないと考えてください。中には「これこれこうだからジャイアンツが好きだ!」と、あたかも論理的に自覚してジャイアンツを好んでいる方もいるようですが、これは大きな錯誤の場合が殆どです。実際に議論になった場合には、自然と“この論理自体の好き嫌い”(「これこれこうだから」という部分)を議論することになってしまっていることに気付かなければなりません。 “強引な男性を好む人”、“優しい男性じゃなければ嫌な人”、“切れ長の目がすきだ”、“ポッチャリしていた方がいい”、“外人が好きだ”...などなど。 このような“好み”を変えることは“論理”では無理ですネ。 「俺は高級感が有る物にあこがれる。外人は高級感がある。だから俺は外人が好きだ。皆も好きにならなければならないのだ!」 ...なるほど...そんなもんですかネェ...。 論理の構築方法はよさそうですが、柱の一つ一つが“物凄い”んではないか?と...。(^_^;)
“常に主観のみで判断、評価を繰り返し、これからもそうし続ける方”は、いつも通り、「私が言うんだから間違い無い!」など、帝王の名を欲しいままに行動してください。あなたの人生ですし、“個性を尊重する”、または、“新しいシステムを模索する”という意味でも良い実験であり、否定できるものでないことは明らかです。しかしハタから見れば、そう言う状況を“思考停止”と呼び、更に“ひどく滑稽に見える場合が殆ど”ということも決して忘れてはいけないと思います。
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◆◇◆ 用法 ◆◇◆
ご使用に際しては以下の用法を心がけてください。また、“主旨”を理解した上でのご使用は、効果を更に増強しますので、お時間の許される方は、主旨(申し上げたい!)をご参照ください。(以下の用法は、小児用 つける薬からの抜粋です。)
特に重要 各所で繰り返されていますが、重要ですので頭に叩き込んでおいてください。 (まず、1。) 己の限界を知る ... 何故議論をするのか? 何故緻密に思考しなければならないのか? ...「皆さんは、自分が誇れるような技術や能力を持っていますネ?」 そのことを思い浮かべてください。 「こんな事が出来る。あんなことも出来る。」 勿論、自分が得意な分野の話ですから、かなり正確に自分の能力を評価できるに違い有りません。 が、ここでチョッと視点を変えてみましょう。 「...ということは、自分の出来ないことも正確に理解していませんか?」 自分が未経験の分野や未知の分野の話でしょう。 ここで、全体の知識、知恵というものを仮定して、“自分の出来る範囲は、全体の何パーセントぐらいなのか?”を考えてみてください。1パーセントにも満たないことに気が付くはずですネ。 どんなに立派な功績を残した方でもあまり変わるものではありません。人間一人の持ち得る能力などその程度のものなのです。 まして、勘違いや、思い込みの如何に多かったことでしょう。
例えば「プレジデン○」なる雑誌があります。エグゼクティブ達による、エグゼクティブのための雑誌と考えて間違い無いでしょう。世界情勢から、生き方まで、実に広範な内容です。調査データや、科学分野、歴史などの学術的引用、政治的背景などを根拠に、色々な“(言わば)考え”が明解に扱われています。 ...しかし、ここで考えてみてください。「これらの情報を“本当に”あなたは理解できるのですか?」 「充分な統計知識を持っていますか?(“平均”は知っているでしょうが、“モード”って何でしたっけ? “標準偏差”の導き方を覚えていますか?)」 「あなたは経済学者?政治学者ですか?」 「数ある思想や民族をどれくらい理解していますか?」 ...当たり前のように読んでいた雑誌なのに、果して今まで“本質を理解”していたのでしょうか? それぞれの記事はそれぞれのエキスパートが責任を持って執筆しています。出来る限り解かり易く書いてはいるでしょうが、彼らの理解に近い理解を持てる方は多くはない筈ですネ。彼らの10分の1も勉強していないのですから。
そこで知恵有る人は辞書を片手に“より深い理解”を求めます。(たかが雑誌にここまでやる人は少ないでしょう。) 例えば「現代用語の○礎知識」。 しかし、開いてみて驚きます。「自分はこの知識のうちのどの程度を知っているんだろうか?」 「これで基礎なのか?」 ...人間は年齢を重ねるにつれ、何でも解かったように勘違いしてしまうようです。少しずつ壊れてしまうのでしょうか? 「あなたは何歳の時に壊れてしまいましたか?」
...まず我々は、自分の能力の評価から始めなければなりませんネ。出来る事と出来ない事を正確に理解することです。 あなたが今直面している問題は自分の範囲で解決できますか? 「出来る。」という判断すらも過信かもしれませんヨ。 ...だから他人の知識と協働しなければならないのですネ。だから調査、検証しなければならないんですネ。 さあ、新しい理解のために議論のテーブルにつきましょう。精密な思考を心がけましょう。 \(^O^)/
特に重要 (次に、2。) 今あなたと同じ議論のテーブルについている方は、たとえ敵対する主張を持っていても“目的は同じ”はずです。仲良く、建設的に話し合わなければなりませんネ。“異論、反論こそが、その主張の完成度をあげる。” のでしたネ。今のあなたの敵こそが、より良い理論の構築にとっての最高のパートナーの可能性が高いのです。あなただけの考えで出来上がる理論は、残念ながら“あなたの範囲を超えられない”つまらないものとなることでしょう。 違う見識とのコラボレーション!
特に重要 (以上を前提として、3...次の段階では...。) 立ちはだかる問題や議論の争点が、たとえあなたの感情を逆撫でるような事柄であっても、“思い入れ”などの感情を廃し、あくまでも客観的な観察をもって、評価する事を心がけましょう。 第三者的な冷静な観察が問題の本質を浮き彫りにしてくれます。 (視点を変えると)議論の場であまり利害関係に関わっていない人からすれば、“熱くなって、簡単なことも理解できなくなっているあなた方は、単なる馬鹿者に見える”ことを肝に銘じておくことです。例えば将棋。一番強いのは(端で見ている)“三人目”ですネ。 科学の第一段階は、確かに“驚き、思い入れ、防御反応”などの感情から始まります。感情は重要です。 ...が、そこまで。動機程度にしておいてください。 「それじゃぁ本格的にかんがえてみましょうか。」と、第二段階に入ったら一切の感情を捨てましょう。曇った目では本質に迫る事はできません。第二段階では、“自分をも第三者の視点で観察できるマシーンのような人間”になっていなければなりません。(「ゴルゴ13」より。CIAエージェント談 (^_^;) )
科学的思考(行動)様式こそが、議論を円滑に、また、より良いと思われる方向へ導いてくれます。くれぐれも“感情”や“思い込み”に惑わされぬよう! 表現は不適切かもしれませんが、“怒ったら負け!”です。あくまでも論理的に!
議論が噛み合わない最大の理由は、同じ経験(知識)を共有していないからではないでしょうか? 判断は、当然自分の中の知識を総動員して行なわれるべきものなのですが、総動員されたものが全く異なっている場合が実に多く感じられます。これでは自分の主張が“通じない、理解できない”のは当たり前ですネ。このような場合では、“小さな一つの議題でも長い前置きが必要な場合も多いこと”を容認した上で、じっくりと事を運ぶように心がけてください。 理解させることを諦めて議論を放棄する態度と、面倒だが、共通の判断基準、共通の判断材料を成立させた上で、より良い解決策を皆で模索することと、よく秤にかけて議論を続けてください。 「この馬鹿が...何にも解かっちゃいないくせに...。」などと、議論を放棄するのは簡単です。が、あなたと同様に相手も「こいつは理解力に欠ける。」などと思っていることも重要です。 後で馬鹿呼ばわりされないためにも、是非とも最後まで議論してください。 キーワードは、...
★ 「何であんな主張が出てくるんだろうか?」
★ 「彼の主旨と、私の“それに対する理解”は正しいのだろうか?」
★ 「私が理解できない、何か重要な知識を根拠にして、彼はこんな主張を繰り広げているのではないだろうか?
ひょっとして、“私の知識不足”?」
★ 「私の主張を理解できないのは、私の説明能力が問題なのではないだろうか?」
...これらの他にも沢山ありそうですネ。
(上記の補足ですが、こんな場合もありませんか?)...上手い文章表現ができません。 以下の“状況”で理解してください。
一元一次方程式しか理解していない人間(A君)は、“x+3=5 ゆえに x=2”のように、...「複雑な現象でも、解かっている数字を整理し処理すれば、簡単に未知数を求めることが可能である。」 ことと、“x−4=y+2 ゆえに x=y+6”のように、...「但し、未知数が2つ以上では、それらの関係を表すことはできても、決して数を特定できない。」 ことを知っている。 しかし、二元連立一次方程式を知っている者(B君)は、「もう一つの“xyの関係を表す式”があれば、その2つの未知数を特定できる。」 ことを知っている。(但し、三元連立方程式は知らないものとする。)
ここで(B君)は(A君)に「うまくすれば、たとえ未知数が何個あろうともそれらを特定できる日が来るに違いない!」と主張した。“関係と関係の交点が、それらを特定することができる。”という一つの事実を理解しているためだ。 が、しかし、連立方程式など夢にも思えない(A君)にとっては、「こいつ、何をわけの解からないことを言ってるんだ? 数学の知識は私よりは有るようだが、俺だって方程式ぐらい解けるんだ! そこまで高度な話は受け入れがたいゾ。」と考える。 ...ここで議論は爆発する。 が...、(B君)は、ふと疑問に思った。「連立方程式って知ってる?」 (A君)「何、それ?」 ...
★ 分岐1 (B君)「そんなことも知らずに反論してたの? 議論にならないネ。」 (A君)「なにを知ったかぶりして。数学者でもない人間が偉そうな事を言うな!」
★ 分岐2 (B君)「これこれこうやると、2つの未知数が特定できることが解かってるんだ。」 (A君)「フン! そんなこと解からないネ。理解しようとも思わない。 とにかく、何個もある未知数を特定できるなんて、あるわけないネ。」
★ 分岐3 (B君)「これこれこうやると、2つの未知数が特定できることが解かってるんだ。」 (A君)「へぇ〜。そうなんだ!..だとすると、君の主張も理解できそうだ。連立方程式の関連書籍でも紹介してヨ。 僕も勉強してみたいナ。」
...解かりにくい話です。m(_ _)m 申し上げたいのは、「(分岐1)説明責任は誰にある?」 と 「(分岐2)知識不足に気が付け!」です。 「分岐3で行きましょうヨ!」\(^O^)/
議論に熱中するあまり、“相手に対する批判”に終始してしまう場合が多く見受けられます。言ってみれば“ガキの喧嘩”です。“会社を立て直すため”“仲直りするため”“世界のため”など、お互いの共通な目的を常に確認しながら議論を続けましょう。議論相手とは、当然必ず“共通の目的”を持っているはずで、しかも、大きな向上心があるからこそ、この議論のテーブルについているのではないですか? そんなに素晴らしい人間との仲たがいは、本当に大きな損失でしょう。 (極端な例ですが、)例え“過激なカルト教団”であっても、そこに入信する信者たちの動機の多数は、“幸福な世界”だったりすることも事実です。 (困りものですが、途中から変な方向に行っちゃうダケで...。)
主張には必ず“客観的な根拠”が必要です。根拠の中に“無知”や“勘違い”が見え隠れしていませんか? “思い込み”→“結論、主張”の図式は、笑いはとれても、決して支持は得られないでしょう。会議前の“勉強(調査)”も重要ですネ。
根拠に“確度”を持たせる意味で、“出典の明示”が必要です。検証の機会を与えてこそ、相手も納得するのです。もし明示できない場合では、根拠ではなく、“印象”程度であることを忘れずに。
必ず“より良い方向”は発見できるはずです。思考停止に陥らないように! (思考停止とは、直感に甘んじること。簡単に諦めること。)
この様式で会議が進むとすれば、あなたは社長、会長と完全に同格です。私利私欲を排除し、正確な論旨を心がけ、堂々と渡り合いましょう! 但し、“お偉方”が、年齢的にも、資本主義構造上にも“目上”で有る場合が多いでしょう。言葉遣いには充分配慮してください。例えば“思考停止”などの言葉は、科学者同士ならただ単に“観察上の言葉”と解釈してくれる事も多いでしょうが(?)、一般には“侮辱”に当たる場合が殆どですネ。議論と人付き合いは臨機応変に!
当然、逆に自分より格下の人間にも注意が必要です。議論のルールを確認し、完全に同格に扱いましょう。雑な対応は軽蔑の元。信頼まで失いかねません。
会議中(または、自問自答中)に1つアドバイスするとすれば、“帰納的推論の錯誤”が頻回に起こるでしょう。“ペンギン”の例にも見られる通り、「××さんの前提は極めて曖昧です。“である。”ではなく、“傾向がある。”程度のことではないですか?」のフレーズを忘れずに。但し、これは当然あなたの主張にも当てはまりますので、要注意!
“立証(挙証)責任の転嫁”もよく見かけますネ。“誰が立証すればよいか?”を明確に確認し合うことで“水かけ論”などの破滅的な状況”から脱出できる場合もあります。最後まで希望を捨てないで努力しましょう。“幽霊がいるか?いないか?”なら、“いる”と主張する人間が、一人連れてくるべきであって、“いない”と主張する人間に対して“いない事を証明しろ!”...は、よくなかったんでしたよネ。
「認識の違いダネ。これ以上議論しても意味が無い。」なども、うまくすれば回避できます。 “認識の違いである”という“議論が進展しない原因”を明確に理解しているにも関わらず、“これ以上は話し合う必要はない”というのも大人気無いですネ。 確かに、“時間的余裕が無かったり、それ程重要でない場合”には大正解の発言です。しかし、“重要”である場合にコレを(ついウッカリでも、)いってしまったら、“思考停止”と言われても仕方がありません。 「認識の違いダネ。今回の争点を評価する基準であるところの知識や情報を共通化するところまで話を戻す必要がある。」...とはならないものでしょうか?
以上に留意すれば、時間を経るごとに真理に近づいていく議論(確信)に、喜びさえ感じられるはずです。
さあ、それでは会議、会議...。
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◆◇◆ 大人用 つける薬(科学的思考様式) ◆◇◆
以下を会議出席者に予め空欄を埋め、印刷し、持ち寄ることによって議論を円滑に進めることが出来ます。今回は、“定量化”に的を絞っていますが、“主旨”や“小児用つける薬”を充分に理解していれば、この程度でも“コム状態”を避けることは可能だと思います。逆に、“小児用”は初期段階において、一度研修のような形で共通認識しておくべきとも思われます。
※ “MSInernetExplorer4”で以下のラインから選択印刷をかけると、A4sizeで3枚の印刷(3枚目には充分な余白有り)となります。
大前提(この議論のテーブルについた理由)
喧嘩になりそうになったときなど、お互いの共通な目的を再確認して、感情を押さえましょう。
今日の議題
議題(から推測される)の持つ目的、と、方向性
これを取り違えていると、当然議論は噛み合いません。不明確な場合は必ず前もって確認すること。"目的のハッキリしない会議など有り得ません。
私の主張
私の主張に対する自らの反論
反論を自ら1つでも想定しておかなければ、説得力の無い、無責任な意見に聞こえがちです。
問題と思われる部分
私の主張を更に発展させると...
新たな問題
最終的な私の主張
こうするべきだ!
備考
以上の事柄ばかりにこだわっていては、なかなか議論が進まない事も多いでしょう。次回を見据えた建設的な意見や、言い足りなかったことなど記述します。
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◆◇◆ 小児用 つける薬(議論、思考の方法) ◆◇◆
一般的な議論のルール
まず、全員の共通の目的(前提)を確認する。
“会社を立て直すため”“仲直りするため”“世界のため”など、お互いの共通な目的(前提)を常に確認しながら議論を続けましょう。議論相手とは、当然必ず“共通の目的(前提)”を持っているはずで、しかも、大きな向上心があるからこそ、この議論のテーブルについているのではないですか? そんなに素晴らしい人間との仲たがいは、本当に大きな損失です。
全員が同じ手法で議論すること。
自治会の集まりなど、予め確認した方が良い場合が多いですね。会議の合間に「その展開は、チョッと外れてませんか?」程度のやり取りはあっていいのではないでしょうか?
全員が同格です。
共通の手法が確認されれば、あなたは社長、会長と完全に同格です。私利私欲を排除し、堂々と渡り合いましょう! 但し、“お偉方”が、年齢的にも、資本主義構造上にも“目上”で有る場合が多いでしょう。言葉遣いには充分配慮してください。例えば“思考停止”などの言葉は、科学者同士ならただ単に“観察上の言葉”と解釈してくれる事もあるでしょうが(?)、一般には“侮辱”に当たる場合が殆どですネ。議論と人付き合いは臨機応変に! 当然逆に、自分より格下の人間にも注意が必要ですネ。やはり同格に扱いましょう。雑な対応は軽蔑の元。信頼まで失いかねません。
怒ったら負け!
あくまでも論理的に、つまり“客観的にも自分の主張が認められる”ように話を展開しないと“皆の敵”になってしまいます。
思考停止!
思考停止は、最大の敵です。“怒る”など、感情的になるのは自覚が容易ですが、“投げやり”は気付きにくく、最も厄介なのは、“それ以上の手法を知らない”場合でしょう。皆さんは、この薬が効いているはずですが、“知らない”人たちには優しく伝え、“知ろうとしない”人たちには退場していただきましょう。 以上全てが思考停止に当たりますが、本当に多く見受けられますネ。
論点を見失うな!
どこかの国会ではありませんが、“社会福祉問題”の議論中に「セクハラ議員の意見など聞けるか!」などは、いかにも破壊的です。もし本当に“福祉問題”を議論したいのであれば“セクハラ問題”は別の機会に議論するべきですネ。(この場合は“攻撃”が主目的なのでしょうが...(^_^;)) “相手に対する攻撃”にスリ替わってはいないか?気を付けましょう。
議事進行役は必要です。
その進行には、参加者全員の協調が必要で、これを全員が理解していなければなりません。が、やはり卓越したした人に“発言者を選ぶ”などの特別な権限を与え、議論全体をコントロールするのが、より現実的です。
全員は、この議事進行役と協調し、自らもその進行を考えること。
勿論、進行役だけに任せていてもうまく行かないことはご経験の通りです。全体を踏まえた進行を、参加者全員の協調でコントロールすることが必要です。
主張者の意見がハッキリしない場合など、進行役をはじめ、全員で整理、理解すること。
進行役がその都度行なえれば最良なのですが、場の雰囲気から判断して「今の??さんの主張を整理すると×××のようでしたが...、」を枕に発言を始めるのも議事の進行に役立ちます。
但し、意見や質問を理解させるのは、それを発した人間の義務である。
自分の主張が相手に伝わらなかった状況を、「君は理解力が無いな〜。」などと言うのは“ブッ飛んだ馬鹿(BB君)”です。何の為に同じ議論のテーブルについたのでしょうか? 但し、それを逆手にとり“理解力の無い自分を棚に上げてヘラヘラしている。”のも“ブッ飛んだ大馬鹿(BOB君)”ですネ。お互いが譲歩しあって建設的に行きましょう。
相違点、同意点を明らかにすること。
発言の始めにこれをやっておくと、主張を理解させやすくなります。
自分の意見の位置付けをまず明確にしてから発言すること。 同上。
多くの参加者が納得できる評価方法を用いること。
“自分独自の評価方法など、この場では何の役にも立たない。”ということを肝に命じておきましょう。例え一般に広く認められている評価方法でも、その場で“自分独自”になってしまっていては、先程と同様、“皆の敵”になりかねません。こんな場合では、「私の分野では、こういった場合、こういう評価方法が用いられていますが、...」と、その評価方法から説明しなければなりません。(T_T) かなり面倒なことですが、最初の一回ダケです。“共通の評価基準によって評価された事項については、感情の入り込む余地は無い。”と、自分に言い聞かせて頑張ってください。
根拠を明確に、また、その確度も同時に告げること。
主張には必ず“客観的な根拠”が必要です。根拠の中に“無知”や“勘違い”が見え隠れしていませんか? “思い込み”→“結論、主張”の図式は、笑いはとれても、決して支持は得られないでしょう。会議前の“勉強(調査)”も重要ですネ。また、「私の根拠は×××程度(確実、不正確など)のものです。」と、その確度も同時に告げると、その根拠を“どの程度重要に扱うべきか?”が自然と皆に解かってきますので、より丁寧です。
根拠の出典を明示すること。
議論が白熱し、自分の主張も信じてもらえないような状況下では、根拠に“確度”を持たせる意味で、その必要が生じてきます。相手に検証の機会を与えてこそ、相手も納得するのです。もし明示できない場合では、根拠ではなく、“印象”程度であることを相手に伝えなければなりません。「これらをご覧になれば、明白でしょう!」と一発で決まり!??
....つづく (作成中! 早く充実させます。スイマセン。)
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議論(評価)の落とし穴
相手の前科を前提に議論していないか?
相手が過去において、いかなる間違いを犯していても、現在の主張は、まず平等に評価されるべきである。
例 どんなに偉大な科学者でも“生涯を通して発表した、全ての理論が間違っていなかった。”ということはありません。10の理論を発表して、2〜3評価されれば良い方でしょう。つまり、みんな間違うんです。
相手が現在置かれている状況を前提に議論していないか?
これは誤解を受けそうです。“社長、従業員、被害者、加害者”など、逆に“置かれた立場”を忘れての議論は有り得ません。“コム対”がここで言いたいのは、以下のような例です。“勝手な判断で、素晴らしい意見の芽を摘んでしまっていいんですか?”...と、言ったところです。
例 「牧師さんだから、科学は語れない。」というのは“遺伝の法則のメンデル”の例もある通り。また、「田舎者は黙っていろ!」「外国人に何がわかるか?」「小僧が、偉そうに...。」など。 (個人的にもよくそういう目に遭いました。(T_T))
権威主義に頼りすぎていないか?
過去の歴史からも明白ですが、“大科学者も間違えます”。「科学に権威はいない。せいぜい専門家がいるだけだ。」と、有名な科学者も言っています。(← これって権威主義?(^_^;))
例 「総理大臣なのだから田中角栄を信じるべきだ。」「大統領なのだからセクハラなど有る筈が無い。」
立証責任を相手に押し付けてないか? (挙証責任の転換)
“誰が立証すればよいか?”を明確に確認し合うことで“水かけ論”や“「認識の違いダネ。これ以上議論しても意味が無い。」などの破滅的な状況”から脱出できる場合もあります。
例 “幽霊がいるかいないか?”なら、「いる」と主張する人間が、一人でも連れて来られれば話は解決です。「いない」と主張する人間に対して「いない事を証明しろ!」...は、“世界中の「いた。見た。」を全て否定しなければ“いない事の証明”は出来ない。”という意味で、不可能な事が明白です。議論になりませんネ。
帰納的推論を錯誤していないか?
これには2通りの錯誤が考えられます。1つは先程の“ペンギンの例”にもあるように、“傾向がある。”程度のものを“全てがそうである。”としてしまう錯誤です。2つ目は“観察事例が全て曖昧なのに結論してしまう。”場合です。以下に例を挙げます。
例 “幽霊がいる。”という結論の、観察事例は“周りの人のうわさ”“視聴率至上主義でデッチ上げられた報道”“オカルトを商売としている人の話”など、客観的に信頼できる情報とは言い難いものばかりです。「確実にいる。」ではなく、「いるかもしれない。」なら正解です。(ただこの場合、もっと言及すると、「いないと考えた方が理にかなっている。」と結論するべきですが...。)
多角的に分析しているか?
錯誤を最小に留めるのであれば、“異なった観点を持つ目”を出来るだけ多く持ち寄って評価しましょう。直感的に、「これは××さんの分野だから、××さんに評価してもらおう!そうすれば安心だ。」というのも、一見確からしいのですが、実は危険な場合もあります。以下の例の“手品師”のように、全く違った視点にこそ、適正な評価、解決策が潜んでいるのです。
例 “超能力”の実験では、物理学者よりも“手品師の立会い”の方が効果的です。悪意の偽超能力者は過去何人も出現しています。物理学者には、その“タネ”を見破ることは困難ですが、手品師にとっては容易な事でした。「物理学者と手品師、両方に立ち会ってもらおう!」...が最良ですネ。
用いられている用語など、定義が共通化されているか?
多義的に用いられる言葉、また、主義、思想も、人によって随分とその定義付けが違っているようです。「どうも論点がヅレていそうだ。」と感じたら、すぐにでも定義を確認し合いましょう。議論終盤で、「な〜んだ、同じ事を主張し合っていたのか...。」などということは出来るだけ避けたいものです。
例 皆さんは“科学”という言葉で、どのような事柄が思い浮かびますか? “コム対”は“思考(行動)様式”という“生き方”にも通ずるような“システム全体”を連想します。が、少年のように夢を持った方なら、“スペースシャトル”。また、都会住まいにウンザリしている人なら、“煤煙を撒き散らす煙突”。“子供に悪影響があるファミコン”と答えたお母さんもいました。一方、“お金”という言葉も、個人差は勿論、同じ人でも、時と場合によっては、悪い印象と良い印象を使い分けますネ。また、“人間”という言葉も、“動物”に近い、不完全さを強調した意味と、“進化途上の神”的な“理性”を重んじた、全く逆の印象があるようです。科学、宗教、哲学を語る上では、まず始めに確認しておくべき言葉だと思います。
複数の仮説で、まず篩にかけたか?
自分の主張に対し自らの手で幾つも反証し、勝ち残ったものダケを採用しましょう。一時の思いつきで議論全体を振り回しては、迷惑なばかりか、“馬鹿者扱い”されかねません。これは、議論の最中、主張を披露する以前、以後、自分に、相手に、何度も繰り返し行なわれなければなりません。
“文書化”をするべき時なのではないか?
まず“思いつき”が生じ、次に“理論武装”を繰り返して、一つの主張が構築されていくわけですが、この作業を“臨機応変に、しかも正確に口に出す。”ということは本当に困難です。皆さんも、話の枕を長く取りすぎたために、「アレッ、何を言おうと、こんな引用したんだっけ?」という経験はありませんか? (私は多いです。(^_^;)) 逆に、相手からしてみれば、“今までの議論の展開を正確に把握し、更にその時点でのあなたの発言も含めた論旨に対して、これまた正確に反論する。”こともやはり困難なことですネ。うっかりしていると、「あなた、そんな事言ってたっけ? 聞き逃したのかな?」などと、間抜けな状況に陥ってしまいます。しかしこれらは、決してあなたが馬鹿なのではなく、“人間の限界”と理解してください。よって、“冷静、且つ正確さを求める議論”なら、“文書化”の提案も効果的です。一般的な会議ではあまり実行されていませんが、“自分の家や研究室で、頭を冷やして相手の主張を充分に吟味し、反論を捻り出す事”が時には必要であることを理解しておきましょう。
例 事があまりにも複雑な場合。長年にわたって信じられていたような事を覆す場合。議論上では、検証不可能なことが多くなってきた場合。沢山の調査が必要とされてきた場合...など。 科学論文などでは当然のことです。
自分の意見に固執しすぎてないか?
正確に議論し合うなら、相手の主張は勿論、自分の主張すらも平等に評価しなければなりません。議論のルールに乗っ取って、もし間違いを発見できたなら、潔く自分の主張を撤回しましょう。議論相手、いわば“敵”の前で負けを認めるような行為ですから、実に難しいことだとは思います。しかし、ここで“敵ではなく同志”であることを再理解すれば、容易に感じられるはずです。実行出来れば、本当にカッコイイ人になれます。連帯感も増す一方です。逆に、自分の非を認められない態度は、相手側から観察すると敏感に見て取れるものですから、是非とも実行してください。「あいつはガキと同じだな。」という評価は間違っても受けられませんネ。
定性的な事に論点が集中してないか?
“定性的”とは“定量的”の反意語です。ここでは“どうとでも取れる曖昧なこと。”程度に考えてください。擬似哲学的に思索をめぐらすのも面白いのですが、“解決策を得るための会議”の場では不適切な場合が殆どです。定性的な話は、(大切な場合も多いのですが、)どうとでも取れること。深入りは避けましょう。但し、“今回の場合には、こう考えた方が良いのでは?”と、結論というよりは、“より良い”程度の見通しは見い出せる可能性があります。“見通し”程度でよいのなら、いかに定性的でも、諦めが早すぎるのも問題です。ある程度は時間を割いても良い場合があることも認識しておきましょう。
例 「物事に固執してはいけない。」などという抽象的な言葉は、それだけを独立させて用いてしまうと、「固執しなければ本質は見えてこない。」などの反論を受けることとなります。どちらも正しく、結論するのは不可能でしょう。
定量化は出来ないか?
“定性的”に関する上記の主張を発展させて、“定量的であれば説得力を持つ。”という事も頭に入れておきましょう。少々面倒なことですが、いわゆる“データ”の形で提出することによって、面白いように議論が進んでいきます。これもあまり一般的ではありませんが、だからこそ、井戸端会議では“水かけ論”や“認識の違いダネ!”から抜けられないのです。
例 「今回のアンケートでは“物事に固執してはいけない。”と答えた方が、全体の70%にも達しています。よって、この××地域では、我々は、“固執せず”に行動するべきと考えます。」...などと言うのはいかがでしょうか? 「俺は昔から固執して生きてきたんだ。」や「偉大なる××先生は、その著書において“固執”を強調しています。」などでは、会議には向きませんネ。 定量化もやはり“科学論文”などでは当たり前のことです。
対照実験を忘れていないか?
ある効果の原因が複合的に考えられる時、「果して自分の主張する“原因”が本当に主因になっているか?」を切り分けて考える事は、現実的に不可能に近いことを前提に議論を行ないましょう。 “二重盲検法”など、精密な実験を行なえない以上は、あくまでも「〜に起因する可能性が高い。」程度の根拠であって、決して「〜のせいでこのような結果になったのだ。」という断定は乱暴です。 今更...などと、当然の話のようですが、この錯誤をうまく利用した詐欺まがいの行為が後を絶たないという事実は注目しておくべきだと考えます。
例 角のタバコ屋は、果して“看板娘”のおかげダケで売上を伸ばしたのでしょうか? 人通りが増えたから。店を改装したから。若年層の喫煙が増えたから。人気のCMがオンエアされたから。...どの効果が最も売上に影響したのでしょう。
例 「毎朝、気功体操なるものを続けるようになってから体調が改善した。ゆえに気功は存在するのだ。」...「ラジオ体操でも健康になるのではないかと...(^_^;) 」
例 「当社の製品は“××の効果”を、他社製品に比べ飛躍的に高めることに成功しています。...それでは一例をご覧下さい。北千住の主に主婦層、数十人に対するアンケート結果です... 」 などという口上を真に受けてはいけません。 蓋を空けてみたら、「世田谷では全く反響が無い。」、「関西では見向きもされない。」など。 たまたま、その製品のコンセプトが北千住という土地柄にマッチしていたのであって、“××の効果”が主因であるとは決して言い難い場合も多いですネ。
実験方法を軽視していないか?
(上記のように)例えば、ある効果の原因を確認するために精密な実験を行なうにあたって、「実験とは“本当は難しいものだ。”」という認識も予め持っていなければなりません。
例 進化生物学を解かり易く扱ったある著作の中で、“(鳥の)オスが、尾の長さでメスを誘引しているのではないか?”との仮説を実験するくだりがあります。 が、その実験方法は略式説明にも関わらず、「チョッと普通の生活だけしか送っていない人には理解できないような数々の実験方法」がとられています。 我々のような素人には大変勉強になります。
1 オスの尾を中間部分だけ切除して、再び接着剤で接合し放す。 (尾を短くする)
2 1で切除した部分を、中間部分に継ぎ足して放す。 (尾を長くする)
3 中間部分でいったん切るが、元に戻して放す。 (尾の長さは変わらない)
4 オスを捕獲するだけで、何の加工もせずに放す。
...
「中間部分で切り貼りしないと、美観を損ねるかもしれないし...」、「人間の臭いがついたら、メスなんか近寄ってこないんじゃない?、まして接着剤なんて...。」、「時期はどうなの? 季節は?」、「何匹ぐらいやったの?」、「広い繁殖地域のうちの何処でやったの?」...色々と難癖がつくであろう事を予め想定して、実験計画を立てなければなりませんネ。
意味の無い議論になってはいないだろうか?
“有り得ない仮定”は思考を止める原因です。 また、反証不可能な主張は、議論の対象にはなりません。
例 “矛盾”。いかなる盾でも突きとおす矛。いかなる矛でも跳ね除ける盾。...などは、議論の対象外として扱うべきなのでしょう。 が、“説得”という分野では、“有り得ない仮定”はよく用いられているのが現状ではないでしょうか? 小学生に向かって、「もしあなたに子供がいたらどう思う?」というのも、一見面白い話し始めですが、子供にとっては“現実感の無い、遠い話”程度にしか聞こえない場合も多いのです。「〜だから、こうしなさい!」と言いたければ、“もっと身近な引用”が効果を上げます。 つまり、「もし、現実離れした仮定を持ち出すのであれば、そこから得られた結論は“根拠薄弱”の可能性があることも認識しておかなければなりません。」ということです。
例 「人知を遥かに超えた“霊界”というものを仮定すれば、目撃談などの膨大な心霊体験は全て解決する。」 ...このような“反証不可能な仮定”は、“立証も不可能”という意味で、科学者のテーブルに上がることは殆どありません。 もし、無理にでも考えたいということになれば、“主張する側がまず、立証を目的とした“何かの証拠”を提示する。”ところから始まるのが常識ですネ。
「だってそうじゃないとマズイじゃない?」型?
説明不要! 以下の例を参照してください。まして、口を尖らせて力説しているようなら、あなたも立派な“BOB君”です。
例 「あの優しい老人は、必ず幸福に死ねるヨ。だってそうじゃなきゃ可哀想だもん。」「神様は確実にいる。もし神様がいないのなら、この世は地獄になってしまうじゃないか。」
「相関関係と因果関係を混同」してないか?
以下の例は極端ですが、いかにも正しそうな展開に錯誤が隠されている場合があります。“そういう傾向がある。”という事例から“直接、原因に結びつけること”は、論理の飛躍の場合が殆どです。以下のような場合、“原因があるかもしれない。”という仮説から“検証”を経て“原因を確定”するのが正しい手法です。気付かないうちに、無理やり因果関係を結論してしまう錯誤です。
例 「。」「あなたはB型だから、××ができないでしょ。」(これは例として不適当かもしれません。血液型と性格の相関関係は全く立証されていません。)
「人のうわさを引用」してない?
大きな勘違いを“他分野の知識人”達が繰り返し引用することによって、あたかも通説の如く扱われてしまっているようなことがあります。まあ、「興味深いね。」程度なら問題にはならないのですが、根拠として用いられていると、正さなければなりません。また、自分が得意げに披露していると、その分野の専門化に一等両断されかねません。専門分野以外からの引用には、慎重にならざるを得ません。
例 「日本人は農耕民族であり、西欧文化は狩猟文化に根ざしています。従って、スポーツ分野における西欧人の、あの“激しい性格”も理解できるのではないでしょうか?」 (経済評論家などでもよく見かけますネ。) しかし実際は、“西欧人の方が遥かに早く農耕を始めている。”という歴史的事実があります。正確に言い換えるならば、「ここ1000年以上、日本人は肉食を避けてきました。よって、正確も温厚になってしまったのかもしれません。」と、いったところでしょう。(しかし、これでもまだ変な論法ですネ。因果関係のコジツケに気付いていません。(^_^;))
例 「○○君、この雄大な景観を見たまえ! 心が洗われるだろう。 人間は間違い無く“本能的”に自然を求めているんだ。 君もたまには、こうして自然浴しなくちゃいかんな。 ハッハッハ!」 (素敵な先輩ですネ。優しさや懐の深さを感じます。) 結論に異論はありませんが、正確には、全く逆の“本能的ではなく、理性的に”と考えるべきでしょう。 (人間を含む)“生物の歴史”は、「生命に危険を及ぼす自然との戦い。」と理解するべきであることは、高校生程度の生物の知識でも容易に理解できるものと思われます。 ここ数千年の人類の歴史に関しても、外敵、熱波、寒波、旱魃、洪水、などなど、「自然の脅威から如何にして身を守るのか?」が重要な課題でした。人工物に囲まれているのが、実は最も安全な環境です。が、近年の“ヤリ過ぎ”で、特に都市部では人が住めない環境となってしまっていることに(“科学的な根拠をもって”)気が付き始めた。というのが本当のところでしょう。以上はまさに“理性的”な判断によって自然を求めているいということに他なりません。 ...どうでもいい話ですが、「こいつ、基礎的な知識も欠如しているくせに...」などという評価を下す若造も中にはいるかもしれないんです。
勝手な推測を押しつけてないか?
“ある程度の実績を積み上げた自信家”に多く見られる傾向ですが、“解かった気になって、”“しかも堂々と、”“検証も無しに、”“勝手な推測を、”“あたかも事実のように、”述べ上げてしまいます。困った輩ですが、アンテナを張っていると結構目に付きます。“自分はあくまでもその分野の人なのであって、こと他分野のこととなると“未熟者”である。”ということを、もっと謙虚に受け止める態度を忘れガチです。上記の“人のうわさ”の例にも通じますが、他分野に対する批判や評価は慎重に行なうべきです。
例 宗教と科学を結びつけて論じた“ロケット博士”。聖書を科学的に分析した“火の玉教授”。基礎的科学知識も無いのに「現代の不完全な科学では...」を連発する“自称、超科学者”。などの著作物を参照のこと。
一部の“否定成功”に酔って、全体までも強引に...?
「これが出来ないんだったら、そんな理論は無いのも同じだ!」式の論調。一部分が否定されても充分実用的な理論は沢山あります。乱暴な論調になっていないか?確認し合いましょう。
例 ニュートンの万有引力の法則は、光の速度に近い“超高速”や“超重力”の環境では成り立たないことが解かっています。引力の原因さえ、未だ不明な有り様です。しかし、宇宙ロケットを飛ばす際には、相対性理論による“補正”無しでも充分実用的に火星探査船を飛ばすことが可能で、また、そのように実行されています。
原因にこだわり過ぎてはいませんか?
「原因も提出できないような理論は、無いのも同じだ!」式の論調。上記の“一部分...”と同様、原因不明でも、相関関係ダケ、あるいは、法則ダケでも充分実用的な理論は沢山あります。時には“過剰なこだわり”が議論の邪魔になります。
例 ピタゴラスの定理、円周率、物理定数、2の平方根なども、その理由の理解に関わらず、その数値を用いて、問題無くソリューションとして機能していますネ。(ピタゴラスの定理はともかく、円周率の求め方を理解している人は、一般的には本当に少ないはずです。私もとっくに忘れました。(^_^;))
そっちがダメだから、こっちが正しい?
2つの理論が拮抗する中、「一方の理論が否定された(あるいは証拠が無い。)ので、もう一方が真理である。」式の論調。“もう一方の理論”もまだ否定されていないダケの話で、“否定された理論”と同様に検証されなければならないのは当然ですネ。また、これと似てはいますが、“第3の選択肢”の出現の可能性を忘却している場合も多く見受けれます。他の選択肢、中間案、段階的な解決策、と“二つに一つ”にはまらない結論こそが求められていることも思ったより多いはずです。
例 「私の見た幽霊は、明朝、“枯れオバナ”ではない事が確認された。よって、心霊現象にその原因を求める以外、考えようが無い。」「ミステリーサークルの“竜巻生成説”の証拠は未だに発見されていない。従って我々の“宇宙船着陸跡説”が正しいのだ。」「愛しているか?憎んでいるのか?どっちかのはずダヨネ!(いや、友達として理解しているんだけど...だとイケナイの?)」
ギブアップ状態になっていないか?
以下のような状態では、もはや議論が成立しないのは明白です。しかし、よく“権威者から一般人”へ、“知識人から一般人”への問答に見うけられます。勿論、この逆も見られますが、“お互いに不毛な議論に気付いているはずなのにその場にいるダケ。”といった印象です。確認の意味で述べておきますが、以下の例では、経済学者が議論上の“ギブアップ状態”です。知識不足の経営者を軽蔑してしまいそうな一幕ですが、議論を放棄してしまった本末転倒なのは経済学者ですネ。こういった風潮では、輝く未来は遠そうです。
例 会社経営者 「国民の大半を占める中間所得者の税金を、もっと軽減してはどうだろうか?」 経済学者 「会社経営者の立場で、しかも経済学者でもないあなたには、経済というものの難しさが全く理解できていない。」 会社経営者 「では、もっと事情を実感している分野から質問。私の会社は“銀行の貸し渋り”で倒産寸前だが、金融事情をもっと中小企業主体に改善できないだろうか?」 経済学者 「軽々しく“金融業界の立てなおし”を論じているが、やはりあなたには、経済構造がいかにデリケートなものなのか?解かっていないようだ。」
有利なものばかりを提出しすぎてはいないか?
有利に議論を展開するには当然の事でしょう。が、以下の例の如く、平等にデータを提出しなければならない場合も多いことを忘れずに! “思慮の浅はかさ”を露呈することになります。
例 自分の研究中の大手術を、実験的にも行いたい医師が、患者に対して、“症状の改善”ばかりを強調し、“最悪の事態”を故意に説明しないような状況。 また、「東京は怖いところだ。」と主張したいばかりに、「悪い人と沢山出会った。」事ばかり強調するが、「良い人にも沢山接した。」ことに関しては一切語らない。というような状況です。「な〜んだ、いろんな人が沢山住んでるんだ。」程度が正解でしょう。
....つづく (作成中! 早く充実させます。スイマセン。)
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※ ...それは、きっと“長く、曲がりくねった道”なのでしょう。
“ The Long And Winding Load ”
BGM by The Beatles
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