主旨 申し上げたい!   − 科学的思考(行動)様式が世界を救う −

(大工事中!!! 近日中文章校正予定!)
それまでは、参考程度に流してください。日本語が変です。(^_^;)    

    承 転 結

変だっ!    

 皆さんは“説得力が全く無い、乱暴な意見で結論が導かれていってしまう”ような経験はありませんか? 例えば(極端では有りますが)...

 「“超エネルギー水(のようなもの)”の販売に社運を賭ける。」などの判断についていけますか?
その根拠は「本まで出している偉い先生の講演を受けた。」「飲んでみれば解かる!」のだそうで、“プラシーボ(偽薬)効果”の可能性は全く無視し(あるいは“知らない”)、「“思いこみや勘違い”とはどこが違うのか?」などと言おうものなら、その場でクビにでもなりかねません。

 つまり議論の余地無く、あくまでも社長の主観のみで判断が下され、「本当はこうではないのか?」と思いつつも流されてしまうような状況です。

※ ここでの“超エネルギー水”とは、(そのような商品名があれば)実在の商品とは無関係です。“宇宙エネルギー、超能力、または、気を充填した...”などと宣伝されている商品群の総称とご理解ください。よって、クラスター水関連は排除して考えます。また、あくまでも“例”です。“話を進めるためのもの”とご理解ください。

※ プラシーボ効果 二重盲検法
薬品の効果測定には、当然、最終的に人体実験がなされます。ところが、患者に「良い薬だから。」とあめ玉を渡しても効果を発揮する場合があることは、昔からよく知られ“プラシーボ(偽薬)効果”と呼ばれています。 一方、検査する担当医師も、「プラシーボを投与した。」などの先入観から、実験観察を誤る事があるということも解かっています。(実験者効果) よって、これらの心理学的な効果を完全に排除しなければ、薬が持つ本来の効果は確認できません。そこで、考案されたのが“二重盲検法”です。患者に、薬なのか?プラシーボなのか?を告げないことは勿論、観察医師も何を投与された患者なのかは解かりません。つまり、ここまで厳密に“心理学的効果”を排除する必要があるほどに、人間は“治ったような気になる。あるいは、本当に治ってしまう。”動物なのです。科学的に根拠を持たない治療法の殆どは、これで説明がつきます。というよりは、厳密に二重盲検法をパスしたという、“超エネルギー水”のような商品を聞いたことがありません。
  ※ 参照 不思議バージョン2(心理学的アプローチ)

 上記の例の場合、何が問題で、どう考えられるべきだったのでしょうか?

★ まず必要なのは、勿論、“広く意見を求める” 態度でしょう。当然“人間は間違える動物”なのですが、こと“自分自身”“有名人”“好感を持っている人”のこととなると、簡単に“錯誤”を起こします。心理学的にも、生理学的にもかなり不完全な動物なようです。複数人でお互いを制御し会う意味でも必須条件です。“自分の主張に有利な偏った意見”ばかりを収集しないように、心がけることです。“超エネルギー”に対して否定的な見解を持つ、正当な科学書を、入門編程度でも確認しましたか?

★ 次の段階では、集められた情報を適切に評価できる“評価能力”が重要です。“調査能力”“探求心(調べ続ける態度)”が評価能力を支えているのは言うまでもありません。反論を自ら求め、検証する態度が“確信”へとつながります。科学者は“人間が如何に錯誤に陥りやすいか”を理解し、それを防ぐ努力を繰り返してきました。実験方法も、我々一般人からは想像も出来ないような複雑な手順をとらなければならない場合が殆どです。(例えば、人の命に関わる、薬効確認などをいいかげんにやられていてはかないません。この場合では“二重盲検法”が有名ですね。知っていましたか?) 科学者程の厳密さは求めませんが、自分の主張から“錯誤”を取り除き、より説得力のあるものとするならば、実験方法の勉強や、心理学的錯誤、統計的錯誤など、最低限の知識が必要です。

★ そして、いよいよ議論となるわけですが“基本的な議論のルール”が基盤となっていないと権力者の術中にハマッてしまいます。逆に、議論のルールを全員が確認していれば“全員が同格”で、客観的にも納得できるような結論に近づけるはずです。

 議論のルールの中でも、当然なのに、あまり“実行されていない。知られていない。”ルールの例として...、 例えば、“「有る、無い」の証明は、「有る」と主張する人間がこれを行なうべきである。”があります。一つでも証拠を提出すれば「有る」は立証できますが、「無い」は、世界中の全ての体験証言を否定しなければなりませんネ。幽霊を一人でも連れてくればいいんですが、「いないことを証明しろ!」などと、(自分の立証責任は棚に上げて)無理な話を“科学者さん”などに押し付けている自称“霊能力者さん”がテレビなどでも良く見受けられます。こんな場合に“科学者さん”方はニガ笑いし、駆逐されたように黙ってしまいますが、実のところは「議論のルールがわからないやつとは議論しない。(喧嘩になるのもイヤだし、)」程度の、言ってみれば“当然”な対処方法をとっているダケの話です。


 以上を考慮し、上記の例を評価してみましょう...、

★ 結論......“超エネルギー水”の持つ効果は「無い」ということは決して否定できないが、「有ると確信」するよりは「無いもの」と理解したほうがよさそうです。

★ 考察・根拠...“一度も証明されたことの無い、未知の宇宙エネルギー”を根拠に結論を下すよりは、“世界中で確認されているプラシーボ(偽薬)効果”にその根拠を求めるべきではないでしょうか。

★ 更に......“未知のエネルギー”の探求は勿論、何十年もの間、多数の科学者によって行われてきましたが、いまだにこれを証明し実用化させている例はありません。(重要なので繰り返しますが、)否定的な研究結果も本当に沢山発表されているのですが、我々の“目に触れにくい”“興味が持てない”などの原因から、どうしても肯定派が安易に主張する“既に証明されている”などの言葉に惑わされてしまいます。酷いときには、“故意にダマしている”場合も散見されます。また、よく見かける「現代の科学レベルでは検知不能だから。」という反論もありますが、“全ての検査によって検知できないような現象”が、果して人間に影響を、しかも良い影響を与えるのでしょうか? 悪い影響の可能性の言及はありますか? 確かに“否定はできない”が、「無いのと同じ」なのではないでしょうか。

★ ゆえに.....「製品として効能に自信が持てないのであれば“社運を賭ける”程のものではない。今回は別の“生き残り策”を模索しよう!」あるいは「“プラシーボならば重篤な副作用は有り得ない。”ならば、ブームに乗って売ってしまっても、感謝されこそすれ、うらまれることは無い。というスタンスで取り扱うのも、生き残り策としてはありえるのではないか?」...で、良いのではないでしょうか?

★ こうして、2つの選択肢が提示され、建設的な議論が更に続いていくわけです。....つづく

 いかがでしょうか? チョッとしたテクニックや知識で随分と“論理的で、説得力を持った”結論を共有できました。「社長の俺が確認したんだから、文句は言わせないゾ!」...式で働かせられるのとでは格段の違いですネ。なかなか良いシステムです。(“議論錯誤”など、他のページで、より詳しく説明されていますので、以降、そちらも参照しながら読み進んでみてください。)

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科学の定義    

 「どうも面白そうだナ...。」と思っていただけましたか?

 それでは、ここから本題に迫っていきますので、まず始めに、論点である“科学”という言葉の定義を共通化しておきましょう。定義の共通化。これも議論を進める上での最重要項だとも言えるのですが、皆さんは当然の如く処理していましたか? 特に“科学”という言葉は、実に多義的に用いられており、個人レベルでの印象も、正に千差万別なのではないでしょうか? 同様に、主義、思想も、人によって随分とその定義付けが違っており、議論終盤で、「な〜んだ、同じ事を主張し合っていたのか...。」などということも多く経験されているはずです。「どうも論点がヅレていそうだ。」と感じたら、すぐにでも定義を確認し合いましょう。 ...それでは、皆さんは“科学”という言葉で、どのような事柄が思い浮かぶでしょうか? “コム対”は、思考(行動)様式という、生き方にも通ずるようなシステム全体を連想します。が、少年のように夢を持った方なら、“スペースシャトル”。また、都会住まいにウンザリしている人なら、“煤煙を撒き散らす煙突”。“子供に悪影響があるファミコン”と答えるお母さんもいることでしょう。

 一般的な国語辞典を開いてみると...

 普遍的真理や法則の発見を目的とした体系的知識。その対象領域によって、自然科学と社会科学とに分類され、また、これに数学、論理学を含む形式科学や、哲学を含む人文科学を加えることもある。狭義には、自然科学をさす。(国語大辞典(新装版)小学館 1988)

 ...だそうです。が、この“体系的知識”というのが今回のミソだと言えます。あたかも、その最終目的が“真理の追及”のように表現されていますが、チョッと変ですネ。「実は“より良い生活”の為にある。」という事は、皆さんも気が付いているのではないでしょうか? “発見”ダケを目的としているはずも無く、その殆どが、“得られたものからの応用行動”が目的となっていますネ。ここで更に、“知識”を“知恵”と読み替えてみてください。“体系的な知恵”という言葉からなら“思考(行動)様式”という意味合いが容易に読み取れてきます。英語の“knowlage”という単語からも、決して強引な読み替えでないことを補足しておきます。ここまでくると、“コム対”の主張、“科学とは思考(行動)様式だ。”が理解しやすくなったものと思われます。よって、かなり強引な感がありますが、(こうなったら、(^_^;))以下のような定義付けまで飛ばさせていただきます。

 −ある事象を観察したときに、仮説を立て、検証し、結論を導き、応用行動をする。− 様式で、あくまでも客観的に、出来れば再現性をともなうものが望ましい。 (王様、教祖様や経典などの“主観”によるものではなく、誰もが理解できる“客観”であることに留意しておいてください。)

 こう考えると“生き方”にまで通じ、宗教、哲学と同等に論ずることが可能となります。“コム対”が“重要だ”と主張するのはこのためです。 また、“コム対”が“科学”について主張する場合、“その方法”について論じる場合が殆どですから、これからは、人によっては、“科学的思考(行動)様式”と読み替えた方が理解しやすくなりますネ。 更に共通の認識を高めるために、定義付けをもう少し補足しておきましょう。

 石器時代の始まりまで遡ります。
 あるとき、原始人の正直者のA君が、うっかり転んで石に頭をぶつけ、本当に痛い思いをしました。出血も酷く、「危なく死ぬとこだった。(*_*) 」などと家の人々に話していると、奥さんが言いました。「もっと尖った石がその辺に沢山あるんだから、それで頭でも打って死んじゃった方が良かったんじゃないの? -y(-。-)。oO○ プハー 」「ハハハ...なるほど。」家族全員が頷いていました。(T_T)
 次の日、この話をこっそり聞いていた、隣の“欲張りB君”は狩の途中考えました。「そうか! 木の棒では無理だったけど、尖がった石なら猪でもやっつけられるかもしれない! p(^^)q 」 その日、欲張りB君の家の人々は、身の丈ほどもある大猪を抱えて帰ってきたお父さんにビックリです。w(゚o゚)w,,OH! 「普段は、魚と山芋しか持ってこないのに、たいしたもんだねェ。 -y(-。-)。oO○ プハー 」(奥さんのリアクションはどの家でも、いつの世も変わりません。) でも、“欲張りB君”の気持ちは、決して晴れてはいませんでした。猪との格闘で、体中擦り傷だらけ。猪の思わぬ反撃に、危うく弾き飛ばされそうな一幕もあったのです。「命懸けだナ...。(^_^;) 」
 また次の日、欲張りB君は狩の途中考えました。「そうか! 石だけじゃなく、棒の先に尖がった石をつけて振り回せば、もっと簡単にやっつけられるかもしれない! p(^^)q 」 .... つづく。 

 以上、調子に乗って、だいぶ長くなってしまいましたが、お解かりいただけたでしょうか?
 (「正直者と意地悪の立場が逆だ。」というのは無しです。(^_^;))
 ここでの主旨は、“欲張りB君は科学者だ。”です。
<観察> A君が石で怪我をした。
<仮説> 更に尖ったものなら殺傷能力が増すのではないか?
<検証実験> A君の奥さんの話や、今までの経験上、間違いないと確信していた。
<応用行動> みごと大物を討ち取る。
<発展的展開> 棒の先に石をつけたらどうだろうか? ....(繰り返し)
 実に科学的です。日々の試行錯誤は科学なんです。欲張りB君の次の日は、更に便利になっています。それに引き換え、思考することを怠ったA君は、毎日変わらぬ状況に、これからもずっと甘んじていくのでしょう。B君の行動は、他のどんな人でも納得できる、“客観化”であったことにも注目してください。 人類はかくも昔から科学を生活に役立てていたんです。宗教、哲学の数千年の歴史に比べ、科学など、せいぜい数百年程度!...ではありませんネ。皆さんのこれまでの印象とは、大きく変化してきたのではないでしょうか? 一方、“欲”が、努力の原動力になっていることも留意しておいてください。“欲張りB君”はあまり良い印象ではありませんでしたが、大きな獲物を獲ってきたB君は、“愛する家族の為に努力を怠らなかった。”と読み替えられませんでしょうか? 「より良い人生を送りたい。」「世界中の人と愛を分かち合いたい。」というのも、間違い無く“欲”です。時として、というよりは“善人であれば、”「欲は、努力の源。愛への道。」と言っても変ではないでしょう。“思考停止などもってのほか。諦めずに前進すること。”を訴えたいのです。スポーツ選手が日々のトレーニングを怠るような、“目に見えること”には、気が付きやすいのか、必要以上に厳しく評価する割に、こと、議論、生き方など、目に見えない、しかも、思考や対人関係が関わってくると、「まあ、これぐらいにしておきますか。」「だいたいでいいでしょ。」など、“大切なときであるにも関わらず、思考停止状態を安易に容認してしまうこと”への警鐘を鳴らせれば...とも考えています。

 以上、この項、“科学という言葉の定義”、“その歴史の深さ”、と、“思考停止という問題提起”。ご理解頂けましたでしょうか?

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身近な科学    

 まだ、「いや、こんなものは科学ではない!」とおっしゃるようでしたら、一般的にも“科学とは異なるシステム”と対比させて説明を付け加えます。
 先ほどの「客観に対する主観」という意味から、今度はここで、“主観”という言葉を“思い込み”“直感”と読み替えてみてください。“思い込み”は当然として、“直感”もいってみれば、“ひらめいたけれどまだ何の検証も行なっていない。”ということですから、客観的に他の人々が理解することのできないことであることは言うまでもありません。ただ、ここで“思い込み”も定義を共通化しておく必要がありますネ。“他人に教え込まれたり、自分で解かったある事実を、信じ込み、結論してしまっている。つまり、検証の余地がない状態。”...で、いかがでしょうか? 科学が検証を大切にしているのに対し、“思い込み”“直感”の両方とも、“検証無し”と認識します。
 また、通常では“客観化”という言葉は、“ハタから見て、...”程度の意味で用いられていますが、ここでは、“正確な論理、検証に支えられている”という意味も加えておいてください。逆に、これらが無ければ客観的とは呼びません。つまり、“客観と、論理、検証はひとまとめ”ぐらいの認識を持っておいてください。
 もう一つ、“システム”という表現を文頭で用いました。が、この理由は、“(知らず知らずのうちにでも、)直感、思い込みなどを主な判断基準として提唱している、思想や団体を連想してください。”という意味合いから来ています。具体的な思想、団体は、この段階ではまだ早いので明言しません。(誤解になりやすそうです。)

 さて、以上を踏まえて、今度は、何気ない日常の動作を例に話を進めてみましょう。

 病院の大部屋に、友人のお見舞いに行きました。見慣れない大きな扉(戸?)です。直感的に、ガチャガチャと押したり引いたりするわけにも行きません。そこでまずあなたは、全体をまんべんなく観察します。左側手前に指を掛けるような形状があり、ドアノブでないことは明らかです。まして、回転扉など、ニューヨークでしかお目にかかった事も無く、「...ということは、これは、引き戸ではないだろうか? 二者択一の線で間違いなさそうだが...。」と仮説を立てます。早速その裏付けの為に、扉(戸?)の右下の構造を確認しますが、見慣れた、あの金属製のレールは発見できません。しかし、“ゴムタイアが戸の底面に設置され、上部がレールになっている構造”の引き戸を以前見たことがあります。「そうか、静粛性を求める病院では有利だし、ますます確度を増してきたぞ!」 ...従って、上を見てみると、やはりレール状の構造で、どうも吊り上げてあるようです。押せるかどうか?は確認できないが、少なくとも、引くことは出来ない構造であることはわかりました。そして、こういった“ドアノブの無い構造の押す扉”は、自分の統計上、せいぜい40枚に1枚以下でしか存在していないと認識しています。「主観的な統計であることは否めないが、これは95%以上の確立で“引き戸”だ。」 しかし、残りの数%が有り得る。...大きな音を出してはいけない。という前提と、中に入るという本来の目的を同時に達成するには...、「なぁ〜んだ。そっと引いてみればいいんじゃないか!」    「カラカラ...。」と小さな音を立てて、その扉が、引き戸であることをあなたは確認できたのです。   「よしっ! 次回は最初から“引く”ぞ〜っ!」
 .... つづく。

 またもフザケた描写で恐れ入ります。が、実に“科学的な行動を、日常行なっている。”ということの表現です。勿論、意識はしていないでしょうが、これら一連のプロセスを確実に積み重ねていることに気が付けるでしょう。もしこれを“思い込み”や“直感”のみで行ったらどうなるのか?を想像してみましょう。“思い込み”なら、「???」。“直感”、ひらめきなら、「×××」。...と、失敗の可能性が飛躍的に高くなってしまいますネ。直感的に「これは壁だ。」などとひらめいてしまったらどうしましょう。

 稚拙な表現でもありますし、“重要な言葉の定義をしたばかり”で論旨が掴みにくい方もいるものと思われますので、補足させてください。
 まず、「直感でも、思い込みでも同じような行動をとる。過去の経験から、“これは壁だ”などと思うはずも無い。」と考える方、言葉の定義付けを振り返ってみてください。前提として“検証無し”として、客観と明確に区別しました。つまり論点は、“観察したり、検証したりする行動をとるか?とらないか?にあります。”...という意味で、もし“過去の経験を生かした直感”といものを肯定するなら、それは“コム対”からしてみれば、“実験結果の応用行動”であって、充分に科学していることになってしまいます。 発展して、過去の経験は“直感”とは無関係なのですから、今後の行動に応用することもかなわない。という結論も理解できますでしょうか? “検証無し”の立場では、“たまたま扉が開いたにすぎない。”のです。
 また、“思い込み”も同様に、“観察もそぞろに扉を押してしまうような行為”と読みかえれば、その“失敗の可能性の高さ”が解かりやすいのではないでしょうか?
 繰り返しますが、“直感、思い込み”による行動では、決して、観察、仮説、実験はしなものとしています。先程の定義を忘れずに、言葉の通り、余計な因子を排除して評価しなければなりませんネ。原因をシッカリと切り分けないと、イタズラに評価が難しくなってしまいます。

 以上、冗談じみた、オーバーな仮定ばかりと感じるかもしれません。が、“確信を得るとき”や“話に、説得力を持たせるとき”には当然用いられる、いわば手法で、皆さんも「だって、もし、こうだったら大変でしょ。」など、気付かずに日頃から使っているはずです。が、気を付けなければならないのは、引用が、その本質をしっかりとフォーカスしているか?という事です。外れていなければ、大袈裟な引用は“説得力”に繋がります。但し、以上の文章のように、例え焦点は合っていても、言葉が少ないと誤解を招く危険がありますので、主旨が伝わりにくいような場合、“本質を確認するような補足”を確実に行なっておくべきです。(...といっておきながら本当に解かりにくい文章で、特にこの部分は後で書き直しますので、「主張がおかしい。」などと評価せずに、「文章力が無いからだ。」と、ご理解ください。(^_^;)m(_ _)m) ボツボツと、トレーニングは既に始まっていますネ!

 以上、この項では、“科学の身近さ”と“科学が無い状態との比較”を扱いました。これは遠回しでしたが、“宗教との比較”に繋がっていきます。

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※ 結局、大きな流れは変えられない。  
自由に生きればいいのでしょう。  
...でも、変えたい。  
“ Let It Be ”  
BGM by The Beatles