データ検索用のプログラムはほぼ完成したので、 次はサーバにデータを登録するプログラムを組み込む。 もっともこっちは昨年末に作ったもの。 これの負荷試験をまだやっていなかった。 そこでまずはテストデータの作成。 ソースコードをデータとして入力するシステムなので、 大量のソースコードをネットからダウンロードすることにした。 X11とGCCとJ2SE。 ダウンロードはすぐに終わったものの、 あまりに大量にありすぎてなかなかシステムへの登録が終わらない。
データベースには簡単なテストケースを登録しておいたので、 そのデータを検索する処理の速度を検証することにした。 手元にあるソースコードのファイル名が、 データベースに登録されているかどうかを検索するのが今回のコアの部分。 GCCのソースファイル約1000個を検索させてみた。
ちょっと時間がかかりすぎ。 考えてみれば、馬鹿正直に1000ファイル分のクエリーを発行している。 例えばデータベースに400件のデータがあったとして、 クエリーの回数は1000。 クエリー中の検索処理が単純に順次検索であると仮定するならば、 最悪の場合 40万回の比較が行われているということだ。 実際には検索キーをインデックスにしておくことで、 二分探索法などを用いることができるだろうからそれほど悪い結果にはならないだろう。 しかし現状満足する結果が出ていない。
とすれば別のアプローチを考なえければなるまい。 1000回のクエリーが発行されているということは、 プログラムとデータベース間で1000回の接続と通信が行われているわけだ。 これを少なくしてやればよい。 したがって400件のレコードを一回のクエリーでプログラムに読み込み、 その値を1000ファイルの中から検索すればよい。
最初手元のファイルのリストを検索キー、 この場合ファイルのCRCコードをソートしておき、 二分検索するようにした。 しかしこれではプログラム側で二分探索をするか、 データベースで二分探索? をするかの違いでしかない。 今のところデータベースに登録されているレコード数が少ないので、 プログラムで検索した方がわずかに速い。
そうこうしているうちにも終電の時間が迫ってきた。 仕方なく本日は途中で終了。
なんだかわかりにくい文章を見つけた。 今日の朝日新聞の天声人語。
メキシコで米国人記者とともにスペインのアスナール首相に会ったことがある。 当時は野党党首として紹介された。 両国の友好関係を語っていたが、 メキシコ人からすれば複雑な感情を抱かざるをえないスペインとの関係だろう。
この記事に、新聞の記事を書くときに重要とされる 5W1H を、 明示的に補足してみる。
筆者は以前メキシコで、 米国人記者とともにスペインのアスナール首相と、なぜか会った。 誰かは当時メキシコで、アスナール氏はスペイン(メキシコ)の野党党首だと、 紹介するために言った。 (OR: 筆者は当時メキシコで、アスナール氏がスペイン(メキシコ)の野党党首だと、 誰かになぜか紹介された。) アスナール氏は当時メキシコで、 どこかの国とどこかの国の友好関係を、なぜか語った。 しかし、メキシコ国民は今でもどこでも、 メキシコとスペインとの関係について複雑な感情を、 なぜか抱かざるをえない。
ここでは、主語 Who と理由 Why が多く抜けている。 コラムであるので筆者が主語の場合は省略してもよいと思う。 理由についても後につなげるためにわざと書かない場合もあるだろう。 しかしのちに説明されるのは、 メキシコ国民がなぜスペインとの関係に複雑な感情を抱くかについてだけである。 ただその説明に説得力がないのはどうにも…。
しかも後の文章にアスナール首相は出てこない。 したがってこの段落自体必要ない。 のにもかかわらず混乱を与えるだけの文章を冒頭におく理由は一体なんなのだ。
悩みはつきない。
昨日の続き。 プログラム側で検索を行うという考えは決して間違っていないと思う。 ネットワークで転送するデータ量が変わらない場合、 検索処理を高速にするしかない。 こういうときには、ハッシュテーブルを使うとよい。 たいていの場合、1回の比較で検索が終了する。 Java2 であれば HashMap を使える。 JDK1.1 以前だと Hashtable が HashMapと同じ機能を提供する、 しかしHashtableはマルチスレッドに対応するためにやや遅いのが難点だ。
以上のことを実装したら、 以前 45秒かかっていたのが4秒ですむようになった。 これで10倍高速になった。
テスト用のデータを入力し終わったので、 次はデータベースへの登録だ。 しかしよくよく聞いてみると、 必要な別サーバがつながっていないため使用できないそうだ。 急いでいるときに限ってちょっとしたハードルがたくさん見えてくる。 仕方がないのでシステムの気持ちになり、 出力されたことになるはずの結果ファイルをハンドメイドした。
テストデータを使って操作してみると意外な発見があった。 ファイルの識別を CRC 16bit で計算していた。 しかし別の二つのファイルのCRCの値が一致してしまうようだ。 かなりがっくりムード。 もっとも 16ビットしか計算していない時点で怪しいと思っていたんだ。 ではなぜ MD5 とかにしなかったかというと、 既存のシステムの出力を応用する形で作るという要件があったから。 そのシステムが 16 ビットで計算していやがった。 そのほかにもシンボリックリンクとかはどうなってるなろうと心配になる。
この辺りで課長に審査してもらう。
プレゼン自体は発注元の親会社の課長と担当者だ。 なので自分はそのプレゼンには関係がない。 ともいえないか。 部長が席に戻ったのが 21 時。 ここぞとばかりに攻めまくっていた様子だけど、 残念ながらさりながら。 システムのデモを見る以前の内容のチェックで玉砕した模様。 自分も久しぶりに終電一つ前で帰った。
書き出しをもっと簡潔にすればいいのに。
人間は忘れることができる。 そのおかげで生きていくことができる。 悲しみや苦しみもやがて記憶の闇に埋もれていく。 そうやって多くの人は生きてきた。 悲惨なできごとを忘れないように 記憶や記録に残しておこうという発想はいつごろからのことだろう。
すぐ次の段落で記録に残している例を出しているのだから、 「いつごろからのことか」というのはここでは問題ではない。 したがってこういった、 新聞の第一面の字数の限られたコラムであれば、 省略した方がいいと思う。 次のような出だしで十分ではないか。
人間は悲惨なできごとを忘れないように、記憶や記録に残しても来た。
細かいこと言ってもしかたないけど、 最後から二段目の文章は、 相変わらず事実関係がわかりにくい。 天声人語って新聞記者が書いているんじゃないのかな。
ドイツのベルリン・ユダヤ博物館の設計者として知られるリベスキンド氏は、 ユダヤ系ポーランド人の家に生まれた。 両親は大戦中、ソ連の収容所に入れられ、やがて解放されたが、 親族はほとんどがホロコーストの犠牲になった。 悲惨な歴史への感覚は鋭い。
こんな問題が大学受験の試験に出たらお手上げだと、 そんなことを思った。
さすがに昨日までの作業が無になったことによる徒労感から、 何もする気が起きない。 一日中ぽっけー。
戦争の影響で海外出張が取りやめになった人たちが、 ぽつぽつと戻ってきた。 列車の中から呼び戻されたようだ。
会社が引けてから友人と21:30に待ち合わせる。 先週引き継げなかったものを渡すため。 しかし2時間も時間が余ってしまう。 仕方がないので街の中をくるまで散歩。 最近開通したトンネルを通ってなかったので往復してみたり。 北に抜ける方の出口でやや渋滞気味になるような作りになっていた。
裏道の坂を下っていく途中の電信柱のもとに花束が添えてあった。 ちょっとどっきり。 こんなところで車を止めたとき、 助手席の窓から青白い顔の女の顔が覗き込んでいたらやだな。
無事引渡成功し帰宅。
NHK アーカイブスで美空ひばりの特集をやっていた。 その前に現在の状況をレポートしている。 最近は美空ひばりの詩につんく♂が曲をつけて、 松浦亜矢が歌っているようだ。 あやや、スローテンポな曲だと音程があっていない気がするんだけれど。 気のせい気のせい。 最近は後藤真希の曲といい、 つんく♂はちょっと手を抜いてるんじゃないかなんて思った。
最も野蛮な行為であるはずの戦争にも最低限の礼儀が必要というわけだ。
最も野蛮なのはテロルじゃないのか。 9・11はもう忘れたのかな。 戦争というのは国際法があって、 できるだけ一般市民を殺傷しないように、 また捕虜となった兵士が不当な扱いを受けないように決められているのだ。 だからといって戦争をやった方がいいってなモンではないけど。 イデオロギーとかはおいておいて作文の技術について評価すれば、 この文章は戦争についてのステロタイプなイメージの再生産でしかない。
「平和の構築は戦争をするより難しい。忍耐強くなければならない」。 かつて米国の国連大使としてキューバ危機に対処したA・スチブンソン氏の言葉だ。 あのときもソ連に最後通告をつきつけて迫ったが、 ぎりぎりのところで譲歩を引き出した。
改めてかみしめたい言葉である。
譲歩したのはアメリカではなくてソ連だと読める。 しかもソ連に最後通告をつきつけちゃったんだから、 何に対して忍耐強くなければならないんだろうか。 そして今回はイラクに最後通告をつきつけてせまっているのだ。 文脈を無視して引用しているんじゃないかと疑問に思う。
果たして筆者がその言葉をかみしめてどんな味がしたか聞いてみたい。 というか、こういう言葉は最後通告する前の、 交渉をしているときに言えばカッコイいのに。
今日は心底休みたかった。 でも気力を振り絞ってフレックス出勤。 駅から会社まで歩くのさえかったるかったので、 タクシーで正門までまいる。
本日イラク・アメリカ間で開戦。 日本から何人か人間の盾という運動でイラクに行っている人たちがいるそうだ。 結局何の影響も与えられなかったのか。 今となってはイラクの人質も同然なんだから、 早く帰ってくればよいと思う。 残っていたらかえって戦争を長引かせかねないんじゃないかな。
人間の盾のようなやり方は、 地上戦で膠着状態になっているような状況なら効果があると思う。 それは実際に戦っている兵士に向けてのメッセージではなかろうかと思う。 生身の丸腰の人間がそこにいるということを、 肉眼でかつ肌で感じるからこそ戦いを放棄したくなるんじゃないのか。
それに戦いをとめたいんなら、 フセインにもなんか文句つけといた方がいいんじゃないのか。
人間の盾
という字は、人間の眉
という字に似ているんじゃないのか。
眉といえば村山元首相じゃないのか。
友人と話しながらそんなことに想いを巡らせた。
このところ肩が凝ってしかたがない。 年齢のせいだろうか。 あるいは新しいノートパソコンが重いせいだろうか。 たぶんなにか変なときに緊張しているのだろう。 運動不足もあるかな。
最初の段落での事実が、結論と結びついていないような気がする。
第一段落:
英国ブレア政権は最大の危機といわれた。 与党の労働党から戦争に反対する造反議員が大量に出たうえに、 閣僚の辞任もあった。 18日の下院での演説、質疑と採決が正念場だったが、 ブレア首相は野党保守党の支持を得て乗り切った。
結論:
ブレア首相の獅子奮迅の働きにもかかわらず、 与党労働党の約3分の1にあたる139人の離反者が出た。 今度の戦争の正当性が極めて疑わしいことの証しの一つでもあろう。
与党の三分の一が離反したにもかかわらず、 議会で可決されたのだから極めて疑わしいという結論にはすなおに納得できない。 この結論の書き方だとまるで否決されたかのようだ。 情報操作をしている悪質な文章と言われても反論できないと思う。 結論を先に書いて、残りは事実で埋めただけという気がしてしまう。
久しぶりの三連休。 いろいろとやりたいことがあるのに今日は朝から調子が悪い。 やはり土日休出はキツすぎたようだ。
もっと具体的に根拠を上げてくれないと、 空理空論をはいているようにしか思えない。
とてつもなく古い戦争のような気がする。 古代ローマ帝国やアレクサンダー大王の時代を思い浮かべてしまう。 飛び抜けて軍事力の強い帝国がはるばる遠方の地まで出かけ、 力でねじふせて勢力下に置く。 そうしたかつての帝国といまの米国とがつい二重写しになった。
これ以降に二重写しになった根拠が示されるのかと思ったらそうではない。 ほかにも筆者のイメージが多くかかれているけどそれだけ。 古代ローマとかアレクサンダー大王とかに、 どれほどの説得力があると思っているのだろうか。
本当にイラクを簡単に力でねじふせられるのか。
「宗教戦争
」と他の戦争がどう違うのか。
どういうところが「19世紀型
」なのか。
「新しい21世紀型の戦争
」とはどういうものか。
21世紀型の戦争はあってしかるべきなのか。
もう少し丁寧に説明してくれてもよさそうなものだ。
古さついでに中世の神学者アクイナスを引けば、 彼は「正義の戦争」に三つの条件を挙げた。 (中略) どうやら神学者の眼鏡にもかなわない。
もし眼鏡にかなったとしても、
それはそれで「とてつもなく古い戦争
」なのではないのか。
第二段落でとてつもなく古いといっておきながら、
この段では古い戦争の定義にかなっていないという。
筆者の立ち位置が見えない。
確固たる信念を持たずにイメージだけで書いた文章の見本みたいだ。
それと全体から、 アメリカは悪・イラクは善という構図が見えてしまう。 つまりアメリカがイラクという小国に対して弱いものいじめをしている、 というイメージを読者に植え付けようとしているかのようだ。 だけど今回の戦争って本当にそうなのか。
朝日新聞に書いているのだから、 もっと多面的な視点での主張を書いて欲しいものだ。
明日までにやっておかねばならぬことがあったような気がする。 しかしどうにも体力が戻らない。 こういう日は寝ているに限る。
戦時下のイラクでは、子どもの歌声は消え去っただろうか。(中略)
確かに子供たちがどうしているか心配だ。
なのでその情報を得られるのかとおもったら肩透かし。
後段にはイラクの話など出てこない。
せいぜいが
「イラクに子どもたちの笑顔と歌声が戻ってくるのは、いつの日だろうか。
」
くらいである。
というか、いつのまにかイラクでは、
子供たちの笑顔と歌声が消え去ったことになっている。
戦争のステロタイプなイメージを垂れ流しているだけといわれても仕方ない。
「カナリアが歌わなくなったので、 山に捨てたり、 柳のむちでぶったり、 この子はカナリアが嫌いなんだろうか」 「嫌いだと思う」 「先生の意見は違う。 好きだから、 なんとかしてもう一度、 歌ってほしいと思っているのじゃないかな」
指導者の(略)さんは、 こんな会話をしながら、 童謡「かなりや」を教えている。
これは今の戦争に対する暗喩だろうか。 つまり「イラクが好きだから、 空爆したり、 砲撃したりして、 何とかしてもう一度自由と民主主義を取り戻して欲しいと、 アメリカは思っているのじゃないかな」 ということか。 昨日まで戦争とアメリカには反対だったのに、 今日から方針を変えたのだろうか。
それ以前に歌の解釈を間違っていると思う。 歌を素直に聞けば、 「山に捨てたり、 柳のむちでぶったり」 するのはかわいそうと歌っているのだ。 そして最後に 「象牙の船に銀の櫂」にのせて月夜の海に浮かべれば唄を思い出すでしょうで終わる。 この先生はもしかすると体罰を正当化しようとしているんじゃないのか、 ここに通っている子供たちは大丈夫なのか、 と心配になってくる書き方だ。
結局今日のコラムには結論じみたものがなかった。 単に西条八十の歌詞そのままつかって反戦を主張することもできたろうに。
先週の芝居の反省会に出席。 今回はかかわれなかったので、反省も何もない。 これで終わりじゃやるせないくらいか。
帰りにファミレスで別れを惜しむ。
家に帰るときに赤ワインを一本購入。久しぶり。 癖がなくて飲みやすく、あっと言う間に1本開けてしまった。