ギリシャ神話で誰でも知っている話に「パンドラの箱」がある。広告ネタ、目次へこの話で誰しもが疑問に思うことは、災厄を封印した箱「パンドラの箱」に、何故か「希望」が入っていることであろう。
では希望は災厄なのだろうか
間違いなく災厄である。
こんな格言もある。
「人は二つのことから過ちを犯す、絶望と希望から」
ただし、これはあまり有名ではないようで、一般に「希望」は圧倒的な美徳とみなされている。Googleでサーチして唯一発見できた例外は面堂終太郎の「時として1%の希望は100% の絶望よりたちが悪い」だけである。(高橋留美子が思いついたのだろうか。)なわけで「希望は災厄」という説は一旦脇に置こう。
他にも希望が入っていた理由として推測したのは、
「災厄を箱の中に封印する魔法の「触媒」として「希望」が必要だったから。」自分では納得している。ただし、この解釈が正しいとした場合別の疑問が生じてくる。
パンドラの箱に災厄を封印しようとした人は、希望を犠牲にしてでも災厄を封じ込めるべきであると判断したことになるが、それはギリシャの神々の総意だったのか?反対した神だっていたに違いない。だって希望のない世界なんてとってもつまらないじゃないか。
まあ、封印した後、パンドラの箱を意識的に開けて元に戻したわけではないことから、たとえ希望がなくなっても、災厄のないほうがいいという判断を皆が納得していたことが推測される。
(まあ我が日本ですら生態系を犠牲にしてでも有明海を封じ込める判断が間違っていたのではないかと思うと、ためしに水門を開けたくらいだから、ギリシャの神々がよほど硬直的な官僚的な体質を持っていない限り、封印したのが間違っていたと判断したら再度開けてみたはずである。)更にはでは誰が魔法を用いてパンドラの箱に災厄を押し込めたのか?という疑問も生ずる。
ギリシャ神話の神々が作り、かつ希望と共に災厄をそこに詰め込んだのであれば、パンドラが箱を開けたあとでも、もう一度災厄を箱に戻そうとしたはずではないか。ということは、神が不死であるという前提を置く限り、パンドラの箱はギリシャの神々が作ったのではないことが分かる。
天照大神は高天原で神にとっての神を祭っていた。それが誰であるかは神話に記述されていないが、神より高位の存在者が存在することは想定されている。ところがこのような記述はギリシャ神話にはない。ゼウスがあがめるような高位の神がいるのであれば、その存在者が作ったと推測できるが、そうではない。
つまりギリシャ神話の体系の中では、パンドラの箱を作れたものはいなかった。
ということは魔法でパンドラの箱に災厄を封印したのではないことになる。ならば発想を変えなければならない。つまりパンドラの箱の内容物は外から入れられたものではなく、内部から発生したものであると考えざるを得ない。従って中身が飛び出たが最後、だれももう一度箱の中に納めることができなかったのだ。
密閉された箱の中で発生する忌まわしきもの。。。というと。。。給食の残りのパンを机に突っ込んでいたらやがてカビだらけになるあの姿。
これだ!!!
「災厄とは希望に生えたカビである」もともとパンドラの箱には希望だけが入っていたのだ。ところがそれを誰かがほっぽっていた。密閉された箱の中の希望、次第次第に災厄が生えそれが希望を栄養に増殖してゆき、やがて箱全体を満たし、内部の圧力が高まる。
パンドラが箱を開けたのはこのときだ。災厄は上昇した内部の圧力に耐え切れず飛散したのだ。丁度カビの胞子が飛ぶように。
これは「なぜ希望だけが飛散せずに箱の中に残ったか」という別の疑問にも答えてくれる。パンとカビなら、カビは飛散してもパンはそこに残る、パンドラの箱も同じようなものだろう。もちろん、災厄と希望という異質のものが同じパンドラの箱に入っていたかという最初に疑問にも答えが出る。もともとの発生要因が違うのだ。希望は箱に詰められた善きもの。災厄は希望を省みず放置していたがゆえに発生した悪しきもの。
かくして、このパンドラの箱の寓意が明らかになる。希望それ自体は善きものであるが、それを忘れて放置していると災厄に変わってしまう、ということだ。希望にも常にメンテが必要なのだ。
ここで希望は災厄であるか、という最初の疑問に明確な答えが出る。希望そのものは災厄ではないが、災厄の種となりうるのだ。