スピード感あふるる文芸

 既に映画を見ているのに、原作の小説がある場合、なぜ人はそれをわざわざ読むのか?こんなテーマのエッセイを英語の参考書か何かで読んだ記憶がある。なぜか最後の文だけ記憶に残っている。セリフを俳優が言うより、自分で読む方が速く、従って強い印象になるのだというのだ。
 しかし、セリフについてはそうでも、背景を描写する部分になると映画の方が圧倒的有利になるだろう。まさに百聞は一見に如かず。この辺を忘れて写実に走ると小説はどんどんつまらなくなる。
 しかし映画よりもさらに速く背景を描写する技法が日本では確立している。漫画である。セリフについても読者が読む速度で伝えられることを考え合わせると、最速の表現技法と言ってもいいかもしれない。しかもセリフの前後に「と○○は言った」などと書かなくて良いのだ。
 実時間にとらわれずに済むのもいい、ピッチャーが投げたボールがホームベースに届くまでにどれだけの会話を詰め込めることか。(まあやり過ぎもありますが。その場合でも間延びすることは少ないんだよね。)
 逆にある一定の時間に起こったことを少ないコマ数に詰め込めるのもいい。映画だとある程度時間をかけて表現せざるを得ないことも漫画だと数秒で済む(書く方は大変だろうけど、数秒で読めるところがいいのだ)。最近感銘を受けたのがモーニングに連載中の「新釈うああ哲学事典」の『大森荘蔵の「痛み」』の回、最終ページ。あのスピードで表現できてこそ、あの圧倒的な説得力が生まれたのだ。想像を絶するぞ。扱っているのは哲学の分野だぞ。

 こういう漫画のスピード感に影響されてか、時代小説で極力地の文を削って書こうとした(ように見える)作品があったので少々仰天。時代小説というと時代背景のうんちくを読むのも楽しみなのだが、大胆にカット。確かに主人公の剣の達人が現れて最初の何回かの立ち周りは、勝か負けるかのスリルなんかいらないよな。剣の腕をアピールするだけでいい。謎を残した登場人物の描写なら大胆にカットしたってかまわない。
 でももしこれが映画だったら、立ち回りにある程度の時間を割かざるを得ないから、主人公の剣の練達度への印象は逆に薄れるか、緊張感がなくなって空々しくなるかどっちかだよな。

 しかし地の文を削るというのはとても難しく勇気のいること。背景を長々と説明することがある程度容認されている時代小説ならなおさら。しかもこの作者は非常に時代考証をしっかりとやっており、今までの作品ではややくどいくらいの説明を逆にスタイルにしていたというのに。
 なお、この新しい文体もあってか、この作品、結構人気を博しているらしい。発売早々に出版社品切れとなり現在増刷中と言うことだ。(なお作品名は「悲恋の太刀」といいます。)
 逆に地の文を削ることができないと、文章は長ったらしく説明が多くなって、いつの間にか評論文になってしまう。これが小林秀雄が小説家に(なろうとして)なれなかった理由であろう。
 まあ小林秀雄の場合は、自分の文章や発想の凡庸さに嫌気がさし、小説を書いているうちに自分で自分の小説の評論を始めたという弁証法的展開があったのかもしれないが。初期文芸集を読むと、自分で自分の作品の穴をなんとかしようとして悲鳴を上げているように見える。

広告ネタ、目次
ホーム