時代と共に意味の変わったお話を2つ

 子どもができると、自分が子どもだった頃を追体験しているような気分になるものだが、残念ながらうちの子はあまり私に似ていないらしい。つまり、ふつうだ。

 「大きな古時計」を歌っても疑問を感じないようだ。「おじいさんが生まれた朝に」買ってきた時計ということは、時計屋さんが開いていたということで、百年も持つような大きなのっぽの時計を扱っている店が朝から開いているというのはかなり異様だ。などと考えるのが常識的な発想というものであろう。多分あの歌はプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を具体化した歌だったのだ。朝から晩まで額に汗して働け!当然時計屋さんも朝から開いている。決められた時刻に工場にきて決められた時間働け!この倫理観から見ると誕生祝いのプレゼントとして時計ほどにつかわしいものがあるだろうか。

 まあ、今の子なら出産予定日にあわせてインターネットショッピングで注文していた時計を、当日朝コンビニに受け取りに行ったと当たり前のように考えるかもしれない(宅配にしなかったのは、何時に生まれるかわからず家を空ける可能性が高かったので)。便利な世の中になった。好きな時間に店が開いていて取りにいけるなんて。こういう自由度の高さがニートなんかを生み出す社会構造につながるのかもしれない。コンビニの店員もフリーターが多いそうだし。

 教科書の「おおきなかぶ」を読んで疑問に思わないのは、両親とも働きに出ているから仕方がないかもしれない。カブを引き抜くのは、じいさん、ばあさん、まご・・・で働き盛りの父さん母さんは出てこない。多分働き手を都会にとられても残されたものが力を合わせれば大丈夫だよ、という教訓を含めた多分に政治的な話だったのだろうが、この精神は現代でも通用するらしい。それにしてもよくぞこのロシア民話がスターリン時代を生き延びてきたものだ。働き手が農村からいなくなるという本源的蓄積を思わせる資本主義的な現象を是認するような話はすぐに粛正されると思うのだが。
 が、まあカブを引き抜くとき、一直線に並んで引き抜くより、並列に引っ張った方が効率がよいのではないか、という疑問は感じてほしいなあ。

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