ブログ文学前史

 ブログの歴史は古く、平安時代に遡る。
 私の知る限り、あるおかまが、恥ずかしいので匿名で書いたのが始まりだ。
 ひねくれた紹介の仕方だが間違ってはいない。「おとこがする日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」の紀貫之「土佐日記」である。(残念なことにこの後「おかま文学」というものが発達したという形跡はない。ただし演歌にはおかまの歌が結構あるので、日本の芸能の裏をおかま文化という潮流が流れているのは間違いなかろう。歌舞伎だっておかまが担う芸能だ。)

 日記文学とは名乗れないが「他人に読んでもらうことを前提に書く日記」というのは従来もポピュラーであった。交換日記に胸ときめかせた人は多かろう。私の場合(残念ながら相手は男だが)高校時代の友人と日々考えたことを日記の形式で送りあったこともある。それを聞いた他の人間は「日記を人に読ませるなんて気持ち悪い」という感想を持ったようだ。ただし「交換日記はどうだ」と返すと「あ、あれはね」と言って「他人に読ませることを前提とした日記もあっていいかもしれないなあ」と半ば同意してくれた人はいる。
 で、あってよかったんだ。しかも他人の日記にコメントをつけ合う!?というブログがポピュラーになった。今度は他人に読ませる日記の先輩であるはずの私がこういう感想をもつほどにである。「よくまあ、それだけ他人に読んでもらいたいことを書けるものだ」。

 ブログの先輩として、この傾向は危険だ。書きたいことがあるのは分かる。でもまとまったエッセイを書けるようになってからにしなさい。下手をすると、ものしまくって、読ませたいことがあるとはとても思えない平安女性のブログ(日記文学)みたいになってしまう。
 なぜ日記を他人に見せるのが気持ち悪いと言われたか。それは日記には他人に読ませられないことを書く、という前提があるからだ。それが日記の日記たるゆえんなのだが。
 それともブログ、と言った途端「日付のついた随想」であり日記ではなくなるからいいのかな。
 でも、ある程度文章がうまくなっていないと「こいつは本音を言わない奴だ」と周りの人に信用されなくなるよ。

 私の就職が決まって、偉い人と飲む機会があったが、その時、突然感心された。「こいつは酔っぱらって好き勝手しゃべっとるように見えて、実は問題になることは何一つしゃべっていない!」。しらふになってから思い直した。そうかもしれない。日記文学を書いてきたから。モノローグのように見えて、実は他人に聞かせて問題とならないような言い回しを使うのは慣れてるんだな。
 ブログを書いている人は、次第次第にそういう傾向になるかもね。言葉は使うが、実は何も語らない。そして言っているが結局無害だと分かれば、仲良くなっても仕方が無いなと判断される恐れがある。でもそういう風になればまだマシかも。妙に親しみやすさを強調して嘘つきに見えたり(社長のブログ)、自己弁護に走ったり、オオサマの耳はロバの耳とこっそり言っていたり、自分の意見に見せかけて商品の宣伝をしているよりは。
 でもしょこたんは別よ。自分を語らずとも自分の周りを語りまくる。あそこまで書けば素晴らしい。といっても一回しか読んだことはないが。

 でも私個人は、書き散らしつつも、日記だから許されるよいところを一つ守っていると思っている。日記は独断と偏見を書いても誰も文句を言わない。つまり勝手なことを書いていい。だからとにかく結論を書く。問題だなあ、という感想だけでは終わらない。無理にでも落ちをつける。すると、自分の考えはここまでは行った、というのを形に残せる。少々間違っていてもかまわない。極端な話間違っていると分かっていても理由をつけて結論を出しておけば、あとでどう間違っているか分かる可能性があるから、ひっくり返せる。ひっくり返したときに何かが残る。

 昔の恩師、いろいろ問題がある人だがおっしゃっていた。「宗教を勉強するならキリスト教がいい。それもカトリック。連中むちゃくちゃ理屈っぽいから。あれくらい理屈っぽかったら嘘でもいいんです。ひっくり返したときに何か残るからね。」
 で、その先生によるとひっくりかえせないものは「倫理学」らしい。フーコーがドゥルーズ&ガタリを評してそういっていた。ドゥルーズ自身、自分への反論があると「お説ごもっとも。では次の話題へ」と言いたいと書いていた。でも、本当にそうだとしたら、そんな文章、読んでもらえるか?やっぱり優れた感受性を持っているんだろう。他の人が気が付かない現実の一部をきちんと切り取っているんだろう。

 ここで「他人に読んでもらえる(読んでもらう価値のある)日記」と「他人が読むことを前提とした日記」の大きな差が出る。読んでもらえるためには、それなりのことに気が付かないといけない。もちろん、共感を引き出せるだけのことが書ければいいのだが、これは難しい。月並みでないやり方で共感してもらえることを書ければもう立派な文学だ。
 そんな文章が書けないことに気が付いた人は、小説家を断念して評論家になったりする。例えば小林秀雄だ。自分に見切りをつけるのは辛かったはずだ。でも幸い、他人が気が付かないことに気が付く能力、彼には十分あったみたいだ。

 果たして、小林秀雄が今生きていたらブログを書いただろうか。夏目漱石は小説家だから書かなかっただろうけど。評論家であれば書いたかもしれない。でも他人が読むことを前提とした日記は書けただろうが、また他人に読ませたいものは書いただろうが、やっぱり書かなかったんじゃないかなあ。
 小林秀雄は、自分を語っていたけども、読んだ人のためになると確信して語っていたと思う。自分と同じことを考えることが(少なくとも同じ主題を考えることが)日本人にはためになると確信してね。でも、その確信が熟成するには、相当長い期間を必要としたはずで、ブログという形式にはなじまなかったと思う。

 土佐日記が日記文学を創始したように。小林秀雄の評論が日本文化の幹を描いたように、ひょっとしたら出版相次ぐブログ本が、新しい文学ジャンルを創始するかもしれないが、さあ何が足りない?(これは私が答えを書けないこと。でも嘘でもいいから断言します。時代を超えて季節は共有できても、心情は共有できても、時代の息吹を感じる心は時代が違っても共有できても、今のところ時代を超えてニュースは〜風俗といったほうがいいか〜共有できない。さあ、誰かひっくり返してくれ。)

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