紀貫之とルネサンス

 夏休みの宿題に焦る若人の姿は例年のことながら我々を刺激し、元気を与えてくれるものであるが、今年は「指導する側の先生」が気になるようになった。
 指導もろくにせずに、生命保険の作文とか税の作文とか人権作文とか自由研究の結果を要求するのは酷ではないかと思ったのだ。まあお上や業界団体のリクエストを単純につないでいるだけで責任はないと言い張るのだろうが、学校での評価の対象とする以上、授業で一コマ割いて税について説明するくらいは義務と言っていいだろう。しかたなく我が家ではフィナンシャルプランナーを駆りだして税の作文を指導する羽目になった。(いうまでもないが私はフィナンシャルプランナーの資格を持ってない。)

 しかし指導できないのも当たり前だろう。どうやら国語の定番、「俳句」や「短歌」の宿題を出すにあたって、俳句や短歌の作り方も指導している形跡がないからだ。「俳句は5・7・5で季語を入れます」定義ではあるが作り方ではない。仕方ないので私が教える。

 俳句の美意識ってね。今風に言うと「あるある」なんですよ。だから実は川柳は伝統を継いでいるのです。サラリーマン川柳。「あるある」と苦笑させて、その笑いが評価。俳句って芭蕉の時代は「俳諧」って呼んでたでしょ。「諧謔味」のあるものなんですよ。ただし、笑わせているだけは普遍性がない。そこで一定の歯止めとして「季節感」を織り込むのを良しとしたのです。その保証が「季語」。これによって、読み手は一年のその時期に心を置き、句の表した情景に浸る。「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」すぐにその場面に心が飛んで行って、あたかも蝉の声の中にいるような気分になるでしょ。
 「色里や 十歩離れて 秋の風」人工的な明かりを過ぎたところでふっと風が吹く、分かるよね。こうやって季節から切り取った風景・事物がいかに他人の共感を呼ぶかが「俳句」の価値を決めるわけ。なので共感が呼びやすいよう、どっちかというとココロヨイものが題材となる。

 短歌はもう少し難しい。様式美が出てくるからね。特に古今和歌集。万葉集の一部を除いて「決まった!」というのが評価基準になる。極端な話、植物や虫の実物を知らなくても詠めるそうな。もっとも万葉集の時代でさえ、人前で恋の歌を詠み交わし合って「どうだい」「あらいやだ」ってやってたわけだから和歌とはそういうものらしい。

 なわけで、短歌が作れないという迷える子羊がいたので、ひらめいた。様式美を重視するという点で、短歌は西洋キリスト教文化と親和性がよいのではないか。つまりあっちの芸術は「神をたたえる」という目的があって作られたもの。神の栄光をカッコよくあらわしているかどうかが良し悪しの基準。なにしろアラブ人のはずのキリストがああいう姿で描かれているのだ。短歌の様式美は神の栄光を表すという用途で最高の輝きを示すであろう。

すると量産できる。
雨降って 潤う万物 生き生きと 草よ示せよ 神の栄光
神の愛 野原の花よ 咲き誇れ ソロモンすらも 恥じらうほどに
万物を 創造されたる 主の力 その栄光を 見る身幸せ
聖書から場面をとってくるもあり
この中に 私を裏切る 者がいる 告げるイエスに 驚く使徒たち
 なんという様式美。ヨーロッパの美術館に飾られている作品のようだ。少なくともカトリック系の学校であれば、素晴らしい作品と褒めざるを得まい。

 しかしこの違和感はなんだろう。確かにいくらでも作れてしまう。ただしあくまで捧げものが並んでいくだけであって、良い和歌に出会った時特有のものが何も感じられない。
 ピンとこない人、います?では私と同じように聖書を題材として書いてみてください。思いつかなければ讃美歌/聖歌から題材をとってきましょう。やがて気が付くと思います。
 「窮屈だ!」そう思ったでしょう。そのときあなたは素晴らしい実感を得たのです。カッコよく言いかえてください「ルネッサンスを起こした芸術家たちの気持ちが分かったよ。」

 一回りすると分かるでしょ。紀貫之の名文、古今和歌集仮名序の意味が。共感できるでしょ、やまとうたを創りあげた歌人たちの心に。
「やまとうたはひとのこころをたねとして」
 正岡子規であっても、これだけは否定できないと思うんだよなあ。それが「表象」か「概念」か、という区別はあるにしても。

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