新約聖書のコリント人への手紙、13章は偉大な章として知られている。広告ネタ、目次へ
「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」オンラインゲームの打ち切りが決まったにもかかわらず、低予算ながら律儀にも放送されたアニメ「けものフレンズ」、サーバルキャットという決して有名ではない動物が主人公に選ばれたのは、なんて美しい動物だ、と感動した人が推したからとか。
ところがけものフレンズ、売れてしまったものだから、利権の匂い釣られる人が集まったようで第2期において愛は二の次になってしまった。サーバルを魅力的なキャラに作り上げた監督を追い出して続編が作られ、放送開始となったが、先入観か、あるいはサーバルのCGが不気味の谷に突入したのか、なんとなくジャンプ力が退化したように見えるためなのか、どうも魅力的に見えない。すくなくとも「見て!サーバルって美しいんだよ」という訴えは見つけられない。伝えたい気持ちがない以上、当然共感もしない。
オリジナルのけものフレンズを見たときは「バンジージャンプとコラボして、すっごーい、君は勇敢なフレンズなんだね、とさーバルちゃんの声で励まされれば大人気になるのではないか」などと言ったが、今ならそんなことは考え付かないだろう。
(萌えアニメのはしり、といってもいいのかな「うる星やつら」は各アニメーターが自分の担当キャラをいかに魅力的に仕上げるか、で競い合った結果、ああなったという話を聞いたことがある。さもありなん。)オリジナルと第2期の差がはっきりわかるのはAパートとBパートの間に流れる「登場した動物の説明」であろう。ナショナルジオグラフィックがスポンサーについたようで、サーバルキャットについての百科事典的な解説が、鮮やかな動画をバックに声優さんのきれいな声で流される。決して悪くない。が、いつも動物と接している飼育員が屋外らしいノイズの中で「一匹一匹違います。人間と一緒」と話しているのと比べて、どちらに愛を感じるかは言うまでもあるまい。動物についての知識が増すのはナショナルジオグラフィックの解説であろうが、動物との距離感が少なくなるのは飼育員の肉声である。この親近感があるから、けものフレンズに出てくるペンギンキャラの看板から離れなくなってしまったフンボルトペンギンのグレープ君にホロリときたりするわけだ。
百科事典的な説明であれば、ググればわかる。もちろん覚えてなければ応用は効かないが探そうと思えば探せる知識だ。しかし飼育員が動物たちにいかに目を配って、かわいがっているかを感じさせてくれるものは検索したところでまず見つからない。
「けものフレンズ」というか、たつき監督は、この体系化されているわけではない、でも人間が活動して感じた知識を、偶然か狙ってか、見せてくれたわけだ。科学は物を巧みに操作するがものに住み着くことを断念している。(メルロ=ポンティ)
生活者はモノに寄り添って、その当たり前の幸せに日常を感じている。