日本語における仮定法

 I wish I were a bird.
 高校英語で「仮定法」を教わるときに、必ずと言っていいほど出てくる例文である。  さて、日本語に訳してみよう。
「私は自分が鳥であったらと望む。」
きれいに訳せましたね。え?違う訳を習ったって? 「私が鳥だったらなあ。」
 変ですねえ、ちゃんと文章通り訳さないと。

 ここで
I wish I am a bird.
を訳してみましょう。
「私は自分が鳥であることを望む。」
 なんでこんなことを出してくるかというと、この文の場合
「私が鳥だったらなあ。」
に対応する訳文が作れないからだ。
「私は自分が鳥であることを望む。」
なんかものすごくへんでしょ。
 多分、英語ネイティブが
I wish I am a bird.
という表現を見た時も同じような違和感を感じるのだろうな。

 言ってることはわかるけど何をあたりまえのことを、仮定法過去で表すべき文を現在形に変えれば英語としても意味をなさない。それを日本語に直訳すればおかしいと感じるの当たり前だろ。と思った人、次の私の主張に賛成してくれるかな?

 日本語にも仮定法過去は存在する。現在の事実に反することを表現するには「過去形(完了形)」を使う。(日本語には過去形がなく、完了形を使っているという説もありまして、個人的にはその通りだと思っております。)

 私が鳥「だった」ら
と過去形で言ってますからね。

 普通にみなさん気が付いて使い分けていることと思っていたのですが、自分自身はっきりさせておくためにここで書いておく次第。これを聞くと「なんかややこしい」と思っていた仮定法との距離が縮まるかもしれません。
 先日、文章書きなれた人とメールの交換をやっていた中で出てきた文にこんなのがあった。
「当たり前と思っているのですが違う人もいるようです」
これを素直に読むと「違う人がいる」のが「当たり前と思って」いることになる。
 これに対して、英語と同じように時制をずらせて
「当たり前と思っていたのですが違う人もいるようです」
としてやれば、当たり前と思っていたことに「反した」、違ったことをする人がいるという意味になります。まあ、時制をずらさなくても分かるといえばわかるのですが、仮定法を使ったほうが誤解の余地は減る、ということです。

 もっとも日本語で「仮定法」を使う動詞はある程度決まっているようで、必ずしも時制をずらさなくても意味が通じるというところはあるみたいだ。なるほど、フランス語の接続法がみょうに窮屈だと思ったら、この辺は日本語との共通点なのね。

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