毎年と 言えなくなった 春の色

 それにしても暖かい彼岸の入り、であった。
 ついに正岡子規の俳句
毎年よ彼岸の入りに寒いのは
が、川柳に分類される時が来たのかもしれない。
 この「俳句」、一説によると子規の母親のつぶやき、らしい。その点では盗作と言っていいが、最大の問題は「季語がない」ことにある。
 そういうと「彼岸、が季語でしょ」と答えてくる人がいるが、彼岸自体は春と秋に共にある。無理やりにでも季語を見つけようとすると「寒い」。になるだろう。つまりこの「俳句」冬の歌なのだ。
 にもかかわらず、誰もがこれを春の歌と受け取る。なぜか。ここに俳句の本質がある。
 誰もが、子規の母親がこう言ったときの気持ちを推測でき、それに共感するだろう。暖かい春を待ち望み、暑さ寒さも彼岸まで、という言葉を支えにして冬を越す。そしてようやっと彼岸である。今日から暖かくなると期待して布団から出ると、しかしやっぱり寒い。「毎年よ、彼岸の入りに寒いのは」。  俳句の本質は「共感を呼び起こす」である。その意味では川柳も同じだ。しかし俳句の川柳にない特質はこの共感が長い時間を超えられることだ。共感を得るというだけならサラリーマン川柳の方がクスリとさせるところもある。その意味では川柳の方が「俳諧」の正当な流れを汲んでいると言える。しかし「待つことが愛だと知った地球博」、今でも通じるだろうか。これに対して時間を超える共感をたった十七字に詰め込むその手段として俳句は「季節感に訴えかける」を採った。
 だから季語が必要なのだ。逆に言うと季節感を取り込んだ共感を得られれば、季語は必ずしも必要ではないのである。
 地球温暖化で、この名句が俳句から外れる前に、一言言っておきたかった。
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