コンピュータを教育に生かす(その2)

 日経BPのitproというサイトに「ゲイツ氏の”授業参観”で考えた、IT教育」というコラムがあった。日経コンピュータの副編集長が直々に(ゲイツ君も参観した)パソコン授業を参観してのレポートである。

 簡単に要約してみる。
 都内のS小学校でパソコンを調査の道具に使った授業を参観した。
 授業内容は、「日本と関係が深い国々の人々がどのような暮らしをしているか」というテーマを与えられ、それをインターネットとエンカルタを利用してパソコンで調べるというものだ。
 筆者は、調べものが簡単に済むために、限られた授業時間を有効活用するという上で、一定の効果を上げていることを認めつつも、懸念を持つ。「収拾した情報を読み解くことの重要性を小学校では教えているのだろうか。パソコンやインターネットという道具の怖さを小学生たちは理解しているのだろうか。」

 授業の最後に調べた結果をまとめる段になって、ほとんどの生徒は画面に表示された情報を紙に丸写ししていたそうだ。筆者は心配する「大丈夫なのだろうか」。そして意見を述べる。「ITを知的作業の”道具”として使いこなす能力の育成を」「情報を判断する能力の強化に時間を割いてほしい」と。

 筆者の気持ちはよく分かる。しかし、この子どもたちに「丸写しにする」以外のどんな選択肢があったというのだろう。いくら現代でも、小学生みんなに海外渡航の経験があるわけではない。実際に見たことのない国の生活・・・これをどうやって自分の言葉で書けというのだ。

 しかし先生方の事情もよくわかる。多忙なビル=ゲイツがそれなりに興味を持ち、かつ1〜2時間で完結する授業を行わなければならなかったのだ。おそらくはS小学校だけでなく、近隣の学校・教育委員会まで集まって知恵を絞って作った課題なのだろう。おなじ制約のうちで考えれば、これが精一杯である。

 もしここでS小学校に課せられた条件を取っ払い、いくらか期間をかけて、フィールドワークと組み合わせたものを提示してよいのであれば、ある都内の小学校(4年生)のようなこともできる。
 課題は「地域のみどり」。児童を公園や保護樹に引率、テーマ別にグループを作り、それぞれが調査/発表を行うというもの。で、その「保護樹」グループの話。
 まずはインターネットで「保護樹」やその木の種類について検索。その後はフィールドワーク。木を叩いた音の感想や、木に登って周りを眺めた感想を書いたそうだ。よほど木に登って気持ちがよかったのだろう。そのとき自然の大切さを実感したそうだ。これが結論。
 でもここまでなら百科事典をWeb検索に置き換えたに過ぎない。Webを使った価値は、このとき派生したこんな活動に現れている。木の種類をWebで検索した時に、たまたまその木の実でクッキーを焼くという記事を見つけたそうな。で、ボウル一杯木の実を集めてクッキーを焼いたそうだ。
 まずは木の実の殻を割る。結構重労働である。しかしこれは、調査のグループにとらわれず、クラスみんなで行った。そしてビニール袋につめて実を砕いて、家に持ってかえってクッキーを焼いたそうな。もちろんその木の持ち主にもお礼として持っていった。大部分は翌日の給食のデザートに。クラス全員が自然の大切さを腹の底から実感したことは言うまでもない。

 これぞネットを使った教育の成果!と言いたいところだが、忘れてはならないのは「たまたまそんなことを考える子どもがいたから、こういう結果になったのだ」ということ。同じ課題を与えても、だれもがこのように考えを発展させるわけではない。確かに先生は引率をして校区の自然が残されているところを回り、地域の家庭に協力依頼をしはしたが、ユニークな発想を引っぱり出す手助けをしたとはいえまい。
 それでは、ということで、リーダー格の子どもの親に聞いてみた。「すばらしい発想と行動力だけども、どういう育て方をしたのですか?」―回答は「手をかけなかっただけ」。ITに振り回されない人間に育てようとしたわけではなく、気がついたらそういう人間に育っていただけ、ということ。

 だからこれだけでは、IT授業の指針にならない。だがこの例が望ましいIT(というかネット)を使った教育の姿であるような気はする。少なくとも、この授業をナンセンスという人はいないだろう。
 なぜそんな気がするか考えてみた。ネット検索がなかったとしたら、、、少なくともクッキーは焼いていないぞ。ネットで木の名前を検索して、たまたまではあるがレシピが見つかったから、焼いたのだろう。これが百科事典なら「実は食用になる」と記述されていて、それで終わりだ。で、この授業、クッキーを焼かなかったら、インパクトはさほどない。少なくともクラス全体への影響は半減する。木の持ち主に、その木の価値を再認識させた度合いも少ない。

 クッキーを焼く、という行為をもたらした要因は2つある。一つは木の名で検索したところ、「クッキーの焼き方」が引っかかったこと。これは偶然ではないぞ。百科事典編集者の関心をまるで惹かないであろうものも引っかかるのがインターネットなのである。
 もう一つが「まてばしいでクッキー?」と興味がわいたページにワンクリックで飛んでいけるというお気軽さ。もし百科事典に「クッキーが作れる、レシピは○○という本に載っている」と書いてあったとしても自分でクッキーを焼こうということにはなるまい。

 はっきりとカテゴライズされた問いに対する答えを見つけるためなら、百科事典の方が便利である。極端にはっきりと定義された問題、たとえば計算問題の場合、コンピュータはとても役にたちはするが、さてそれがIT教育か?
 ネットで調べるのって楽だから、という軽い気持ちで検索してみたのだろう。で色々な説明がある。どれか使えそうなのはないかな、と見ているうちに「食える」という説明にぶつかった。これが思いっきり興味をひいた。(多分その他に「丈夫で建築にも使われる」といった説明もあったのかもしれない。でないと私の場合は怖くて木に登れない。)

 ネットは無秩序ではあるが、逆にこれが子どもの思考に合ってるのではなかろうか。少なくとも無秩序は色々な分野への興味を刺激する。そういう意味では検索やネットサーフィンで遊ばせる、という経験は子どものうちにやらせるようにしたほうがいいのではないか?ネットを使わせるのは自分で判断できるようになってから、なんて堅いことをいわずとも。

 あくまで主体は子ども、ITは補助、この構造を保証する課題を与えてやればよかったわけだ。子どもたちが自分の言葉で書けるものを調べさせてみよう。子どもが自分の言葉で書けて、かつパソコンで調査することによって内容がふくらむものを探せばよい。
 そう簡単に見つかるわけではないが。子どもの発想を信じてやれば、結構何とかなるかもしれないぞ。
 先ほどの例で言えば、課題を「地域のみどり」としたのが良かったともいえる。これが「地域の福祉」なら、役所で資料を貰ってきて、Webにある解説をを探して、せいぜい他の地域と比較して、それらを書き写して、終わりであろう。

 だから貧弱でも自分で見てさわれるものをIT学習の教材として取り扱うこと。そしてそれを充実させるのにIT(多くの場合インターネットの検索エンジン)で拡大した調査能力を使うこと。

 で、このようなアプローチで調査能力を拡大させることができるようになると別の大きな教育上の効果をももたらすことができるのに気がついた。これは先ほども触れたWeb検索の特性、見つかるものは無秩序ではあるが、気軽に検索できること。そしてキーワードが指定できれば、ある程度曖昧なこともそれなりに調べることが出来るという特性に基づいている。

 子どもの問いは、たいてい訳わかんなくて、とんでもない分野に広がっていて、とても全部を受け止めることはできない。しかもすぐに答えを知りたがり、モタモタしているとせっかく問いを見つけたのに、すぐに飽きてしまう。

 子どもが疑問を持ったとき、調べなさいと言うのは簡単だが、例えば百科事典や理科年表や国勢図会を持ち出してきても、カテゴライズされていない疑問には役立ちようもない。そんなわけでせっかく疑問を持っても、どうしようもないから、そこでポシャっておしまいになることが多い。  ところがインターネットのWebページと検索エンジンを活用すると、そういう問いにも何らかの答えが見つかる可能性が高く、しかも見つかるまでの時間が短い。

 苦労して調べることの重要さを教えることを否定はしない。しかし、疑問を持って、その解答が見つかったときの喜びを教える方が先ではないかい。そして、その時に検索エンジンのスピード、および曖昧な検索でも何とかなるという特性が役に立つ。
 そして、この喜びを教えることが、問題発見/解決というプロセスの喜びを教えることに他ならない。これがどれほど教育の重要な部分を占めことか。

 当方、子どものころに、結構突拍子もない疑問を持って親を困らせたが、それでも随分と問題解決につきあってくれたと感謝している。でも、つきあってもらえなかったのが3つ。X線の発見と、補助線を使わない三平方の定理の証明と、マイナス×マイナスがプラスになる理由の説明。。。そりゃ無理だわな。
 でもWebのある時代にそのような疑問を持ったとすると、なんとかなったんじゃないか。懐中電灯で壁に手の影を映して遊んでいたとき、影は骨とおぼしき部分が明らかに濃かった。壁の土が雲母を多く含んでいることは知っていた。雲母は小片だと金色に輝くのだ。なら、「輝く」-「光」-「X線」の連想から雲母が何らかの鍵を握っているかもしれないと推測した(小学生だったが、本当にそこまでは考えたのだ)。
 ここで「X線、雲母」でサーチエンジンを叩いてみると、雲母には蛍光を発するものがあるそうだ。ならば、壁に手の骨の影が映ったように見えたのは、懐中電灯から出ていた微量のX線が、壁に当たって、壁土にたまたま多く含まれていた雲母が蛍光を発したため、かもしれないな、と想像することが出来る。
 答えは別に完璧で正しいものでなくともよかった。仮説であっても何か分かると嬉し い。この喜びを、あのとき感じていたら私は今頃医療器械の研究をしていたかもしれない。

 こどもが突拍子もない疑問を持ったとき、単純に「調べなさい」で突き放してしまえば教えることの放棄になってしまうが、どんな風に調べたらよいかを一緒に考えるなら、それは問題発見/解決の手段を教えることになる。さらにはインターネットの検索サービスを活用すれば、問題発見/解決の喜びを教えることがとても簡単になる。ITを活かした教育に求められるのはそういうものでもあろう。

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