クラシック音楽は、所詮「再現芸術だ」と低く見られることがある。音楽ネタ、目次へ
第一義的には他人が書いた楽譜を、その通り演奏することが求められるわけであるから、その通りなのかもしれない。例えば、他人の絵をそのまま再現する画家は、普通は一流とは呼んでもらえまい。(『エロイカより愛をこめて』の第一作にはファン=メーレヘンという贋作家の描いたキリスト像をフェルメールのスタイルをまねた新しい芸術である、と評価するシーンがあったが。)
しかし、他人の書いた楽譜を演奏するからこそ他の分野にはない特質があるのだと思う。
作曲者と演奏者の時を越えた協同作業によって、個人の能力を超えることができるのだ。演奏者は作曲者の意識しなかった面を楽譜から引き出し、作曲者は演奏家の想像力を刺激する。こうして自作自演では到底できないような優れた芸術表現が生まれるのである。
このことが最もはっきりと現れているのが、史上最高のベートーベン第九と評されているフルトヴェングラー&バイロイトの演奏であろう。
ライブで表現された演奏が、実はリハーサルとは違っていたということは容易に想像できる。第四楽章のコーダ、あまりにも速すぎてトライアングル以外の楽器がついてきていない。これは、フルトヴェングラーの指揮棒がリハーサルのとは比較にならないテンポを要求していたためである。
そんなわけで、ベートーベンが作曲時には意図せず、更にはフルトヴェングラーもリハーサル時には想像もしなかった演奏が、ここで行われていたということが言えるだろう。これが、再現芸術ならではのクラシック音楽が持つ凄さなのだと思う。しかし、この演奏には更にその上の次元を想像させるものがある。格段に速いテンポを要求したのはフルトヴェングラーでも、ましてやベートーベンでもなく、正確には音楽そのものであって、フルトヴェングラーはそれに従っていたに過ぎないように聞こえるのだ。
そんなわけで、この音楽はベートーベンの楽譜からもフルトヴェングラーの指揮棒からも離れて独立に存在しているかのようである。それを刺激したのはバイロイトに集まった聴衆かもしれないし、第二次世界大戦後、初めて開催されたバイロイト音楽祭というシチュエーションかもしれない。
この時の指揮棒は、数学者オイラーの鉛筆のように動いていた。「私の鉛筆は、私よりも賢い」と評したオイラーである。我々ですら数学の問題を調子よく解いているとき、鉛筆は数式が自己展開するのを助けているだけのように思われる。天才的数学者オイラーにとってはそれがいかなる独創的な展開方法でも事情は大して変わるまい。オイラーの鉛筆は只ひたすらに数学の諸規則に従っているだけである。オイラー本人はその鉛筆の動きを助けているような感覚だろう。(数式を解いているのは間違いなくオイラーなのだが)同じように、この時のフルトヴェングラーの指揮棒は音楽そのものに対して忠実に動いていた。もはや一人の人間の創造力、想像力を超えた芸術である。これを私は非人称の音楽と呼んでいる。ベートーベン、フルトヴェングラーという人称性を超えているのだ。だからあの演奏は人類の宝だ。
(この演奏のCDは、CD本来の規格を1秒だけ超えている。逆にいうとこの演奏を1枚に収めることができないように、CDの規格は定められたのだ。ベートーベンの第九を1枚に収められる規格にしようと提唱し、当初5センチだった半径を1センチ伸ばさせたカラヤンが、これに気がついていないわけはない。)再現芸術であれば、必ずここまでの高みに上りつめることができるか?と言うとそれは違うであろう。ショパンの前奏曲を弾くときは「ジョルジュ=サンドがああして、こうしているときのショパンの気持ちを想像して・・・」というのも悪くないと思う。そういう作品もあるのだ。(でもショパンの作品でも幻想ポロネーズは人称性がないように聞こえる。ショパンについては、いずれじっくりと書くつもり。)
逆にバッハの音楽には人称性をあまり感じない。バッハとは独立に存在しているように聞こえる。イタリア協奏曲の楽譜のあの視覚的美しさに作曲者バッハの個人的物語を想い込むことは不可能である。確かにショパンとサンドのような逸話をバッハについて聞くことはない。だからバッハ自身、感情の起伏に乏しい面白みのない人間だったように想像され、ジャンルも宗教音楽に近い、だからあんなだと判断されるべきなのかもしれない。
でもね。私が知っているたった1つのバッハの逸話、好きなんだわ。
奥さんが死んで、部屋で沈んでいるバッハのところに葬儀屋さんが請求書を持ってきた。
そのときのバッハの答え
「妻に聞いてくれ」