権威に認めてもらうこと

 今回のオリンピックで個人として応援したのは女子レスリング浜口京子。
 父親のアニマル浜口の謙虚な態度に感銘を受けた。
 アニマル浜口のやっていたプロレスは要するにショーである。ショーというとすぐに八百長と連想されて、プロレスラーって本当は弱いんじゃ、と判断されがちである。しかし実は強いということを証明したい。
 ところがプロレスという枠の中では「所詮は八百長」と証明することは出来ない。ではどうするか。
 一つの答えが、輪島。いかに輪島が大横綱であろうと、引退後かなりたってのデビュー。そのまま通用してしまってはプロレスが弱いということを印象づけるだけである。ところが輪島は動く仁王像そのままのピカピカの体でリングに上がった。これは練習したに違いない。元々大横綱だし、これはやるかもしれない、と思わせるに充分だ。
 谷津嘉明のやったのも間違いではない。アマレスの大会に参加。見事優勝。元々アマレスチャンピオンだったためちょっとインパクトは弱いが。
 これに対してアニマル浜口は、娘をアマレスチャンピオンに育てた。間接的ではあるがこれもプロレスの強さの証明である。
 いずれにせよ、強さが正統的に認められた分野に踏み込んで認めさせたというのが大事なのだ。既に認められた権威の中にあえて飛び込むというのは、失敗のリスクも大きい。勇気の必要なことである。それをやった謙虚さに拍手を送る。

 同じような例は音楽にもある。例えばゼコビア。スペインの民族楽器でバッハを弾き、人を感動させうることを証明した。だからギターは「クラシック・ギター」と呼ばれるようになった。
 エレキギターの分野でも寺内タケシは多くのクラシック曲をギターで弾いた。たしかにこれはゼコビアほどの影響を与えなかった。しかし津軽じょんがら節を弾いた。さすがに伝統の後継者には加えてもらえなかったが、私はじょんがら節に感動した。なんであんなに迫力があるんだ。聞くと、寺内タケシは三味線弾きの家系だったらしい。確かにピック捌きがそれっぽい。だからエレキを弾くと言ったとき父親と葛藤があっただろう。多分、彼は津軽じょんがら節を「親父、ごめんよ」と泣きながら弾いていたんだろう。ただし、三味線は楽器も含めての伝統芸能。正当な三味線奏者には認めてもらえなかったかもしれない。でも気持ちは伝わったはず。

 私はこのように、正統の外にいるが、正統のルールに自らをおいて自分自身のやっていることを証明する人々が大好きである。しかし、最近増えてきたこの逆の流れの人々を見ると実に不愉快になる。君らは権威があるところから来たかもしれない。だからといってそれだけで認めてもらえると思ったら大間違いだぞ。勘違いするな、ジャンルに貴賤はない。
 老舗はG-クレフかな。東京芸大のみなさまが、走ったり踊ったりしながらバイオリンを弾いていた。私は思う。上手じゃないんだから立って弾いたら?踊りながら弾いているから下手なんだといういいわけが通用するわけじゃないよ。どうしても踊りながら弾くのなら、ロックンロールを弾いてくれ、ロックンロールファンがのってくれる程度にね。
 弾きやすくアレンジした木星を全女性ユニットで弾いたりしている連中を見てもそう思う。何か勘違いしていないか?
 それは、クラシック音楽は投資が多いが見返りは少ない分野。多くの人が食べていくのも大変である。でも、ポピュラー音楽の分野で食べてゆくのなら、妙なプライドを捨ててポピュラーの分野で認められるように謙虚に弾いてほしい。
 本当はテクニックあるのよ、と言いたいならバイオリンでハイウェイスターを弾いてくれ、もちろん16分音符をオルタネイトで弾いてね。それがピタッと合ったら、喝采を送ろう。

 とかなんとかいいつつショッピングセンターの客寄せでディズニーメドレーを弾く弦楽四重奏が、「眠れる森の美女」で初めて、はっとするほど美しい響きを出すのを聞くと、私はその気持ちが分かって、大変共感するんだけどね。(「眠れる森の美女」はチャイコフスキーの旋律をそのまま使っている。)

 なお、浜口京子は残念ながらプロレスの呪縛から解放されなかった。
 得点表示ではイーブンだったが、実は表示が間違っていて、延長と思ったところで無念の判定負け。ここでアニマル浜口が「おかしい」と吠えてしまった。
 あのー、あなたがそれをやると「オリンピックの得点表示の疑惑で、浜口京子と王に確執が生じ、抗争へと発展、双方がプロレスのリングに上がり、ついにドームで決着」ときわめてプロレス的なストーリーを連想してしまうんですけど。

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