コミックモーニングで連載再開されている「ピアノの森」という漫画で、主人公の弾くショパンのワルツ作品69-1を聴いた人が「このピアノに出会えてよかった」という思うシーンがある。確かにあの絵自身からも作品69-1が聞こえ、読む方としても納得感がある。 しかし、更に感動すると、感想が「この曲を(演奏を)聴けてよかった」から「バッハと同じ人類であることを誇りに思う」になる。大げさと思われるかもしれないが、宇宙人へのメッセージとしてボイジャーにバッハのレコードを積んだ人は、この感想にうなずいてくれるだろう。音楽ネタ、目次へ
極めつけの感動になると、もう声も出ない。が我に返ると「この星に音楽があってよかった」という気持ちに満たされている。そんな演奏あるかって?チェリビダッケのチャイコフスキー5番がそうだ。ただし私はチェリビダッケの生演奏に触れる機会がとうとう無かった。挑戦はしたがあまり運がよいほうではないようだ。でも、幸運もある。もう一つ、この気持ちをもたらせてくれる演奏を、なぜかCDで持っているのだ。チェリビダッケのブルックナー7番であるが、演奏はミュンヘンフィルでなく、ベルリンフィルである。1992年、チェリが38年ぶりにBPOを振ったあの演奏である。この演奏の第一楽章には拍節というものがない。その代わりにうねりがある。音楽は拍節で区切られるのではなく、うねりに乗って進んでゆく。
話によると、チェリとBPOのリハーサルの初日、チェリは最初のトリルを「合わせるな」と指示したらしい。が、完璧なアンサンブルを持つBPO、どうしても合ってしまう。ようやく合わなくなったところで、チェリ「ブラボー、すばらしい。今日はここまで」。
最初の1音に丸一日かけたのだ。そこで得られた茫洋たる響きのまま第一楽章は進んでゆく。
ただ、どうしても準備不足だったのだろう第三、四楽章になると拍節が出てくる。ではいったいなぜ、拍節がないのにアンサンブルが成り立つのか?(実演を〜ベルリンまで行って〜聴いた人によると、管と弦が全く合わなくなった箇所があるらしいが)。多分練習したからなんだろうな、映画「チェリビダッケの庭」を見ると、チェリの指揮棒はいつも「ここは教えたとおり」と言っているように見えるし。
といいつつも、はてなは残る、ということで考えた。頭をよぎったのは以前も書いた「ピアノの単音というのは割とわがままで、それ自体、弾いてほしい速度を持っている」ということ。これはピアノの音はハンマーで叩けばあとは減衰してゆくだけという特性を持っているので際だつ性質である。エンベロープの自由度が高い管楽器や弦楽器では音色の持つわがままさを制御することも可能であろう。ひょっとして、チェリはオーケストラレベルで音色およびエンベロープを制御し、音自身が鳴りたいと思っている時間を各音に割り当てることによってアンサンブルをとっているのか?
不可能なはずである、出来たら超人以上である。でもこのブルックナー第一楽章の第二主題は、出ている音自体が意志を持って、時間の流れの中、浮き上がってくるようである。
すごい、音が音楽に浮かんでいる。音が音楽を構築しているわけではない。この出す音の響かせる時間に合わせて音をコントロールし、結果としてテンポを合わせるという作業、オーケストラなら奇跡であるが、独奏なら出来るんじゃないか。そういう耳で聞き直すと、クレーメルやレーピンクラスだとやってるように聞こえる(殆どの演奏家が無意識に目指していると思う)。うんうん。
娘がバイオリンを弾き始めた関係上、バイオリン曲を聴くことが増え、こういうことも気がつくようになった。が、別のアプローチが、ありました。極端な言い方をすれば全曲を1音で弾ききるような演奏。曲の中で1音が分割され、さまざまな音の高さ、長さ、音色、強弱をそれぞれに出すような演奏。ものすごーく長い弓があって、1回引き下ろしている間に全曲の音が弾かれきるような演奏。
五嶋みどりです。これに気がついたのでストラディバリよりグァルネリが好きになりました。メンデルスゾーンバイオリン協奏曲の第一楽章は緊張感を持続させるのが、ものすごく難しいそうですが、ミドリは、一音で弾ききるようにして聞き手の緊張感を途切れさせないようにしています。
なお、以上のことを娘(6歳)に説明しましたが、全く理解してくれませんでした。