なぜ、現代の演奏はつまらないか

 トリノオリンピックがらみで、フィギュアスケートの採点方法が最近マニュアル化されてきたことを知る。ふむふむ、各種の技にそれそれポイントが定められていて、さらに完成度によって細かく分類されるのか。まあ採点に主観が入りにくくなって、それはそれでいいことなのかな。もっとも採点基準がはっきりして、それから外れない演技をするようになったせいで面白みがなくなるかもしれないという気はする。新体操とかの例もある(迫力は誰が見ても圧倒的差があっても、みんな10点満点、ミスをしたら終わり)。

 情実で順位が決まることがもはや当然視されている音楽コンクールも、心を入れ替えたのだろうか、案外採点基準がはっきりしているのかなあ。少なくともそれなりのコンクールなら、最高位はやっぱり上手い。まあ、採点基準が明文化されていなくとも「最も正確に弾いた人に最高点をつける」というのなら、どこからも文句が付かなくて良かろう。
(旧ソ連の威信をかけた第1回チャイコフスキーコンクールでアメリカ人を優勝させた審査員はやっぱり偉いぞ。長い目で見ればコンクールの権威を高めるのに役立っているから主催者側にしても利益なんだけどね。そして第2回、ソ連が威信をかけて送り出した優勝者が、アシュケナージだったなんて泣けてくるじゃないですか。)

 が、おかげで音楽がつまらなくなってしまったよーな気がする。まずは演奏技術が進みすぎた。「一点の曇りもないテクニック」の持ち主がとっても増えてしまった。テクニックはないよりある方がいいに違いないが、誰もが高度なテクニックの持ち主になると「○○コンクール優勝」だけではセールストークとしては弱く「○○コンクール最年少優勝」と言わないとちょっと、になってしまった。庄司沙也香とか諏訪内晶子とか、思い起こせば千住真理子もレーピンも。
 まあ最年少をよしとする風潮は昔からあったようで、ベートーベンの父親は息子を実年齢より2才若く紹介していたらしい。

 というわけで、子どもに難曲を弾かせることになる。これによって具体的にどこがつまらなくなったかというと、「こどものくせにこどもらしさがない」というのは、まんまなのでおいといて、子どもの体力では力強さが追いつかない、というのもまあいいとして、「こどもなので弱さを出せない」というのは強く感じるところ。ショパンが女々しくないのである。強さもイマイチ、弱さもない。結局音楽が平板なのである。

 この「こどもなので弱さがない」というのは、多少解説が必要だろう。多分恥ずかしくて人前で弱さを出せないのだ。弱さをさらけ出せるほどの勇気と自信がないのである。しかも「勝て」と言われる「競争」の一種であるコンクールが舞台のなのだ。
 小学4年生に幻想即興曲を弾かせる。右手の指の運動にはなる。しかしショパンの弱さを表現しろといったって無理だ。ともかく弾けたとしてその子にはどんな成功体験が残る?「坊や宙返りを良く覚えたね、えらいえらい」。さて、成功体験の残っているその子はショパンの弱さをいつか弾けるだろうか。

 子どもの演奏を「力強さが追い付かない」「弱さを出せない」と評して「演奏が平板になる」と結論づけたが、では、と根本的疑問にぶち当たった。「クラシック音楽は元々が感情をこめてどうこうという性格のものではないんじゃないか」。

 たしかにヴィルトオーソの皆様は、ブラームスの苦悩やショパンの悲しみを演奏した。でもそれは曲を演奏できるということ自体が希少価値を持っている時代に「自分はこんな難しい曲が弾けるんだよ」という自信があるから、また「自分はこんなに感受性が豊かなんだよ」ということを示せるから弾けていたのではなかったか。もちろんそういう自信や自負を持つことは良いことである。難曲を弾けるという才能と努力に賞賛は惜しまない。そもそも自分の感受性に自信を持たない人間が人前で演奏なんかするわけがない。
 少々意地悪に言うと「誰も正確に弾けないんだから、自分の好きに弾いたんでいいじゃない」という気持ちがあったから弾けたのかもしれない。例えばルービンシュタインは死ぬまでショパンの練習曲を全曲弾けなかった。でもドラマチックに3.5拍子でバラードを弾いていた。
 確かにそういう演奏は感動を与えたけど。それが最上の表現か、というと疑問だし、少なくとも演奏家の生の感情ではない。当たり前の主張です。だって「他人の曲」だもん。

 私は、他人の曲を弾くことによって、自分の中から自分一人では生み出せなかったものが引っ張り出され、かつ作曲者が意図しなかったことを自分が引き出すという相互作用をよしとするが、それ以外を否定するわけではない。作曲家の心を想像して弾くというのも大事なことだ。ただしそれは自分の感情を作曲家の心と一体化させているわけではないということ。重ね合わせるフリはしているかもしれないが、それでも何か1枚はさまっていると言うこと。
 この場合に見られる悲しい欠点は「作曲者はヨーロッパ人、それを日本人が弾くのは・・・」という低レベルの批判が出てきてしまうこと。もう一つ、梯剛之さんのショパン/「雨だれ」でフランス窓が開かないこと(盲目のピアニストなので一切光が差さないのだ。)。

 そういうわけで、再現芸術たるクラシックは映画音楽と手をつなぐ。ここは悲しいシーンですよ、と大画面から訴える。分かりやすい実例もある。ベートーベンのピアノソナタ26番「告別」の第3楽章を聞けば、遠くにパトロンの姿を見つけて駆け寄るベートーベンが目に浮かぶでしょう。ブルッフのバイオリン協奏曲を聞けば「はい、ここは盛り上がって」と指示しているのが分かるでしょう。川井郁子がブルッフのバイオリン協奏曲を聞いてバイオリンを始めたというのを聞いてさもありなんと納得。あの人映画音楽だもんね。気分を害さないでね。コンサートではストラディバリの前にマイクを置いて自分でアレンジした曲を弾くのだから正当派とは思ってないでしょ。女優もやっているんだからむしろ誇りに思ってね。
 ただねえ、個人の趣味として「嵐が丘」に「ヒースクリフに捧ぐ」と付けられるとねえ。「ヒースクリフを連れ帰った時、落としてしまったバイオリンと共に」などとすると、忘れ去られた、しかし最初から存在している傍観者の奏でるメロディーということで否応なく共感を覚えるんだけど。ちょっとひどすぎる言い方?でも私は「嵐が丘」の音楽というとどうしてもケイト=ブッシュを思い出すのだ。再録音で凄さを実感した。"YOU had a temper like MY jealousy" といきなり物語に入り込んでいる。物語の横で鳴っているわけではないのだ。

 この「YOU」と「ME」を強調するのは、実はビートルズの発見らしい。それまでは「Go Jonny Go,Go」と周りから応援していたロックが、あなたとわたしの、とても親密な世界に踏み込んできた。

 とここでまたもやヴィルトオーソの時代の演奏を思い起こすと、どうも「ブラームスの苦悩」や「ショパンの悲しみ」という、いかにも知能指数が高いんだぞという感情を表現しようとしていることに気がつく。まあ、哀れさくらいなら表現することがあるし(分かりやすいのが展覧会の絵、サミュエル=ゴールデンベルグとシュミュイレ)、怒りはティンパニーをぶったたいていれば格好が付くのだが、、、なぜか「喜び」が見あたらないことに気がついた。生きていく上でこれほど必要な感情はないだろうになぜ。強いて言えばクライスラー「愛の喜び」、シューマン「謝肉祭」といったところか?ちなみに「喜び」は「笑い」でも「勝利」でもないぞ。
 喜びの曲というとベートーベン「歓喜に帰す」があるじゃないか、と言われそうだが、あの曲歌っていて喜びを感じるものかねえ。どうしても式辞で「この喜びの日に」と演説しているような気になるんだわ。歌う人はみんな喜びを感じているのかしら。アンケートとったらどうだろう。「あこがれの第9をみんなと歌えて感激でした」という人は多いだろうから、その喜びと混同するなあ、、、次善の策としてブラームス1番第4楽章を題材に「喜び」を感じるか、という設問でもするか。

 「喜び」が音楽で表現できたのは、それこそビートルズまで待たなければならなかったんではないか。だからビートルズはあそこまで衝撃的だったのだろう。I Should Have Known BetterとかOh! Yoko(これはJohnのソロ)に至ってはうれし涙が出てくる程だ。
 歌詞があるのは反則だって?ベートーベンだって歌詞があるじゃないか。

 そんなわけで、クラシック音楽というのは多くの場合、「感情を表現する」でなく「感情を演ずる」素材として見た方が適当なのでは、という当たり前の結論に達するのでありました。ただし交通・通信・生活水準の向上のおかげで演奏家全体のレベルが上がり「自分は上手」という自信の価値が相対的に低下する分、感情を露呈することができなくなり、感情を込めた演奏というのはさらに減ってくるということ。最初に言った子どもの演奏が平板になるというのと合わせると演奏はどんどんつまらなくなる傾向にあるということ。CDが売れないはずだ。

 こどもにはできないように、また大人にも難しいように、感情を込めるというのは、特に人前の演奏で感情を込めるというのは、とてもとても勇気のいることです。適度なところで妥協するものなのでしょうが、中には耐えきれなくなった人もいます。
 そろそろ、その人の話ができるかなあ。

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