僕が受けてきた音楽教育は、小学校・中学校の授業の範囲にとどまる。ただし小学校は作曲必須だったし、中学校では音名はもちろん、平行調・同主調なんぞも教わったのだから内容は一般的なものではなかったようだ。その証拠に中三になるとき転校した先で、音楽のテストを受けたとき音名を問われ、仕方なくC♯などと書いたら全部×にされた。Cisと書けば良かったのだろうか。(正解は「嬰ハ」。できたのは全校で1名だけだったらしい。ということはこの先生も生徒に正答を求めない妙な先生だったということだ。)音楽ネタ、目次へ思い出すとうちの姉も音楽の先生をしていたのだが、やっぱり妙だったらしい。「研究授業でピアノを分解した」。ただし講評では絶賛され「音叉がピアノの響板に触れたときの音を生徒は一生忘れないだろう」と言われたらしい。お世辞である点は差し引いたとしても、特筆に値する授業であることは確かだろう。
「のだめカンタービレ」のTVを見て、愚痴る相手が姉しかいないので最近お世話になっている。めちゃくちゃマニアックな愚痴である。
「あそこはセリフを変えるべきだ。『おまえらのは梅雨だ』でなく『おまえらのは猫の発情期だ』とした方が演奏に合っている。そうすれば『でも春ですよ』『ベートーベンの懐の深さに感謝するんだな』くらいの広がりが出てくる。」
「ジミヘン奏法というなら、単にバイオリンを持ち上げるんじゃなくて、歯で弾くべきだろう。交響曲7番でやるとすれば、第2楽章最終部のピチカート。あそこならバイオリンを持ち替え直す必要がない。」
「自由に弾くといっても単純に踊っているだけだろ。ホントに乗れば第4楽章でああゆう動きをするわけがない。特にフルート。体をひねるくらいなら興奮のあまり立ち上がれ。弦楽器、叫べ。前例もある、アバド指揮ロンドン交響楽団のボレロのCD。最後弦楽器奏者の叫び声が入っている。」
「あの程度の役なら、役者にオケをやらすより、オケのメンバーに演技をさせた方がリアリティが出るだろう。演奏家は演技が上手いハズなんだ。少なくとも感情移入は演奏中ずっとしているぞ。体を動かす訓練も局地的ながら幼少の頃からやっているし。」
つきあわされる姉もたまったモンじゃ無かろうが、玉木君のリズム感のなさ、なんてどうしようもないものは指摘しない。コントラバス回しがウィーンフィルの足元にも及ばない、とも言わない(学園祭では上手くなっていた)。あちこちのブログにコメント付けようかという気はするが、コントラバス回しがニューイヤーコンサートの定番パフォーマンスということを知らない人相手にこんなことを言うと嫌みにしか聞こえないことくらいは知っている。しゃーないので姉に愚痴ってしまった。私は確かにあまり一般的でない音楽の授業をうけたが、一般的でない音楽教育を受けたわけではない。だから世間には僕みたいな感想を持つ人が多かろう、そういうのを読みたいな、と、のだめカンタービレのブログがあちこちで立ち上がるのを楽しみにしていたのだ。地理や哲学、経済学で僕の意見が浮くのは分かる。普通ではない教育を受けたからね。が、なんで音楽で浮いてしまうのだ。
どこが違うのかなあ。強いて言えば、受けた教育が一般的なのが効いているのかな、という気はする。これに対して聴いた音楽の量はおそらく多い。別にドイツに住んでたからではないぞ。学校行事の音楽鑑賞会のメンバーが少々豪華だったかもしれないがな(杉谷昭子さんって有名になったんだ。父親の同僚の奥さんなんだが)。個人の趣味の範囲で沢山聞いたという程度だ。
が、これが作用したのだろう。聴いた音楽の量は多いが、うけとめて解釈するだけの教育を受けていないので、分析力が追い付かず、あきらめて聞こえたとおり聴いているのだ。結果、自分の耳で聞いていたのである。「この曲のソナタ形式は弱く、展開部を欠いているとさえ言える」などというフィルタがあって、その後で聴く、なんてことをしていないのだ。
ひょっとして楽器を弾けないというのも作用しているかもしれない。「自分だったらどう弾けるか」「自分は弾けるだろうか(どこでつっかえるか)」という観点がない。自分の技量で計るという発想がない。音楽を自分の器でくみ出すことができない。流れるに任せる。こんなセリフを言った人がいる「ハンマークラヴィーア(という曲)が、弾けたかどうかは覚えていませんが」、ほとんど反射的に返しそうになった「高2でテンペストが弾けたんですか、すごいなあ」。
音大に進んでいれば、ハンマークラヴィーアがベートーベンのピアノソナタでダントツの難曲であることを知っているはず。弾けるなら忘れるはずがない。従ってこの人はあくまで趣味で弾いていた。ただし何曲か弾けるということは、それなりの腕。ただしピークは高校か?大学でも趣味で続けていれば、比較的時間はあるんだからハンマークラヴィーアが難しいと言うことは知っているはず。となると大学受験で高3はピアノを少々休んでいるはずだから、高2がピーク。ではピアノソナタが結構弾けると判断するに足るレパートリーは・・・テンペストだ。(最後だけは直感)
逆にテンペストを弾けてしまう人間は、ハンマークラヴィーアは「弾けないほど難しい曲」と身構えてしまい、純粋に楽しんで評価できないのかもしれない。音楽についての知識は確実にテンペストを弾ける人が上なのだが、素人であるが故に素直に聴いて知っている私が一本取ったように見えてしまう。そういうことだ。上の話、少々強引に拡張すると、おちこぼれ演奏家は「どうせ弾けないんだ」とハナからあきらめてしまうから、難曲であっても素直に聞けるということかもしれない。でも音楽は好き。だから、もし弾けたらこんな風に弾きたい、の気持ちは逆に強いだろう。しかし考えてみろ、Sオケの連中、曲がりなりにも音大に合格した。それなりのものは持っている。コンマスの峰君など実は芯のあるいい音をバイオリンから出している(実際に弾いているのは音だけなら日本一ファンが多い、あの人ですか?)。なら徹底して鍛えれば、そして最後は自由に弾かせれば、独自のいいものが出てくるんではないか。そういうことだ。(逆に音大の中だから落ちこぼれた。幼稚園の先生になる最短距離を通って短大にでも行けば、のだめは落ちこぼれていない。従って「どうせ周りのようにはうまく弾けないんだ」と開き直って器を捨てることはなかった。めちゃくちゃ筋は通ってしまうんだが。)
この力が、クラシック音楽界の閉塞感を打破してくれるんではないかと、「のだめカンタービレ」には、そんな夢が込められているような気がしたんだが。駄目だ。この国にはそういう思いを励ましてくれるほどの厚みがないや。「のだめカンタービレ」の音楽担当は素晴らしいセンスをしていると思うが、うけとめてくれる人が少ないと思っているのかな。もし、そんな人がいると分かっていれば、スプリングソナタのキメを放送したはずだ。いかにでも主題を展開できるベートーベンが、第一楽章を「ドーレーミーー、ファミレーソッド」と、それこそ小学生でもつくれるようなフレーズでまとめ上げた。これが春なんだよ(光る青春の稲妻、ではない)と語りかけないわけがない。
でも、そんなに悲観しないでください。ウチの家族は聴いてますから。おかげさまで小2のガキも指揮の上手い下手が分かり始めたようです。玉木君より竹中直人が上手なのは一目瞭然。ついでにクライバーのベト7を見せました。もう少し話が進んだら「幼稚園の先生になるだけなら短大に行った方が楽。でも入るのが大変な音大に行った。で、音大に行ったからこそ、別のやりたいことを見つけたとき、そちらを選択できたんだ。『苦労してでもいい学校に行っときなさい』というのはそういう意味もあるんだ」とお説教ができるかもしれません。