レニングラードフィル

 チャイコフスキーのバイオリン協奏曲を初めて生で聞いた。
 相当無理のある曲である。協奏曲においてソロ楽器はオーケストラと対比して演奏されるものであるが、それに加えてがっぷり四つに組み合うことが要求されている。
 オーケストラとがっぷり四つ、ピアノであれば不可能ではない。多くの人が即座に想起するであろうのは、ベートーベン「皇帝」第1楽章の劇的な対決。次いでプロコフィエフの3番、第1楽章中間部のユニゾンであろうか。(実際に聞いた人の話ではN響がポリーニに負けたらしい。)
 チャイコフスキーのバイオリン協奏曲は、バイオリン1本でオーケストラ総奏のフォルテシモとの掛け合いが必要となる。絶対に無理である。オーケストラには同じバイオリンだけで20本ある。技術的にもあまりに困難だったこともあるだろう。かくして作曲者に弾いてくれと頼まれた当代随一のバイオリニスト、アウアーは演奏を拒否したという有名な逸話がある。結局ブロズキーという人が演奏したが、当初はまるで評価されなかったらしい。理由についてこのエピソードは語ってくれないが、容易に想像できる。下手だったのだ。おそらくは音楽にならなかったのだろう。
 アウアーはやがてこの曲を弾くようになったらしい。弟子にも弾かせたために、チャイコフスキーの協奏曲は大人気曲となった。とりたてて語られることはないが、やはりアウアーは偉大だったのだ。自分が弾けないと突っぱねた曲を自分より下手な人間が弾いた。あまりいい気分はするまい。案の定初演の評判は良くなかった。アウアーはそのままにしていればよかったのだ。そうすればおしまいになった。しかし、彼は素直に自分の誤りを認めて弾いた。弟子に弾かせたということは、弟子の前でも誤りを認めたことになる。何という人格者、この人格故にアウアーは超一流の教育者としても名を残したのだろう。(この名曲が生まれた要因は3つある。チャイコフスキーの霊感、ブロズキーの努力、アウアーの人格だ。)
 え?アウアーを知らない?バイオリンが弾ける人は右手で弓を構えてみて?その持ち方を編み出したのがアウアーだ。最初は小指がつりそうだったけど、慣れると自由自在でしょ。

 アウアーのもっとも高名な弟子はハイフェッツだろう。この人、とてつもなく大きな音を出すことが出来たらしい。この人がいてはじめて、オーケストラとがっぷり四つ、のチャイコフスキーバイオリン協奏曲が成立したんじゃないだろうか。ところでハイフェッツは親日家で通っていたらしいが、やっぱり相撲ファンだったのだろうか。
 私は先ほどから「がっぷり四つ」という表現を意識的に多用しているが、それは大相撲をイメージしてである。もちろん両者の力が拮抗しているときに使う言葉なのだが、この表現がハマるのは小兵力士が遙かに大きな力士の突進を受け止め、強靱なバネでこらえているシーンである。バイオリン一丁にオーケストラとの対決を強要するチャイコフスキーの協奏曲を、音楽には不案内な年配の人に語るときは、高見山の突進をこらえきり、全力で投げを打つ先代貴ノ花の姿を思い出してくれ、と言おうと思っている。(ここで我を忘れて貴ノ花を応援できる日本人の気質はチャイコフスキーバイオリン協奏曲と相性がいいかもしれない。やせがえる負けるな一茶ここにあり。)

 というわけでこの曲、ソリスト次第。ハッキリ言ってクレーメルですら感心しない。音が細すぎる。一歩間違えると無神経と言われるほどの強靱な音が必須条件なのだ。というわけで今年レーピンが弾くのを、無理して行った。オーケストラの総奏の間隙を全力疾走する第一楽章コーダ。オーケストラを向こうに回してのしつこいほどの掛け合いが続く第3楽章。息つく暇もないはずなのに、強靱な音で堂々と渡り合う。ゲルギエフとのCDのバランスは、ミキシングで調整したのではなく、実演そのものだったんだ。

 このコンサート、レーピンファンのうちの子にいい音を聞かせる10年計画の第2回目。先行予約初日に注文したおかげで最前列。別名「松脂かぶり」(命名は私。きちんと相撲の縁語を使っているところが心憎い)。しかし思わぬトラブル。うちの子がバイオリン聞きにゆくと、地震があったり近所でボヤがあったり、あまりいいこと無いんだよね。今回も災害を怖がって家から出てこない。仕方ないと姉のダンナに一緒に行こうと電話をかけると、ウチのガキ、泣きながら転がり出てきた。

 同じようなプランを持っている人への参考になると幸いだが、ウチのガキ、生誕以来もっとも多くの外人を一度に見たため、怖くなってしまい、結局チャイコフスキーの間中、目をつむっていた。(第2楽章は寝ていたかもしれない。)レーピンに手を振れば少なくとも目は合う距離だよ、というと「言葉が通じないから」と怖がって拍手もしなかった。勿体ない。
 チャイコンが終わって、CDを買ってやった。でもパパはもっと聞きたいの。うちの子「どうしても聞きたい?」「うん」「じゃあいいよ。」なんていい子だろう。

 後半はショスタコービッチ第5番。うちの子退屈して寝るかな、と思った私はやはり素人。「革命」の大音響の中、眠れる人間はいない。最初のトロンボーンでウチのガキは思わず耳を押さえた。コートを頭からかぶり、歯を食いしばって堪えている。でも不思議なことにやがて目を開けた。楽器の並びや数が協奏曲とどう変わったかをチェックしている。のだめカンタービレに影響されて、オーケストラに興味を持ってきているところなのだ。(チャイコンと革命で左右の並びが逆になっていた第2バイオリンがいたそうな。なぜそういうことをするのか知っている人がいたら教えてください。)

 パパの方は、ショスタコ観が大きく変わるほどの感銘を受けた。正直今まで良く分からなかったんだわ。体制に迎合した日和見主義のところもあるし、でもなんかコチョコチョと新しいことを仕掛けている往生際の悪さもある。でも演奏が進むと見えてきた。オーケストラの上空に尋常ではない気迫が浮き出して固まっている。演奏中に演奏家の魂が降りてくるというのは聞くが、これは明らかに生きている人間が作ったもの。ソ連人民の叫びか?いや、もっとハッキリしたものでないとこんな形にはならない。
 気がついた。ショスタコービッチはこの曲を体制賛美として作らざるを得ない状況であった。というわけで第4楽章は勝利への行進ということになっている。一方強制された歓喜であるという説もある。音からの解釈では前者が正解だ。間違いなく心の底からの音である。ただし体制賛美ではない。スターリン主義の圧力に潰されそうになりながら、芸術家として言うべきことは言い、そして生き延びてきたという、そういう意味での勝利、歓喜である。ここまで分かったのは演奏がレニングラードフィル(現サンクトペテルブルグフィル)だからである。自分たちは初演を数多く手がけたショスタコービッチ直系であるという自負。自分たちも旧ソ連の圧政と窮乏を耐えて生き延びてきた芸術家であるという自信。これがあって初めて音にできたわけだろう。
 ステージ上に見えた気迫の固まりは、生き延びるという意志と生き延びた痛みというむちゃくちゃプリミティブな生命の本能だったのだ。

 というわけでわたくし、圧倒されてしまったのでした。体制への歓喜を強要されたが、それを「生き延びた」歓喜にすり替えたという人として芸術家としてのギリギリの意地。しかしこの音は、一世代の後には失われてしまうでしょう。だからそれまで、私はこのオーケストラを「レニングラードフィル」と呼び続けることにしました。少なくともショスタコービッチをやるときには。

 ウチのガキは、フルオーケストラのフォルテシモを最前列で受け止めたという貴重な経験ができたということで良しとしましょう。本人「ショックー、なんて音を聞かせるんだ」と怒っておりました。足が立たなくなったのでだっこして帰ることになりました。というわけで二度とショスタコービッチは行かないと主張しております。でも、この感想、場合によっては最大の賛辞だよねえ。と思っているとポロッと「音さえあんなに大きくなかったらショスタコービッチも好きなのに」・・・。

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