無駄な音

 そろそろ絶滅宣言の出そうなカセットテープレコーダーには、CUEという機能が付いていた。
 早送り中に、音が聞こえるというもので、テンポは上がるし音程は高くなるし、なので、ノイズみたいなものだが、曲によっては結構面白い音になった。私も含めて普通はそこで終わるのだが、無駄な音を省いて、シーケンサーに打ち込んで、それでは歌えないのでボーカル用のメロディーを加えた人がいた。やられた!というのが感想である。
 その発見は巨万の富をもたらしたが、あくまで「発見」に対する富であって、発明に対するものではなかった。そんなわけで長続きせず、発展もしなかった。ようするにそれほどの才能ではなかったのだ。が、「CUEの音って面白い」→「そのままでは使えないので無駄な音を省く」というセンスは中々のものである。作曲家をほめるとき、たとえばシュトレーゼマンは「ブラームスには無駄な音がひとつもないんです」と言っていた。そういう意味で「小室哲也には無駄な音が(ひとつも?)ないんです」とほめることは無理な言い方ではない。(無駄な曲はたくさんあるとおもう。ワンパターンという意味だ。)

 少しほめすぎかもしれない。でも抵抗なくこのフレーズが使えるのは、「(ブラームスには)無駄な音がひとつもない」という言い方に疑問を持っているからである。「ブラームスには必要な音もないんだ」というのがまずはの感想。ブラームスの交響曲1番をピアノに編曲してみろ、無残だぞ。たとえばベートーベンの「英雄」をピアノ曲として聞いてもやっぱり傑作だが(リストをはじめとして編曲版がある)、ブラ1は大雑把な曲になると思う。でも、ブラ1にはそれなりの良さがある。交響曲を作ろうとして20年。どうしてもベートーベンには追いつけないと分かって「おれは不器用だ、でも交響曲が作りたい。だから俺の音楽を聴いてくれ」と精一杯やったカッコ悪さを認めたカッコ悪い男のカッコ悪さに強い共感を覚える。
 だからといって「無駄な音がひとつもない」という評価はできない。本当に使いにくい表現なのだ、これは。

 例えば、バッハのインヴェンションやプレリュードを評して「無駄な音が1つもない」と言う人がいるだろうか。いるわけがない。自明だからだ。言うとすれば僕と同じくしゃれだ。つまり、あえて「無駄な音が1つもない」と言うためには、一聴して無駄と思われる音があることが前提となる。
 これは、茂木さんがのだめのキャラクターブックで書いていることに一致する。ベートーベン交響曲7番の終楽章。「ほんとにここで鳴らしてなきゃいけないか」と思われても「どんなに音量が大きくなってもサボると確実にばれる」。「重ねる音に無駄がない」のだそうだ。

 自分としては、同じくベートーベンピアノソナタ3番第1楽章を「無駄な音がない」の例としてあげたい。ソナタ形式には違いないのだろうが、主題がいったいいくつあるんだ、と次から次へと新しいフレーズが提示される。ここまで詰め込むかあ、と思わせておいて、次のフレーズが聞こえると前のフレーズが生きてくる。レンガをひたすら横に並べたような作りだが、これはこれですごい構成力だと思う。似ているとすればショパンの前奏曲、かな。1度アシュケナージの演奏を聞きたいものだ。
 杉谷昭子さんは、この曲をどう教えているのだろう。演奏力よりもむしろマーケティング力が優れた音楽家であるが、それでも成功したからには、それなりのものは持っているはず。で、この特殊な構成のソナタをどう捉えているか?
(杉谷昭子さんは、当時日本人のとても多いデュッセルドルフ市でヨーロッパデビュー公演。日本人学校経由で紹介すれば〜旦那が職員〜まあ人は集まるわな。でも「ヨーロッパデビュー成功」には違いない。さらにいつの間にか「ベートーベンの専門家」と名乗る。ベートーベンは曲の構成がしっかりしているので、構成力のない演奏家にとってはとても弾きやすい。そういう人が、ショパンのようなベートーベンをどう解釈しているか、少々残酷な期待。
 一回実演を聴いただけの人間にこう言われると彼女も不満、かな。でもあの演奏、僕は全然ピンと来なかった。作曲のセンスについてはとやかくいうまい。)

 ベートーベンの懐の深さ、一般にソナチネに分類される20番のソナタで再認識。発表 会でね、まあ、アレな子が弾いていたんだわ。でも体勢を立て直すポイントがいくつもあって、それなりにまとまった印象で終わった。あれがモーツァルトなら、たとえ15番でもどうしようもないぞ。(うちのガキ、弾きたいから、とかなり無理して挑戦中。ボロボロ。ニョーボに「どういう弾き方してるの。これはハノンじゃないんだ、モーツァルトなんだよ」と怒られている。論より証拠。一度ニョーボが第1主題を弾いて聞かせたら〜いきなりなんでミスタッチは多かったけども〜それまで知らん顔していた下の子が、演奏を受けて「ドレドレドレドレ」と歌いだした。「あ、モーツァルトだ」上の子はきちんとショックを受けてくれただろうか。〜ただし下の子がモーツァルトらしく歌ったのははじめの3拍まで。4拍目は「あれ、次はおねーちゃんドで歌っていたはずだけど高さが違うぞ、と迷ったせいか狂った。)

 ただ難しいのは「これは無駄な音です」と省いてゆくことは可能だが、どこまで省けるか、本当に省いてよかったか、の判断。極端な話、岩崎宏美「万華鏡」の場合、マスターテープの消去不十分によって残った雑音が「心霊現象」と見られて売上に貢献したこともあった。「絶対可憐チルドレン」主題歌の右チャンネルに残っている(定位とエコーからして意図的に残したのではないと思う)ガイドボーカルがいいと言う人もいる。また個人的にはこのガイドボーカルがどう聞こえるかで、耳の調子がある程度分かったりもする。
 もちろん「絶対可憐チルドレン」関連の曲は無駄な音がものすごく多い。エンディング(絶対Love×Love宣言)を聴いて、今の日本でこれほど健康的な曲が作れるとは!と感心し、CDまで買ってしまったが、やっぱり全部の楽器を一人でやっているというのがまずいのだろうか。(シンセなんだが)思いついた音を全部入れている。つい、ギターを弾きすぎる。バンド仲間で話し合いながら作ってゆけば、と実に残念である。
 この辺を乗り越えて、CUEによるノイズを再構成して、一時的ながら万人に受け入れられる楽曲に仕上げられたところなど、やっぱり小室哲也はセンスあったんだと思う。もっとも本人はそれ以上のセンスがあると勘違いしていたようだが。

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