何度も聴いてもらえる曲

 1976〜1979を西ドイツで過ごした私がABBAにはまっていないわけがない。なにしろ彼女らの全盛期だ。実は本人にその自覚はなかったのだが、帰国して会ったどの自称ABBAファンよりもはまっていた。
 当時は「発音が悪い」などと文句を言っていたはずだ。でも、Mamma Mia でagainが確か17回出てくるが「ハゲイン」に聞こえる、というマニアックな突込みが出るところで「こいつそーとーはまっているな」とばれていた。

 ABBAが何回目かのブームである。良質のポピュラーミュージックとはこういうものである、のお手本である。がここまで来るとそろそろ歴史的評価を下したくなった。要するに一言言いたくなったのである。

 ABBAとは2回以上聞かれることを意図した曲を作った音楽家である。

 実は当たり前のことではないのだぞ。で、実はABBA以前にも以後にもそれをハッキリ感じさせてくれる音楽家はいないのだ。

 同じ曲を2回聴くという習慣はバロック時代はほとんどなかったはずだ。だからヴィヴァルディは「同じ曲を500通りに編曲した」と言われて問題ないのである。極論すれば1曲は1度しか聞かれない、だからワンパターンでかまわない。バッハは毎週カンタータを作っていたそうだし。
 市民社会の発展とともにコンサートが行われるようになったが、それでも同じ曲を何度も聴く、ということは少なかったろう。入場料も安くはなかろうし、同じ曲でも即興で装飾音を加えたり、ということは普通にやられていたろうし、だいたい同じ曲でも演奏は人ごとに、一回ごとに違う。(だからクラシック音楽が成立する。)
 ところが録音というものができて、レコードというものが売られるようになって、人は寸分たがわぬ演奏を何度も聴くようになった。ところがこれに音楽家は対応しようとしなかった。不思議なことに対応しなくても売れたのだ。
 それでもひとりは対応した。コンサートを開かずレコードのみをリリースしたグレン=グールドである。どうすれば飽きられないか?ほかの人ができないような解釈で演奏し、珍しさを保ち続けるという手法を編み出した。(というわけで、のだめがらみのCDにグールドの「熱情」を入れたのは反対。個性的だからと入れたのだろうが、あれは普通の「熱情」を知っていて「なんでこんな演奏をしたのだろう」と考えながら聞きなおすためのもの。だからあの演奏は「左手の2拍3連を現代ピアノで最も美しく響かせるテンポを取った」と理解した時点で私の中では終わっている。)
 コンサートを開かずレコードのみ、の音楽家というと後期ビートルズもあるが、これはどちらかというと「録音というテクノロジー」を使った実験に専念したため、と言ったほうがよかろう。

 ビートルズをはじめとするプログレ系のバンドは、録音というテクノロジーを活かすという点で前向きだったが、「レコードは手軽に儲かる」ということで、特に「レコードだからどうするか」という悩みをさほど持たずに曲作り/演奏を繰り返してきた音楽家が多かったようだ。で今、そのツケを払っている。新譜が売れない。当たり前だ、ヴィヴァルディ全集を何度も買いなおす奴がいるとは思えない。

 ABBAは同じ曲、寸分たがわぬ同じ演奏を2回聴いてもらうにはどうすればよいか、考えていたようだ。それを思わせる曲がある。
 しかしその仕掛けがハッキリと聞こえるのは、たった2曲しかない。だから、ひょっとして自覚していないのかもしれない。
 ひとつはHONEY HONEYのデュエット部分。盛り上がったところで珍しくもビヨルン(ギター)のボーカルが入る。いい!が、同じメロディーが2回目出てくるところはインストのみで肩透かし。もう一回聞きたいな、ということで再びレコードに針を落とす。(この表現、通用しない人も多くなってきたが、どうしても「もう一度聞く」ではニュアンスが・・・。)
 もうひとつはS.O.S.の最後、リズムがロックンロールになるところ。ノッてきたな、と思ったところで終わる。だからもう一回聞く。
 いい部分は何度も流してヒットにつなげたくなるものなんだが、思い切り抑制。だから何度も聞いてもらえ、何十年にもわたって聞いてもらえるのだろう。

 ABBAの全盛期が始まったころ、丁度西ドイツではレコードの再販価格制が撤廃された。レコードは安くなり、ABBAの編集アルバムが、ABBAの曲を含んだヒットチャートのLPが何種類もスーパーの店頭に山積みされた。
 それらのアルバムはいずれもS.O.S.から始まっていた。

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