脳に無駄な力をこめると

 天才とキチガイは紙一重、らしい。絶対にそんなことはないと思うのだが、一般にはそう思われているみたいだ。それは主張を過度に要約するとキチガイと区別が付かない言い回しになる。「ハルヒと閉鎖空間に行ったことがある」とかね。でも「台風最接近の夜に呼び出されて、あちこち引き回されたことがある。無人の北白川グラウンドでの暴風と豪雨の中、外灯に照らされた光景は、閉鎖空間そのものだったなあ」というと、ご意見として伺ってくれると思う。
 感覚は変かもしれん。でも僕に言わせるとみなさん雑学なさすぎ。ショムニの監督がヒッチコックフリークと指摘する奴がいないとは。涼宮ハルヒの憂鬱VIのラストシーンで、ビリー=ワイルダー「汚れた週末」のラストを連想する奴がいないとは。それは「似ている」わけではない。でも独白が見るものの心象風景を拡大させる迫力において、ハルヒはビリー=ワイルダーに匹敵すると思う。で、「おんなじくらいゾクゾクしました」と言えば監督はきっと喜んでくれると思う。

 逆説的だが私は謙虚である。小学生のときに三平方の定理の別の証明法を考えたときも独自の証明法発見!なんて想像もしなかったし、中学生で代数幾何を編み出したときも世界初なんて思いもしなかった。孫悟空を試したお釈迦様の意図が「テロリストか革命家か判別するため」というのは、後から調べても他では言われてない発見だが、ここ数百年で自分ひとりが気がついたことなど主張する気はない。

 小学校4年のとき豆電球の光で、レントゲン写真のように骨が見えることを発見して恐怖にも似た神秘を味わったが、ウチの娘も先日同じことに気がついたらしい。「骨が見えた。ほんとだよ。」
 「信じるよ。僕もお前ぐらいのときに見たことがある。僕のときは多分雲母が微量のX線を浴びて蛍光を発していたんだろうね。」「じゃあパパがそれを発表していたらレントゲン、の代わりにパパの名前が付いたの?」「それはないと思う。レントゲンは既にあったからね(しかしヘクトパスカルと言う単位名は後でついたなあ)。が、蛍光で骨の形を見る場合のメリットは、写真にとらずともリアルタイムで見ることが出来ることだ。だからこれを改良するとこんなことが普通になるかも。お医者さんところに行くとレントゲン写真取る前に『ちょっとモリヤマ持って来て』『うーん、そのまま足首ひねってみて。ああ、大丈夫そうだね』となると診察の能率がものすごく上がるよ。なんならお前研究してみる?やるんだったら手伝うよ。」
 こういう会話があっさりと出来る私は幸せなんだろうか。
 うちのガキはどうなんだろう。親とこういう会話ができることを普通だと思っている。
 夏休み、学校の花壇の水やり当番、家族全員で出かけて行くのを当然と思っている家庭なので、いい悪いは別として普通ではない。親には自覚はあるが、こどもに自覚はあるか?

 この前、ライトノベルがなぜライトノベルでしかないか教えたんだがなあ、分かったかなあ。
《それは静かな夜だった
豪華な装飾に包まれた宴会場で、正装の大人たちが歓談を続けている。》
(三雲岳斗『絶対可憐チルドレン』小学館ガガガ文庫、2008)
 はい、書出しだけで駄目。言い回しの滑らかさに引きずられて1文目と2文目が別の情景を指しているのに気がついていない。静かな状態に音を入れるのは気を使うのだ。代表的なのは故事成語の「推敲」。僧は押す/叩く月下の門。叩くの字よし!がオリジナルだが僕はこれにすら反対。叩いた音が大きすぎて、「月下の門」の静寂を崩す。「押す」がいい。押したときの門のきしんだ音、これで十分だ。これ以上の音を入れてはいかん。でもこの時代の門の構造は違うのかな。
 もちろんハルヒを書いた谷川さんの文ではないが、、、谷川さんの文もクセを認めたとしても不満はあちこちあります。筆力がないのか照れてしまうのか。
(ライトノベルなら「叩く」がベターです。純文学なら「押す」です。なるほど筒井康隆の「純文学」『虚構船団』は映像化不能、文でしか存在できないから純文学なのか、今頃気がついた。まてよ、月がものすごく明るい場合は「叩く」の方が分かりやすいな。なら純文学ならこの夜は満月だ。ここまで読み手に解釈をゆだねる自信があって純文学と言う。)

 長々と言い訳した理由は、世界初のことを指摘したと有頂天になっている人間に苦言を呈するためである。確かによく考えたね、えらいえらい、と頭をなでてやりたくなる。いい年した大人に失礼かなあ。でも僕がこの人と道ですれ違っているとしたら、先方小学校3,4年生だったよね、ということでいいとしてくれ。勉強したのは分かる。でもね。もう少し自分の頭で考えたら、と思う。本人は考えているというだろうね。文章読むと論理的に説明しようとしている様がよく分かる。言い方が悪かったかな?じゃあ訂正しよう。いや、もっとはっきり言おう。「勘がない」。がおかげで分かった。勘というのは自分の認識への疑問から生まれるものらしい。疑問を呈するためには、自分の思い付きを相対化し、否定し、あるいは根拠付けるだけの雑念が湧いて出る必要がある。

 俎上にあげるのは『ギタリスト身体論』(八幡謙介、中央アート出版社、2009)。文体が練れていないが理屈っぽいのは歓迎。考えてるし、調べてるし、勉強しているのも好感。(父親の名言「勉強という言葉を知っていますか?勉めるに強いると書きます。嫌なことを無理やりやるという意味です」。これに対して「調べる」は「興味を持って」のニュアンスがある。)少なくとも批評に耐える出来にはなっている。

 しかしまず、文中の写真が気に入らない。筆者のモデルとしての適性は別としても場面によって使っているギターが違うのはよくない。全身写真はストラトキャスターを持っており、部分アップは別の奴。こういう細かい齟齬がある場合は、何かを隠していることが多い。でも好意的に解釈してあげよう。全体的な構えは参考に出来る人が多いようにシェアの高いストラトキャスター。部分アップは指がよく見えるように黒っぽいものにした、と。で指板が黒っぽいストラトキャスターをこの人は持っていなかったんだと。

 ところが本人、執筆を進める間にまずいことに気がついた。同じようなことを日本のエレキギター教育の草分け、成毛滋氏が言っているのだ。本人これを前向きに捉え、あとがきで「成毛さんと同じことを言っていた。自分の言ったことは間違ってない(pp.107)」とゆうとるようだが。消せない部分が1つ。「ピッキングの角度で音が変わる(pp.48)」と筆者強調しすぎていた。成毛(この苗字ネガティブな印象を与えるから以後「Dr.シーゲル」と表記)さんは、ピッキングの角度を気にする人がいるが、角度で音は変わらないと主張し、ビデオでは実演までしている。筆者、これをきれいに無視している。ならば最後までDr.シーゲル本人の存在すら無視しておけばいいのに。本人が都合の悪い部分だけを無視したのではフォローすることも批判することもできないじゃないか。つまり真理に向き合おうとする態度の誠実さに難があるという非難だけで終わってしまう。学説を対象とできるようにしといてくれよ。
 文句を言いっぱなしでは自分の値打ちが落ちそうなのでフォローしておこう。Dr.シーゲルの場合は角度で音が変わらないが、凡人の場合は変わるのだ。Dr.シーゲルが変わらないのはピッキングが疾いからだ。ピックが弦を弾いて過ぎ去るまでの時間が短いのである。なぜそうかというと(ビデオからの想像だが)、ピッキングに指の屈伸運動と手首の回転を同時に使うからである。殆ど古武道の世界(ここで古武道が出てくるのが雑学と言う奴だ)。筆者を含め凡人は、指の屈伸と手首の回転を別々に使うので、ピックの速度が遅く、ピックが弦にまとわり付く時間が無視できない。だからピックの角度によってまとわり付き方が変わり、音色が変わるのである。更に僕ぐらい遅くなると、弦にまとわり付く間に、ピックを捻る余裕がある。自分ではこの捻り方で音色を変えられるのが気に入ったりしているので評価は複雑になる。
 ただし筆者が「角度」と言っているのは弦の張り方向に対しての角度だが、僕が捻ると言っているのはどちらかというと「上下」の角度。で、これはクラシックギターの用語では「アポヤンド」と「アルアイレ」という言い方で定式化されているものに近い。ここまで書いておくと純粋に「そうかも/違う」という議論が出来る。

 さて、この筆者「脱力」に拘っている。間違ってはいない。とにかく力を使わないことを目指していろいろなアプローチをしている。だからよく考えていると評価する。ただし拘りすぎだ。《楽器は全て人間が作ったものだからだ。身体を変形(ストレッチのこと:引用者注)させなければ弾けないような代物をわざわざつくる馬鹿はいない》という前提がそもそも間違っている。筆者はオーケストラを見たことがないかもしれない。長い休符に入ると、バイオリニストが一斉に楽器を下ろすのをなぜだと思っているのだろう。もちろんフルートも下ろす。ホルンも下ろす。チェロやコントラバスも目立たないが休ませる。なぜなら楽器を構えるのは無理な姿勢だからだ。だからバイオリニストにはあごに痣があることが多いらしい(ムター様にはないらしい。さすが)。バイオリニストが練習中に弓の毛を張りなおすとき、楽器をあごに挟んだままにすることもあるが、それはケースに入れるほうが手間だからだ。楽器は持っているだけで負担だ。ましてや演奏するとなれば。ただし無駄な力は要らない。だからピアノを腕の重さで弾くときに、指に力を入れていれば脱力しろ、といわれる。が、腱鞘炎に悩むピアニストに「それは脱力してないからですよ」などと注進しても、無視される。相手は怒りさえしないだろう。
 楽器を弾くのに力は要るのだ。ただし無駄な力を使わないこと。当たり前だ。で、筆者の論はこの当たり前を突き抜けているのだ。脱力のもたらす音量の低下をアンプのゲインでカバーすることを当然視する(pp.37)。ついには力を抜いたほうがいい音がでると主張する(pp.88)。楽器やアンプの本来の音がでるかららしい。当たり前だ。人間の干渉が減るわけだから機器の音が出る。つまり結局は個性の価値を認めない人なのだ。筆者はギターを教えている職業だが、生徒の悩みにこう答えそうだ。「もっといい音を出したければ、もっといい楽器を買いなさい」。シンセサイザー打ち込みの先生でも、いきなりこうは言わんと思うぞ。最後には楽器の壁が出てくるのは当然としても。

 先ほどのDr.シーゲルの(都合の悪いところ)を無視した性格。クラシックギターとの対比にも現れる。左手のフィンガリング、小指を原則使うなというのがこの人の主張(pp.14)。小指を使うと左手首に無理が出るから、だそうだ。で本人も認めているが、クラシックギターのようにネックを傾ければ左手首は楽になる。が、ここからが変だ。論理の流れからして「だからネックを地面と並行にはせず、傾けましょう」になるのが普通だ。しかし一言の理由の元にあっさりと無視する。《今度は右手のピッキングに問題が発生する》(pp.19)。
 最後まで読むと、弦移動は手首を鉛直に動かしたほうが力が抜けるから、というそれなりの理由はあるようだが、いきなり無視するのは何かねえ。ここでクラシックギターの弾き方はそもそも間違っていると主張するなら、まだおもろいおっさんと言ってあげるが、それだけの根性はないらしい(フラメンコギターのフォームを元に主張することは不可能ではあるまいに〜なお、フラメンコギターについては全く知らないようだ。イングウェイが右足を台の上においていたのを随分と評価していたから(pp.93)。右足の上にギターを置くのは安定させるための他に多分理由がある。左手が体の中心線に近くなるからだ)。ましてやチェロやコントラバスも弓を鉛直に動かしたほうが無駄な力が入らないから横に構えましょう、などとは言わない。(バイオリンは通ずるものがあるようだ。ギトリスの弓の動きを分割すると、きれいに鉛直方向に動いていたのは感心した。)
 ギターを傾けて(というよりネックを立てて)弾くやり方は、ここ数年、アニメの影響で一般化していると思うんだが。筆者としては抵抗が大きいのかなあ。平沢唯の角度は私から見ると理想的だし、長門有希に至っては殆ど立てて弾く。まあ男の子はできるだけギターを低く構えて弾いたほうがかっこいいというのは共通認識としてはある。女の子はさにあらず。分かる気がする。これって浴衣着たときの帯の位置を連想させるものがあるんだ。男は腰骨の上。女はもうちょっと高く。でもこれは「美意識」の問題で「そのために小指を使わない」とまで演繹するのは無理がある。確かに僕は小指に頼りすぎなので反省の余地があるんだけど。うちの子にすら言われている。左肘を入れすぎて手首が辛そうだ、と。最後は左手親指をネックから離して弾くかな。(高崎晃のマネです。)

 しかあし、女の子は傾けれて構えればかっこいいというものではない。「けいおん!」のエンディングテーマ、琴吹紬がショルダーキーボード KORG RK-100を弾いているときの構え方はどうかとおもうなあ。45度くらいに傾けて弾いているが、もう少し地面に平行にしておかないと右手首に負担かけないか?あの機種、鍵盤を押さえるのに重力が使えないから当然タッチは軽いんだよなあ。余計なことまで考えてしまった。ヤン=ハマーがキーボードをぶら下げて弾くときはもっと水平にしている。そういえばギター型キーボード、思い起せば中学のときにイラストを描いたがそーゆーことは全く考えなかったぞ。動物バンドで弾いているのが龍だったしな。私もまだまだだった・・・ムギの手首に負担がかかっているとすれば私にも多少の責任が・・・まて、、、例外が・・・チック=コリア、エレクトリックバンド。さすがにコリアのポーズまで思い出せない。両足を揃えて曲げていたのは印象に残っているが。

 さて筆者が《ギター史上この弦移動と肩関節の関係が言及されたことはない》(pp.76)と主張しているギターを弾くときの肩関節の動き。残念でした。この本の発行が2009年9月30日。その4日前に僕がアップしてます。それも17年前に先輩から教わったこととして。ヤレヤレ、この程度の発見で世界初とはしゃぐとはね。でも本当にうれしかったんだろうな。いーこいーこ。
 重力に任せて腕を下ろす。悪くないと思います。でもここで、クラシックギターはなぜそうしないのか、チェロやコントラバスは弓を水平に動かしているが力のかけ方に無理はないのか、考えた跡くらい見せてほしいものです。クラシックギターはすぐ分かる。右手の指を4〜5本使いますので、手の上下運動があまりない。従って肩関節を動かす必要もない。チェリストは知り合いにいないので、これは聞いてみたいものです。できればジャック=ブルースに。(ホワイトルームのイントロでチェロを弾いている。)
 なんとなく分かるのは弦移動の支点をはっきりさせること。支点がないと手は重力を基準にせざるを得なくなる。ではどうするか、ついでにミュートを利かせながら、とこちらの方も考えないといかんような気がするんですが。で双方を比較して「やっぱり垂直のほうがいい」と結論付けよう。その方が紙数も稼げる。

 えーと、この本の数少ないエクササイズ。弦移動を肩関節でやるのに馴れるという奴(pp.88)。ギター教室やってるなら、1本ベース買っとくといいよ。ベースをピック弾きすると、弦移動は肩。弦移動との連続動作でピッキングという動き、自然にそうなりやすい。弦の間隔は広いし、弦は太くて指先や手首でだけでは弾きにくいし、だから言われたとおりの弾き方になる、と。
 なるほど、と思ってくれそうだが、もちろん落とし穴はある。筆者の主張している脱力フィンガリング、ベースで可能なんだろうかという問いかけを誘発する。ネックを握りこんで小指を使わず、なんて普通は無理である。それは大きさが違う、ミュートの必要性が低い、というもっともな理由があるだろう。が、ギターの弾き方、これが決定版!と主張しながらベースに使えない奏法ってそれでいいの?特に同じ自分が主張しているピッキングのやり方はベースのほうに向いているんだよ。きっちり内省してほしいところ。反論、思いつきましたか?ベースは本来指で弾くもんだろ!って。

 さて、通常は思考の回り道を刈り込んでシンプルに纏め上げるのをよしとしている自分であるが、今回は結構原型に近く書いた。理由は「ギター苦手だから」。苦手だからいろいろと発想の取っ掛かりがいるのだ。筆者は絶対僕よりギターが上手い。だから弾き方にそれほど悩まなくて済んだんだろう。得意なものを論述したから結果として僕から見ると穴の多い、不健全な論になってしまうんだろうな。ひるがえって自分。発想法を必要としないほどに発想が得意と思っている僕も、他人から見たらそういう印象なのかな。できるだけそうならないように自分の思い付きを相対化し、否定し、あるいは根拠付けようと、いろいろ知恵は飛ばしているつもりではあるんだが。
 以前「私、ひらめかないから」と言っている人に「私がひらめくまでに考えたことは、あなたがひらめかないと判断するまでに考えたことに対してものすごく多いの」と答えたことを書いた。ひらめくまでにどういうことを考えているか、というのがこれ(それでも特にひらめいたものはないが)。この人、私の頭を一度割って中身を見たい、とか言っていたが、それへの特別サービス。割るとだいたいこんなものが出てくる。

 「脱力」するならもっと実践的なエクササイズがあるぞ。左手用にはここで紹介されているフレーズ。何がいいかというと押弦する指がくるくる回るので、イメージ的には重心移動だけでフィンガリングしているようになる。するとそのうちに「弦を押さえる」という意識が消えてくれるのだ。小指は使わないほうがいいと思う、、、たぶん。
 右手は(BIGBOSSでたまたま見つけた)牛角ピックで練習。おそろしく弦離れがよい。どれくらいいいかというと音が出ないくらいよい。どれほど力を入れても音が出ないので、そのうちピッキングに力を入れようなんて思わなくなる。
 それとこのピック、速弾き練習用にもいいと思う。弦への引っ掛かりがないので、純粋に左右のシンクロ精度向上に注力できるのだ。で、これで弾けるようになってしばらくすると、普通のピックでもできるようになる、と。現在バッハのハ短調プレリュード、テンポ132に挑戦中。このスピードじゃえらそうなことは言えんがな。
 BIGBOSSで思い出したがここで売っているフォレストというギター。角(つの)がでかい。これにストラップつけて構えると、指板が体の中心に近づきそうだ。ひょっとして左手首の負担が減って弾きやすい?ギターを替える気はないが、ストラップを工夫してなんとかなるならやってみたい。まあアコギのようにナットのところにストラップをかけるとよさそうなんだが、僕だってカッコよさは気にする。

 そうだそうだ。補足が要った。冒頭に「北白川グラウンド」をとってつけたのは、この筆者が北白川出身だから。そこで僕が会っているとすると彼は小学校中学年。これは書かないと分からないよね。(書いたおかげで、行間に見え隠れする筆者の迷いの元を刺激すんじゃないかと恐れているんだが?)
 また全体に渡りこの本をかなり酷評しているが、筆者自身他のギター教則本のタイトルおよび内容を批判しているところはあるし、序文では(礼儀かもしれないが)《本書をきっかけに、あるいは叩き台にして、ギタリスト諸氏が議論、研究を進めていってもらえれば幸甚である》(pp.4)と書いているので問題はあるまい。

 ついでに、ギターに関連して心に染み入るヨタ話を。古代ギリシャ人は左手薬指が心臓に直結していると考え、結婚指輪をそこにはめた。もっとも動きにくい指に何故だと思うかブルースギタリストに聞いたらこう答えるだろう。「当たり前じゃないか。チョーキングビブラートにもっとも心を込めやすい指だろ。」(これも自分が考えた話だが、同じことを考えたギタリストは大量にいるはずだ。でないと困る。)

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