アヴェ・マリア

 グノーのアヴェマリアだけど、なんでグノーはバッハのハ長調プレリュードを丸ごと伴奏として使ったか想像がつくかな?
 きのう、グールドのハ長調プレリュードを最初に聞いたとき腰が抜けるほどびっくりしたといったでしょ。この曲は分散和音の連続で、それこそ機械的といってもいい。しかしその奥に流れるというかさりげなく引き起こすというか、そういう感情の起伏を1音1音をコントロールしながら見事に音楽として作り上げているからね。
 アーティキュレーションに思いを込めたというなら、例えばキース・ジャレットもそうだろう。が音をコントロールする技術はグールドの方が比較にならないくらい高い。
 例えばベートーベンのピアノソナタ7番聞いてみて。この速度で完璧に粒が揃っているでしょ。この基礎技術があって、ギリギリで崩れないバッハが弾けるんだ。

 無機的なほどの分散和音が人の心に引き起こす起伏。それに気がついたグノーはどうしたか。ハ長調プレリュードの解説を、「この曲はホントはこんな曲なんだよ」という自分なりの解釈を、音にしたんだ。それがアヴェマリア、この曲だ。だからお前が弾くのはグノーじゃない。もちろんグノーの書いた楽譜どおり弾かなければならないけど、実際に弾くのはバッハだ。グノーが解説したバッハが正しいと思えばそのとおり弾くし、違うと思えば「自分ならこう感じる」という気持ちを持って弾けばいい。うまいことに多少の解釈の違いは吸収してくれる程度にグノーの譜面は出来ている。だから半分他人の曲を借りたようなこの曲は今まで生き残って、愛されているわけだ。

 いい?普通クラシック音楽は作曲者と演奏者は分離されていて、とりあえず演奏者は作曲者に従うしかない。しかしこの曲の場合、演奏者はグノーと同格だ。もちろんグノーに敬意を表すし、バッハにはかなわないけどな。だから遠慮しなくていい。お前が感じたバッハをグノーの用意してくれた土俵で、迷うことなく表現してかまわない。

 20年目の記念日、5年目に授かった子宝に教えたことです。

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