手話への疑問

 会社で書かされた人権啓発研修会の感想文です。例によって素直に感心してはいませんが、他では見られないような常識的な視点で書いています。
 ろうあ者とのコミュニケーションのために手話を生み出し、普及させた人々の熱意と努力は賞賛されるべきであろうが、それを単純に受け継ぐことは必ずしもろうあ者のためになっているわけではないと思われる。

 高校の時であるが、うる覚えの手話でコミュニケーションをとろうとするより、普通に話してくれた方が助かると教えられたことがある。ただし、はっきりゆっくりと話してくれと。聞くと今の聾学校では、手話よりも読唇術に重きが置かれており、口の動きをよく見せてくれた方がありがたいというのだ。ならば、彼らにとってはテレビの画面に手話通訳者を出すよりは、その部分に話している人の口の動きを大写しにしてくれた方が助かるのではなかろうか。

 手話のブームが出来たときには手話が実際に使われる度合いが減っていた。それでも手話を主流のように扱うということは、むしろ手話の使用を健常者から聾唖者へ押しつけていることにはなるまいか。たしかに唇を直接読みとられるのは、スパイ映画のワンシーンのようで違和感があるのは否めない。

 手話の普及が健常者の自己満足と自己保存の現れになってしまうとすれば、結果として差別を生み出してしまうことになる。むしろ、読唇されやすい口の動きを学ぶ方が喜ばれるかもしれないし、これは我々の日本語の発音を美しくしてゆくことにもつながるのではないだろうか。

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