私が海外に住んでいた頃、在留邦人が、日本で離れて暮らしている家族や親戚を、長期休暇中に呼ぶことがありました。当時は極めて高かった航空運賃を少しでも安く上げるためにみんなで時期を合わせて団体割引にしてもらい、さらにマイナーな航空会社を利用したりと工夫したものです。
そのときは、帰りの飛行機が隣の国から出発するという少し変則なパターンです。もちろん団体でバスを借りて数百キロ先の空港へ、その帰り道のことです。
どういうわけか、バスは予定のコースを外れどこかの中学生程度の生徒をキャンプ場から連れて帰ることになりました。我々としてはあまりおもしろくないのですが、住まわせてもらっている身、国際親善もあるし、まあいいか。
しかし、問題があるのはこれからでした。バスはキャンプ場に素直に降りてゆきました。なんとなくいやな予感がしましたが、コメントするのは気が引けます。
案の定、バスはぬかるみに車輪をとられ動けなくなってしまいました。
この時に聞いたのが冒頭の台詞です。「日本人は小さいときから訓練されているから、こういうとき気がつくでしょ。でもこの国の人は違うのよね。」
この感覚が、もう一度呼び起こされたのは「ジュラシックパーク」を見ているときでした。夜中、ティラノザウルスが暴れているのに車の中の子どもは懐中電灯でこともあろうにティラノザウルスを照らしている。映画の中で主人公も言っていましたが「馬鹿かあれは」と思いました。日本人なら教えられずとも、明かりを消してティラノザウルスが過ぎ去るのをじっと待っていることでしょう。
日本人なら、未経験の事態に対しても「なんか問題があるんじゃないか」と思うことがあるのです。土の軟らかそうなキャンプ場に大型バスを入れるときにも、そういう予感がしたわけです。
冒頭の台詞を十数年ぶりに思い出しました。日本人は問題を予感する能力に長けているらしいというのは分かりました。だからティラノザウルスに懐中電灯を向けるというシーンは、いくら映画の中とはいえ日本人にとっては非現実的であるといえるでしょう。しかし、なぜ「(日本人は)訓練されている」のかは、まだ分からないままでした。
「訓練」の意味が分かったのは、子どもができてからでした。子どもを遊ばせるとき、理想的には危ないものは手の届かないところにおいてしまって、子どもを危険から遠ざけるのがいいことは分かっています。合衆国人なら子どもに訴えられないように、危険のない空間を作って、そこに子どもを閉じこめておこうとするかもしれません。でもそんなわけにはいかない。(それほど我が家は広くない。)
そこで、その辺をテコテコ歩いているわが子を、その都度危険から遠ざけようとします。「こっちきたら危ないよ」「それにさわったら駄目」「あー、落っこちる」、という具合です。
なるほど、これが自分の周囲に未知の危険があるということを教え込む「訓練」なんだなと納得した次第。育児の過程で多少のリスクはあるものの危険回避の直感を養っているわけです。これは確かに日本人の財産かもしれません。そのことに気がついてからは「駄目!」と叱った後になぜそうしてはいけないかいちいち詳しく説明することにしました。
理屈っぽい子どもになりそうだなあ。しかし、なぜ駄目かを理解させておけば、直感は発達するでしょうし、何をやるにしても慎重論を持ち出して、組織の動きを鈍くするという意味で人様に迷惑をかけることは無くなるでしょう。
問題は、危険回避をするべく訓練されている代わりに、ひとたび危機が起こったとき(危険が危機に変わったとき)、どうすれば克服できるかの訓練が日本人には欠けているように見えることです。
天安門事件や、クゥエートへのイラク侵攻時に邦人を救出できなかったというところに、そのような例が見られます。
阪神大震災ではさんざん言われたとおり。
(合衆国では、逆に「アポロ13」のようなものすごい危機克服の実績がある。)
さあ、危機克服のやり方をどうやって子どもに教えよう。
大学入試の時の問題文を思い出しました。
Nowadays we speak easily and naturally of the crisis through which our civilizaton is passing.実は未だに訳せません。pass throughが日本語にならないのです。このような文脈での日本語は「直面している危機」となります。しかし、原文が持っている「この危機も克服することができる」というニュアンスはそこにはありません。もちろんこのニュアンスは文章全体についても流れています。でも、日本語には危機がそこにあればもう駄目だ、という表現しかないのです。