キリスト教的倫理観

 私は何を隠そう筋金入りのキリスト教的倫理観の持ち主である。
 これを日本語に訳すと偏屈というらしい。

 ベルギーに車で旅行に行ったときのこと。同行者の車はレッカー移動されてしまった。
 「ありゃー」と騒いでいると、それを見ていたそこのアパートのおばあさん、駐車違反で撤去されたからどこそこの警察に行けばいいよと教えてくれた。出かける支度をしていたのに、我々が戻ってくるのをわざわざ待っていてくれたらしい。普通は優しい人だな、で終わる。
 ところが、警察に通報したのもこのおばあさんだったようだ。うーベルギー人ってなんて訳が分からないんだ。
 しかし、ヨーロッパで暮らすうちに分かってきたのは、駐車違反は駐車違反で悪いことだから通知、それを連絡してあげる優しさは優しさ、で独立していなければならないんだな、ということ。両方あわせて「駐車違反を見逃す優しさ」が存在するのは、そっちが妙だということ。
 簡単に言うとルールの徹底である。ルールはルール、これが基本。そして優しさはそのあとからくるもの。そうしないと、ヨーロッパのような多民族国家ではうまくいかないのだろう。相手がアングロ=サクソン人であればルール違反を見逃す優しさがあるのに、アジア人の場合はなぜ見逃さないのだ?という疑問の生ずる余地を与えてはいけない。すぐに戦争になる。

 さかのぼればこの発想、キリスト教にいきつく。原罪を犯した人間を神が赦すとすれば、神は悪魔をも赦さなければならない。全知全能の権力者といえど、ルールの適用をねじ曲げるわけにはいかないのだ。そんなわけで、罪のないイエス=キリストを磔にして、身代わりにし「信ずるものは救われる」とした。神でさえ法には従った。(この伝統をもつ法学に日本が太刀打ちできないのは当たり前だろう。)

 気がつくとベルギーのおばあさんと似たようなことをやっている自分に気がついた。首尾一貫はしているが、ややうざったく思われるかも知れない。出勤時は白にしておくきまりの出退表示板を裏返していないと本人に文句を言いに行き、私がきちんと返しておく。え?別に変じゃないよねえ。この辺に展開すれば分かってもらえるかな。
 人より法を上に置くから首尾一貫していないことについては結構簡単に怒ってしまう。ここまでくると記憶力が凶器に感じられることすらある。
 その代わり、こっちが間違うと1歳半の娘に謝っているから態度については首尾一貫しているつもりだ。

 しかしまあ、ここまではつらい訓練だが耐えることもできるであろう。(自分より法を上に置くのは結構つらい訓練である。自発的感情に法を接ぎ木しなければならないことも多い)。ここに西洋形而上学の伝統である人間の知性は知るべきものについて知りうるという前提を置くと、ちょっと日本人には耐え難いことになる。簡単に言うと「○○を選択したということは、△△という結果を認識しているということだ」という言い回しである。○○を選択するときに、それについて十分知っており、そこから生ずる問題点については覚悟していなければおかしいということだ。知性がルールを知っておれば、ルールを適用した結果は明白だから、ということである。

 この言い回しの中には積極的に使いたくなるものもある。例えば「クライアントのOSにWindowsNTを採用したということは、セキュリティには目をつぶるということだ」とかね。WindowsNTがセキュリティ上問題があるのはよく知られた事実である。だからクライアントもUNIXでいきたいところだが、Officeソフトを使いたいからということでNTにしてくれといわれる。トラブルが心配だが要望が要望だからということでクライアントをWindowsNTにする。あとから「NTはセキュリティが」と言われても、ねえ。
 WindowsNTはセキュリティに問題があるというのは当然認識しているべき事実であり、それを自ら選択した以上、その選択がもたらす結果については甘んじて受けなければならないというのは当然だと思うのだが。(そこを何とか、と泣きつかれれば、そこから先は「優しさ」という面でおつきあいさせていただきますが。)

 もう少しハードな言い回しとして有名なのがサルトルの「各人は自らを選ぶことによって、全人類を選択する。」である。自分が選択した自分(私の用語では自分が従った法、ルール)に自分が絶対的に従うべきであるという宣言である。
 この表現には結構しびれるものがあるが、多分この辺から平均的日本人はついてゆけないのではなかろうか。「あんたがそうしたということは、全人類がそうすべきとあんたが主張していると言うことだ」と言われているわけだから。
 いつの間にか日本ではサルトルの代表作である「存在と無」すら書店で買えなくなった背景には、このような思想に日本人がついてゆけなくなったからかもしれない。

 今まで聞いた中で一番きつかった表現が、阪神大震災後のフランスの新聞の論調。「地震多発地帯に、人口周密地域を作ればこのような結果となるのは当然」。
 そ、そうなんだけどね。でもあんまりじゃないの。そんなこといわれたって。

 自分がその時々のご都合主義で好きなようにやっていてはいけない。自分よりも法を上に置かねば秩序は保てないし、説得力もない。これには賛同してくれる人はいるだろうが、それがこのような発想につながるとなればちょっと待ってくれ、だろう。
 どうしてそうなるかというと、知性(ロゴス)中心主義と結びついたからである。
 ここまで分かって西洋形而上学への反省がなぜ起こったかが理解できる。

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