変革シンドローム

 長年思春期の子どもたちを相手にしていますと、「このままでいいんだろうか、変わらないと」という衝動を感じているのを目にすることが多いです。
 もちろん「この変わらないと」という思いは、年代によらずに見ることができます。この思いが社会的に大きなうねりとなることすらあります。合衆国でクリントン大統領が"Change"を旗印に当選した頃、日本でもこの言葉が流行したことがあります。バブル景気が終わって、個人や企業の行動が本来の目的からずれてしまったのをちゃんとしたい、という意識の反映が、今のままではだめだ、変わらないと、という一見前向きの態度として出たのかもしれません。
 それらの中でもっとも象徴的に思われたのが日産自動車がイチローを起用したテレビコマーシャルでした。そのときのキャッチフレーズは「変わらなきゃ」でした。
 しかしここには問題が一つありました。なぜ「変わらなきゃ」ならないのか、どのように「変わらなきゃ」ならないのかという視点が一切語られていないことです。思春期の「変わらなきゃ」という衝動ならばそれもまた人生を発見するための動機となるでしょうし、またそれをよい方向に持ってゆくのが我々の仕事でもあるわけなのですが、企業がただ「変わらなきゃ」と言っていたのではいけません。組織としての目的が見えなくなっていると言うことだからです。
 日産もこの辺の問題には気が付いたようで、まもなくイチローがコマーシャルで話す言葉が変わりました。「変わらなきゃも変わらなきゃ」になったのです。言い回しとしてはこれでいいかもしれません。しかし「どこがわるいのか」「どうすればいいのか」という問題意識をそこに見てとることはできません。変わらなきゃ、というのは何かを実現するための手段であったはずだったわけですが、その手段を目的と取り替えただけだからです。

 結局日産は変わりました。外国資本を受け入れ、経営権を一部譲渡しました。もちろんこれも立派な変革です。しかし、本当にそれが日産が望んだ変革だったのかということについては疑問が残ります。
 確かに変わった、でもこれが望んだ変革であったのか?この疑問に対する答えはありません。何を実現するために、どのように変わりたかったのか、という視点が欠落していたために、変革の結果を評価することができないからです。具体的に問題としたものがなかったため、それが解決されたかどうか、誰にも判断できないわけです。

 問題というのは、意識された現実と期待される現実の差です。在庫量が適正値を超えているなら減らさなければならない。つまり在庫量を変えなければなりませんし、場合によっては在庫管理の方法を変えなければならないかもしれません。そして「変わらなきゃ」といった場合の結果は、期待される在庫量と、現実の在庫量がどの程度一致したかで測ることができます。
 変革した結果を評価することができなければ、在庫管理は意識された在庫量、すなわち倉庫の台帳に記録されている在庫量と、現実の、すなわち倉庫にある在庫量を一致させるだけの仕事となってしまいます。それ自身意味のないことだとは言いません。しかしながら、それだぇでは全体にとってよりよいものを作り出してゆくということにはつながらないでしょう。

 そして在庫量が過大であることが誰の目にも明らかになった時はもう手遅れでした。気が付いたときには座間工場を閉鎖する羽目に陥ったわけです。しかし、ただ「変わらなきゃ」といわれただけの在庫管理部門の人々や生産管理部門の人々を責めるわけにはいけません。彼らはその職務の範囲で精一杯変わろうと努力してきたかもしれないからです。もし、倉庫の中の在庫量と、台帳上の在庫量の差が少なくなっていたとするならば、彼らは十分にその職務を尽くしたと言えるでしょう。

 何かを変えること、そのものは目的ではありません。何が問題なのか、どう解決するのか、これを把握しておくことが必要です。これがないと、もし、変革に成功したとしても、本当にこれでよかったのかと反省することすらできない、という惨めな立場に追い込まれてしまうかもしれませんから。

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