現代という時代は(私の周囲以外では)時間が矢のように飛び去ってゆくそうです。Time flies like an arrow.という奴ですか?ちなみにこのフレーズは社会問題ネタ、目次へという翻訳も可能だそうです。
- 矢の形をしたハエの飛ぶ速度を計測せよ。
- 矢のようにハエの飛ぶ速度を計測せよ。
- 時ハエは矢を好む。
とりわけ、コンピュータ業界は(私の周囲以外では)ドッグイヤーと呼ばれるほど時代の流れるのが速いらしく、そんなわけで、それに携わる側も判断をどんどん速くしていかなければなりません。
さて、その傾向が進むとこんな風になるのでは、という話。友人に「報道関係者」というのがいまして、遊びにいっている時に、ニュースが入るとすぐに文化人にコメントを求める電話をかけたり、結構ばたばたしておりました。小学校の頃から作文の上手な奴でしたが、輪をかけて書くのが速くなっていました。一番笑ったのは、他局のテレビニュースを見ながら、アナウンサーのセリフを先回りしてしゃべっていたこと。「今日の京都は、日中の気温が30度を超え・・・」
しかし、はて?と考えた。一致するということは、そこまで紋切り型が進んでいるのか?どうやらそうらしい。どういう話題の時は、誰のコメントを取り、誰に出演を依頼し、という判断が事実上定式化されているらしい。ほとんど条件反射の世界である。そんなわけで、すばらしいスピードで画面はセッティングされる。しかし、そこに条件反射の紋切りスタイルから外れたものが混じってくると、不整合が目立ちはじめる。
随分前だがサンフランシスコ大地震のニュース。画面、アナウンサーと地震学者。ニュースをてきぱきと加工し、処理する報道局といえど大地震をどう報道するかまでは定式化していなかったらしい。しかし、それは無理のないことだろう。問題は、テレビカメラの前で何も話せなくなってしまったことなのだ。
- アナウンサー「サンフランシスコの被害はどんなものでしょう」
- 地震学者「一部は大きく、一部は小さいでしょう」
- アナウンサー「なるほど、一部は大きく、一部は小さいんですね」
- (実に気まずい沈黙)
まあこんな場合でも、定式から離れる勇気があれば常識的知識だけでなんとかなる。
- アナウンサー「サンフランシスコは坂の多い町と聞きますが、そのようなところでの地震による被害は一様には判断できないということですか」
- 地震学者「そうです」
- アナウンサー「では例えば、坂の上と下ではどのような差が出てくるのでしょうか?」
なんとなく、話が続きそうではないですか。かくして導き出した教訓は、判断速度をあげようとすると、条件反射に頼るようになること。その場合の副作用は、発想が紋切り型になり、特別な環境に耐えられなくなること、である。しかしその場合でも、多少の関連知識があれば頭を切り換えることで場をつなぐことはできるかもしれない。
似たような「条件反射による判断速度加速」は多くの日本人が経験しているはずである。要するに「○×式詰め込み教育」というやつだ。ほとんど条件反射で問題を解いている。これは私も経験がある。まあ条件反射ばかりに頼っていると、そのうち頭が固くなるのはありうることだ。
しかし、だからといって柔らかい発想を大事にしたままでは、判断がおそくてしようがない。うちの2歳になりたての娘は、そろそろ絵本の文章を覚えることができるようになった。ページをパカッと開いては「うさこちゃんはときどきおじいちゃんとおばあちゃんをたずねます(福音館書店、うさこちゃんのおじいちゃんとおばあちゃん、より)」と舌足らずに発音している。
幼児はものを覚えるのが速いはずだ。しかし文章を暗記するのは依然として私の方が圧倒的に速い。理由を考えると当然で。私は「文字」を覚えている。子どもは「音」を覚えなければならない。要するに私は絵本の情報を文字という枠にはめて覚えている。だから覚えなければならない情報量が子どもよりずっと少なく、かくして覚えるのが速い。その代わり、ヘブライ語とかであれば、子どもの方が速く覚えるだろう、少なくとも正確な音韻を覚えるだろう。私は無意識的に文字という枠に落として覚えたおかげで発音が日本語になってしまうが、子どもは音をそのまま覚えるだろうから。
問題はここなのである。通常は固い頭の方が速い。例えば文字という枠を使って覚え、条件反射で判断するほうが圧倒的に効率がよい。しかし、全く予測しない事象になったとき〜例えば年中行事の報道ではなく突発的天災の報道であったり、読むことができない言語を覚えることであったりしたとき〜は、それらを捨てなければならない。
固い頭は問題ではない、固さを捨てるべきときに捨てることができるかが問題なのである。もっと言えば固さを捨てるときを判断できるかが問題となる。いつもは常識の枠にとらわれた発想でかまわない、Time flies like an arrow.は「光陰矢の如し」でいいのだ。ひょっとして「Timeという名前のハエは矢が好きだ」という意味かもしれない、などと考える必要は全くない。(中学校一年生が、The flyという映画を見た直後にこの文を見せられると本当にこう訳すかもしれない。)しかし場合によっては本当に矢が好きなハエを話題にするときがあるかもしれない。ハエ取り紙のデザインをするときなど、本当にそういう会話がなされる可能性がある。ハエは矢の形に惹かれる特性があるから、矢の形をハエ取り紙に印刷しよう、という判断がなされないとも限らない。
その紋切り型でない発想をすべきときをどうやって判断するか、これを固くした頭で無理なく発想するというのが大変なのだ。先ほどのテレビ放送中とかであればいい。「間が持たない」わけだから否応なく新たな発想の必要性に気がつく。ただそこで「条件反射ではどうしようもないから、自分の頭で考えなければならないな」と自覚すればよい。そして知識を総動員する。先ほどの例では地理的特徴を取りかかりとしようとしたが、歴史をとっかかりにする方が汎用性はあろう。確かに昔、サンフランシスコ大地震というのがあった。映画にもなったらしい。ユニバーサルスタジオに行けば疑似体験できる。
でも、難しいのは自分の頭の中で発想が止まったときである。自分の頭そのものが限界に達しているのか、自分の条件反射が止まっているのか分からないからである。残念ながら、柔らかい頭が必要となったとき、多くの人はなんとか対象物を従来の枠に押し込めようとする。それでも間に合わなくなったとき、中身は分からなくとも枠だけ作って分かった気になろうとする。その枠が、ニューメディアでありマルチメディアであり、最近は「IT」と呼ばれているのである。