誰でも知っている孫悟空のエピソードであるが、改めて考えてみた。社会問題ネタ、目次へ
「どうして孫悟空はお釈迦様の掌を出られなかったのか?」出ようと思えば出られたはずなのだ。ところが出る寸前で引き返したのだ。お釈迦様の5本の指を「これが世界の果てである」と勝手に解釈してしまったからだ。孫は少なくとも指の付け根までは飛んでいったのだ。ちょっと横に出て柱をすり抜ければよかったのだ。でも孫悟空はそれをしなかった。
しかしすり抜けるためには、次のいずれかの決心をする必要がある。
「世界の外に出てみよう」
「これが本当に世界の果てか確かめてみよう」
世界の限界を乗り越える決心が必要なのだ。つまり、孫は5本の柱を世界の果てと思ったわけだから、ここが世界の限界であり、同時に自分の限界だと思ったことになる。本当はここで既知の世界に別れを告げるか、命を賭して世界の限界を確かめてみようとする決心が必要だったわけだ。ところが孫悟空はどちらも行わなかった。つまりは、世界の限界を押し広げるという気はなかったことになる。従って、孫悟空の狼藉は既存の(自分が守られている)世界の秩序を破壊するだけであって、新しい世界=新しい秩序をうち立てる為のものではなかったということが証明されたわけである。彼はテロリストであって革命児ではなかった。
仏教という秩序=世界観をうち立てて世界を拡大した革命家であるお釈迦様としては、これは看過できないことであったのだろう。また、新たな世界観を創造したお釈迦様であるから孫悟空を裁く権利があったわけである。
(ここで、ニーチェの「超人」概念と関連させて話をふくらませる予定であったが、それは延期。お釈迦様もキリストもニーチェのいう超人である。お釈迦様がしたこの賭は孫悟空が超人かテロリストかを判断するためのものであった。そして孫悟空は超人ではなかった。だからお釈迦様は孫悟空にテロリストとしての罰を与えたのだ。)ちょこっと授業破壊をする生徒というのを思い起こした。彼らは自分を守っている学校という範囲内で騒いでいることにとどまらず、新しい世界観を生み出そうとしているのであろうか?学生運動とやらも似たようなものだったのかなあ。
そういえば私は授業中うるさい生徒であった。秩序を乱すものとして先生方は嫌がったろうなあ。その私も一度だけ世界を拡大するような騒ぎ方をしたことがある。「万葉集は、詠み人の幅広さに特徴があり、天皇の歌から乞食の歌まで入っている」「先生!乞食に歌を詠めるほどの教養があったんですか?あったとして、誰がそれを書き留めたんですか?」
先生はなぜか激怒したが、このときの私であれば、お釈迦様との賭に勝てたかもしれない。そのとき私が言ったことに意味を後付けすれば「権威だ、定説だ、といって鵜呑みにせず、自分で考えてみよう」というメッセージだったともいえる。孫悟空がお釈迦様に負けた理由はもうひとつある。お釈迦様の掌を筋斗雲に乗って出ようとしたことだ。横着をせずに歩いて出ようとすれば出られたのかもしれない。筋斗雲がいかに速かろうと、お釈迦様がそれ以上のスピードで走れば孫悟空は出てゆけない。地道に歩いてゆけば、いかにお釈迦様の掌が大きかろうといつかは出られたはずなのだ。その地道さがあれば、お釈迦様も孫悟空をそれはそれで受け入れたことだろう。