唯物論的CD-R焼き焼き論

 アニメ系クラシッカーであるうちの子は、聴きたいという曲が極めて偏っている。そんなわけで車に乗るたび、カーステレオ用に4枚程度のCDを抱えて行くのだが、忘れたり持っていかなかったりすることもある。その度に「チャチャーンは?」と責められるので、お気に入りの曲をCD-Rに焼いた。ああ楽になった。「美しき青きドナウ」の直後に「ハンガリアンラプソディー2番」が来るのはなかなか違和感があるが。(なぜかホロビッツよりフジコ=ヘミングの演奏が好きらしい。)

 ディジタルコピーはかくも簡単になってきた。では10年前にDATが出てきたときはどうだったか。えらいもめたんじゃなかったっけ。ディジタルコピーが簡単に出来ますとやらで、著作権協会がいろいろと怒っていたんじゃなかったっけ。今はどうなっているんだろう。

 鑑みれば著作権というのも実にアバウトな概念である。
 合衆国の場合、とても厳しそうに見えるが、マーチの音楽なんぞはフレーズを相互にパクリまくりである(マーチ集のCDを聞いていて、今どの曲を演奏しているのか当てるのは不可能である)。

 ストラビンスキーは自分でフレーズを作ることができず、あちこちからパクっていることは有名だ。だから彼の作曲に独立した著作権を認めて良いのかには多少の議論が出るかもしれない。
 しかも面倒なことに演奏に関する著作権というのもある。ストラビンスキーを含め、作曲に対する著作権料の必要がないと認められた場合でも、それを払わずに演奏するその一方でて演奏印税を自分のところで留め置いてよいのかというのは、少なくとも倫理的にはどうかと思われる。(ストラビンスキーは作曲から収入が得られず困窮していたため、ルービンシュタインは演奏印税の中から寄付をしたそうだ。で、それに対する感謝の気持ちが、ピアノ曲「ペトルーシュカからの三楽章」。ここでルービンシュタインはストラビンスキーの要望通り、この曲をレコーディングしなかった。さすがルービンシュタイン。でもポリーニはしっかり録音してるんだよねえ。)

 著作権は、こういういい加減な概念だから守ろうとしても限界がある。かくして、誰もパソコンによる音楽CDのコピーを止められなかった。しかし、これってとてもマルクス主義的な状況でないかい?

 高校でも習うマルクスの概念に「史的唯物論」というのがある。上部構造と下部構造というのがあって、下部構造である技術の発達・生産力の向上によって、上部構造の政治形態や人々の意識が変わってゆくというもの。
 この枠組みで音楽著作権を解釈すると、結構うまくいく。
 まだ録音技術がなく、音楽が演奏家と結びついている時代、演奏著作権というのはなかった。(印刷技術が生じて、作曲についての著作権というか楽譜出版の版権は演奏著作権より早く生まれていた。)
 録音によって、音楽が演奏家の意識しない範囲で消費されるようになって、演奏家の権利を守るため著作権が生まれた。
 コピー技術によって、著作権が乗り越えられてしまい、結構良心の呵責無くCDをコピーするようになった。
 おー史的唯物論は正しかった。ソビエト連邦の崩壊以来、マルクス主義は勢いを失ってしまったが、理論自体は正しいところもあったんだなあ。  著作権といういかにも人工的な概念ならこのとおりで、まあマルクスがどう言ったかは別としてなるほどね、とうなずいてくれる人も多かろうが、もっとプリミティブな史的唯物論の実例もある。
 臓器移植が技術的に可能となって、脳死という概念が生まれてきたところである。技術の発達はついに哲学上の根本概念である人間存在の定義まで変えてしまった。
 ということで、マルクスは政治的にはともかくとして、文化の発展については正しかったのではないかという結論に達した。うーん。CD-Rに音楽CDをコピーするというのはこういう社会思想史的行為だったのか。

 さて、違法コピーにうるさいMicrosoftであるが、WindowsXPではCD-R書き込み機能を標準で付けたらしい。とはいうものの、音楽CDはコピーできないそうだ。自分の権利だけでなく、他者の権利も守ろうとする首尾一貫した態度を(珍しくも)そこに見た。「ユーザーが望んでいるから」「音楽CDのコピーは時代の流れ」とか言って音楽CDの作成もサポートするかと思っていたのだが。実は、少しだけMicrosoftを見直した。(単純にプログラミングできる人がいなかっただけかもしれないが。)

 そういえば、DATが出たての時、ディジタルコピーによる著作権侵害を問題として取り上げたテレビ番組で、「DATによって長時間録音が可能となりましたが、それによって今までCDに入りきらなかったオペラの録音などに新しい可能性が開けたと思われますが、いかがでしょうか」と水を向けられた指揮者の芥川也寸志さんは「著作権の問題が解決されないと、そういう話はできない」と言っていた。
 でも、技術のみならず芸術をも法制度の下に置いた彼の真摯な態度も、結局乗り越えられてしまったみたい。極めて残念である。
 そのとき彼は「著作権が発明される前に作曲されたものに対しても、演奏の際には対価を支払うべきである」という議論が起こったとすれば、それが解決するまでは演奏活動をしないと宣言したに等しいのだからね。これって指揮者としてはとても思い切った発言だと思う。彼の場合はTV出演などで、食い扶持には困らないと言う事情を差し引いたとしても。


 ソ連邦崩壊以来、マルクスの名誉は地に落ちたが、こういう形で強引に復活させてみました。あの人結構正しいこと言っていると思うんだがなあ。社会主義にしても資本主義の次に来るものと考えていたはずでしょ。農奴制の後、資本主義を経ずして社会主義を名乗ったソビエト連邦はその時点で既にマルクスの理論から足を踏み外していた筈なんだが。(と、高校の授業中に思った。)
 さて、同じく名誉が地に落ちたノストラダムスの場合はどうだろう。1999年7の月以降誰も見向きもしてくれない。以前であれば同時多発テロの予言を誰かがどこかから絶対に見つけていたと思うのだが。

 著作権のご都合主義について思いを巡らせている最中、映画や小説のストーリーについて知的所有権が、過去に遡って、認められるとすればどうなるのだろう、と考えてみた。
 「双子の兄弟(そっくりさん)入れ替わり」「劇中劇」などの設定に使用料を払わねばならないとすると、恐らくギリシャはものすごく大金持ちの国になりそうだ。(ところで「オリンピック」の商標使用料はギリシャに支払われているのだろうか)
 そんな議論が巻き起こったとして、合衆国は恐らく大反対するだろうね。でも、合衆国が発明した設定もあるのだ。「モンタージュ」はエイゼンシュタインとの係争になろうが、「ラストミニッツレスキュー(絶体絶命の主人公が寸前で助かる)」だけは、グリフィスの/合衆国の、発明である。これが発明されるまでは物語は悲劇で終わっていたのだ。
(イントレランスのあのすばらしさ、3つの物語が悲劇で終わり、最も感情移入されるであろう現在の物語だけは最後の最後の最後に助かるのだ。)

社会問題ネタ、目次
ホーム