前向きな合併会社の文化論

 企業の統合、合併ばやりである。いろいろ大変だが、組織文化にいい影響を与える場合もありうる。これを促進したいな、という話。

 単純に旧社別の組織を、例えばそのままカンパニーとか事業部として生かすのではなく、強引にくっつけた場合のメリットに気がついた。この場合、例えば「たすきがけ人事」を行うことになる。部長が旧A社なら副部長が旧B社出身、隣の部ではその逆、といった具合にしてゆくのだ。この場合、何かやろうと上司の承認をとるのに、旧A社、旧B社両方の出身者を納得させないといけない。つまり、客観的に正しい主張をしないと駄目だ、ということだ。だからそういう癖がつく。組織固有の論理に流されない思考力、説得力がつく。
 もし、上司の承認をとらず、何かやろうとすると今度は旧他社の人からクレームが付く。従って、必要なことは承認を取り、周知徹底してから実施せざるを得ないことになる。自然とグローバルスタンダードに近づく。少なくともルールのドキュメント化は進む。

 仕事も能率が上がるぞ(多分)。ルールが変わるときには必ずドキュメント化され、かつ周知されるので、担当者は現在のルールに従って安心して仕事ができる。きちんとやるべきことを見積もって、計画をたてるようになる。誰かの思いつきでルールが変更になることが多いと、事前準備をしなくなる。またモチベーションも低くなる。
 予めやることとルールがドキュメント化され、周知期間を置かれると、そしてそれが旧自社の権限者(まあ、味方だ)が承認したものであるということになると、言われたことをやろうという気になる。
 なーんか嫌なイメージのあるたすきがけ人事であるが、こういうメリットもあったのだ。

 ただしデメリットもあるだろう。意志決定に異なる組織文化で育った人間の対立が介入する可能性があるので、全般的に動きが鈍くなる可能性はある。でもこれは「情報伝達」と「意志決定」を分離して扱うことができれば、相当程度改善する。
 確かに難しい「○○部長は聞いている話だ」ということが、殆ど「○○部長は承認した」という意味にとられるようでは、情報伝達と意思決定は分離できない。また「企画書が通る」というのは「企画が採用される」という意味であれば駄目だ。「企画書はおもしろいとハンコついてもらえたが、企画そのものは採用されなかった」というくらいでなくてはならない。(御社の企画書のフォーマット。権限者まで回り、かつ「否認」と表示され得るようになっていますか?)

 場合によっては、情報伝達にのみ使われるインフォーマルな場を独立して設けなければならないかもしれない。まあ、最後は上層部の人柄かなあという気はする。いい悪いは別として、私は新しもの好き、いいアイディアはどんどん持ってこい。という印象を旧A社の部長と旧B社の副部長が(無理にでも協調して)持っていてくれればいいのだ。でもこの二人がちゃんとぶつかってくれないと、こんどは「うやむやを良しとする」そういう合併企業文化になってしまうかもしれない(そんなところは多そうだ)。

 意志決定と情報伝達が分かれた組織というのは、実感したことがあって、まあ、それはかなり昔に合併したところだったんだけど、あっという間に組織長のところに連れて行かれ、説明をさせてもらえた。今考えると、原則がしっかりしていたからできたのかな。意志決定するしない以前に、原則に合うか、があって、それに合えば情報は通す、というコンセンサスができていたようだ。
 困っていることがある。それを捉えた上での解決策がある。なら採用するかどうかは別としてまず聞こう。あたりまえのようだが難しい。「このシステムを採用したのは今の役員だしなあ、話を聞くだけでもといってもねえ、、現在委託しているところとの取引関係もあるし」。「解決できちゃったら、今まで何やってたんだということになるから、上に報告するには時間がいるよな」。「合併時に棲み分けしちゃったからなあ、ここで別の方法を採用するとバランスが崩れる」。
 ありそうな話ではないですか。この辺が苦手だから日本では合併が流行らないのかな?それともM&Aはまた別の話ですか?え、合併会社に限らず大企業病予防には意志決定と情報伝達が分離されていないと駄目なのは当たり前でしょうって?社内のアイディアよりも外部のアイディア(わざわざコンサルティング会社にまで頼む)を優先するのは、情報と承認を分離できるからだって?(そこまで考えてやっているのかな?)

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