私は同和問題が嫌いだ。社会問題ネタ、目次へ
取引の申し出を断ると「ワシが同和地区の出身だからそうゆうとるんやろ、差別だ!」とわめく輩が居るのははっきり言って迷惑である。ホントに同和地区出身かを確認するために同和地区一覧(1988年に一度本屋に並んでいるのを見た)を買っておけば良かったと思ったこともある。そういえば郵便局でバイトをしていたとき、決して表記されない町名があるのに気がついたなあ。そもそも嫌いになったのは、中学校の時に最初に受けた同和教育に原因がある。それは同和地区の方が切々と差別の状況を訴えるテープを聞かされるというものであった。しばらくはそれなりに納得して聞いていた。が、後半は「差別を克服しようとする息子の努力」をやたら熱心に話すのだ。「止めろ!」と怒鳴った「結局は息子の自慢話だ、これでは前半の差別状況すら息子を自慢したいが為に大げさに話しているとしか思えない」。ぺらぺらと語られる息子の自慢が、前半の印象を薄めてしまったのだ。
似たような感覚を持っている人は自分一人くらいなもんだろうと長年思っていたが、そうでもないらしい。夏に話題になった2005年度青山学院高等学校入試問題の件である。元ひめゆり学徒の沖縄戦の証言を「退屈だった」という趣旨の英語の読解問題が出題されていたというやつだ。
「悲惨な戦争体験を語っているのに、それを退屈と評するとは、怒りで・・・」という風に反応が激しかったようだ。まあそのときは何とも感じなかったが、全文訳を作ってくれていた人がいて、これを読んで筆者に共感した。沖縄でいかに強い印象を受けたかが伝わってくる。感銘を受けた。最後の一段落は素晴らしい。滑り止めに受けた人がいたとして第一志望を変えたくなったかもしれない。ひめゆりの皆さんと同和地区の皆さんを同列に論ずるには違和感があるかもしれないが、裏に同じような思考経路が見て取れるのである。自分たちは悲惨な経験をした。この経験は人類普遍の価値観に照らし合わせて許されざることである。従ってこれを批判している自分は絶対的に正しい。絶対的に正しい自分の言っていることは、その表現手段も含めて絶対的に正しい。自分の意図した以外の受け取り方をした人がいるとすれば、それは相手が悪い。
これを「傲慢」と評すのは彼女らの経験からするとなんだが、言葉少なに戦争の悲惨さを心から分からせた防空壕の案内人(青学入試の前半に出てくる)の方が平和の尊さをより強く伝えたであろうことは認めざるを得まい。それとも認めていないのかな?だから青学の入試問題に異議を唱えるのか。
だったら、私からの提案。ディベートでもプレゼンテーションでもいいから勉強した方がよい。その方が悲惨な体験は良く伝わる。その方が語り部としての役をより果たせる。なんでこんなことを言うかというと、この傲慢さを鏡に映したような形式主義が「バリアフリーの為の設備」に見られるからである。「作っていればいいんだろ」と言わんばかりのいい加減さ。エスカレーターができた。しかし白い杖をついた人は階段を上っている。あっちにエスカレーターがありますよ、と言うと点字タイルがないから場所が分からない。
エレベーターに車椅子用のボタンが付いた。しかし押せない。物理的には押せるのかもしれないが距離が遠すぎて大柄な人でもかなり身を乗り出さざるを得ない。押すときには腰に負担がかかるだろうなあ。
超ひどい例はこれ。エレベーターに乗った人が楽なようにベンチがついているだけに何も考えていないのがはっきりと分かる。そういや階段脇のスロープがものすごい急角度だったホテルもあった。
構造は同じなのだ。自分の言うことは絶対に正しい意見と信じて主張する語り部たち(この場合は障碍者)、とにかく言われたとおりに形だけ整えておくホテル等のサービス施設。実際に聞く人、利用する人を考えず形式を満たして良しとする点では同じだ。
さらに悪いことに、ひめゆりの語り部はこの形式主義を助長してしまったのだ。文章全体の論旨をおいたまま「退屈」と書いた形式を許し難いと批判した。形式を批判し謝罪をさせた。これは結局形式的な謝罪を求めたものなんじゃないのか。ここまで考えてくるとバリアフリーを形式すらも切り捨てた東横インの発想にたどり着くまでもう一歩である。あの社長、釈明をもう少し考えなかったのかね。「うちはビジネスホテルです。客層に拘わらず一律に設置割合の決められた障碍者向け設備のうちには不要なものもあります。良くないこととは思いましたが、無くしたものもあります。しかし、その分は障碍者支援のために寄付を行っています。(ここで涙で声を詰まらせ、もうしわけありませんでしたー、と頭を下げる。)」
あれくらいの会社になれば社会貢献活動をしていないわけがない。それを持ち出せば、条例違反は別として、理解できない考えではない。
それとも、それすらやっていなかったのかね。言い訳をするならもう少し発想を柔軟にしないと。聞いている人(利用する人)の印象を考えないと。
もちろん、これは条例違反をやってしまった東横インだけでなく、ホテルや公共(交通)機関の人、悲惨な体験を語る人にとっても必要な留意点だと思います。ひめゆりの語り部にとって「退屈」などと評されるのは我慢できないかもしれない。それでも全体の論旨をとらえてからどう改善すればよいかを言えばもう少し前向きの解決ができるかもしれない。ここですごいなと思ったのは青学で「生徒たちに罪はない。今年も修学旅行でひめゆり祈念館を訪れたいのでお許し願いたい」と依頼した。「批判」−「謝罪」で終わっていない。もちろん断るわけにはいかない。そこで語り部たちもどうやって自分たちの経験と平和の尊さを生徒に実感させるか、今一度考えてくれたに(違いない)。