責任範囲

 何か起こってしまったことへの責任の取り方として、よくあることに「辞める」というのがある。被害額が確定しておりお金で済む場合ならいいけども、時計の針を逆回しにできない以上、謝罪して、私はこの権限を持つ資格がありません、と辞める、というのは、まあ仕方がない責任の取り方である。
(いまだにプロ野球選手会には腹が立つ。近鉄の選手は別としてストをしたのは、権利の乱用であり、カルテルであり、試合を楽しみにしていたファンへの裏切りである。でもよく考えるとファンへの裏切りではないのかな?ファンは試合よりも、球界のゴタゴタを楽しんでいたとすれば、ファンを楽しませたという点で選手会は役目を果たしている。まあ野球の人気低下とはこういうことだろう。)

 まあ辞めるとまではいかなくても(「失敗には死を」がナンセンスだというのは既に述べたとおり)責任の取り方として謝罪は必要だよな。ということで「謝罪」を責任の取り方としよう。ならば「自分が謝って済む範囲なら、自分の責任範囲=裁量が許される範囲」と考えていいかなあ、という感じがする。
 民主党の永田議員は、自分が謝って済む範囲以上のことをやったから責任がとれなくて執行部を巻き込んだ。

 このことを教えてくれたのは、プロ野球選手会ではなく、名前も知らない通訳であった。普通、通訳に裁量権はない、と思われている。言われたことを正確に訳しなさい、である。
 この通訳が合衆国に行った代議士についていたとき、代議士が質問されたらしい「トーキョージャイアンツを大リーグに移管することはできないか」。この代議士ボソボソと「持ち帰り検討します」などと答えたらしい。が、通訳はこう訳した「今や野球は日本の国技、その代表的球団を国外になど考えられません。しかしニューヨーク・ヤンキースとの交換というのであれば、交渉に応じます。」もちろん大受けだったらしい。
 この通訳、職務としては越権行為をしたかもしれない。しかし誰がそれを咎めるのだ。まあこの代議士が「急にみんなが笑い出したから何かと思ったぞ」と文句を言うかもしれない。しかし「いやあ、すみません」と頭をかいて謝ればそれ以上追求されるわけがない。多分、その代議士をみる周囲の目は変わっただろうから、「いやあ、君のおかげで交渉がスムーズに進んだよ」と結局は感謝されたはずである。

 宮里藍さんがメキシコの大会に参加したときの記者会見のニュースを聞いて、この通訳を思い出した。「恋人はいますか?」の質問に宮里藍は耳まで真っ赤にして「いい人がいればメキシコの人でも、日本の人でも」と答えたそうな。ひょっとして通訳の創作かな?と思ったのだ。通訳の創作だったとして、誰も文句は言うまい。宮里藍の現地での人気もあがったそうだし。

 もっとも次の場合は微妙だ。原の引退試合(本拠地でなく広島だった)、最後の打席、大野がマウンドに行って見送ったが、この交代アナウンスをこう間違えたらどうだったか。「・・・に代わりまして、9番ピッチャー津田、9番ピッチャー津田。背番号14」。原と大野は許してくれただろうし、広島応援団は盛り上がっただろうが。新庄が阪神のユニフォームを着たようなわけにはいかなかったろうなあ。

 あまり他人を指導することはないが、自分の裁量でできる範囲を教えるとき「自分が謝って済む範囲はどうか」を考えさせるようにしている。なお、関係者に一度顔を売っておくと(メールで済むことでも顔を出しておくと)謝って許される範囲が広がり、裁量範囲が広がる。

 ただし欠点が。この原則に従うと
・謝るのは嫌いなやつというのがやはりいて、そいつは結局裁量範囲がない。
・頭の低い奴の裁量範囲は広がる。
ということになるが、組織の中ではなぜか、偉そうにする奴が職務上の裁量範囲が広がり、頭の低い奴が職務上は裁量範囲が狭くなる傾向があるように見えるんだなあ。

 ここで、筆が2ヶ月止まっていたのだが、分かった。私は「問題が起こったことを解決するのが」責任だと思っていた。一般にはそうでもないらしい。他の国が削減に努める中、二酸化炭素をまき散らして「地球温暖化は先進国の責任だ」・・・おい、自国に責任がなければ人類が滅んでもいいのか。少なくとも常任理事国の態度ではない。
 「責任」とはいいわけのための意味のない言葉だったらしい。確かに「責任をとる人」のを見るよりも「責任逃れをする人」のを見る方が圧倒的に多いなあ。運用がうまくいかなくても導入さえできれば責任を果たしたと考える習慣の人間に流されて、ちょっと自分も反省していたところ。

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