企業のDNA、という表現、好きな人いるのだろうか?どっかの馬鹿が使って、誰もがスルーしているから真似しちゃえ、と主体性のない人間が追従して慣用句になったものだと信じたい。
なぜここまでこき下ろすか。危険だからだ。企業は生命ではないからDNAはない。文化があるだけだ。にもかかわらずDNAという自然物のメタファーを織り込ませる。するとどうなるか、企業の文化に染まっていないものは、企業のDNAを受け継いでいないのだから生体が異物を排斥するがごとく、排除するという発想が出てきてしまう。(郵政民営化は自民党のDNA!?)
更に悪いのは、企業文化なら、よき方向に育んでいかなければならないのだが、そしてそのことに責任を持っていなければならない人がいるはずなのだが、その役目をDNAに求めてしまうと、責任逃れにつながりかねない。
もっとも企業文化を育んでいかなければならないと自覚している人がどれだけいるかは疑問である。偉くなると周りがイエスマンだけになって企業文化が見えなくなるのが普通になる。大企業になってもトップが作業着を着るというのは、ファッションとしても大事なことだったのかなあ。本田宗一郎と名前を出すと異論は収まるかも。現場に出て行き物を触るという感覚のある人であれば、槍のバランスが分からない人間に槍の重さだけ伝えて槍を使った戦法を考えさせるという愚は犯しそうもない。というわけで「企業のDNA」などと言っている人にろくな奴はいない。DNAという単語をこの文脈で使うと遺伝学を別の意味で使うことになる。つまり文化が遺伝学のような顔をして遺伝すると言っている訳だ。昔この考えがはやって、大変なことになったのだ。悪名高いルイセンコ学説である。獲得形質は遺伝する、というスターリン主義にはぴったりの理論で、これに反対した人間は、あるいは都合の悪い実験結果を出した人間は、ことごとく粛清された。という科学史上最悪とすら言われる事件である。雪の上に種を撒くと根性のある作物が出来るはず、という仮説に基づいて種を撒いたが当然芽は出ない。すると種を撒いた人が粛清。
以上より断定する。「企業のDNA」などと言う人はスターリン主義者である。え、ルイセンコなんて知らないよ、って?私は高校の生物の授業でメンデルに対抗する考え方の例として聞いたぞ(あの授業遅刻したんだった)。進学校とはいえ県立高校での話。だからみなさんどっかで聞いたことあると思います。まあ、「企業のDNA」という人全部が全部ルイセンコを連想しスターリン主義者を自覚している、ということはなかろう。が、自分が思いついた方針(とノルマ)をみなに強制し、思うような成果が上がらなければ上げない奴が悪い、と思い込んでいるような人だとすれば「スターリン主義の要素を持っている」くらいは言ってもよかろう。まあ、周りがイエスマンばかりだとそのうちそうなるだろうなあ。
スターリンみたいな人はいつの時代でもいる。だから「企業のDNA」という言い方にひもつけてあぶりだすほどのことではない。じゃあなんで今持出したか。先ほども言った企業文化の育成を「DNA」という自然現象に求めてしまい、責任を放棄することにつながってしまうからだ。これは本当に危ない。
しかし自然現象にするというのはとても魅力的なささやきなのだ。悪いのは自分が悪いのではなく自然が、つまり環境が悪いのだ。Noble Dutyを当然視する私ですら引き込まれかける。特に最近はやっている。「100年に一度の不況」。経営責任を問われないための印籠だ。で、誰もが使っているから、使っている人に「それはないだろ、お前の経営能力がないんだ、引責辞任しろ」とはいえない。上場企業ならそれでも一般株主に文句を言われることがあろうが、上場廃止となると(つまり持株会社ができたり、経営陣が買収したりすると)、この言い訳が通ってしまう。持株会社の経営が「100年に一度の不況」と言い訳をすれば、事業会社の経営が「100年に一度の不況」といっても通ってしまう。実際はいろいろあるからそんなに簡単ではなかろうが、各マネージャーに「100年に一度の不況」という弁護士がついていることは確かなようだ。
さて「100年に一度の不況」を商標登録するといくら儲かるだろう。別に今の不況が100年に一度なんてものではないことは明らかなので、良心の呵責なく商標登録できる。なにしろスーパーにものがあふれているのだ。(だれかもう登録してたりして。)なお、持株会社で事業会社の経営が責任を取らなくてよくなる、というのは私でなく、元上司の発想です。正直尊敬している人でして「私はあの人が嫌いだ。でも、あの人のやっていることを知っているから、男として私はあの人の言うことを聞く」と公言したことがあります。この言い方を分かってくれるんだよ。いい人でしょう。
従来の会社が持株会社の下に再編されると、責任をとるのが一般株主(や社会)に対してでなく持株会社に対して、という発想、よく考えると王権神授説に似てますね。
それまでのローマ皇帝は、市民に対して責任を持っていた。キリスト教が国教化してからは、神に対して責任をとればよくなり、市民はないがしろにされる。
欧米の経営論では、当然に出てきそうな発想だ。それとも王権神授が染み付きすぎていて、でてこないかな?持株会社にすると経営が堕落する。経営学者としては口に出したくない結論だろう。
そういう人たちに入れ知恵。外部との交渉、かならずしもきれいごとではすまないから、経営者は悪人でなければならないという桎梏があった。これが社内の文化に悪影響を与えるのは自明。しかし持ち株会社制度にすればその辺は持ち株会社が引き受けてくれるので、事業会社はいい人がマネジメントすることになる。だから社内の士気が上がり、生産性が増す。
今更こんなことを書いたきっかけは、2009/7/1日経新聞夕刊のコラム「ニュースの理由:日航に危機対応融資1000億円」です。経営不振が伝えられる日本航空への融資、どう決着させるか、というものですが、その内容がひどい。社会問題ネタ、目次へ《「特別な経営環境と言うが、毎年同じ状況の繰り返しではないか」。日航が公的支援の確保に動き始めて半年。資金の出し手となる政投銀や民間金融機関からはこんな声が何度も飛んだ。》金融機関の方々は「当行をとりまく環境は引き続き厳しい」と毎年言い続けているんじゃないか?確かに航空会社は不測の事態に備えなければならないけど、保険会社の存在意義として不測の事態のバッファー(大数の法則による平準化)という働きもあるんじゃないか。その金融機関が引き起こした金融危機に振り回されているのに、あんただけには言われたくない、というのが航空会社の本音だろう。
《金融危機やインフルエンザは確かに予期せぬ出来事だが、「航空会社はそもそも不測の事態を前提に経営するものではないのか」の不満が銀行側には強かった。》
記事を読む限り金融機関は本来の役割や責任を全く感じていない。突っ込まない日経新聞も同罪だ。そういうのをチェックするのもジャーナリズムの責任だから。こんなアホが編集委員になって署名記事を書かせてもらっている。これは何かいわないと。(僕のほうが日経新聞よりよほどジャーナリスト魂にあふれているようだ。)といいながら「となりのトトロの自然観は日本人のDNAに組み込まれている」と言われると、そうかな、と思う。ニョーボの父親は「トトロ?いたよ」とあっさり言うし、うちの子どもも全く違和感を感じていない。トトロには土着の自然観・日本人の共通理解に乗っかっていたわけだ。が、ポニョにそれはない。なぜポニョが無意識に魔法を使って月を近づけるのか、誰にも説明できない。デボン紀にはもっと月が近かったのかもしれないが、ポニョはデボン紀には生まれていない。
トトロと違ってポニョには日本人の共通理解が引き継がれてないということは、宮崎監督自身も、トトロの自然観がいかに深く日本の文化と絡まっているか自覚せず作っていたということである。悪いことではない。それだけトトロの自然観が自然なものだったと、そういうことだ。