ある意味命を賭けた主張

 日本の福祉が生産年齢人口に厳しいのは昔かららしい。働いてないのは働く気がないからだろうということで、きわめて冷たい。というわけで最低賃金で働くなら生活保護を受けたほうが楽らしい。実は医療費が格安になるとか。

 そんなわけで、普通に言ってみる。新型インフルエンザワクチン接種くらいは実際に生産活動に従事している人間を優先するべきである。なぜこれほどまでに当たり前のことが言われないのだろう。確かにインフルエンザにかかれば堂々と休める。が、僕は忙しい、代わりになれる人もいない。だから休んでなんかいられない。

 抵抗力のない子どもを優先する。これは分かる。でも保育園児と幼稚園児を区別しないところに顕れているように、詰めがない。学級閉鎖できる幼稚園児より、親が働いていて閉鎖できない保育園児を当然優先すべきだろう。
 妊婦優先。これも考えがない。インフルエンザの問診表見てみろ。「妊娠していますか」の質問が入っているはずだ。妊婦にインフルエンザワクチンを打つということは相応のリスクがあるということだ。これを無視してよいか?当然誓約書は書かせているんだろうなあ。「インフルエンザワクチンは胎児に悪影響をもたらす恐れがあることを認識し、訴訟の権利を放棄することを承認した上で接種に応じます。」優先接種してもらっておいて、何かあったら国民の税金から補償を引き出そうなんてやりすぎだぞ。
 一番問題なのは、引退後の高齢者への接種を実際に働いている人に優先することだ。だいたい60歳以上は免疫を持っているとか言われてなかったか?

 生産力が有り余っていて、「経済的」基準より「(儒教)道徳的」基準に基づいて守るべき人間の優先順位を決める余裕があるならよいが、今の日本にその余裕ないだろう。よく生命保険会社が異論を唱えないものだ。
 もし「道徳的基準を優先します」なら、例えば「裁判員制度の候補者に優先接種する」のは当然であろう。え、法曹界関係者ははじめから優先順位に入っていない?そ、そうね。でもさ、裁判員制度に選ばれたメリット、これくらいはつけてあげてもいいんじゃなあい?

 「経済的」基準より「道徳的」すなわち「倫理的」基準を優先する、ことに誰も異を唱えないとすると、これは不安なんだ。分かってたことなんだけどね、日本って実は共産主義国家なんだわ。私は共産主義だから悪いという気は毛頭ない。ただし「共産主義を支えるほど生産力のない発展段階で、共産主義を標榜する」リスクには、高校の授業で「唯物史観」を聞いた次の瞬間に気がついている。「資本主義を経由せずに農奴制から直接社会主義・共産主義に移行したソビエト連邦は本当に社会主義といっていいんでしょうか?国家が単一の資本家となった国家独占資本主義とみなすべきではないでしょうか?」
 そこまで言わずとも「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」社会を皆が志向していると思うぞ。少なくとも「多少生産性が低くとも、がんばっている人が評価され(て給料が上が)る」会社は、「共産」主義の萌芽を大事にし(すぎ)ていると思うぞ。
 生産力が共産主義を支えることが出来ないまま共産主義を標榜したとき、「倫理的基準」が分配をひっそりと支配する。問題は「倫理的基準」は為政者その他権力者によって決められるということだ。(そういえばJ.S.ミルの「幸福の質的差異」、質は上流階級が決めろ、となってたなあ。)ソビエト連邦の持つ危険に、彼らが寄っているはずのマルクス的唯物史観から演繹的に一発で迫った私はやはり経済学部向きだったようだ。

 論旨が浮世離れしたが(逆に世間にがっちり密着しているとも言えるが)、今回のインフルエンザワクチン接種の優先順位決定で無視してはいけないことがある。これは皆覚えておいてほしい。
 今回の豚インフルエンザは「普通の人はかかってもたいしたことないから、かかると重症化しやすい(=体の弱い)人を優先して」ワクチン接種の順序を決めたのである。でも次のインフルエンザはかかると大変な、例えばH5N1タイプかもしれない。そうなったときは別の考え方でワクチン接種の優先順位を決めなければならない。
 つまり「前提が違う今回の順序」が前例となって、無批判的に同様のものに決められてしまうことは防がなければならないということだ。その時に私は高齢者になっているかもしれないが、で信念を曲げてしまうかもしれないが、「だって昔僕が言ったこと、誰も聞いてくれなかったでしょ」という言い訳はしたくないなあ。

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